2012年09月04日

『子どもの自主性、主体性、自発性を養う教育』は、いじめを助長するか。

PAP_0111 冒頭は・・・、すみません。タイトルと関係ないところから書かせていただきます。

 唐突だが、読者の皆さんは『BLOGOS』なるサイトをご存知だろうか。わたしはこれまでときどきのぞかせていただいていたが、政治家、経済人、評論家など、有名人が多数登場するので、拝読はするもののまさか自分がこれにかかわるとは思ってもみなかった。

 だから、驚いた。先日のことだ。同サイトのA氏よりメールをいただいた。何と、拙ブログ記事を転載させていただきたいとのこと。どんなサイトかの説明もあったので、リンク先を開かせていただくと、『意見をつなぐ、日本が変わる。』そして、『日本初、提言型ニュースサイト』と続いたあとに、『政治家から中学生までの意見がフラットに並ぶ面白さ』とあった。『えっ。そんな、中学生の記事もあるのか。』さらに読み進めると、けっこう無名の方々の記事も掲載されている。それならということで快諾した。

 以後、拙ブログ記事が3本転載されている。


 そんなわけですので、どうぞ、本ブログとあわせ、こちらの方もよろしくお願いします。

 なお、同ブログには拙ブログへのコメント同様、『意見する』『支持する』などの欄もあるので、読者の方のご意見を拝見することができる。(お断りさせていただきますが、拙ブログへの声は『コメント』、BLOGOSへの声は『ご意見』とさせていただきます。)

 拙ブログ最新記事の『ロンドンオリンピックに見えた選手の共同体!?』には、4つのご意見が寄せられた。


 さて、お待たせしました。いよいよ、本タイトルにかかわる内容に入っていくが、

 4つのご意見のなかに、大変気になるものがあった。簡単に申せば、
『教員が自主性、主体性、自発性をはぐくむ教育などと言っているから、自主的、主体的、自発的にいじめをするようになるのだ。』
というご意見だった。

 こうしたご意見。お気持ちは分かるが、それだけに多くの読者の共感を得るのではないかと危惧し、これは看過できないと思った。そこで、本記事を書かせていただくことにした。

 そこで・・・、いやあ、すみません。たった今『看過できない。』としたのに・・・、それなのに・・・、初めは、これらご意見に共感する記述になってしまう。
 反論したいのだ。そして、後半こそ『そうではないですよ。』と書き連ねるものの、まずは学校教育の現状として認めざるをえない部分があるので・・・、
kodomo19
 
 かつて、ある教員の方から、次のようなコメントをいただいたことがあった。
 「教員は、授業で知識・技能を身に着けさせることだけ考えればいい。子どもの自主性、主体性、自発性を養うなど、そんなことは家庭教育の範疇だ。そのように何もかも学校でやろうとするから、あぶはち取らずになる。」

 こうした考えは一部教員に根強くあるに違いない。

 わたしにしてみれば、『そんな、自ら学ぼうとする子どもを養わずして、どうやって知識・技能を身につけさせるのだ。』と思うが、一部教員は、ただ単に知識・技能を教え込むことだけしか眼中にないのだろう。

 さらには、子どもの学校(学級)生活について教員からのはたらきかけは必要ないとしてしまう、そういう教員もいる。
 子どもの勝手気ままな言動を許している。『自主性、主体性、自発性』の美名にかくれ、教員がいろいろはたらきかけることは、『子どもの自主性の妨げになる。』とする。
 だから、子どもたちは自分の思い、感情のまま、したいことは何でもするといったふうになってしまう。それで、学級崩壊にいたることも多く、いじめも当然のように起こる。
 しかし、こういう教員は、それでいいと思っているから、学級崩壊にもいじめにも鈍感である。

 だからそうした意味では、上記ご意見も、『ごもっとも』と認めざるを得ない。

 しかし、こうした現実は、『自主的、主体的、自発的な心情を養う教育』とはまったく相容れないものだ。ただ単に『放任している』にすぎない。ほおっておいて自主性、主体性、自発性がはぐくまれるのなら、教育なんてこんな楽なことはない。だから、放任と『自主的、主体的、自発的な教育』とはしっかり区別して論ずる必要がある。


 それでは、ブロゴスの本記事に寄せられたご意見のように、
・未熟で何も知らない相手(子ども)に絶対にやってはいけないことを叩きこんだり、
・基本中の基本を上から徹底的に教え込んだり、
・システムで縛りつけたりすれば、
問題は解決するのだろうか。いじめはなくなるのだろうか。

 とんでもないことだ。

 まず、多くの読者の方は感じていらっしゃると思うが、こうした教育観、指導観は、民主主義教育とは無縁なものだ。国の学習指導要領の精神ともまったく異なる。同要領には、『基礎的・基本的な知識及び技能の確実な習得』とともに、『主体的に学習に取り組む態度を養い,個性を生かす教育の充実』ともあるのだからね。
 くしくも寄せられたご意見のなかには、『筆者氏(toshiのこと)が戦前の日本(の教育)をよく学び、その素晴らしさを認識して、〜。』というのもあったっけ。

 
 ただし、どうかな。
・叱るときはきちんと叱る。
・倫理・道徳をしっかり教える。
くらいの表現だったら、何となく支持する人は多いのではないかと思われる。

 そう。何をかくそう。このくらいの表記だったら、わたしだって賛成だ。前記事で、
 『利他性を感じさせる衝動によって周囲を巻き込んでいく感染力(人格的魅力)をもつ者が、《いじめを『することは間違っている(いじめはかっこ悪く情けないことだ)》というロールモデルを示すこと』という宮台氏の主張を支持している。
 そして、『ただしこれだけでは弱い。』として、『子どもの自主性、主体性、自発性』をはぐくむ教育の大切さを主張しているのだ。

 この辺、もう少し詳しく説明させていただきたい。

 わたしは宮台氏の主張する『すごい教員』なら子どもたちへの感化力があるから、いじめはなくせると思う。
 しかし、言ってきかせるやり方では、自主性、主体性、自発性を養うには弱い。『養えない』とまでは言わないが、『すごい先生から離れたらどうなるか。』という思いはどうしても残る。だから、自分で自分を育てていくという自己教育力をはぐくむ観点がどうしても必要になってくる。そして、それこそがまさに学習指導要領にもあるように、民主主義的資質を養うことになるのだ。

 次に、もっと切実でもっと現代的な理由を申し述べよう。

 それは、子どもが変わってしまったのだ。

 がまんできない。すぐキレる。根気が続かない。ご意見氏のお言葉を借りれば、叩き込んだり徹底的に教え込んだりシステムで縛りつけたりしようとしても、そこからもれてしまう子がふえている。今、がまん、根気、素直さなど、こうした点についてのハードルがものすごく高くなっているのだ。旧態依然たる教育は、破たんしつつある。矛盾が表面化している。
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 現に、今でもご意見氏の主張に共感し、その通り実践(?)している教員は全国に多数いるだろう。拙ブログに寄せられる保護者の声からもそれは感じる。我が子が有無も言わせず叩き込まれることへの批判ばかりだ。
 今、そうした教員が思い通りにならない子どもたちに手を焼いている。いくら叱ってもいくら叩き込んでもそこからもれてしまう子どもたち。それを目の当たりにして自信を喪失してしまう教員。それが原因で退職に追い込まれる教員も少なくない。『子どもが変わった。子どもが悪くなった。』の言葉を残して。

 つまり、こういうことだ。

 教員が、放任同然の意味で『子どもの自主性、主体性、自発性』の教育(?)をしようとすれば、勝手気ままな子どもたちがいじめを起こすようになるだろう。
 しかし、それ以上に、叩き込もうとしたりしばりつけようとしたりしても、それに耐えられずはみ出す子どもたちによっていじめは起きるのだ。そして、現実は後者の方が圧倒的に多いはずだ。

 このあたり、誤解を招きそうなので、2点ほどお断りさせていただくが、

・子どもが変わったといっても、それは大人社会の反映であり、子ども本来は決して変わってはいないということだ。おぎゃあと生まれたときの子どもは、縄文・弥生時代も、現代もまったく変わっていないはずだ。

・次、親がしつけられなくなったと言いたいわけでもない。このあたりは、前々記事の『亡母の故郷を訪ねて、 〜地縁・血縁社会の先には〜』を参照していただけたらありがたい。やはりシステム化され心のはぐくみが軽んぜられる現代社会の問題なのだ。


 さあ、それでは、真の意味での『自主性、主体性、自発性をはぐくむ教育』がどのようなものであるか、その概略にふれさせていただこう。
 と申しても、わたしが想う指導であって、それはほんの一例に過ぎないであろう。こうしたやり方しかないと言いたいわけではない。

 それでは、どうぞ。

・まずは、あるがままの子どもの姿をみとるようにしたい。そうすれば子どもはあるがままの姿を表出させるであろう。
 この段階では、先述の『放任主義』と見た目はほとんど変わらない。しかし、教員の心のなかはまったく異なる。つまり放任ではないのだ。子どものすばらしい言動、逆に問題性のある言動。それらを教員は日々頭のなかに叩き込んでいる。

・次に、教員は、子どものあるがままの姿のうち、すばらしい言動については、それを子どもたちのまえで、意味づけ、価値づけしていく。平たく言えば、ほめたり共感したり感動したりしていく。

・問題の言動もあるだろう。しかし、危険な行動、いじめなどの人権問題などは別として、つまりそれらは毅然として対応しなければいけないが、後は静かに見守ったり受容的、共感的に対応したりする。
 こうした教員の受容的、共感的な態度は、子どもが教員の愛情を感じるだけに、問題行動は日々減少していくだろう。そうしたら、先ほど静かに見守るとしたが、問題行動の減少をほめたり感動したりする材料として活用していく。

・ほめたり共感したり感動したりする材料は無限である。教員は、目の前の子どもたちの言動を観察し、具体的にほめたり共感したり感動したりするように努める。

・ほめたり共感したり感動したりする材料は子ども一人一人で異なる。宿題忘れの多い子はやってきただけでほめていいだろう。友達に対して差別的言動の多かった子がやさしさをみせれば、客観的にはたいしたことではないようにみえても、その子にとってはすばらしいことなのだから、感動的に語っていいだろう。
 低学年ならスキンシップを大切にしながらほめるようにする。

・子どもの自主的、主体的、自発的な言動は、それこそ最大の価値をおいて賞賛するようにする。
 ただし、留意点がある。それは、そうした子どもの言動が大人にとってこまった事態を引き起こすこともありうるという点だ。
 その場合、『なぜそれがいけないのか。』を具体的に子どもに分かるように話して聞かせながらも、『自主的、主体的、自発的にふるまった言動そのもの。』はほめてやるようにしたい。そうしないと、そうした芽を摘んでしまうことになりかねない。

・そうした具体的な事例は拙ブログに満載だが、ここでは一つだけ過去記事を紹介させていただこう。
    心の教育(5) 自主性を育む

 以上、雑ぱくではあるが、自主的、主体的、自発的な態度を養う実践のあらましについて述べさせていただいた。そのようにすると、どんな学級に育っていくか。

 これについては、拙ブログ記事にのぞみさんがお寄せ下さったコメント6番が、端的にその違いを書き表している。今、そっくり引用させていただこう。

 『子どもの自主性、主体性、自発性を大事にする。』非常に大切な事だと、私自身の経験を通して感じています。
私は、主に小学校の総合学習支援で携わっておりましたが、引用部分を大切にされる担任と、引用部分を否定=管理する担任の温度差を感じていました。

 その温度差は、子どもによく現れていました。前者の学級は、積極的に質問や挙手をしたり好奇心が旺盛な学級で、行き過ぎた事をやってしまった子どもには、同級生から「それ、いけないよ」と言う声が自然と挙がるような所でしたが…後者の学級ではお互いの顔色を伺って誰も挙手しない、問いかけにも「分かりません」行き過ぎた事をやってしまった時にも誰も言わない上、担任が注意しても、私が注意しても話を聞かずそれぞれが勝手な事を始めて、授業が成立しなかったりと…。
kodomo20
 前者の担任は「子どもを信頼して任せてみる」
 後者の担任は「子どもは信頼せず管理する」

 この違いは、非常に大きい事だと思います。子どもの自主性を尊重する…私が常に意識していた
事でした。

 引用は以上だ。わたしもまったく同感である。真に子どもの自主性、主体性、自発性を養う教育は、いじめをなくす教育につながることがご理解いただけるだろう。すなわち傍観的態度の子がいない、学級が一つにまとまるということだ。


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最後に、ちょっとショッキングな内容と受け取られるかもしれませんが、とても大事なことを述べて終わりとさせていただきます。

 記事本文にも書かせていただきましたが、自主性、主体性、自発性を養う教育は民主主義教育に直結するものです。
 しかしながら、戦後にしても学習内容こそ民主主義的な内容になったものの、指導法に関しては旧態依然たる教育が行われてきました。つまり『徹底して叩き込む。』『システムでしばりつける』教育ですね。
 それは、組合にしても同じです。『平和教育』などと言ってきましたが、『徹底してたたき込む』やり方は変わりませんでした。
 それでも、今に比べれば、素直でがまん強い子どもたちでしたから、この矛盾が表面化することはあまりありませんでした。
 でも、今、子どもが変わったことによって、民主主義教育の成否が表面に露呈されるようになりました。

 さあ。今という時代は、教育の質が問われています。大人社会が子どもを信頼してかかるか、管理主義の方向を強化するか、まさに子どもへの愛が試されているのです。そういう意味では、子どもが変わったことはいいことかもしれません。 

 子どもは確かに未熟です。未分化です。しかし、『だから、たたきこめ。』でいいのでしょうか。前記事にも書きましたが、子どもだって、『事の善悪』は分かっていますよ。『いじめはいけない。やめよう。』そう。そういうことは分かっているのです。分かっていながらやってしまうのです。

 それは一口で言えば、『大人の愛』が欠けているから。

 それなのに、さらに、管理主義的になれば・・・、これはもう、いじめを助長するに違いありません。

 未熟でも、強引に熟させようとしたら逆効果です。植物だってそんなことをしたらかれてしまいますよね。せいぜい植物が自ら熟そうとする営みを支えるくらいでしょう。
 子どもをそうした目でみましょう。そうした記事も拙ブログに満載です。お時間がありましたら、ぜひご覧ください。


rve83253 at 05:10│Comments(10)TrackBack(0)教育観 | 指導観

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この記事へのコメント

1. Posted by 協働学力   2012年09月06日 15:20
 知らないのだから教えないとだめだ。子どもの話し合いに任せていたら、いつ正しい答えがでるかわからん。子どもの主体性や意欲の高まりを待っていたら、指導計画から大幅に遅れてしまう。協働なんかよりも、まず個の理解が優先ですよ。そんな声を聴くことがあります。

 学びや成長を無機的、静的、序列構造で捉えてしまうと、そう見えてしまうのかもしれません。ところが、軍国主義時代の画一化した教育からでも、個性的な人物は沢山生まれて来ました。つまり、システム化してカッチリと管理しても、管理しやすい人間は生まれないということでしょう。ヒトは工業製品ではない。大人が子どもの主体性や意欲を管理することも基本的には不可能です。

 しかし、実際には共感や信頼という先生や仲間との関係を通して、子どもの意欲や主体性を高めるチャンスは無限に広がっています。普段から、子どもを洞察している先生や保護者は、「その子の高まる今」を見つけることが上手いですね。一人では伸びあぐねていた子どもも、先生や仲間となら伸びるチャンスが増えるということでしょう。

 教室を協室として育てて行く。そうした、豊かな関係性の中で、共感や正常な自己愛が育っていくのでしょう。愛を語るより、愛から語る。きっと、toshi先生もそんな、共に伸び合う学級を創って来られたのではないでしょうか。「教」える指導力だけでなく、「育」てる指導力を持つ。教育というからには、育の視点も大事にしたいものです。
2. Posted by toshi   2012年09月08日 09:38
協働学力さん
 おっしゃることの一つ一つに『うん。うん。』とうなずきながら、拝読しました。
 今、退職した身ながら、学級補助ということで2年生の学級に入っています。そうしますと、まさに、《実際には共感や信頼という先生や仲間との関係を通して、子どもの意欲や主体性を高めるチャンスは無限に広がっています。》
という事例が目の前で繰り広げられていきます。もちろん期待通りにはいかない困難な事例もありますが、そうしたことの一つ一つに、『あせらず、しかし繊細に』といった気持ちで対応しています。
《愛を語るより、愛から語る。》
 宝物のような言葉をいただきました。指導者が自分の思う愛を語るよりも、現実に目の前にいる子どもたちの愛の姿から指導者が学び、感動し、その想いを語っていく。
 そのように理解させていただきました。もちろん、日々教室におりますと、愛とは反対の姿もあるわけですが、しかし矛盾するようですが、そこからも愛の姿を見つけることがあります。
 学ぶべき点はたくさんありますね。ありがとうございました。 
3. Posted by のぞみ   2012年09月11日 21:46
私のコメントを載せて頂き、恐縮です。

>子どもの勝手気ままな言動を許している…。
残念ながらそうした多くの学級は、経験上「崩壊」か「再編」されています。

教員の言う事を聞かず、自分が勝手に決めたルール
と言うもので、教員や他の子供を巻き込む事によって学級を支配していると錯覚している、心が貧しい子供が火付け役になるケースも散見される気がします。

そうした子供に共通するのが「大人の愛情」に飢えていて、関心を引きたいと思い「問題行動」などで「大人」へアピールする事で、自分の存在価値を確認する
意味合いがあるのでしょうが…。

そうした子供に掛かりっきりになると、他の子供から
「何で○○さん・くんばかり…」と不満が出るので
私も随分神経を使った場面です。難しい問題です。
4. Posted by toshi   2012年09月16日 07:48
のぞみさん
 返信コメントが遅れ、申し訳ありません。
 こちらこそ、大変ありがたいコメントをいただきました。厚く感謝しております。今回もそうしたコメントでした。重ね重ね感謝申し上げます。
 そこでお願いですが、またまた貴コメントをもとにして次回記事を書かせていただければと思います。いつも使わせていただいて、ほんとうにありがたく、しかし、申し訳ない思いもしています。
 よろしくお願いします。
5. Posted by のぞみ   2012年09月17日 16:35
こうした問題は、立場を超えて共有する事が大切だと考えておりますので、私のコメントでご活用頂ける部分がございましたら、ご遠慮なくお使い頂ければと思います。いい意味での「ゆとり」を大切にしたいものです…。

6. Posted by 協働学力   2012年09月18日 10:46
「みんな違ってみんないい」が許されるのは、みんな同じだという共通点があってのこと。学級でも社会でも生活でも、共感は重要な価値があると思います。

ローティーは人権や道徳観を可能にする土壌として
「共感」を重視しています。共感の乏しい学級では、いじめや孤立が起きやすいもの。

共感が豊かに響き合う「響歓のある学級」でこそ、孤性に閉じない本当の個性が育っていくものなのでしょう。

響という漢字は二人の人の間に価値のある「良い料理」があるという象形だそうな。問題意識も価値観も、善きものは共有吟味して行きたいものですね。
7. Posted by toshi   2012年09月21日 05:27
のぞみさん
 ご了解いただき、ありがとうございました。
8. Posted by toshi   2012年09月21日 05:52
協働学力さん
 いつもありがとうございます。
 「共感・・・」
 今、あくまで臨時的措置ではありますが、学級経営に携わらせていただいています。すると、この点に関し、大人より子どもの方が柔軟だなと、つくづく感じる昨今です。ですから子どものうちに、『気づいたら思わず共感していた。』といった力を養いたいと思っています。
 そうした意味で、『響歓のある学級』なる言葉。いいなあと思い、うれしくなりました。
 ありがとうございました。
 
9. Posted by Hideki   2012年09月28日 19:17
一言でいえば、「愛」がない

愛とは、その人(子)のことを、思うこと

本当にその人(子)のことを思うなら、
それは家庭教育の役割だ、という
セクショナリズムの発想は生じない

誤解を承知でいえば、
放任でも、愛がある放任なら、
あるいは、
教条でも、愛のある教条なら、
それぞれ、その教育者ならではの教育に
昇華する可能性があるとすら思う。
10. Posted by toshi   2012年10月01日 20:13
Hidekiさん
 そうですね。教育にとって究極的に何が大切か、最後にこれだけは譲れない。それは何か。
 そう問われれば、やはりそれは『愛』なのでしょうね。今の日本はその《愛》がなくなりつつあります。《愛》の代わりに、『管理、システム』ばかりがもてはやされるようになりました。そして、《人間不信》を前提としての議論が横行するようになりました。
 そうではないのですよね。《愛》を前提とし、そのなかで、いかに人間性を豊かにしていくかを考えるべきなのに、《愛》そのものを否定するような、あるいは軽くみるような、あるいはバカにするような風潮が蔓延しつつあるのは、悲しむべき傾向と思います。
 いじめをするものにはみんな罰を加えろ。
 ああ。そんな考えで世の中、よくなるとはとても思えません。
 せめて、当ブログにおいては、《愛》の尊さを書き続けていきたい。そう思います。
 どうぞ。今後ともよろしくお願いします。

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