2012年05月03日

『窓』の退職教員より謝意を、

PAP_0003  カルロスさん。このたびは、大変身に余るお言葉をいただきました。ありがとうございます。このお礼を貴ブログへコメントのかたちでと思いましたが、ちょっと簡単に入れそうではなかったので失礼してしまいました。

 そうしましたら、しょうさんからコメントが入ったのですね。《心温まる言葉とブログの記事の紹介》とあったので、わたしまでうれしくなってしまいました。その一方で、わたしの方はずぼらで申し訳ありません。

 そこで、こうして、拙ブログに記事として記載することにより、感謝とお礼の気持ちを伝えさせていただこうと思いました。あしからずご了承ください。


 さて、

 カルロスさんのブログには珠玉の言葉がちりばめられている。わたしと違い、その一行一行が宝物のようである。今回のしょうさんからのコメントをとり上げての記事でもそれを感じた。一つは、その通りと思わず手を打ってしまうもの。そして、もう一つはわたしが学ばせていただいたもの。

 それは・・・、

 カルロスさん、引用をお許し下さいね。

 《社会で働く人々のそれぞれや、歴史に登場する人々のそれぞれや、その土地で生きる人のそれぞれに、心を寄せて考えて自分を発見するのが社会科の学力ではないか。》

 いやあ。ほんとう。その通り。わたしは心のなかで快哉を叫んでしまった。わたしがいつも長々と書いていることを、カルロスさんはこんなにも端的にズバッと表現してくださった。長年、小学校社会科教育に取り組んできたその想いは、まさにこの二行に尽きている。そんな想いがした。

 《〜に心を寄せて考えて自分を発見する。》

 小学生のうちから学びの対象となる人物に心を寄せて学習する。心を寄せるからこそ、その人の生き方に共感したり首をかしげたりして学ぶことができる。(国語の物語教材や道徳も同じ。)
 そして、その学びは学級内の人間関係を豊かにしていくのと同時進行のはずだ。それらは有機的に機能していく。
 そこにあるのがまさしく《自分発見》だろう。そして、そうした学びを保障するのが教員の仕事だろう。
 『心に寄り添う』、『心をはぐくむ』などということは、『消えてしまいそうなぼく』に寄り添うことから授業創造に至るまでの無限の営みだ。そんな生易しい仕事ではない。


 2年前わたしは、我が地域の20代の教員の、『差別の授業』を見せていただいた。

 差別する人、される人の感じ方、考え方、そして生き方を学び、そこに想いを寄せることにより、差別している自分に気づき、自分の生活を見直すという、そんな授業だった。子ども一人ひとりの『自分発見』は、学級担任の学級経営と授業創造との一体化の営みのなかで小学生段階としての完成をみせたといっていいであろう。すごい卒業式のようだったもの。

 今、その差別の授業の記事にリンクさせていただこう。3回シリーズでかなり長くなってしまうけれど、すごい実践なのでご覧いただければ幸いだ。
    差別に気づき、差別と向き合い、差別を許さない授業の実践   
PAP_0031

 次に、また、カルロスさんの言葉を引用させていただく。

 《その仕事だから仕方がない、その時代だから仕方がない、その土地だから仕方がない、などという気持ちが根底にあるから、社会科は暗記教科だと多くの生徒が思い込んでいる。》

 これも感動した。こうした気づきは、これまでのわたしにはなかった。

 社会科を暗記教科だとする子ども。また、成長した大人でも、そうとらえている人はあまりにも多い。そうした授業しか受けてこなかったからであろう。わたしは、『そうではないですよ。』ということをこれまで何度も書いてきた。
    社会科学習への誤解(1)
(これもシリーズにはなっているが、とりあえず本テーマにかかわっては、(1)だけお読みいただければいいだろう。)

 そう。こうして暗記教科でないことはるる述べてきたが、しかし上記、カルロスさんの言葉のように、《〜だから仕方ない》という想いとつなげて考えたことはなかった。

 そうか。ひらめいたぞ。

・学校で学んでも仕方ない。学んだことは人生の何のたしにもならない。しかし、受験があるから仕方ないか。とりあえず暗記しておこう。

 そして、それが『心を寄せても仕方ない』という人生観につながっていくのだろうね。

・もう一つある。

 この、《仕方ない》学びには、まず人物が登場してこないのだ。統計、地図、年表、そういったものは登場する。もちろんそれらは大切だ。大切だが、何のために大切かといえば、人々の営みを理解するうえでなくてはならないからであるはず。それなのに人々が登場してこないから、統計、地図、年表の理解そのものが社会科学習であるかのようになってしまう。その結果、暗記教科に堕する。

 こうした学びをしておいて、あるいはさせておいて、やれ平和教育だ、やれ人権教育だといっても、ああ。むなしさだけが残ってしまうよね。

 したがって、組織、制度、システム。そればかり重視の教育政策では・・・、ああ。いけない。最後はまた、そこへいってしまった。


 ごめんなさい。カルロスさん。最後にもう二つ、引用させてくださいね。

《この危うい時代に、もしも何か個人的に重大なできごとがあったら、多くの場合、誰でも鬱傾向にすぐに陥る可能性がある。》
《鬱傾向や鬱病の者は、教育現場から去れ、というのが教育だとしたら、教師も不安は増大するだろうが、何より、自分で自分のことを訴えることのできない児童や生徒は、とても救われないだろう。》

 そうです。その通りです。大人同士心を寄せ合うことのできない教員集団なら、子どもに対して心を寄せることもできません。

 お互い、ブログのうえにすぎませんが、心を寄せ合って生きていきましょうね。


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 もうお一人、心にとめている方がいます。拙ブログにコメントをくださったjunkoさんです。

 《〜。
 私が教員になって、中学校で採用になって以来、何かあるたびに拝見させていただき励みにしてきました。このブログ。
とても支えになっているんです。なんど涙したか、退職願まで書きためた時もこのブログに明日の希望を見出し思いとどまって今に至ります。
〜。》
とありました。いやあ。重たいコメントです。《支えになっている》などとおっしゃっていただいて、それはもちろんうれしいのですけれど、でも気になって仕方ありません。

 どんなことがあるのか分かりませんが、力を合わせて働くことができないのでしょうか。こうした声をうかがうと、人を大事にする職場であってほしいと切望せずにはいられません。

 わたしは今年、個人的に学校1日制(?)になってしまったのだけれど、でもブログの方はがんばっていこうと思っています。退職願など心から抜け出てしまう日がやってくることを念じています。


rve83253 at 10:04│Comments(2)TrackBack(0)教育観 | 自己啓発

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この記事へのコメント

1. Posted by ゆっこ   2012年05月04日 10:02
toshi先生、吹っ切れたんですね!よかった

2. Posted by toshi   2012年05月04日 10:56
ゆっこさん
 このたびはゆっこさんにもご迷惑が及んだようで、申し訳ありませんでした。
 《連鎖の感動》とおっしゃってくださった方もいらっしゃいます。大変うれしくありがたく思っています。
 どうぞ、今後ともよろしくお願いしますね。

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