2013年04月06日

『子どもの自主性、主体性、自発性を養う教育』の実際(3) 〜先生 ありがとう会〜

arigatokai03 冒頭、お断りさせていただきますが、本記事はリンクが多くなっています。しかし、いちいちリンク先を開かなくても読み進められるようにしますので、関心のある方以外は開かなくてもけっこうです。

 さて、読者の皆さんは本記事を読み進むにつれ、どう思われるかな。

・2年生の子どもが、どこまで自主的、主体的、自発的に動けるものか。
・(前記事にあった)担任による強権発動はなかったのか。
・担任による、意図的、計画的な教育活動と、この、『自主性、主体性、自発性を養うこと』との関係はどうなっているか。

 そのような思いかな。

 それでは、折々に考察を加えながら、この、『先生 ありがとう会』の様子を、流れを追って書き進めてみよう。
 
 なお、例によって、会の様子には〇印。その考察には※をつけていきます。
  

 〇前記事に書いたようないきさつで、『先生、ありがとう会』の前日にプログラムを見せてもらったわたし。それは、こうなっていた。

・し会 Aさん、Bさん、Cさん

1.はじめのことば Dさん
2.ゲーム キャベツまわし ウインクさつ人じけん
3.歌 あなたにありがとう
4.紙しばい
5.きゅう食のじゅんび つくえ(の配置)をかえる
               もちもの ぼうし マスク
               当番は白いをきて、ろうかにならぶ
               はいぜん
6.いただきます Eさん
7.先生へインタビュー
8.ごちそうさま Fさん きゅう食当番は食きなどをかえす
9.プレゼントわたし
10.先生のことば
11.おわりのことば Gさん

 ありがとうございました。


※わたしは驚いた。
 だってBさんから日時のお願いをされたときは、『3時間目と4時間目』と言われたのだものね。それでオーケーしたのだった。でも、いざフタを開けてみると、そうではなかった。何と、給食時間までこの会は含まれていた。さらにはお昼休みまで使う計画となっている。

 これは、これは。子どもたちにとって貴重なはずの昼休みまで、この会のために使ってしまうのか。それにしても、子どもたち全員がこれを了承しているのか。気になった。

 次、一つ一つに、時間の割り振りが書かれていた。これもすごい。今までこのようなことをした記憶がない。ちゃんと時間配分まで考えていたのだね。えらい。

 それにしてもまたまた、個別支援学級のHさんとの交流の件が気になった。なにしろ、『秘密』を大切にした報い(?)で急だものね。 

 でも、これはもう、いたしかたなかった。前日に分かったのでは、修正しようもない。
 いや。そうではないね。これについてはたとえもっと早く分かったとしても、変えようがなかっただろう。

・給食を我が教室で食べるのは週一回〇曜日と決まっている。個別支援学級での給食も大切にしなければいけない。
・また、我がクラスの側から見ても、年度末だけに融通がききにくくなっているし、我がクラスの事情もある。

 それで、当初の予定通り、Hさんは4時間目終了とともに戻ることにした。
 会終了後、J先生から聞く。
「いええ。ありがとうございました。Hさんは、もう、興奮するようにして戻ってきました。とっても楽しかったのだそうです。」

 それにしても、子どもはちゃんとわきまえているのだね。
『このことは先生にお願いしなければいけない。しかしここから先は、秘密にしておこう。』
 その主体的判断は妥当性をもっていたといっていいだろう。すごい。

 
〇準備に手間取り、5分遅れで始まった。

 プログラムを見る限り全体的に時間の余裕はありそうに思ったので、わたしはBさんに言われたまま黙っていすにすわり、準備の様子を見ていた。

 そう。そう。個別支援級のHさんは定刻に来た。それでわたしの隣りにピョコンとすわり、一緒に開始を待った。

 みんな着席し、司会の声が明るくひびく。どの子も、『やるぞ。』といったいい表情だ。その中で早くも涙ぐんでいるKさん。みんな、そんなKさんを横目に見ながらも、温かく見守っている。

 Dさんのはじめの言葉は、わたしへの感謝の言葉が連ねられていた。もちろん原稿などなしでやっている。先ほどの温かな見守りといい、この原稿なしといい、日ごろわたしがほめたたえてきたことを実践に移している子どもたちだ。

 いよいよ、ゲームが始まる。arigatokai04

 読者の皆さんは、キャベツまわしといい、ぶっそうな名前のウインク殺人事件といい、どんなゲームかご存知かな。わたしもこの子たちを受け持ったころは知らなかった。

・キャベツまわしは、バクダンゲームの発展形。輪になってすわり、次々にバクダンならぬ、折り紙をくるくると丸めたキャベツをまわしていく。音楽が止まったところで持っていた子が軽いバツゲームをするのだが、キャベツの葉っぱならぬ、折り紙を一枚めくると、そこに何をするかが書いてある。このようにしてゲームが進行するから、キャベツはだんだん小さくなっていく。

・『ウインク殺人事件』は、ぶっそうな名前だが、一クラスの人数に適した楽しいゲームである。ウインクを送られると殺されるというのは、まあ、おもしろい設定だな。

 ここでゲームの説明を長々とすることはできないので、そうしたホームページにリンクさせていただこう。興味のある方はご覧いただきたい。
      ウインク殺人事件

 リンク先には、『低学年ではむずかしい』とあった。が、どうして、どうして。かなり楽しむことができた。これも学級のまとまり、盛り上がりのなせるわざかな・・・。

 いや。いや。このときも、ふざけたりおもしろがったりして、ゲームの興をそぎそうな子はいた。
「あっ。Lさん。だめだよ。ぼく、Lさんにはウインクしていないのに勝手に倒れた。」
「あっ。それで分かった。Mさんが犯人だ。」
てな調子で、ちょっとまずい雰囲気になった。けんか、トラブルにならないうちに収まるといいが。

 よかった。Nさんが言ってくれた。
「ほら。ダメでしょう。『toshi先生 ありがとう会』なのだよ。」
それでハッとしたような顔をしたLさん。以後、ふざけることはなかった。

 逆に、ジーンときたことも。

 それは、内気でおとなしかったPさんだ。Pさんにもウインクが送られたが、その倒れ方はもう迫真の演技だった。
 これはすごい。おくすることなく表現する力がついてきたという感じ。うれしくなった。同じ思いの子もいたのだろう。期せずしてPさんに拍手を送る子がいた。

 こんなふうだから、バツゲームもみんなちゅうちょすることなく自然にふるまってやることができた。教室内は温かな笑いに包まれた。個別支援級から参加したHさんも、さっきは涙ぐんでいたKさんも、心から楽しんでいた。

  いつもはみんなの様子を見守るわたしだが、Bさんから、
「先生も輪のなかに入ってください。」
の言葉をもらい、初めてゲームに参加した。しかし、わたしがオニとか犯人役になるとか、逆にウインクを送られるとか、そうしたことはまったくなかった。それでも心から楽しめたのは、みんなのわたしへの思いやりを感じたからだった・・・かな。


※けっきょく、このとき、わたしの強権発動(?)はなかった。上述のようになりそうなことはあったが、Nさんの一言で回避されたのはよかった。言ってくれたNさんはもちろんだが、ふざけるのをやめたLさんをも、後で絶賛した。

 こうして最大の危機(?)を乗り越えた。後はもう安心して子どもたちの活動にゆだねることができた。わたしは一観客にすぎなかったともいえよう。まさに、『子どもの自主的、主体的、自発的な活動』が花開いていた。

 それはもう一つの姿をも示していた。
 Lさんに見られるような、どちらかと言えばワンパクな子どもは少しずつ理性的となり、逆にPさんのようなおとなしいタイプの子は活発になるという、そうして双方とも程よく調和した人格に近づいていくという・・・、

 学級のまとまりを感じるのには、こうしたことも支えとなっていると感じた。


〇歌のときもそうだった。

 あっ。歌と言えば、前記事冒頭の写真は、まさにその歌っているみんなを撮ったものだ。

 いつもはわたしが並ばせようとしても、気持ちがあちらこちらへ行っている子がいて、とてもすぐには並べない・・・ことが多い。それなのに、何ということだ。わたしは相変わらずいすに座っているだけ、特に並ばせる子もいないのに、さっと並んでしまうではないか。すごい。

 MさんがCDをかけて歌い始めた。

 歌は、『あなたにありがとう

 もともとこの歌は、卒業生を送る会で歌う歌として、ここのところ朝の会や音楽の授業でずっと歌い続けてきた。この間、急速に歌唱力を高めてきた子どもたち。高音が特にきれいになった。ひびき合う。透き通った声。そんな印象だ。

 そう。そう。個別支援級のHさんも、朝の会だけは毎日我が教室に来る。それでここのところ、すごく張り切って歌うようになった。
 Hさん。この日もよかったよ。大きな口をあけよく声も出ていたね。


 そして、紙芝居だ。

 歌のときは教室の後ろに整然と並んだが、今度は前の方に一つの塊のようにしてすわった。この動きもBさんの指示のもと、整然と進んだ。すばらしい。わたしはただただ見とれていた。

 紙芝居をしたのは、前々記事に書かせてもらったが、本の読み聞かせをしたQさんとRさんだ。

 会が終わってからQさんが言う。
「先生。紙芝居を作るの大変だった。毎日夜遅くなってしまって、お母さんに心配されちゃった。」
 でも、表情はすがすがしく、ホッとしたような、安ど感に満ちていた。
「そうかよ。それは、それは、ご苦労さん。全部手描きだったものな。すごいよ。」
「今朝も学校でやってね。それで、やっと終わった。」


 ゆったりとした流れのなかで、給食となった。これも、わたしはいつも通り白衣や帽子をかぶったが、後ろから子どもたちの様子を見守るだけだった。

 わたしへのインタビューはもちろん給食をいただきながらだ。

 しかし、今、どんな質問があったかほとんど思い出せないのだ。わたしもいささか平常心ではいられなかったとみえる。そのくらい感動のしっぱなしだった。


 給食を終え、食缶などを返し、掃除をしてから、わたしへのプレゼントとなった。みんなどれも心のこもった手作りのものばかりだった。
 Pさんはずっと4月のカレンダー作りに取り組んでいた。それもただのカレンダーではなかった。何人もの子へインタビューをしたとみえる。カレンダーの下にはお友達の名前とわたしへの言葉が書き連ねられていた。ここにも、Pさんが積極的になった姿を感じた。

 どの子とも、『ありがとう。』の言葉の交歓だった。でも、Pさんへは、
「ありがとう。4月だけでなく、ずっとわたしの部屋にはっておくね。」


※ここで、もう考察もいらないだろう。その代わり、あるエピソードを紹介させていただこう。
 
 この会の翌日だった。たまたま保護者のSさんとお会いした。
「昨日はご苦労様でした。《先生 ありがとう会》は、とてもよかったようですね。うちの子は帰ってくるともう、すぐ報告してくれました。興奮していましたよ。〜。
 歌は子どもたちみんなで決めたらしいのですけれど、選曲もよかったですね。あれ、ほんとうは卒業生のために歌う歌らしいですね。でもそれが、toshi先生への思いと重なったみたいです。
〜。
 ほんとうに、一年間、ありがとうございました。」

 そのように言っていただいて、わたしもとてもうれしかった。

 あらためて、この『あなたにありがとう』の歌詞も気に入っている。

 『先生が教えてくれたから』とか、『先生が育ててくれたから』とかは言っていない。

 ただ、『あなたがそばにいたから』とか、『支えてもらったから』とか言っているだけだ。

 そう。がんばるのも、くじけないのも、元気でいられるのも、つらいことや嫌なことを忘れるのも、楽しく過ごすのも、やさしくなるのも、意地悪な気持ちが消えるのも・・・、ぜえんぶ、それは、生きる主体者たる子どもなのだ。子どもの伸びようとする心なのだ。

 それを忘れてはならない。

 そばにいればいい。支えていればいい。それで子どもは伸びていく。いや。それでこそ子どもは伸びていく。
PA0_0056

〇いよいよ、最後の『わたしの言葉』だ。

 これも何を言ったか、ほとんど覚えていない。

 お礼の言葉は間違いなく言った。ただ、それとは別に強く覚えていることがある。

「〜。個人面談などでね。みんなのおうちの方と話したわけだが、何人ものお母さんが、『うちの子は、toshi先生はやさしいって、言っています。』と言ってくれた・・・。」
「うん。やさしいよな。」
「そうか。そう言ってくれてうれしいのだけれど、でもね,わたし、自分ではやさしくなんかないって思っているのだよ。]
「・・・・・・。」
「だって、けっこうどなることもあるでしょう。『何やっているんだ!』なんて言ってね。」

 すると、自他共にワンパクと認めるTさんだ。
「それはね。どなられてもいいの。どなられるぼくたちがいけないのだから。」
「ええっ。よく言うねえ。・・・。」

 もう、教室中大笑いだ。言った本人も笑っている。むかしのはやり歌にあった『分かっちゃいるけど やめられねえ』かな。

 このこと。くわしく書いた過去記事がある。今、それにリンクさせていただこう。

    あこがれの先生(1)

 簡単に過去記事にふれると・・・、

 すみません。リンク先は我がこととして書いてはいませんが、本記事では、我がこととなっているので、いささか面映ゆさがありますが、お許しください。

 子どもは簡単にやさしい先生とか、こわい先生とか言う。でも、それとはニュアンスの違うことも多々あるのではないか。なにしろ、まだ語彙が十分あるとは言えない子どもたちだもの。

 別な概念で、『心の温かい』があるよね。でもこれって、かなり抽象度が高い。子どものなかでこの概念はまだボヤッとしているのではないか。そこで、『やさしい』という言葉に置き換えて表現しているのだと思われる。
 だから、文字通りのやさしさとか、こわさとか、そうした意味合いでは使っていないことも多々ある。

 と、まあ、そんな記事だ。くわしくはどうぞ、リンク先をお開きください。


◎本記事の最後は、『先生 ありがとう会』の後日談である。

 ちょっと記事の趣旨からそらしてしまうが、ごめんなさい。後で戻ります。

 
 国語の2年生の最後の方に、『文集を作ろう』なる単元がある。教材名は、『楽しかったよ2年生』。

 例によって、またまた今の国語教育批判を展開してしまうが・・・、

 楽しかった2年生の思い出を書くなら、まずは子どもの想いを大切にすべきではないか。それなのに、教科書はそうした面を大切にしていない。それよりも、取材の仕方・作文の書き方、形式などを優先させる。今はやりの、いわゆる言語活動重視だね。『初めに子どもありき』でなく。『言語活動(事項)ありき』になってしまっている。これでは、子どもの書く意欲はなえてしまうのではないか。

 まあ、このことは本記事のテーマではないからこのくらいにしておくが、心配である。

 ところでそれはそれとして、学級文集づくりはしっかりやらせてもらった。お手製ではあるが、いいものができたと自負している。
 それに、『先生 ありがとう会』のことを書いた子が3人いた。今そのなかから、Uさんの作文を全文掲載させていただこう。


  楽しかったありがとう会    U

 3月〇日に、先生ありがとう会をしました。かざりを作りました。プログラムやプレゼントをみんなで作ってあつめました。
 プログラムにはシールをたくさんはったので、すごくキラキラになりました。
 ぼくが考えたゲームをやることになりました。ぼくのいけんがさいようされて、うれしかったです。
 先生が、この会で、うれしくなってくれたらいいと思いました。

 作文は以上だ。

 わたしは、この作文にジーンとくるものがあった。

 今度は生活科の話になってしまうが、同学習指導要領の解説12ページ冒頭に、『相互交渉力』なる言葉がある。今、この言葉にかかわる部分を引用させていただこう。

 『〜直接(身近な環境に)働きかけるということは,児童が一方的に身近な人々,社会及び自然に働きかけるだけではない。同時に,それらが児童に働き返してくるという,双方向性のある活動が行われることを意味する。生活科は,児童がそうした対象とのやりとりをする中で,感じ,考え,気付くなどして,それらと効果的に,また,自分のよさを生かして相互交渉する能力を身に付け,自立への基礎を養うことを目指している。』

 何が言いたいか、お察しいただけただろうか。Uさんの作文の最後の一行にかかわる。すなわち・・・、ああ。またまた、面映ゆさが残るなあ。PA0_0057

 先生に感謝し・・・、ありがとう会をいかに盛り上げるか・・・、それだけなら身近な人への一方的な働きかけだね。それはそれで大事な生活科の内容だが、それだけではないと同解説は言っている。すなわち、『双方向性のある活動』も大切にし、相互交渉力(ここでは、拙ブログの過去記事にリンクしています。バナーの下にあります。)を高めるということになるが・・・、

 自分が先生にはたらきかける。まずはそれだね。しかし、同時に、『その想いに先生はどう応えてくれるか。うれしくなってくれるか。』Uさんはそこにまで想いをはせている。

 このことを作文に書いたのはUさん一人だ。しかし、この会に至るまでの経過や会全体の流れなどをつぶさにふり返ると、『この、双方向性(相互交渉力)は、多くの子どもの心となっているな。』と感じた。たとえば、前記事の、
 「『toshi先生、ありがとうの会』でけんかがあったら、toshi先生は悲しくなってしまうと思う。」
なる発言も、まさにそれだね。
 
 そして、この心情は、個別支援級から交流に来るHさんへも向けられていた。


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 前記事のなかに、訂正すべきことが書かれていることに気づきました。申し訳ありません。

 それは、『子どもの秘密を大事にするということは、担任の意図的・計画的な営みがないことを意味するわけで〜』の部分です。

 直接的にはそうなるでしょうが、本記事のような考察を加えることによって、十分『担任の意図的・計画的な営みのなかにある。』と言えるようになったのではないでしょうか。この場合、『子どもの秘密』を大切にすることは、意図的・計画的な営みの放棄ではなく、まさに生活科の目指す内容に迫るものだったのです。

 上記生活科の解説では、最後に、『自立への基礎を養うことを目指す』とあります。

 わたしは思います。本シリーズのテーマである『子どもの自主性、主体性、自発性を養う教育』も、十分、自立への基礎を養っているのではないかと。

 いよいよ、ほんとうの末尾に一言。

 我がクラスに、わたしが支えてあげられなかった子が一人います。くわしくはとても書けません。保護者の方は、
「toshi先生にはほんとうに感謝しています。うちの子の、これも個性なのだと思います。」
とおっしゃってくださっていますが、わたしには、悔悟の思いが抜けません。

 上記歌を聴くたびに、わたしは、この子のことも思い出すでしょう。

 その子も含めて、また我がクラスだけではありません。子どもたちみんなの幸せを祈りたいと思います。  


rve83253 at 11:32│Comments(16)TrackBack(0)学級経営 | 特別活動指導

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この記事へのコメント

1. Posted by kawa   2013年04月12日 14:28
toshi先生

ご無沙汰しております、中国で日本語を教えているkawaです。

ここ数日、先生の『子どもの自主性〜』シリーズを読み、教師の仕事を改めて考えてみました。

このシリーズでお話されていることは、もしかしたら、「常に変化(進歩、でしょうか)する社会で生きていくための知恵」と、「その人が自分で答を見つける・決めるべき問題」は、分けて考えなければいけないということでもあるのでしょうか。

前者は、何らかの形で最終的に「教えなければいけない」ことで、後者は、教師が奪ってはいけない本人の課題だという気がします。

もし、教えなければいけないことを教えずに、本人の課題の答を親切のつもりで押し付けるという教育が行われたら、生徒は絶対にその先生を慕うこともないでしょうし、成長することもないように思われます。

両者をどうやって区別するのかということについては、これからじっくり考えていきます。

先生のブログのおかげで、海外にいながらも教師研修を受けられることをありがたく思いますので、これからも、ご無理のない範囲でブログを続けてくださるよう、お願いいたします。
2. Posted by toshi   2013年04月13日 08:10
kawaさん
 ほんとう。お久しぶりです。お元気な様子、何よりです。近年中国とはいろいろなことがあり、不安やら悩みやらおありなのではないかと、危惧しておりましたが、ちょっとホッとする思いです。ご奮闘を祈念します。
 ううん。ちょっと違うのですね。すみません。
 kawaさんは中国で青年、成年をご指導されているのでしょう。それに対し、わたしは日本で小学生を指導しているわけで、そこには国情やら、指導対象やら違いがあり、そこから指導観も教育観も違ってくるのではないかと思いました。
 kawaさんの場合は、基本的に、『教わりたい』『学びたい。』という欲求をもって集まった方々ではないですか。つまり、そうした意味では、はなから、自主的、主体的、自発的に学ぶ意欲のある集団です。それに対し、わたしの場合は、義務教育ですので、そうした欲求なしに、もっと言えば、学ぶ意欲もあるかどうか分からないような児童を相手にしているわけです。したがって、意欲を喚起するところから始めなければなりません。
 別な言い方をすれば、kawaさんのもとに来る方々は、日本語を学ぼうとする意欲があって集まってくるのですから、kawaさんの日本に関する話などに、はなから興味関心をもっているでしょう。それなら一方的であっても話してやっていいと思います。いや、話してやることが彼らの興味関心をさらに高めることでしょう。
3. Posted by toshi   2013年04月13日 08:10
 いくら義務教育であっても、子どものそうした瞬間はありますから、そうした雰囲気を肌で感じたら、同時に、これは子どもの気づきに待っていても無理だと感じたら、話すこともありますよ。そうしたときは、自ら学ぼうとする心を妨げない、むしろ好奇心を増すだろうと思えるからです。
 『教えなければいけない』とはどういう意味で使われているのでしょう。
 教えるということが、話して聞かせて分からせるという意味でしたら、もちろんそれはすぐ上に書いたようになるでしょうが、わたしだってやらないことはないのです。しかし通常、『話して聞かせること』は簡単であっても、興味関心のない子どもに『分からせる』ことは容易ではありません。近年の日本の公教育の課題の一つには、まさにそうしたことが上げられます。
 他方、記事に書きましたように、教えるということが、『教師の意図的・計画的な営み』を意味するのでしたら、教えないことが教えていることになることも多々あります。別な言い方をすると、『子どもが自主的、主体的、自発的に学ぶ』ことの大切さを教えているのです。そして、さらに言わせていただければ、それでこそ、『分からせること』が容易になるのです。自ら学ぼうとしているからですね。
 またまた面映ゆさが残りますが、2月に行われた我が地域の学力検査において、我がクラスは多くの成果を上げたことが分かりました
4. Posted by kawa   2013年04月13日 08:53
toshi先生

早速のご返事をありがとうございます。

まずは、2月の学力検査での成果にお祝いを申し上げます。

また、中国での仕事をご心配くださり、ありがとうございました。確かに、国際的な問題の影響はございますが、それも普段の仕事を丁寧にしていれば、影響は最小限に押さえることができます。
国籍は変えられませんが、人として通じ合える部分も同じように持っていることを信じつつ、仕事をしていきたいと思います。


学力テストについてですが、もちろん、このブログでも書かれていらっしゃるように、数値には換算できない成果の方が大きいのかもしれません。
しかし、同時に、数値以外の部分を丁寧に積み重ねれば、学力も上がってくるということの証明でもあるように思われます。
5. Posted by kawa   2013年04月13日 08:55
義務教育と大学日本語科の違いについてです。

確かに、先生がおっしゃっておられるように、小学生に学習の動機や意欲を始めから望むことは無理な面もあるかもしれません。

また、先生は「近年の日本の公教育…」とおっしゃっておりますが、それは、「学校に来て勉強することが楽しかった時代は過ぎつつある」という意味でしょうか。

もし、そうであるなら、社会の変化だけに原因を求めるのではなく、授業のあり方をこそ変えていかなければいけないのではないでしょうか。

と言いますのも、先生がおっしゃるように「教室で教師が話して聞かせること」は「何かを教える」ということとは同じではありませんし、「話すのは肉体的疲労」「聞くのは精神的疲労」ということも聞いたことがございます。

「教える」というのはあくまでも「結果的に」であり、最善の結果を出すために、あえて「教えない(ように見える態度をとる)」ことも含まれるように思います。
6. Posted by kawa   2013年04月13日 08:56
先生がおっしゃっておりますように、大学生と小学生とは違います。
ただ、これは私の説明が足りなかったのですが、現在の中国の大学日本語科で、日本語を学ぶ意欲を持っている学生は2割から3割に過ぎません。

これは大学入試の制度に原因が在り、他学科を志望した学生が入試の成績により日本語科に回されることが多く、平均して5割前後の学生が、日本語以外を志望していた学生です。

また、(第5志望以内という意味で)志望して日本語科に入ってきた学生も、卒業後に日本語が行かせるチャンスが少ないことを知り、学年が上がるにつれて学習意欲が減っていきます。

ある大学に勤務していたときは、「70人クラスの内、2〜3人が伸びれば良い、そのほかの学生はついてこれなくてもいいから」と指示されました。
7. Posted by kawa   2013年04月13日 08:56
このような現状の中で、教師の役割を考えたときに、「toshi先生のブログから、学生が自主的、主体的、自発的に学ぶようになる教え方を学ばなければいけない」と考えたのです。

先生がおっしゃるように、学生が自主的・主体的・自発的に学ぶようになれば、日本語を教えることはとても簡単な仕事になると思います。

何より、ある学生の日本語力が周囲を驚かせるほど向上しなかったとしても、「自主・主体・自発」を体で覚えることができたら、その学生は大きな財産を持って卒業することができると思いますし、それこそが、大学日本語科の現状の中で求められる仕事の1つだと考えております。




このような事情で、これからも先生のブログを通じて勉強をさせていただけたらと思いますので、今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。

最後に、長くなってしまい申し訳ないのですが、1つだけお聞きしても構いませんでしょうか。

先生は、「近年の日本の公教育に(一部の)興味関心のない生徒が…」とおっしゃいましたが、どうして興味関心がなくなっているのでしょうか。
私自身は、勉強させられるのは嫌いですが、勉強そのものはとても面白いと思うのです。

教師とあろう者がする質問ではないかもしれませんが、私の授業のヒントとさせていただけたらと思いますので、先生のご意見を聞かせていただけますでしょうか。

どうぞ宜しくお願いいたします。
8. Posted by toshi   2013年04月14日 11:04
 最後にお尋ねの件ですが、PISA調査で、『日本の子どもの学習意欲は世界最低』と言われて数年たちました。
 成熟社会においては、どうしても管理的色彩が強まるようです。その結果、一般的には、《勉強させられる》といった状況が強まっているのではないでしょうか。本記事とは裏腹に今の50代、60代の方の子ども時代はもっと遊んでいました。学校の授業の多くは決して問題解決的ではなくつめこみでしたが、そのつめこみの度合いは薄かったと思います。塾もさほどありませんでしたし、今とくらべれば比較的子どもの生活は自由だったのですね。
 そのあたり、わたしが懇意にさせていただいているコダマ先生のブログにいい記事があります。直接、意欲の低下にふれたものではなく学力低下論にかかわる論述ですが、ものすごく参考になると思います。
 かなり長いです。コダマ先生の力作と言っていいでしょう。お時間のある折にご覧いただければと思います。URLは、
http://blog.livedoor.jp/yoursong2005/archives/50349722.html
です。


9. Posted by toshi   2013年04月14日 11:04
kawaさん
 中国の実情をくわしく教えていただき、ありがとうございました。
・《人として通じ合える部分》を大切にすることは、まさに国際理解の基本ですね。日本人同様、一般の方の多くは通じ合えているのだと思います。
・《数値以外の部分を丁寧に積み重ねれば、学力も上がってくるということの証明でもあるように思われます。》については、もうほんとうにおっしゃる通りです。数値が良くてもそれだけでは大した意味はないのです。数値に表れない部分は日々の教育の営みのなかで実感しているものですから、それと数値とを勘案して学力を判断しているといったところでしょうか。
・中国の大学の実情もよく分りました。以前テレビで中国人の学習意欲の高さを一人っ子政策と関係づけて報道しているのを見たことはあるものですから、ちょっと意欲あふれる姿を想像していました。それはもうむかしのことなのかもしれませんね。
・kawaさんの《私自身は、勉強させられるのは嫌いですが、勉強そのものはとても面白い》というお気持ちが、まさに、自主的、主体的、自発的な学びの大切さをおっしゃっているように思いました。

10. Posted by kawa   2013年04月15日 13:42
toshi先生

お忙しいところ、コダマ先生の記事まで教えてくださり、本当にありがとうございました。

先ほど確認いたしましたが、きちんと読ませていただいてから、ご返事をいたします。

「数値が良くても、それだけでは大した意味はない」、本当にその通りだと思います。日本語教育にも数値で測れる(正確には「測れると決めている」だと思います)領域がありますが、その数値だけを追いかけても、お互いに疲労するだけで、良い結果が出ても一時的な結果で終わることが多いと感じております。

中国の大学生にも、先生がおっしゃったように必死に勉強している学生はいますし、日本の大学生との絶対数を比較すれば、「たくさんの学生が…」となるかもしれませんが、実際の教室内の現状は、前回申し上げた通りです。

日本語科に来た学生には、少しでも前向きになって卒業してほしいと思いますので、もう少し授業のことなどを勉強してみます。

日本にいた時に、「アメリカの車工場で、細かい分業制によるベルトコンベアーを廃止し、チームで1つの車を組み立てるようにしたら、かえって品質があがり、従業員も生き生きしてきた」という話を聞いたことがあります。

今はコスト削減などで、このような悠長なことは言っていられないと思うのですが、少なくとも教育が数値の実を追いかける流れ作業になったら、もう何の展望もなくなると思います。

先生の40年前の生徒さんがコメントしていらっしゃったように、卒業後に芽を出すような何かを残してあげられる教育を、学んでいきたいと思います。




11. Posted by toshi   2013年04月16日 17:33
kawaさん
 大学ですと、アメリカハーバード大サンデル教授の白熱教室が参考になるかもしれません。学生の議論を授業の中核においているのだと思います。
 日本にも数回いらして授業をされ、その模様はテレビ放送にもなりました。わたしの持論である問題解決学習とは問題設定の考え方などで違いがありますが、共通する部分もあるように思います。
12. Posted by kawa   2013年04月17日 05:15
toshi先生

サンデル教授の白熱教室のご案内をありがとうございました。実は、昨年から「白熱教室」のビデオをいくつか見る機会があり、東京大学に1000人近くの人を集めて、「次の世代に戦争責任はあるか」などのテーマでの授業、日本の各大学での「白熱教室」を拝見いたしました。
しかし、正直に感想を申し上げさせていただければ、「言葉遊び」「論理ゲーム」に終わっているという印象が拭えないのです。
例えば、大阪大学の「原発のリスクを考える」というテーマでグループ討議と討議結果の発表が行われていましたが、原発のリスクそのものの知識がほとんどない状態で、「最新のリスク計算理論を駆使して」も、本当に意味のある判断はできないのではないかと思いました。
サンデル教授の東大での授業も、最終的にはサンデル教授の価値観に沿った発言をする人を中心に授業が進められているように思います。また、参加者がアメリカ人であるサンデル教授自身の戦争責任についての考えを問うことはできず、教授自身も現代アメリカ人の戦争責任に言及しない状態で、公の場で戦後世代の日本人としての戦争責任を問われる設定での議論は、結局は自分自身を本当の意味では吟味することなく終わる「言葉遊び」ではないだろうか、という感想を持ちました。

とは言うものの、「正義だと思い込んでいる自分の価値観を問いなおす」「議論を授業の中心におく」という手法は、大学生相手の授業のひとつの形だと思いますので、その場にいる学生が本気で考えざるを得ないテーマ設定や議論が成立するための準備を整えた上で取り組みたいと思います。
13. Posted by toshi   2013年04月19日 06:20
kawaさん
そうでしたか。わたしなどより、よほどご覧になっていらしたのですね。そして、的確な分析をなさっている点、敬服しました。こちらが学ばせていただきました。ありがとうございました。
《「正義だと思い込んでいる自分の価値観を問いなおす。」「議論を授業の中心におく。」という手法は、大学生相手の授業のひとつの形だと思います。》
 はい。今の日本の大学に欠けている点だと思います。とは言いながら、同教授の影響か、日本でもこうした手法をとり入れての授業はふえつつあるとは聞いたことがあります。グローバル時代を迎え、今後ますます大事になってくるのではないでしょうか。欧米はこうした点、一人ひとりがしっかり自分の思いをもち主張もできるようです。
 しかしながら、kawaさんがおっしゃる問題点もよく理解できます。真の意味で、個の確立が目指されてはいないのですね。議論を操作する傾向があるということでしょう。具体的にご指摘いただき、ありがとうございました。

14. Posted by kawa   2013年04月20日 07:47
toshi先生

とんでもございません。本当は、toshi先生も100%肯定できないとお感じになっておられたからこそ、「私の問題設定とはちょっと違う部分もあるようだが…」とお書きになったのだと思います。
サンデル教授自身が終了後に「思ったより活発に議論ができてよかった」とおっしゃっておりましたが、発言の質や議論の深まり、学生たちの変容を問うのではなく、発言の量で授業の良し悪しを問うという時点で、少し無理のある授業ではなかったかと考えておりました。

私は中国で中国の学生を相手にしております。たとえどのような事情があっても、戦争責任については授業中はもとよりどのような場所であっても口にしてはいけないという不文律があります。

白熱教室も、同じではないでしょうか。

教室内の力関係や家庭の事情、テーマと本人の関係など、さまざまな要因で活発に発言できない生徒が存在している可能性への配慮を抜きにして、活発な議論だけが一人歩きすることに、何となく違和感を感じています。

15. Posted by kawa   2013年04月20日 07:47
使用言語やテーマ、人間関係、教師の働きかけ力など、さまざまな要因が整って初めて成立するのが白熱教室であり、授業や学級経営に行き詰まりを感じている先生が、下地を整えることもせずに、あの授業に飛びついたら、状況はもっと悪くなってしまうように思います。

ここから先は、toshi先生へのお世辞になってしまうので、申し上げるのを躊躇しておりましたが、上記のことよりもっと大切だと思いますので、申し上げます。

私は、例えば、toshi先生のクラスのさまざまな場面で起こっている生徒同士、生徒と先生のやりとりこそが白熱教室であり、その部分を丁寧に積み重ねること抜きに、マスコミで取り上げられている授業の手法に飛びついているかぎり、授業力や指導力、教える力(学ぶ力とほぼ同じかと思います)はつかないのではと思いました。

本記事とは直接の関係のないところで長々と書いてしまい、申し訳ありませんでした。
16. Posted by toshi   2013年04月22日 08:18
kawaさん
 いやあ。もう、ほんとうに、kawaさんの分析はすごい。参ったという感じです。
 その、『参った。』という感じを大切にして、次回の記事にまとめさせていただこうと思います。そういうわけで本コメントは、ここまでとさせていただきますね。
 ありがとうございます。

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