2012年08月18日

ロンドンオリンピックに見えた『選手の共同体!?』

kodomo17 いやあ。すばらしい成果を上げたオリンピックではなかったか。これだけ絶賛されたのもめずらしい。
 史上最多といわれるように、獲得したメダル数もさることながら、やはり競技終了後の選手のコメントがすばらしく、それが感動を強めたように思う。

 メダルを獲得した後の選手のコメント。
「うれしいです。でも、わたし一人の力ではとても無理だったと思います。やはり応援してくださった皆さんや、ともにたたかった仲間がいたからこそのメダルだと思います。ありがとうございました。」

 そういうコメントが何と多かったことか。みな、全身全霊打ち込んだ後の、心からほとばしり出た言葉だっただろう。なかでも圧巻だったのは入江選手のコメント。
「競泳は8日間、27人で1つのリレーをしているようなもの。最後の男子リレーの選手がタッチするまで、27人の選手のリレーは終わらないです。」

 これはすごい言葉だと思った。個人種目まで、あたかも団体種目であるかのようにみなしての言葉だ。ともにたたかう仲間同士の連帯感にはすごいものがあるなと感じた。
 こうした選手の想いは決して水泳だけではなかっただろう。現に、今回のオリンピックでは、団体種目の活躍がめだったといわれる。

 これは『現代の奇跡』といっていいのではないか。

 なぜか。

 わたしは前記事において、宮台真司氏の著作を引用させていただきながら、現代という時代は『人間関係の表層化・コミュニティの衰退に行き着きやすい。』と書かせていただいたばかりだ。また、それと裏腹だが、『濃密な人間関係にはわずらわしさを感じてしまう。』とも書かせていただいた。

 それを、現代に生きる若者が、見事に克服したのだもの。まさか地縁・血縁社会が復活したわけでもあるまい。これを奇跡と呼ばずして何と呼ぼう。

 そう。地縁・血縁社会が復活したわけではないが、しかし、『人々の善意や自発性にもとづく地域共同社会』に似た側面はあったのではないか。『人々(選手)の善意や自発性』。これを思わせる選手のコメントもあったっけ。わたしは今、これを『選手の共同体』と呼ばせていただこう。

 さあ。これだけの連帯感はどこから生まれたのだろう。

 これについては、日本共産党の『赤旗』がいいことを書いている。おおいに参考になった。

・選手が自主性を発揮したこと。また、選手の自主性を大事にする指導が定着してきたこと。
 同紙は、バレーボール女子の真鍋政義監督とサッカー女子の佐々木則夫監督をその代表例として挙げているが、選手を叱咤(しった)するより、話し合いを重視する指導者が主流になってきたようだ。
 さらには、日々選手が自覚的に練習にとりくみ、自分自身と向き合い、成長していく・・・。それが、大舞台で力を発揮できるたくましさにもつながっている。
とのこと。

 なるほど。かつての日本のオリンピック選手というと、緊張感、プレッシャーに負けて、本番ではなかなか力を発揮できなかったものね。今の選手の底抜けに明るく、それでいて力を十二分に発揮できる資質。これは、『自主的・主体的な取組』と深くかかわっているのだろう。

・もう一つ。同紙が上げるのは、『選手強化の拠点であるナショナルトレーニングセンター』の存在がある。また隣接して『国立スポーツ科学センター』がおかれ、そこでは医科学的な支援も受けられるという。
 これにより他競技との交流もすすみ、『チームジャパン』の意識も醸成されたとのこと。

 そうか。知らなかった。
 先ほど述べた『選手の共同体』は、まさにこうしたシステムのなかで養われたのだね。水泳選手の『27人によるリレー』ならぬ、もっともっと大勢での、また多競技を横断しての『リレー』が実現したことになる。

 わたしは前記事で『システム』を批判した。『システムいじり』と称してね。

 しかしそれは、『人間としての心を忘れ、役割+マニュアルで運営されるシステム』を大事にする現代社会を批判したのであって、『善意+自発性で運営される共同体』とマッチし、よりそれを強化するためのシステムなら、これはもう大賛成だ。


 さて、ここで話を変えさせていただくが、

 ここまで述べてきたことは、よりよい学校経営、学級経営をめざすうえで、大事なヒントを与えてくれていると思う。kodomo16

 やはり、教育効果を高める(現代の世論がいうところの教育課題で示せば、『学力を高め、いじめをなくす』となろう。)には、子どもの自主性、主体性、自発性を大事にすることが大切だ。

 子どもと選手は違うですって?

 でもね。それを言うなら、話は反対でしょう。

 だって、オリンピックに出場するくらいの選手なら、もともとやる気は旺盛、目的意識も明確なはず。まして大人なのだしね。そうしたなかでは、元来、スパルタでも耐えるはず。そう思うのはわたしだけだろうか。

 そんな世界にも、『選手の共同体』が出現した。

 
 それなら、もともと目的意識も定かではなく、やる気もあるとは思えない子どもが多数いる学校なのだから、なおさら自主性、主体性、自発性を大事にするなかで、学ぶ意欲を喚起する教育でなければならないのではないか。


 さあ。そこでだ。新しい時代に新しい指導者像が求められるように、学校現場にはどんな指導者(教員)が求められるか。

 ここで、宮台氏の指摘(前記事でリンクさせていただいたブログからの引用)する、
『いじめ問題を解決するためには《この人は凄い・かっこいい》と無条件に思える人が、《いじめをすることが間違っている(いじめはかっこ悪く情けないことだ)》というロールモデルを示すことが必要。』
に、若干の考察を加えさせていただこう。宮台氏は、こういう人物に『すごい奴』という言葉を当てている。

 さて、この『すごい奴』とは、どういう人物を指しているのか。前記事でもふれたように、宮台氏の主張は『利他性を感じさせる衝動によって、周囲を巻き込んでいく感染力(人格的魅力)をもつ者』となるのだが、

 わたしは、現代においては、単に利他性を感じさせる衝動』だけでは弱いと思う。感染力(人格的魅力)をもたせる力としては、不十分と思う。やはりそれにプラスして、子どもの自主性、主体性、自発性を大事にする姿勢が欠かせない。

 さあ。どうでしょう。読者の皆さん、具体的なイメージがつかめますか。

 宮台氏が指摘する『すごい奴』なら、もう終わってしまったけれど、テレビの『金八先生』があげられるのではないか。金八先生なら、確かに子どもへの感染力があっただろう。

 しかし、金八先生は、授業でも、生徒指導でも、一方的に話して聞かせる姿勢が強かったよね。あの人間的魅力はそのままにしながらも、もっと生徒同士話し合わせ、生徒自身が生きる価値を発見するような、そんな仕向け方はできたはずだ。

 いじめは悪い。

 いくらなんでも、子どもだってそんなことは分かっている。分かっていながらやるのだ。

 なぜか。精神的に満たされないものがあるから。あまりにも満たされないから。欲求不満のかたまりになってしまっているから。

 さあ。いじめが起きれば誠心誠意心をこめて対応しなければいけないけれど、あらかじめいじめなど起きないような、『いじめなどくだらない、かっこわるいしなさけない。』子どもが自然にそう思えるような(言って聞かせるのではなくてね。)、そんな学校、学級にしないといけないのではないか。

 それには・・・、ああ、繰り返しになるが、『システムいじり』ではなく、『いい意味での感染力ある教員+子どもの自主性、主体性、自発性を大事にする教員』が望まれる。
kodomo18

 わたしが、学校(学級)経営にあたっていたとき、『教員(子ども)たちが《学校が楽しくて仕方ない。やりがいがある。》そんな意識でいると肌で感じたことがあった。興奮状態だったといってもいい。職員室(教室)はにぎやかに会話がはずんでいた。その声も一オクターブ高いといった感じだった。声がかすれたりもした。
 『協力・刻苦精励』などと言わなくても、自分たちでそうしていた。やらずにはいられないといった感じだった。

 今のメダリストたちもそうなのではないかな。いや。ごめんなさい。『選手の皆さん』だね。

 もちろん、興奮状態はそんな長続きするものではない。数カ月たてば落ち着きをみせるのだけれど、もう以前の落ち着き状態とは完全に次元を異にしていた。


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 今、2020年東京オリンピック実現を目指して招致運動が行われていますね。ところが、それがどうも一部の者のみ熱心で、国民の声としては今一盛り上がりに欠けるようです。『やってもいいがやらなくてもいい。』そんな感じかな。

 それに関連し、ロンドンオリンピックのさなか、東京都の猪瀬副知事がおもしろいことを言いました。
「世界のなかでは、『どちらかといえば賛成』というのは賛成のうちに入らないのですよ。日本では遠慮気味な物言いは美徳かもしれませんが、これでは世界に通用しません。」
 やや怒っている感じだったからわたしは苦笑してしまったのですが、質問者が続けて、
「日本人を包む閉塞感などとも言われますよね。」
となげかけると、
「そんな閉塞感だなんて・・・、政治にしても経済にしても、ヨーロッパのそれに比べれば、日本なんか問題になりませんよ。ギリシャを発端としたヨーロッパの例をみればよく分かるでしょう。」
とのことでした。

 でもねえ。猪瀬さん。

 閉塞感て、政治や経済のひどさに必ずしも比例しないのですよね。そう。選手の一体感にしたって、学校経営の盛り上がりにしたって同じですよね。あくまでも感覚なのですから。

 国レベルで言わせていただければ、『失われた10年』は『20年』になったようですし、今の民主党を中心とした連合政権への失望感はまことに強いものがあります。過去記事には、『かつて坂の上にあった雲を目指して国民は一つになっていた感があったが、今はその雲のど真ん中に入ってしまい、何も見えなくなった。』と書かせていただきました。

 価値観が多様化した国民は、多様化したまま迷走する自分たちに冷めているのかもしれません。

 だが、逆も真なり。

迷走しているならしているで、そこから脱却すべく、オリンピック選手から学ぶこともできそうです。

 わたしには、天の声のように聞こえてきます。

 「国民の皆さん。前向きに生きながら、知恵を出し合いましょうよ。価値観が多様化するのはけっこうですけれど、それで水と油のようになるのではなく、お互いがお互いをもっと尊重しましょうよ。力を合わせましょうよ。
 信念をもつことも大事ですが、『多様な価値観との共生』も実現させたいものです。それには、互いが違いを認めて影響し合い双方が変化していくことが大切です。 」
PAP_0076
 50代になるわたしの教え子の言葉も一部引用させていただきました。その子(?)は、『同調しない強い信念と変化を恐れないしなやかな柔軟性』とも言っています。

 わたし自身これまでは、東京オリンピックについて、『どちらかと言えば賛成』くらいの気持ちでした。

 しかし、本記事で述べたような経験をし、今は『ぜひ、東京(日本)で、』という気持ちになっています。若い人たちを信頼し、尊敬する気持ちになっているのです。

 
 明日は、メダリストのパレードが予定されていますね。すごく盛り上がるでしょう。願わくば、それがきっかけとなり、『選手の共同体』から『日本の共同体』となってほしい。そう期待しています。 


rve83253 at 16:03│Comments(16)TrackBack(0)教育風土 | エッセイ

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この記事へのコメント

1. Posted by ももぱぱ   2012年08月19日 19:00
5 前回コメント消えた者ですが...
ブログ操作上、よくある事なので
気にしておりません^^

今回も大変素晴らしい記事でした。
ありがとうございます。

>子どもの自主性、主体性、
自発性を大事にする教員

仰る通りだと思います。

サッカーに限定されますが
私も30年前にやっていました。
その頃の海外プレーヤーと言えば
奥寺康彦さんだけでしたね。
それに比べると今は海外組みが大勢おります。
進歩しましたね。
しかし、行き先は所詮「サッカー強豪国」です。

恐らく、日本のサッカーがもっとレベルアップするには、それ以外の国へ選手、または指導者として
出掛けることではないかと思います。
サッカーも技術、戦術、システムだけでは勝てません。
まだ先の話ですが...。

突飛な意見ですが
教員も教職課程の一貫として、他の国へも教鞭をとるというのは如何なものでしょう?
或いは、枠を増やすとか。

日本の教育が黒から白(または白から黒)に
変わってまだ約60年です。
基本理念はしっかりしていますが
過大解釈と時の政権による教育政策変更と
受け入れて来た事が疲弊し、綻びが出ているから
いろいろな矛盾が生じているのではないでしょうか?

外国へ出るということは
相手を一方的に受け入れるということでは無く
自国の文化を改めて見直す良い機会だと思うのです。

2. Posted by toshi   2012年08月20日 07:05
ももぱぱさん
 うわあ。削除してしまったときの方ですか。あの時はほんとうに申し訳ありませんでした。あらためてお詫び申し上げます。ごめんなさい。
 ももぱぱさんのご主張、おおいに参考になりました。ありがとうございます。
 サッカー強豪国以外への滞在、派遣。さらには、教員の海外雄飛など、すばらしいご提案と思います。
 教員に関して、ないわけではないのですが、数的にはあまりにも少ないですね。海外日本人学校ということであれば、そんな少ないということはないのですけれど、たとえば海外青年協力隊として現地学校に派遣とか、逆に同隊で教育業務に従事していた方を教員として特別選考するとか、そうした制度はあります。
 拙ブログにかかわっては、数年前まで、アメリカ・コロラド州の高校教諭だった日本人の方からコメントをいただいたことがありました。この方はその後アメリカをはなれたようですが、今もどこかでご活躍と思います。
 そう。こういう方が増えると、日本の教育事情も変化していくことでしょう。
 本記事にもちょっと書いた50代になる教え子のことですが、その方は、次のような言葉を寄せてくれたことがありました。
《今、国際親善ボランティアを務めています。その心得の一つに、多様な価値観との共生を実現させるためには、マジョリティが意識を変えなくてはならないということがありました。
3. Posted by toshi   2012年08月20日 07:05
 <同調>ではなくて<共生>とは互いに変化し合う位置づけといいます。<棲み分け>でもなく、互いに違いを認めて影響し合い双方が変化していくべきこと。
 日本人は違いを認めることはできても、変化を最小限にとどめたいという気質を持っているそうです。そういえば、私も含めて日本人は生涯をどの国で生活するかを選択する習慣がありませんよね。
 〜。
 仕事で長期赴任することはあっても、国際結婚でもしない限り日本で生活するのが当たり前と思い込んでいる場合が圧倒的です。
 強い愛国心を持つ国民性でもないと思いますので、それだけ暮らしやすい国だということでしょうか。
 ともあれ、日本人としての価値観や観念を大切に表現し伝えつつも、相手にマイノリティを感じさせない接し方。互いに影響を及ぼし合って変化していくことは、マジョリティにも変化を求められることとなります。
 〜。》
 日本にいて外国人と接するだけでもこうした意識がもてるのなら、海外へ出た場合もっともっと日本の学校教育に資する面は大きなものがあるだろうと感じます。
 出藍の誉れ。わたしも大いに勉強になりました。
4. Posted by オス   2012年08月20日 12:47
非常に違和感がある認識です。

選手たちが、金太郎飴のごとく同じ表現をするのは、そのように言わせようとする日本語を理解する人の同調圧力を敏感に感じ取っているからではないでしょうか?
つまり、そういわないと応援してもらえない、disられる、マツリになる、炎上する、という危機感を敏感に感じ取っている表れだと感じています。
内向きすぎる傾向を美徳としている危険性を感じてしまうのは、考えすぎでしょうか?東アジアの国々独特の国民性でしょうか?もっとスポーツの純粋性の枠内に留めてあげたいと思います。代理でイデオロギーをぶつけ合う戦争の兵士ではないと思うのです。
5. Posted by toshi   2012年08月21日 08:37
オスさん
 一般論ならわたしも日本人の同調圧力を感じることは多いです。特に日本の学校の画一教育は、暗黙のうちにそうした圧力を是とする心理を養ってしまっているのではないでしょうか。そうした記事を書いたこともあります。
 しかしね。本記事にとり上げたケースでは、それは違うなと思います。赤旗にあるように、今回のオリンピック出場の選手たちは、自主的、主体的、自発的な力を大いに発揮しました。入江選手の言葉も、その延長線上にあるととらえています。
 同調圧力というのは、かつての精神主義、画一的なスパルタ的練習などから生まれるものではないでしょうか。
 そうした意味で、今回のオリンピックが日本の学校教育に多大な影響を与えてくれればいいなと思っています。
6. Posted by のぞみ   2012年08月21日 09:20
>子どもの自主性、主体性、自発性を大事にする

非常に大切な事だと、私自身の経験を通して感じています。

私は、主に小学校の総合学習支援で携わっておりましたが、引用部分を大切にされる担任と、引用部分を
否定=管理する担任の温度差を感じていました。

その温度差は、子どもによく現れていました。
前者の学級は、積極的に質問や挙手をしたり好奇心
が旺盛な学級で、行き過ぎた事をやってしまった
子どもには、同級生から「それ、いけないよ」と言う声が自然と挙がるような所でしたが…後者の学級では
お互いの顔色を伺って誰も挙手しない、問いかけにも
「分かりません」行き過ぎた事をやってしまった時
にも誰も言わない上、担任が注意しても、私が注意しても話を聞かずそれぞれが勝手な事を始めて、授業
が成立しなかったりと…。

前者の担任は「子どもを信頼して任せてみる」
後者の担任は「子どもは信頼せず管理する」

この違いは、非常に大きい事だと思います。

子どもの自主性を尊重する…私が常に意識していた
事でした。


7. Posted by オス   2012年08月21日 15:29
> 今回のオリンピック出場の選手たちは、自主的、主体的、自発的な力を大いに発揮しました。入江選手の言葉も、その延長線上にあるととらえています。
インタビュアーは、おきまりの「最後にTVの前のファンにメッセージを…」といって、「皆さんが想像もできないほど苦く危険な練習に耐えて勝ち取りました。生まれ持った才能と、努力できる才能に感謝してます。」などといった、国民の税金のおかげです…をにおわせないのは気持ち悪いと思っていないだろうか?

>  同調圧力というのは、かつての精神主義、画一的なスパルタ的練習などから生まれるものではないでしょうか。

TVの前で観戦していた多くの日本人は、「みんなのおかげ(みんな=国民)」と言い出すことを期待していないか?そう言い出してくれることが、自分を気持ちよくさせてくれることを自覚したうえでの注目なのでしょうか。それを知っているTV局は、視聴率という名のもとの営利目的のために、選手の発言を結果的に誘導し高騰する放映権料を支えているのではないか?純粋にその自主的、主体的、自発的な力を消化しビルドアップできる国民になれているのか疑問なのです。
8. Posted by オス   2012年08月21日 15:30
日常において、大部分の日本人は彼らをささえる行動を行っているのだろうか?そのくせメダルだけは要求しているし、入賞してもメダルなしだとこうも扱いが違うものかと、彼らは痛いほど感じているだろう。

> (略)今回のオリンピックが(略)
選手はオリンピックだけになぜ重要性を見出しているのか?それ以外の世界選手権や各種W杯は注目されず、金銭的にも精神的にも応援されないことを痛いほど知っているからではないか?見る側は、オリンピックだけでしか注目できてないのは見る側の成熟度が足りていないと見えるからです。

水泳チームは、事前に技術的なことでなく陸でおこなったグループ活動などを取り入れて、それぞれ個人の人間性の理解を深めたりチーム意識をもつことで不必要なストレスや緊張を減らしたりする準備を行ってきたことが、TV等で紹介されている。そいうった部分で、筆者の述べられている『連帯感』や『共同体』という、選手自身が主体性をもてる環境にできたことは大きな評価にあたいすることと思います。
しかし、見る側が勝手に共同体意識を自己都合的に解釈して、見る側にすり寄ったことを暗黙に求めているという意味の同調圧力に、危険性を感じているところです。
9. Posted by ももぱぱ   2012年08月22日 00:17
せっかくのところ
水をさすような事件が起こってしまいましたね。

高校野球。
不祥事対決とか揶揄されてましたね。

見る側の意見が分かれてしまうような事例です。
「なぜ試合を辞退しないのか」
「連帯責任というのはおかしい」

私としては見る側の意見はどうでも良いので
やっている選手たち、部員、他の部活動、
同じ学校の生徒達など、
どう思ったか、どうするか...などに
興味があります。

こういう強烈な体験をした生徒達が
将来、私達の会社へ入って来ます。
どうなるんでしょう?


10. Posted by toshi   2012年08月22日 04:56
のぞみさん
 おっしゃること、わたしもこれまで痛感してきたところです。もうおっしゃる通りですね。
 よく誤解されるのですが、『子どもの自主性、主体性、自発性を大事にする。』が、放任と同義であるかのように受け取られるフシがあります。また、教員の側もそうした行動を示していることがままありますね。
 それでは、オリンピックで連帯感は生まれないし、強くなるわけもないでしょう。
 また、学級の場合も、
《積極的に質問や挙手をしたり好奇心が旺盛な学級で、行き過ぎた事をやってしまった子どもには、同級生から「それ、いけないよ」と言う声が自然と挙がるよう》になるわけもありません。
 教員は、『子どもの自主性、主体性、自発性を大事にする。』にしても、そうした観点で積極的に子どもにかかわっていかなければいけないと思います。

 
11. Posted by toshi   2012年08月22日 05:09
オスさん
 おや。おや。『同調圧力』を加えたのはわたしだったわけですか。
 《勝手に》とか、《自己都合的に》とか、《すり寄る》《暗黙に求める》など、こうした言葉の羅列にとてもついていけなくなりました。
 この辺で失礼します。
12. Posted by toshi   2012年08月22日 05:22
ももぱぱさん
 ああ。すみません。高校野球のことはまったく念頭にありませんでした。
 しかし、まさに教育の場ですからねえ。やっぱり、何事もなかったかのようにしてしまっていいのでしょうか。実際、現場でどういう対応がなされるかが問われるところでしょうね。
 記事中で、『役割+マニュアルで運営』とか、『人々の善意や自発性』とか申しました。しかし、こうした学校の内情がどうなっているのか分かりませんから、すみません。これ以上の言及はひかえさせていただきます。
13. Posted by 協働学力   2012年08月29日 16:05
学習の場合は、「合同」「協調」「協同」「協働」という順序で子どもに任せる範囲が広がっていく様に感じます。社会的な実践力を育成する学びの場、土壌づくり(学級経営)は大事でしょうね。放任は問題かもしれませんが、子どもを「信任」できる教師の指導力が高いと感じる場面は多いですね信じて任せる力。「こうやったらできるかもしれない」「ああしたらできるだろう」「こういう問い方をすればできるんじゃないか」。そういう「できるようになる子どもの姿を見立てる力」と信任力(信じて任せる力)にも相関関係がありそうです。
14. Posted by toshi   2012年08月30日 05:51
 協働学力様
 『学校で学んだことは実社会を生き抜くうえでは、何の力にもならない。』とはよく聞く言葉です。その言葉の裏には、おそらく、『受験にしか役立たない。』という想いがかくされているのでしょう。そんな教育ではいけないはずです。
 おっしゃるように、『社会的な実践力を育成する学びの場』でなければいけないと思うのです。そして、それこそが、真の意味での『学力』なのではないかと思っています。
 信じて任せるということ。共感できます。しかしそれは、教員の子どもを伸ばそうとする限りない実践力があってこそ、初めて達成可能なのですね。
 貴ブログ開かせていただきました。すごい記録ですね。これからじっくり拝読したいと思っています。
 今後ともよろしくお願いします。
15. Posted by 協働学力   2012年08月30日 09:57
目まぐるしい日々の中で、実践技能向上を目指した探求をされている先生方は多いですね。授業は子ども単体の主体で構成される訳ではなく、教師の主体との相互主体で構成されるものなのでしょう。教師の願いと子どもの願いはU字管の様につながっているのですね。Toshi先生がご指摘の「伸ばさんかな、育てんかな」という教師の念が、実践力向上の原点なのでしょう。私の周りにはこういう先生が多く、感動させられることも多いです。そして、いい実践者はいい仲間を持っているとも感じます。やはり教師も社会性が大事なのでしょうね。
16. Posted by toshi   2012年09月01日 16:07
協働学力様
《Toshi先生がご指摘の「伸ばさんかな、育てんかな》
 大変ありがたいお言葉をいただきました。感謝しております。一言一言大変うれしい思いで拝読しました。
 ありがとうございました。

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