2012年03月04日

初任者とともに伸びよう(2) 〜『心のノート』の使い方は、〜

hinamaturi 今年度の初任者指導もあと数回を残すだけとなった。初任者は巣立ちの時を迎える。わたしはわたしでまた新たな出会いを迎えることになる。
 そのような時期、今回は3年生担任のAさんをとり上げてみたい。

 何度も感激することがあった。
 

 6月ごろだったかな。国語の物語教材について、
子どもが指導書なのだ。だから、子どもの読後感想を大切にして、指導していかなければいけないよ。」
と言い、それをもとに単元の指導計画を作成したことがあった。

 そうしたら、他教科に転移した。
「体育の『学習カード』については、まだわたし、何も話していないと思ったけれど、すごい取組をみせたね。何を参考にしたの。」
「はい。国語の物語教材でtoshi先生からご指導いただきましたが、『ああ。これは体育なら、学習カードのことだと思ったものですから、体育主任のB先生にうかがって、ご指導いただきました。」
 わたしはその言葉にしびれてしまった。
「いいなあ。『一を聞いて十を知る。』という言葉があるけれど、まさにそれだね。」
 そうしたら、今回は、それどころではない。このわたしが教えられる思いになった。


 話は大きく変わって恐縮してしまうが、平成12年度より文科省が出している『心のノート』なるものがある。昨年度、例の民主党を中心とした連合政権のもと、事業仕分けでこの予算は削減対象となり、今年度はこのホームページを学校が印刷して使うことになった。
 わたしはもともとこの『心のノート』は使いにくくできればなくしてほしいと思っていたから、この仕分けには大賛成だった。


 それでは、わたしが使いにくいと思っていたわけと、それがどう初任者の話につながるのか、本記事はその辺のところを述べてみたいと思う。


〇使いにくいと思っていたわけ

・今3年前の記事にリンクさせていただこう。
    正直に言ったら、すっきりしたよ。(道徳の授業) 

 この記事では、初任者の研修のために、わたしが行った授業を紹介させていただいた。3年生の道徳。押さえたい内容は、『正直・誠実、明朗』。
 例によって長い記事となってしまう。本記事でその概略は述べるが、よろしかったらご覧いただきたいと思う。

 わたしがこの記事で強く印象に残っているのは、
 Bちゃんがつらい内容を発言しようとして言いよどんだとき、それを察したわたしが、
「うん。いいよ。無理に発言しなくても。だって、言いにくいことだってあるものな。」
と言ったにもかかわらず、顔を真っ赤にさせて、
「でもね。やっぱり、お母さんには言ったほうがいい。・・・。正直に言えば、すっきりする。」
と発言した場面だった。

 この発言・・・、Bちゃんだけがすばらしかったのではない。みんなで話し合うなかでだんだん道徳的価値が深まり、それがBちゃんの発言につながったのだ。
 今、順を追って、子どもたちがどう価値を深め合っていったかその概略をつづってみよう。

「電車賃としてもらったのに、勝手にお菓子代にして、親に黙っているのはいけない。」
「無駄づかいだ。」
「友だちに見せびらかせたのもよくない。悪いことに誘っている。」
「でも、電車賃をお菓子代にした分、自転車で水泳教室に行くというようにがんばっているのだから、そんなに悪いことをしてはいない。」
「『自転車で行くから電車賃はお菓子に使っていい?』って親に聞けばいい。」
「いいなんて言わない。親は交通事故にあわないように電車に乗って行ってほしいのだ。」
「万一交通事故にあったら親は悲しむ。」
「親に言ってもお菓子代にしていいとは言わないだろうけど、でも、正直に言わないとだめ。」
「主人公は電車賃をお菓子代に使って心が痛んでいる。いけないことをしたと思っている。だから、ダメ。」
「友達も誘ったことになるから、もっとダメ。万一のときは親が謝りにいかなければならなくなる。」
「主人公は反省したからよかった。」
「反省してもダメ。もう遅い。」
「親に言うと損しちゃうけれど、でも言わなければだめ。」
「親に言えば怒られるし、罰も受けるけれど、でも、言った方がいい。言えばすっきりする。」

 子どもたちの話し合いに紆余曲折はあったし、指導者であるわたしの投げかけもあったけれど、子どもたちの発言をつづると、このようになる。
 ねっ。上述のように、みんなで話し合ったからこそ、それがBちゃんの価値ある発言につながったということ。ご理解いただけると思う。
 だから、もとよりこれはBちゃんの発言ではあるけれど、この想いは学級みんなのものだ。発言できず黙って聞いていた子も含めて、しっかりこの『正直』について考え合ったと思う。


 さて、この内容について、『心のノート』ではどうなっているか。今、これもリンクさせていただこう。
    正直に明るい心で元気よく

 なんと、
『正直に明るい心で元気よく』
『自分に正直になれば、心はとても軽くなる。』
『すなおな心・・・心が明るくなる。』
『すなおになれない心・・・心が暗くなる』
『「心のつな引き」で自分と向き合おう。』
などと、道徳的価値がみんな書かれてしまっているではないか。

 上記授業とくらべてほしい。

 一方は子どもたちが深め合い、子どもたちの手で到達した道徳的価値なのにくらべ、もう一方は国により子どもたちに与えられた価値となってしまう。

 どちらでもいいだろうか。同じことだろうか。・・・。いや、同じではないはずだ。

・一方は、子どもたちが主体的に学んでいる。自ら価値を獲得している。そこには考え合う姿もふんだんにみられる。ほほを紅潮させやっとの思いで発言する姿もある。そのBちゃんの姿を学級の全員が見ている。

・価値葛藤もある。主人公のやったことについて、『たいしたことではない。お菓子代にした分、がんばったのだからそんなに悪くはない。』という考えも出てくる。
 実はむかしからある道徳副読本には、子どもたちが道徳的価値について深く学べるように、この価値葛藤を盛り込んだお話が多い。道徳研究会の先人の皆さんの研究のたまものであろう。

・『心のノート』も一応、価値葛藤らしき文章はある。本リンク先で申せば、『「心のつな引き」で自分と向き合おう。』がそれにあたるか。
 しかしながら、ご覧いただければ分かるように、もう、どちらに価値をおいているか編集者の意図は明確で、事実上子どもたちに葛藤は起きないのではないか。

・大人の世界でも、この価値は一様ではない。『ばか正直』という言葉もあるくらいだ。素直に何でも言うことが正直とは限らないだろう。本授業でも、冒頭、やはりこれもBちゃんの発言だが、『親に心配をかけたくないという思いで、言わないこともある。』という意味の発言している。

・『心のノート』に限った話ではないが、教え込みの授業では価値葛藤は起きにくい。価値は一様で薄っぺらになりやすいのだ。

・何より、わたしがブログによく書いていることだが、子どもに言わせたいこと(つまり、授業のねらい)がすでに記述されてしまっているので、授業が授業にならないのだ。
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 この点、一問一答式の授業者には向いていると言えよう。
T「なぜ正直に言えないのですか。」
C「叱られるのがいやだから。」
T「正直に言うとどんな気持ちがしますか。」
C「心がとても軽くなります。」
 ただ書いてあることを言えばいい。ああ。目に見えるようだ。

 そういえば、Wikipediaをみて笑ってしまったことがある。この『心のノート』を肯定する意見が紹介されているが、そのトップに『教師の負担が軽減する。』とあった。
 なんということだ。こと、授業のことではないか。こんな負担軽減があっていいものか。

 わたしは思った。《研究しない教師は楽できる。》
 願わくば『心のノート』はなくし、その分、教員の研究、研修にお金をかけてほしいものだ。


〇それでは、冒頭ふれた初任者Aさんの話に戻させていただこう。わたしがAさんから何を学んだかということだね。

 Aさんの道徳の授業は、めったにみることはなかった。なにしろ道徳は週1時間だし、わたしは週2日しか入らないから、たまに時間割を変更したときしかみることができなかった。
 それで、そういうときはだいたい、行事とか子どもの問題行動があったときとか、そういうときだったから、以前から、『道徳とはそういうものではないよ。』という話はしていた。

 それで、ある日、わたしが道徳の示範授業をやることにした。副読本を使い、オーソドックスな流れをみてもらうことにした。

 そうしたら、どうだ。何とわたしの次の出勤日。わたしの机上にAさんの道徳指導案略案なるものがおかれているではないか。
『toshi先生。先日のご指導、ありがとうございました。それで、今日、さっそく道徳の授業をやってみようと思います。ご指導よろしくお願いします。』
なるメモ書きもあった。ああ。Aさん。ごめんなさい。こんなことなら、もっと早くやればよかった。

 略案ではあったが、よく書けていた。わたしは衝動的に、その略案をもって校長室にうかがった。校長先生に、その感動をお伝えした。

 その授業は、『家族愛』をとり上げていた。

 本来なら、その授業のあらましをつづるのであるが、もうこの記事もだいぶ長くなってしまった。そこで、本授業の講評はメールによって行ったので、それを転記させていただこう。


 本日の道徳の授業、すばらしかったです。この前のわたしの示範授業の域を超えていました。わたしの言わざるところまでちゃんとできていた点、わたしの方が逆に学ばせていただきました。

 主題名と資料名との違いを完全に理解していました。主題名は『楽しい家族』でしたね。そして資料名は、お父さん扮する怪獣の名前だったと思うけれど、双方をうまく使い分けていました。ナイスです。

 最初子どもの発言は少なかったけれど、先生はあせらず気持ちに余裕をもって、子どもの発言を引き出そうとする言葉かけに終始していました。
 だからでしょう。だんだん発言する子が増えていきましたね。そのおかげで、シーンとしてしまう場面もあったけれど、それに緊張してしまうことなく、リラックスして考えていました。

 もう3年生の残りは少なくなってしまったけれど、あの調子でやっていけば、発言する子は徐々に増えていくことでしょう。

 どうして発言する子をふやすことができたか。それは、先生の教材研究が豊かだったからです。授業の構想を練る力といってもいい。

 たとえば、
「お父さんが毎日家にいるよっていう子は?」とか、
「今度はお話のなかで聞くよ。このちい子さんの家族が明るい理由は。』と問い、
 さらに、話し合いに終始するのではなく、
「この紙に書いて。」
というように、活動に多様性をもたせることによって、言いやすくする配慮がみられました。

 道徳は道徳的価値の価値葛藤があると盛り上がります。あのとき、
「このお父さん、やり過ぎだよ。」
というつぶやきがあったかなかったか、わたしは耳鳴りがひどいので子どものつぶやきをときどき聞き間違えてしまうのだけれど、もしそういうつぶやきがあったのならそれを採り上げるとよかったです。
 それは価値葛藤を生み出したでしょう。

 やり過ぎと思う子、反対に、親子なんだからあれでいいと思う子。

 実際道徳でとり上げるお話は、価値葛藤を生み出す話が多いです。そうなると、本音が出やすくなるのですね。もちろんどちらが正しいという話ではありません。本資料だって、最初やり過ぎと思う子が、
・船員で外国航路が長く、めったにうちにいないお父さん
・娘もお母さんも、そうしたお父さんの姿を受け入れ喜んでいる
というように、想いを変えたり読み取りを深めたりするきっかけになるでしょう。

 でも。逆に、『わたしだったら、お父さんがそんな怪獣のマネをして襲ってきたら、『いやだ。あっちへ行って。』って言っちゃう。』と言う子がいてもいいのです。

 おしいことがありました。大事なことの押さえが抜けたまま、終わってしまいました。

 というのは、お父さんがいよいよまた船に乗って外国へ行っちゃうというところで、
『さびしいけれど、ちい子はがんばります。』
と言っているところです。ここは押さえられなかったね。

 だから、子どもたち、親子の情愛は十分感じ取っていたけれど、その情愛が明日へのやる気、意欲につながるといったところは抜けてしまいました。

 でも、いいよ。研究授業ではないのだから、こうしたことの積み重ねによって、抜けない力をつけていくことになります。

 もし抜けなかったら、最後の先生の子ども時代の話にしても、ちょっと違ってくるね。

 釣りに連れて行ってくれたお父さん、
 おいしいチャーハンをつくってくれたおばあちゃん、
 今は一緒に住んでいないけれど、幼いときのそうした思い出が、今の先生のがんばる力になっている。

 そういう話になったのではないでしょうか。

 わたしのメールは以上だ。

 
 さて、いよいよわたしが学ばせてもらった話になるが、

 実は、初任のAさん。本時の最後に、『心のノート』を使ったのだ。『家族愛』のそれにリンクしよう。
     わたしの成長を温かく見守り続けてくれる人・・・家族
 このリンク先の一番下、『あなたも自分の方法で工夫して、まとめてみましょう。』の自由記述欄を使った。

 よく読んでみると、ここはそんなに価値の押し付けを感じなかった。だから、子どもたちは、上の吹き出し(?)を見ながら、
・「わたしのお母さんも、叱るときはおっかないけど、ふだんはやさしいし、何でも話せるよ。」
・「ぼくのお姉さんは、何も教えてくれないなあ。でも、一緒に遊ぶことはある。」
などと思い思いに語りながら、自分の家族への想いを書きこんでいた。

 さて、最後に、わたしは何を初任者から学んだか。

・『心のノートは使えない。』という、その想いが必ずしも当たっていないことを学ばせてもらった。
 さらに、今年度は冒頭書いたようにホームページを印刷して使用することになったから、必要なところだけ使うことが可能で、このやり方はいいなあと思われた。

・でも、そんなことより、もっと大事なこと。
 それは、授業の最後にこれを使用するのであれば、内容はどうあろうと価値の押し付けにならないのではないかと思わせてもらったことだ。
 逆に、読み物教材を通して考え、豊かに感じ取った道徳的価値を、さらに深めたり考え直したりするうえでは、案外大切な役割を果たすことができるかもしれない。

 Aさんがそのような意図をもっていたかどうかは分からないが、わたしの言わなかったところまで想いを寄せ、授業を創り上げたことは確かで、上記メールを送るパソコンに向かいながら、心のなかで拍手を送らせてもらった。

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 今、我が家の近所に住んでいる方が訪ねてこられ、わたしのパソコンをのぞき込み、つぶやいています。パソコンには、上記『心のノート』の家族愛の画面が写っています。

 そこにある、『いっしょに食事をする。』『いっしょに出かける。』『いっしょに学校であったことなどを話す。』の欄を指し示しながら、
「わたしは子どもの頃、こうした経験は皆無でしたよ。ですから、こういう楽しさというのは、まったく分からなかったですね。理解できなかったです。もし子どものときにこんな心のノートがあり、級友が楽しそうな話をしていたら、わたしは荒れたかもしれませんね。
 大人になり、所帯をもってからですよ。『ああ。家族で一緒に食事をするっていうのは、なかなかいいもんだなあ。』と思ったのは。やっとその良さが分かるようになりました。」

 そうか。そういうこともあるだろうなあ。

 だとすれば、こういう子どもはその後ますます増えているはず。家族がいても、家族と一緒に暮らしていても、『家族愛』そのものは理解できない。そんな子どもはけっこういるのでしょうね。

 だからといって、これをテーマとする授業をやらないわけにはいきません。だとすれば、この場合、家族愛があることを前提とした『心のノート』を使うわけにはいかないでしょう。やっぱり読み物教材で多様性を認め合いながら、子どもの現実に向き合う授業にしたほうがいい。そう思われます。 


rve83253 at 20:17│Comments(0)TrackBack(0)道徳指導 | 初任者指導

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