2012年10月05日

『自主性、主体性、自発性を養う教育』は、いじめを助長するか。(2) 〜鉄は熱いうちに打て〜

kodomo21 本記事サブタイトルの『〜鉄は熱いうちに打て〜』は、かつて当ブログにて6回シリーズとしてとり上げたことがある。もう6年前になってしまった。
 このころもいじめ問題が社会問題化していたはずである。だからであろう。このシリーズの4回目は、『いじめ克服にために』というサブタイトルをつけている。

 この記事を要約すると、

 『いじめは小学校低学年でもある。そしてそのときの指導が大切だ。その成否がその後の成長に大きな影響を与える。・・・。』となるだろうか。

そこで、本記事では、もう20年以上前のことになるが、そのころの我が学級経営の記録をふり返りながら、『子どもの自主性、主体性、自発性を養う教育』がいじめとどうかかわるか、その年頃の子どもたちのいじめを、どう克服していくか、その実際をみてみることにしよう。

 また当ブログへは、協働学力さんとのぞみさんはじめ、多くの方からすてきなコメントをいただいている。まことに珠玉のお言葉をいただく思いだ。そこで、お二人に代表していただき、そのコメントとも関連させながら、書き進めていきたいと思う。
 

 約20年前、わたしは2年生を担任していた。そのクラスにおいても、いじめはあった。その事例だが・・・、

〇ある日の休み時間、わたしは職員室で所用を済ませ教室に戻ると、子どもたちが口々に言う。
「toshi先生。AちゃんとBちゃんとCちゃんは、さっき教室の中を走っていたよ。」
「ものすごいスピードだったよ。」
「あぶないよね。」
「やめなって注意したけれど、やめなかったんだよ。」
「ほんとうかい。・・・。それは、あぶない。あぶない。でも、けがしなくてよかったね。・・・。そうか。注意してくれた子もいたんだ。それはうれしい。でも、注意されてもやめなかったというのはよくないね。わたしは、『先生に注意されてやめるのは当たり前。でも、お友達の注意をきける子はえらい。』ってよく言っているでしょう。だから、とっても残念だよ。
 それにしても、何で走っちゃったの。何か理由があったのかな。それとも、ただあぶない遊びをしていただけなのかな。」

 こういう場合、頭ごなしに叱ったりはしない。今目の前で走っているのなら話は別だが、もうことはすんでしまったし、そんなときどなりつけたのでは、子どもの思いを引き出すことはできないからだ。
 そう。子どもの自主性、主体性、自発性を養う教育においては、子どもの思いを引き出すことが肝要だ。

 すると、Aちゃんがこまったように言う。
「・・・。何だか分かんないんだけどね。・・・。いつもBちゃんやCちゃんにつかまえられちゃうの。」
そう言いながら、Aちゃんは泣いてしまった。

 以下、子どもたちの話を要約すると、次のようになる。

 このころ、何をされてもおとなしく、されるがままになる傾向にあったAちゃんに対し、
「ほら。Aちゃんをつかまえたよ。・・・。Bちゃんにまかせるからね。そのままつかまえといて。」
「あああ。だめじゃん。はなしちゃあ。・・・。また、つかまえなきゃなんないよ。」
そんな遊び(?)がはやり始めていたらしい。このときは、BちゃんやCちゃんだったけれど、まだほかにもそういう子は何人かいることが分かった。
 そのほか、Aちゃんがランドセルを児童用の棚にしまおうとするとそれをじゃましたり、ぞうきんがけをしていると背中に乗ったりする子もいたようだ。

 うん。そう言えば、わたしの目の前でしたこともあり、危険な行為に対してはどなりつけてもいたっけ。そのようにして、すぐやめさせたのだけれど・・・、こんな常習的な行為になっていたとは、それまで気づかなかった。

 わたしは言った。
 「そうか。さっき、みんなは、『AちゃんとBちゃんとCちゃんが教室の中を走っていた。』ってわたしに言ったけれど、どうなのかなあ。3人は同じようにいけないのかなあ。」
「違うよ。Aちゃんはいけなくない。だって、逃げないとつかまえられちゃうもん。」
「〜。」
「〜。」
口々に、Aちゃんを弁護し出した子どもたち。

 それを受けて、わたしは断言した。
「これはいじめだよ。何人もでAちゃんを理由もなくつかまえている。そして、Aちゃんをこまらせてもいる。」

 教室中がシーンとなった。ちょっとびっくりしたようだ。とまどいの表情を浮かべる子もいた。

 そんななか、Dちゃんが決断したように挙手。
「だけどね。・・・。BちゃんやCちゃんが追いかけているとき、Aちゃんはいつもにこにこしているよ。楽しそうだよ。」 
  
 そう。子どもの自主性、主体性、自発性を養う教育においては、こうした子どもの発言を大事にする。たとえ担任の言うことであっても、簡単に納得してしまう子どもにはしたくない。異論、反論があれば、おおいに言ってほしい。だから、こうした発言に対しては、すごくほめるのだ。このときも・・・、

「そうか。分かった。・・・。わたしは、2つ、Dちゃんをほめたくなっちゃった。

 一つ目はね。『toshi先生。これはいじめではないんじゃないの。遊びなんじゃないの。』Dちゃんはそう言いたいんだな。・・・。(Dちゃん。仏頂面でうなづく。)これはすばらしいよね。たとえ先生が言ったことでも、納得できなければ、自分の思いを言うっていうこと。これはえらいよ。
 だから、わたしもよく分かった。・・・。そうか。Aちゃんはにこにこしていたか。・・・。でも、さっき、『何だか分かんないけどつかまえられちゃう。』って言ったときのAちゃんは泣いていたよね。・・・。ここはみんなで考えてほしい。いじめなのか遊びなのかということだな。
 もう一つある。Dちゃんはお友達を実によく見ているっていうことだ。だって、『Aちゃんは、にこにこしながら逃げている。』っていうことが分かっているのだものね。これはもう、お友達を大切にしている証拠だ。それがすばらしい。」

 期せずして起きた大きな拍手。わたしはうれしくなった。

 しかし、一つ目の件はむずかしかったようだ。『にこにこ』と『涙』と。どっちがほんとうのAちゃんか。・・・。おそらくAちゃん自身も分かってはいなかったのではないか。それで、いっときはいじめと断定したわたしだったが、無理に結論づけることはやめることにした。

〇ただ、こういう指導を学級全体にする場合、いわゆる『悪者』をつくらないことが肝要だ。この場合なら、Bちゃん、Cちゃんだね。ああ。まだいる。ランドセルをしまうのをじゃましたり背中に乗ったりする子も同様だ。だから、素直に話を聞いているとか反省している様子が目に見えるとかしていれば、やった行為はいけないとしながらも、そうした態度に対しては極力ほめるようにする。ほめる点をさがすようにするのだ。

 しかし、このケースでは、Dちゃんに助けられた。Dちゃんがほめるべき点を指摘してくれたのだもの。いや、違うね。この場合は、ほめるというよりも、Bちゃん、Cちゃんたちを心から受容することができる。
「そうか。Bちゃん、Cちゃんたちは悪くない。だって、Aちゃんがにこにこしていたから、これは、《遊び》だと思っていたのだものね。・・・。分かったよ。・・・。いきなり、『いじめ』だなんて言って悪かったな。・・・。でも、あれだぞ。今はまだ、いじめでないとも決まってはいないよ。だって、さっきAちゃんは泣いちゃったものね。」
と言うことができた。

〇それから一週間後のことだった。そのとき、わたしは教室にいた。教室の後ろの方から、Aちゃんの、『やめてえ。やめてよ。』という、悲鳴のような大声が聞こえてきた。わたしは驚いたが、教室にいたみんなも少なからずびっくりしたようだ。

 みんなが、Aちゃんを見つめる。『すごい。すごいね。』と言いたいような表情だ。わたしも少なからず感動した。Aちゃんがこんなにはっきりと、自分の意志を表明したことは、かつてあっただろうか。いや。ない。
kodomo22
 そう言えば、一週間前のあの日以来、Aちゃんは変化を見せていた。表情が変わったのだ。

・それまで自信なさそうな、おどおどした感じが顕著だったが、それが影をひそめ、ふつうの表情になった。
・挙手はけっこうしていた。しかし、指名しても蚊の鳴くような声でしか発言できず、わたしはいつもAちゃんのそばに寄っていっては話を聞き、通訳のようにみんなに聞かせていた。
 しかし、その必要がなくなった。もうふつうの声で言うようになった。

 わたしは、日々確認していたが、Aちゃんをつかまえる遊び(?)はまったくなくなった。掃除中の馬乗りもランドセルのじゃまも同様だった。

 わたしは、こうした変化を・・・、ほめるというよりも、《よかった。よかった。》と喜んだ。

 そんな折の、強い、意志の表明だった。わたしは全員の前でAちゃんを絶賛した。
「すごい。Aちゃん。すごいよ。《やめてえ。》ってはっきり言えたのだもの。・・・。もうにこにこなんかしていなかったな。だから、言われたEちゃんも、少しびっくりしたようだったよ。言われてやめたEちゃんもえらい!」

〇それからさらに一カ月後・・・、Aちゃんはまたまた劇的な変化を見せた。

 このクラスはもともと特活が盛んで、朝の会、終わりの会では、実に多彩な活動を見せていた。一年生のときの担任Fさんの努力のたまものだった。

 ある日、Aちゃんがわたしにお願いをしにきた。
「toshi先生。明日の終わりの会で、ぼく、手品をやりたいんだけれど、やってもいいですか。」
「ええっ。ほんとうかよ。・・・。すごいじゃん。Aちゃんは手品ができるのか。」
「うん。トランプでやるんだけどね。」
「分かった。いいよ。・・・。そうか。手品か。楽しみだな。・・・。でも、時間はあまりないから一つだけにしてね。」
「大丈夫。一つしかできないから。」

 さて、当日。

 クラスのみんながAちゃんを取り囲むようにして、教室の後ろに集まる。Aちゃんは自信にあふれた表情とふつうの声でやり始めた。終わると、拍手喝さいだ。
「分かった。ぼく知ってるよ。この手品。」
「だめじゃん。Gちゃん。そんなこと言っちゃあ。」 
「そうだよ。Aちゃんは、がんばっているのだから。」
「すごいね。Aちゃん。わたし、分かんなかった。」 

〇さて、それでは、論評に移らせていただこう。

 『鉄は熱いうちに打て。』

 いい言葉だ。ところが、これも誤解を招きやすい。熱いうちだと思い通りに打てる。そう受け取られてしまうのではないか。

 確かにそのように見える。しかし、実際は、材質もあるだろう。熱さの度合いもあるだろう。冷え具合も、そして季節や天候による違いもあるのではないか。つまり《熱い鉄》だって主張しているのである。

・そのあたり、協働学力さんのコメントをお借りすれば、次のようになる。

 子どもを「信任」できる教師の指導力が高いと感じる場面は多いですね。信じて任せる力。
「こうやったらできるかもしれない」
「ああしたらできるだろう」
「こういう問い方をすればできるんじゃないか」。
そういう「できるようになる子どもの姿を見立てる力」と信任力(信じて任せる力)にも相関関係がありそうです。
 授業(学級経営〜toshi注)は子ども単体の主体で構成される訳ではなく、教師の主体との相互主体で構成されるものなのでしょう。教師の願いと子どもの願いはU字管の様につながっているのですね。toshi先生がご指摘の「伸ばさんかな、育てんかな」という教師の念が、実践力向上の原点なのでしょう。
 私の周りにはこういう先生が多く、感動させられることも多いです。


 さらに、同氏からいただいたコメントでもっとも心を揺り動かされたのは、この後に続く《愛を語るより、愛から語る。》であった。

 指導者が百万言ついやしても子どもの心にはひびかない。・・・。そのようなことはいくらもあるのではないか。宮台氏の主張する『すごい奴』以外はね。しかしながら、子ども自ら示す言動のなかから《愛》を発見し、意味づけ、価値づけする行為は、必ずや子どもの心にひびくに違いない。

 またまた、協働学力さんのコメントを引用させていただこう。

 ローティーは人権や道徳観を可能にする土壌として「共感」を重視しています。共感の乏しい学級では、いじめや孤立が起きやすいもの。共感が豊かに響き合う「響歓のある学級」でこそ、孤性に閉じない本当の個性が育っていくものなのでしょう。〜。問題意識も価値観も、善きものは共有吟味して行きたいものですね。

 以上だ。ほんとうに、協働学力さんからいただく言葉は、単なる言葉遊びではないよね。心にストンと落ち、心から、『いいなあ。』と思ってしまう、じわじわと心に染みいっていく。そんな感じだ。

・次は、のぞみさんからいただいたコメント。前記事に続き、引用させていただこう。

教員の言う事を聞かず、自分が勝手に決めたルールと言うもので、教員や他の子供を巻き込む事によって学級を支配していると錯覚している、心が貧しい子供が火付け役になるケースも散見される気がします。
 そうした子供に共通するのが「大人の愛情」に飢えていて、関心を引きたいと思い「問題行動」などで「大人」へアピールする事で、自分の存在価値を確認する意味合いがあるのでしょうが…。
 そうした子供に掛かりっきりになると、他の子供から、「何で○○さん・くんばかり…」と不満が出るので、私も随分神経を使った場面です。難しい問題です。


 引用は以上だ。本記事でとり上げた20年以上前の学級においても、こうしたことは見られた。でも、2年生くらいだと、まだ、《学級を支配しよう。》とか、《大人へアピールすることで自分の存在価値を確認する。》とか、そういう意識にはなっていないだろう。しかし、後半の、《「何で○○さん・くんばかり…」と不満が出る》というのは、低学年ほどありそうだ。
 そして、そういう子どもが一学級に、2人、3人と増えていくと、こうした構造は複雑さを増すし、さらにややっこしくなる。
 担任以外にも補助教員がつくとかしていればまだ何とかなるのかもしれないが、一人でやるとなれば、のぞみさんご指摘のような困難さも抱えるようになりかねない。

 ただ、こうした事態への対処について、のぞみさんは十分お分かりになって書いていらっしゃるのだと思うが、学級集団をきたえることに全力を尽くせば、何とかなるのかもしれない。つまり、子ども同士の人間関係のなかで、《行き過ぎた事をやってしまった子どもには、同級生から「それ、いけないよ」と言う声が自然と挙がるよう》な学級にすればいい。こうした学級の場合、担任が注意してもきかない子どもが友達からのそれならきくというのはおおいにありうることで・・・、つまりきたえられた学級集団において友達からのそれは、自分の存在価値をおびやかされる恐れがあるからだろう。それだけ、自分がルールを勝手に決めることもやりにくくなるはずだ。
 すると、担任である自分がかかりっきりにならなくて済むようになる。

 ねっ。子どもの自主性、主体性、自発性を養う教育においては、子ども同士の人間関係がきたえられるのだ。

〇最後に、再び20年前の我が実践に戻らせていただこう。

 このように推移したAちゃんの変容だったが、残念なことに、上記手品の一週間後、今度はHちゃんがAちゃんの背中に馬乗りになる事件(?)が起きた。掃除中ではなかったが、わたしが教室にいたときに起きた。すぐAちゃんのところに行きやめさせたが、Hちゃんは《なぜ怒られるのだろう。》という顔をしているし、Aちゃんにしても、当惑した表情でされるがままになっているし・・・・。

 ああ。ここまで育ってきたのにと思うと、残念で、むなしくて、がっかりさせられたが・・・、まあ、一筋縄ではいかないものだ。紆余曲折はつきものなのだろう。気を取り直し、再度新たなる信頼関係の構築に向けて、がんばることにした。

 そう。幸いなことに、これ以後、そうした事件は起きなくなった。
 

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〇最近は一か月に一度か二度の更新になってしまいました。まことに申し訳ありません。

 実は今も、臨時の学級担任をおおせつかっています。過去記事に、夏休みに入るまでの仕事ということはすでに書かせていただきましたが、その後も後任がみつからないらしく校長先生からお願いされました。それで、今も非常勤講師のままこの仕事を続けさせていただいています。本記事と同じ2年生です。

 ところで、この20年以上前の学級と今担任している学級とは、雰囲気がとてもよく似ているのです。いい意味でも課題を抱えているという意味でも、エネルギッシュな子どもたち。思えば、20年以上前のそれは、下町の学校であったがゆえに、今という時代を先取りしていたのかもしれません。
 
〇協働学力さん、のぞみさんがおっしゃる、子どもを信頼しての、《子どもの自主性、主体性、自発性を養う教育》は、子どもを放任したり、やりたいようにやらせたりする教育とは明らかに次元の異なるものです。U字管のようにつながっている様子もご理解いただけたのではないでしょうか。

〇サブタイトルの、《鉄は熱いうちに打て》にもかかわりますが、いかがでしょうか。

 いじめられても笑っているとか、学級のなかで構造的ないじめになっているとか、小学校低学年においても、今の中学校のいじめ自殺事件に共通する要因がいくつもあることに気づかれるのではないでしょうか。それだけに、熱いうちの対応がいかに大切か、ご理解いただけるのではないかと思います。

 鉄は、冷えてしまえばしまうほど、打っても打っても手遅れになりがち。寸刻の勝負ですね。

 しかし、人間の場合は、困難さは増すものの、まったくどうしようもないというものではありません。成長すればするほど、それだけとぎすまされた神経、はたらきかけ、信頼関係の構築が大事になってきます。

 大丈夫ですよ。

rve83253 at 06:08│Comments(4)TrackBack(0)いじめ | 学級経営

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この記事へのコメント

1. Posted by 伊藤   2012年10月16日 15:05
川崎市を受験しましたが、残念ながら通過できず、論作文、面接、場面指導とも半分にも満たず、自分の至らなさを痛切に実感しました。

いじめ問題は今後、問われる問題かなと思います。場面指導はきつい言葉が飛び交っている状況でしたが、こういった指導ができたら多少は良い点を得られたのではないか、そういう発想すら出てこない自分の無能さを感じます。

もし、機会があって現場に入るようなことがあれば先生の実践を使わせていただきますね。
2. Posted by toshi   2012年10月18日 05:13
伊藤さん
 それは、それは・・・、何回もコメントをいただいているわたしとしても残念でなりません。伊藤さんのように前向きな方は、ぜひ受かってほしかったです。 来季を期されるように受け止めましたが、所期の目標を達成されますよう、心より祈念しています。
 いじめはどの学級でも起きうるものですが、心をはぐくむ教育を忘れなければ、なくすことは可能と考えております。どうぞ、現場に立たれるときは、がんばってください。いえ。そういう日が来るよう、心より祈念しています。 
3. Posted by ももぱぱ   2012年10月23日 22:50
最近
toshiさんのブログ記事の更新を
期待して見に来るももぱぱです(笑)

気にしないで下さい。
これほど密度の高い内容を書くには
禊が必要かと思うほどの、覚悟が要りますね。。。

さて、TOSSという全く聞きなれない「業界用語」を
お見掛けしましたので
関連サイトへ行って見ました。

唖然としました。
一般企業には有り得ない考え方ですね。
こんなことやっていたら、ライバル企業に潰されます(苦笑)

ところで
もちろん、私達の企業にも、毎年大卒が入社してきます。
凄いです。理系の専門学科バリバリです(笑)
ところが、彼らのキャンパスライフや授業活動を聞くと、結構「?」という疑問が沸くことが多いのです。

私達の感覚では、大卒というと「たくさん勉強してきた」という印象を持ちます。
しかし、何やってきたか聞くと
「ほとんど、教授のゼミの手伝いぐらいだった」
という返事が返ってきました。

現在、助かっているのは
高卒は文章を書けませんが、大卒は文章を書ける事。
それぐらいです(汗)

ここで戻りますが
教員を目指される方は+α以上の理念を、
大学時代に育てないと、厳しいのではないですか?
普通にやっていて、「仕事の手段」としての教員を選択したら「TOSS」のようなフォーマット、
凄い助かるのではないですか?楽ですから。

教育界に素人な私もこのサイト読んでいて、
もし私が教員なら
活用すると思いましたもの(笑)

技術の共有化は情報だけでは
有効ではありません。
試行錯誤を繰り返して、昇華するものではありませんか?
子ども、つまり、一個人の大切な人生を
教師の成長へ投資しているようなものです。
その恩を忘れてはなりません。

私が未熟だった頃、顧客に育てて頂きました。
今は私が、恩を返す立場です。
これと同じことでは、ないでしょうか?

4. Posted by toshi   2012年10月24日 21:40
ももぱぱさん
 ご愛読賜り、ありがとうございます。最近更新がままならず誠に申し訳ありません。しかし、拙ブログは、過去記事の方が多く読まれているようですので、どうぞ末永くよろしくお願いします。
 《理念》
 教育の世界に限らないと思いますが、大切だと思います。今は、上は政治家から学生に至るまで、『理念のなさ』を感じることが多いですね。そして理念なき者が簡単になびいてしまうのではないでしょうか。
《私が未熟だった頃、顧客に育てて頂きました。今は私が、恩を返す立場です。これと同じことでは、ないでしょうか?》
 はい。わたしもまったく同じ考えです。初任だったときは、子ども、保護者に育てていただきました。もうその頃の教え子は50歳を超えてしまいました。
 先日も、彼らは同窓会を開催してくれましたし、保護者の方はご高齢ですけれど、今もお付き合いさせていただいている方がいらっしゃいます。それだけに、《一個人の大切な人生》というお言葉をいただきましたが、ズシンと胸に響きました。
 しかし、わたしにしても、すべてがうまくいったわけではありません。拙ブログにもときどき反省やら悔悟やら、そんな内容も載せさせていただいています。
 重たい仕事だなと、改めて感じました。ありがとうございました。


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