2013年04月30日

kawa氏からのコメントに感謝 〜『子どもの自主性、主体性、自発性を養う教育』シリーズのまとめにかえて〜

kodomo3   kawa氏からコメントをいただいたのは久しぶりである。  
 同氏は中国の大学で、日本語の指導をされている。近年とかく中国との軋轢が話題になるから気にはなっていたが、久しぶりにいただいたコメントからお元気な様子が伝わってきて、ホッとすると同時にうれしくなった。

 同氏からのコメントには、
 《確かに、国際的な問題の影響はございますが、それも普段の仕事を丁寧にしていれば、影響は最小限に押さえることができます。
 国籍は変えられませんが、人として通じ合える部分も同じように持っていることを信じつつ、仕事をしていきたいと思います。》
とあり・・・、

 そうだ。その通りだ。拝読し、『国情は違っても、市民レベルなら人として通じ合える部分は絶対ある。』わたしも、そう信じることができた。

 さらに、
《このような現状の中で、教師の役割を考えたときに、「toshi先生のブログから、学生が自主的、主体的、自発的に学ぶようになる教え方を学ばなければいけない」と考えたのです。
 先生がおっしゃるように、学生が自主的・主体的・自発的に学ぶようになれば、日本語を教えることはとても簡単な仕事になると思います。
 何より、ある学生の日本語力が周囲を驚かせるほど向上しなかったとしても、「自主・主体・自発」を体で覚えることができたら、その学生は大きな財産を持って卒業することができると思いますし、それこそが、大学日本語科の現状の中で求められる仕事の1つだと考えております。》

 すごい。

 わたしは言うまでもなく、このブログにおいて、日本の義務教育下の小学校における指導を述べている。それをkawa氏は、大学生相手に、しかも国情も大いに異なる異国において採用なさろうとしている。これを『すごい』と言わずして何と言おう。

 わたしはこれまで夢のように思っていたことがある。それは、『小学校における問題解決学習を、中学、高校にまで適用させたら、さぞかし、専門性の高い、質の濃い学習ができるであろう。』と・・・。また、日本の大学であれば、ゼミナールなど、まさにそうした場だろう。そう思うが、現状、それは実を結んでいるかと考えると・・・、おおいに?がつくね。

 そう。(中国の)学生が自主的、主体的、自発的に学ぶようになれば、日本語を教えることはとても簡単な仕事になる・・・はず。自ら知識・技能などを獲得してくれるのだからね。その場合の指導者の仕事は、教えることよりも、一人ひとりの学生の個性を把握し、学び合う集団としての凝集性の高まりなどをねらうことが中心となっていくであろう。

 
 そのことに関し、同氏からのコメントでジーンと心に染みた言葉がある。
 《私は、例えば、toshi先生のクラスのさまざまな場面で起こっている生徒同士、生徒と先生のやりとりこそが白熱教室であり、〜。》

 ほんとうにね。《白熱教室》などとおっしゃっていただき・・・、ただただ恐縮すると同時に・・・、以下のような複雑な想いがかけめぐった。

 まずは気恥ずかしさと意外な思いとがあった。また他方では、よくぞここまで書いてくださったという思いもあった。
 そう。矛盾するようだが、双方の思いをいだいたのである。


 わたし自身、自分の教室を、『白熱』などと思ったことはないのだ。だから、まずは驚きと気恥ずかしさを感じざるを得なかった。

 というのは、すでに過去記事にも書いたように、「ああ。こんな様子を保護者に見られたら、『なんだこれは。学級が崩壊しているのではないか。』とみられかねないな。」と思うことも少なからずあったからである。

 たとえば体育で勝ち負けを伴うゲームをしたときなどの、『ずるい。』『卑怯だ。』『そこまでしなくったっていいじゃん。』などという叫びは、ののしり合ったり泣き叫んだりする様相も呈し・・・、

 そのようなときわたしは、いじめなどの人権問題とか、身の危険を感じるとかいうようなことがない限りは、黙って成り行きを見守るだけである。原則的に口をさしはさむことはしないわけで・・・、

なぜそうするかというと、
『この子たちは、こうした『生き方』にかかわる問題解決を、自分たちの力でやり切るのではないか。』と期待するからである。その期待に応えたら、その解決の仕方を具体的に指摘し、全面的に称賛してやりたいと思うからである。
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 もう一つある。こうした問題解決には、ののしり合ったり泣き叫んだりしている子ども以外の、それを取り巻く学級集団の力が大きい。彼ら、彼女らが、そうした事態にどう臨むか。『我関せず。』といった態度か、心配そうに見守るといった態度か、はたまた、『やめなさいよ。』『言い合ってたって仕方ないでしょ。』『早くゲームを始めようよ。時間がなくなっちゃうよ。』などと言って、友達同士連帯しての解決を図ろうとするかなど・・・。指導者たるわたしには、そうしたことが最大の関心事としてある。

 
 このように、子どもがまさに『生きている』姿を、kawa氏は白熱教室とおっしゃってくださったのであろう。そして、
 《(toshi先生のクラスのさまざまな場面で起こっている生徒同士、生徒と先生のやりとり)の部分を丁寧に積み重ねること抜きに、マスコミで取り上げられている授業の手法に飛びついているかぎり、授業力や指導力、教える力(学ぶ力とほぼ同じかと思います)はつかないのではと思いました。》
とおっしゃった。

 そう。授業も同じなのだ。そんな簡単に成果を収める授業の手法などはない。

 ああ。自分の書いたことに訂正がいるね。ごめんなさい。

 先ほどは、『簡単』だと述べた。そう。知識・技能を習得させるという意味では簡単になるのだ。しかし、意欲的な学びに子どもをもっていくまでの過程は、そんなに簡単ではない。

 その一例だが、今年度のわたしは、3年生の社会科専科を仰せつかっている。そこでつい最近の事例から、子どもの学びを大切にする指導者の姿勢を述べてみよう。

 その1

 「おもしろい。Aさんはさっき、『森が少ない。』と言ったね。でも今、Bさんは『森が多い。』と言った。同じ写真を見ているのに、思ったことが正反対だ。そこで、どうしてそう思ったか、Aさん、Bさんはもちろんだが、他の子がどう思ったかも聞きたいな。」
 話し合いの結果、Aさん派はむかしとくらべたのに対し、Bさん派はよそとくらべていることが分かった。

 その2

 地域の地図と、それと同じ場所の航空写真を見ながら学習していたときである。
「今、Cさんはおもしろいことをやったよ。指を写真の上で動かしていたのだけれど、どうしてそうやったかが分かる気がした。・・・。というのはね。いきなり今さがしているDの場所を指さなかったよ。まず指したのはね。みんな全員がよく知っている、このE小学校だ。そのE小学校から、『どこだ。どこだ。』という感じで指を動かしていた。そして、Dを見つけたのだな。
 そうしたら今度はね。E小学校とDとを、指でこう(何往復もさせた)やっていたよ。」

 いきなり、『分かったあ。』と言って手を挙げたのはFさんだ。
「Dは、E小学校の南東にあるでしょう。だから、その方角を確かめたのではないの。」
 そして、Gさん。
「方角もだけれど、どのくらい離れているかも知ろうとした。」
 Cさんに確かめたが、もちろん、どちらも正解なのであった。

 ねっ。授業で大切にすべきは、ただただ子どもの思い、考えを支える姿勢だ。
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 そして、kawa氏は、もっと奥の深いところを指摘された。以下のようだ。
 
《教室内の(子ども同士の)力関係や(一人ひとりの)家庭の事情、テーマと本人の関係など、さまざまな要因で活発に発言できない生徒が存在している可能性への配慮を抜きにして、活発な議論だけが一人歩きすることに、何となく違和感を感じています。》

 そう。その通り。ただ活発な議論が展開されればいいというものではない。そのような考えだと、一部の子どもだけの活発さとなる。
 日ごろからkawa氏がおっしゃるような配慮を大切にするから、『気づいたら全員が発言していた。』となるのである。


 教室内の力関係・・・、これでは思い出すことがある。過去記事に書かせていただいたが、わたしの実践ではない。今、その記事にリンクさせていただこう。
差別に気づき、差別と向き合い、差別を許さない授業の実践(1)
 授業者のHさん(リンク先ではBさん)は、『学級内でボス的にふるまう子の変容と学級の子が部落差別の問題に取り組む姿勢は一体である。』という受け止めをしていたっけ。

 なお、この過去記事は3回にわたるシリーズでものすごく長いので、お時間のある折ご覧いただけたら幸いである。
    

 ところで、kawa氏が上げられた『教室内の力関係』『家庭の事情』『テーマと本人との関係』などは、意欲的な学びを保障するうえで、どれも無視できないものばかりだ。特に小学生段階では切っても切り離せないだろう。それらと広義の学力の形成とは深い因果関係をもつ。
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 最後に、kawaさんへお礼の気持ちをお伝えします。

 我がブログの『自主性、主体性、自発性を養う教育』シリーズへ貴重なコメントをお寄せいただきました。我がシリーズの分析、考察をいただくことにより、わたしが学ばせていただきました。ほんとうにありがとうございました。
 kawaさんの実践が大いなる成果をあげ、実を結ばれることを祈念しています。


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 ちょっと詩にまとめてみました。これをもって本シリーズの結びとさせていただきます。ご覧いただけたら幸いです。


 ある先輩の言葉


 指導者たるもの

「子どもに敬意を払ってほしい。」
「子どもを尊敬してほしい。」

子ども一人ひとりを 一個の人格をもつ存在として 認めようではないか

子ども一人ひとりの人格を大事にし 尊重しようではないか  

子どもを手玉にとってはいけない

子どもをあしらってはいけない

真摯に 真剣に

子どもの心に 寄り添っていく

子どもの学びを 保障する

子どもは未熟 それは間違いない

しかし それと一個の人格をもつ存在として認めることとは 何も矛盾しない

子どもの伸びようとする心に 敬意を払うのだ

多くの大人が忘れてしまった 伸びようとする心に 尊敬の念を抱くのだ

人として


rve83253 at 05:03│Comments(2)TrackBack(0)教育観 | 指導観

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この記事へのコメント

1. Posted by kawa   2013年05月05日 09:27
toshi先生

私のコメントを取り上げてくださり、ありがとうございました。

そして、こちらこそ、本当に多くのことを学ばせてくださったことに、お礼を申し上げます。ほんとうにありがとうございました。

今回のコメントも含めて、私が先生のブログ記事に書かせていただいているものは、全てtoshi先生をはじめ、日本で日々、生徒にきちんと向き合おうとしている先生方から教えていただいたことです。

「教師である私が教えなければ、自分では学べない存在」として生徒に向き合うのか、「未熟ではあるけれど、自ら成長しようとする気持ちを持っている存在」として生徒に向き合っているのかが問題だということも、先生のブログから学ばせていただきました。

それは、「教師である私が罰を与える権利がある」と思い込んでしまう(そして、その罰は多くの場合、エスカレートしていくように思います)教育とは、ほとんど無縁の教育観なのだということも、貴ブログから教えていただきました。

これからも、本当の意味で学生が伸びる授業ができるように勉強させていただきたいと思いますので、どうぞ宜しくお願いいたします。

2. Posted by toshi   2013年05月06日 08:43
kawaさん
 すばらしいやり取りができたこと。『ブログをやらせていただいてよかった。』と、またまた思わせていただきました。感謝しています。
 体罰については特にふれていませんでしたが、おっしゃることにまったく同感です。体罰に限らず、《教師である私が教えなければ、自分では学べない存在》ととらえていると、根に子ども不信感がありますので、何でもエスカレートする危険性があるのですね。逆に、自ら伸びようとする存在ととらえると、いい方向にエスカレートしていきます。
《本当の意味で学生が伸びる授業ができるように勉強させていただきたいと思いますので、どうぞ宜しくお願いいたします。》
 こちらこそ、ほんとうにありがとうございました。

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