2013年08月19日

通級指導(特別支援)教室の一員として、

 kodomo01 従前の特殊教育に替わり、本格的に特別支援教育がスタートしたのは平成19年のことだった。これはただ単に障害児教育の枠内にとどまる改革ではなかった。
 障害のある者もない者も個々の違いを認識しつつ、さまざまな人々がいきいきと活躍できる共生社会の実現を目指す(文科省平成19年《特別支援教育の推進について》通知による)改革である。

 その全体像については、Wikipediaにリンクさせていただいたので、そちらをご覧いただきたい。

 さて、本記事でとり上げるのは、その改革の一つだが・・・、

 新たに発足した特別支援教育では、従前からふつう学級に在籍し、特別支援の対象外とされてきたLD(学習障害)・ADHD(注意欠如・多動性障害)・高機能自閉症等の児童生徒も本教育の対象としたことがあげられる。
 こうした児童生徒がふつう級に6.3%在籍していると国が発表したことは、多くの読者の方もご記憶だろう。500人規模の学校なら30人、30人学級においては2名弱となる。この数字は、わたしの経験からしても、妥当なところと思えるものだった。
 こうした子どもたちにも、一人ひとりの特別な教育的ニーズに応じ、通級指導(特別支援)教室での指導を行うことになったのである。

 そしてなんとこのわたしも、数年前、初任者指導に並行し週一日、この通級指導教室の担当を仰せつかった。一人の児童につき1時間の指導(以下、取り出し指導と称する。)を1対1で行う。
 A小学校での対象児童は3名だった。 

 この、対象児童の選定はむずかしいし悩ましい。しかし、それは次回以降にふれさせていただいて、本記事では、この3名(いずれも高学年)のうち2名について、その指導がどのようなものであったかをふり返ってみたい。
 なお、この特別支援教室なるものは、今、全国各地の学校で実施されているはずである。

〇まずはBさんである。前任者と交代し、5年生の秋ごろから担当となった。担任のCさんの話だと、

 『Bさんは算数を苦手としている。図形はまだいいが、計算が大の苦手だ。それまで何とか公式などを暗記して解いてきたが、その意味などは分かっていないことが多い。だから新しい知識を覚えると、覚えていたはずの解き方がおかしくなってしまうこともある。』

 いつだったか、懇意にしていただいているコダマ先生がブログに、《分かっていないのに解けてしまう恐ろしさ》を書かれていたが、まさにそれを思い出させる子だった。

 取り出し指導では、Cさんの話の通りと思えることが多かった。さらに教職40年余のわたしからみても、その傾向が極端であるように感じた。

 
 取り出し指導の進め方についても、Cさんから希望を聞いた。
・基本的には、教室で一斉指導をしているのと同じ内容で指導する。
・特に身につかなかったと思える内容があれば、教室の指導内容とはなれ、その部分を繰り返し指導することもあっていい。
・いずれにしても、担任とtoshiと活発に情報を交換しましょう。

 そして、いよいよ始まったのだが、学習態度はまじめ、性格も素直で、こんな一見何の問題もなさそうな子が何で特別支援の対象になるのか、ふしぎに思えるほどだった。
 初めは緊張からか会話がスムースにいかないことも多かった。いつもわたしの方から声をかけそれにBさんが応えるというかたち。しかし慣れてくると徐々に反応もでるようになり、明るさも増して指導に手ごたえを感じるようになった。
kodomo01
 ときどきは初任者指導の合間をぬってC級へもうかがい、教室でのBさんの様子をみるようにした。

 すると、取り出し指導とはまるで違う学びの姿であることが分かった。驚くくらい違うのだ。授業中の態度に問題はないものの、終始ボオッとした感じである。友達の発言や先生の話を聴いているようには思えない。これは何なのだろうと思った。
 一斉指導だと集中できないのかな。聞いていれば分かる話だっていっぱいあるはずなのに、これでは身につかないのも無理はない。
 そんなわけでBさんの場合は、取り出し指導の必要性を強く感じた。

 ある日出勤するとすぐ、担任のCさんから話しかけられた。
「toshi先生。急な話で申し訳ありませんが、今日の算数は1mのものさしをたくさん使って、1㎥を作る学習なのです。みんな身体を動かしますし、グループによる活動なので、Bさんも教室で楽しく学べるのではないかと思うのです。それで今日は、toshi先生に教室に来ていただくことはできますでしょうか。」

 もちろん快諾した。そうしたら、新発見があった。

 席を離れ、グループごとに1㎥を作る学習になったときだ。見ると、Bさんは常にDさんにくっつくように、Dさんの後を追うように行動している。会話もDさんとだけしているようだった。
 それでも、Dさん以外の子がものさしを立てかけるとそれを支えてやったり、垂直になるように気を配ったりする姿はみられた。
 Dさんに従っているようにはみえるものの、それ一辺倒ではなく級友とも関わろうとしているのは感じとれた。

 学習は進み、1㎥の立方体を作るのにものさしが何本いるのかの話し合いが始まったようだ。そのときはグループの子と一緒になって指さしながら数えている姿が見られた。
 また、立方体ができ上がるとしゃがみこんでその中に入り、ぐるっと体を一周させたり上を仰ぎ見たりした。1㎥の大きさを体感しているようだった。

 そうか。こういう全身を動かしての活動なら、興味関心を示すのだな。学習に参加している姿を見るだけでもうれしさを感じた。
 

 それではここで、上記学習から数カ月後、ある日の取り出し指導の様子を、記録から振り返ってみよう。
 なお、この記録は校長、担任に提出するほか、後日保護者にも読んでもらっている。また、本記録は6年生になってからのもので、担任もDさんに替わっている。 


 Dさんと話し合い、点対称の作図がよく理解できていないということでしたので、それをやることにしました。Dさん作成のプリントもいただきましたが、教科書の方眼付きの問題の方が理解を得やすいだろうと考え、まずはそちらをやることにしました。

 Bさんは初め、一つの頂点と対称の中心にものさしを置き、その長さを測ろうとしました。その測り方に問題はなかったのですが、せっかく方眼付きの問題を解こうとしているのですから、方眼の利用を指導しようと思いました。
「うん。そのやり方でもできるとは思うけれど、それだと、方眼のある意味がないね。せっかくだからこれを使ってみよう。楽に解けるときは楽に解いた方がいいからね。」
そう言うと、《ああ。》という表情をしました。共感し合えたような反応だったので、わたしもうれしくなりました。

 しかしやったのは、対称の中心を軽視し、一つの辺をただカンで平行移動させるといったものでした。そこで、
「マス目を数えよう。たとえばこの頂点から対称の中心まで右に4つだから左に4つ、そして上に6つだから下に6つというように、対称の中心から数えていけば、対応する頂点が見つけられる。」
鉛筆で指し示しながら説明していきました。そして、確かめでは教科書を180度回転させることもしました。

 そうしましたら、作図の際、すばらしいことをしました。
 2つ目以降の頂点はその前に見つけている頂点から数え出したのです。そして正解しましたので、
「すばらしい。そうだ。それでいいよね。いちいち対称の中心から数えなくても、そのようにすでに見つけた頂点から数えればいい。その方が数えるマス目が少なくてすむので、楽だね。
 それでね。そのことも感心したのだけれど、わたしはこの解き方をBさんに言っていないよね。だから、この解き方はBさんが自分で発見したのだね。
 すごいなあ。見事だ。一つのことで2つ感動しちゃった。」
そう言って一人で拍手しました。Bさん、とてもうれしそうでした。

 次に、(担任の)Dさん作成の問題をしました。方眼のない問題です。むずかしい問題が先にあり、やさしい問題が後の方にありました。Bさんは『やさしい問題はどれかな。』といった感じでさがし始めましたので、そうした学びの姿勢については、うんとほめました。

 しかし、いきなりコンパスを手に長さを測ろうとしましたのでそれはやめさせ、Dさんのプリントにある手順の確認をしました。

,發里気靴鮖箸ぁ頂点と対称の中心とを結ぶ線を延長しました。これはわたしが黙っていてもできました。そして、線を長めに引きましたので、
「ああ。これだけ長く引けばコンパスで書く弧の線と必ず交わるだろうから、いいね。」
と言いました。

▲灰鵐僖垢鮗蠅砲掘↓,念いた線に交わるように弧線を書きました。,任曚瓩薪世砲弔い討蓮一か所だけ直線が短すぎ弧に届きそうもないところがありました。
 そうしましたら、直線を伸ばすべきところなのに、なんと、コンパスを縮めようとしましたので、わたしは大きな声で、『バツ!』と叫んでしまいました。
 するとすぐ、Bさんは、すごく恥ずかしそうに、『あっ。いけない!』と大きな声をあげました。
「そうか。分かったようだな。でも、バツって言っただけで分かったようだから、よかった。」
そして、直線を弧のところまで伸ばしました。ホッとするとともに二人で大笑いしました。

8未板樟の交点同士を結んでいきました。しかし、図形の辺にあたる直線も、頂点と対称の中心を結んだ直線も、弧の一部も、みな同じ濃さで書かれているので、どことどこを結べばいいのかやっているうちに定かでなくなりました。
 そこで、もう辺を引き終えたところは、問題の方の対応する辺に〇印をつけると、どの辺がまだ引けていないのか分かりやすくなると話しました。
 このことは後の2問でもやっていましたので、ほめました。
IMAG0637
 別な問題では、悩んでいるフシがうかがえました。問題として与えられた図形について、『なんか変だな。半分しか書いてない。』そんな思いだったのではないでしょうか。Bさんの感覚では、『未完成だから問題になっていない。』と思えたのだと思います(左の写真のぁ法それで、
「図形の半分と思ったのなら、そのまま図形の半分を書けばいい。」
そう言うと納得したようでした。しかし、作図し出すと、また新たな問題が・・・。

 今度は、解答の図形がきちんと問題の図形につながらないのを不安に思ったようです。しばらく悩んだあげく、フリーハンドで強引につなげてしまいました。
「それはダメだよ。対称の中心から左右の直線の端までの長さが同じでないから、つながらないのは当たり前なのだ。」
そう言うと安心の表情を浮かべ、直しました。 

 最後の問題はわたしが間違えました。最初、Bさんは2つの頂点を結ぼうとし、わたしは、
「そう。いいね。」
と言ってしまったのでした。そうしたらBさんは自ら間違いに気づいたのです。隣りの点を指し示しました。自分の間違いに気づいたわたしはおかしくなるとともに、Bさんを絶賛。わたしは謝りました。

 なんか、今日くらい心が通じ合ったような感じがしたことはありませんでした。Bさんもよく理解したようでした。うれしかったです。最後に、
「今日はとても楽しそうに学習していた。よかったよ。」
と話しました。Bさんもそれを実感できたようで、ほほを紅潮させました。握手の求めにも素直に応じ、
「ありがとうございました。」
とていねいにおじぎをしてD級に戻りました。
 


さて、長々と記録をつづってきたが、この、Bさんの、特別な教育的ニーズとは何だったのだろう。

 それはやはり、学級という大人数の中では埋没しかねないというのが一番大きかったのではないか。算数においては学習に集中できない。別な言い方をすれば、自分らしさを発揮することができない。

 これを学習障害と言っていいのかは分からない。いや。そのようなことはどうでもいいではないか。とにかく1対1の指導では力を発揮することができるようになった。

 ただし、記録からもうかがえるように、まだまだ発展途上だね。

 すばらしかったのは、
・2つ目以降の頂点はその前に見つけた頂点から数え出す。
・やさしい問題をさがす。
・解き方を発見したり、自ら間違いに気づいたりすることができた。
ということだった。

 しかし、
・いきなりコンパスを手に長さを測ろうとするのでそれはやめさせ、Dさんのプリントにある手順の確認をする。
・直線を伸ばすのでなくコンパスを縮めようとする。
・問題に対する固定観念が強く、これは問題になっていないのではないかと思ってしまったり、問題と解答がつながらないのでものすごく不安な気持ちになってしまったりする。
など、

 いい面、まだまだの面が混在していた。

 でも、大丈夫だ。無表情どころか、『二人で大笑いしました。』とか、『恥ずかしそうに、』とあるように、豊かな表情になってきた。これなら、算数苦手という意識も薄まっていくことだろう。
PAP_0131
 ここで話を脱線させる。

 国語で豊かな言語活動とか言っている。もちろん学校の全教育活動を通してねらうのだとも言っているが、国語でのそれはまったく形式化してしまっている。こんな活動をいくらやっても、豊かな言語活動にはつながらないと思ってしまうのだが、これはまたどうだ。やはり豊かな情動を伴っての言語活動でないと、うわっつらだけの習得となってしまうだろう。

 もう一つある。

 やはり具体物があると、よく理解できるようだ。それも1対1なので、Bさんの理解の補助に徹することができる。たとえば、特別支援教室には縦8個、横3個の整理棚が整然と置かれているが、一つの棒を対称の軸に見立て、線対称の指導を行うこともした。これは、2人とも体を動かしながらの指導だった。

  
 担任のDさんが驚き、感激したことがある。

 あるとき、出勤すると、Dさんはわたしを待ちかねたように報告してくれた。
「toshi先生。すごいんですよ。Bさんがね。算数のテストで90点をとりました。こんなこと初めてです。いやあ、Bさんもとてもうれしそうでした。いろいろありがとうございます。」

 教育的なニーズ。もうあらためて説明するまでもあるまい。

〇しかしね。もう一人のEさんの場合は、どうだったか。1対1の指導は、負担になるようだった。

 最初のころこそよかったものの、数回繰り返すと、明らかに表情はブスッとし不機嫌な感じになっているのが見てとれた。やがて、変な声を発するようになった。息がつまるというか、おなかが痛いのを我慢しているというか、そんな感じになってきた。

 いやあ。これは一授業時間のあいだ、ずっと学習し続けるのはやめよう。息抜きの時間もつくらないといけない。そう思った。

 もちろん、担任のFさんにも逐一報告している。
「そうですね。Eさんの場合、ずっと緊張状態でいるのは無理なのかもしれないですね。ほんとうはtoshi先生に教室にいらしていただいて、机間巡視の合間、合間に、そっとEさんの指導もしていただくというのがいいのかもしれません。
 しかし、保護者の強い要望でしてね。保護者はEさんにしょっちゅう、『しっかりtoshi先生の話を聞きなさい。』と言っているようなのです。」

 それからも同じ取り出し指導を繰り返す。一進一退だ。いいときもある。ほめられればうれしそうだし、張り切っているように見えるときもある。しかし、《一退》だってあるわけなので、あるときわたしからFさんに言った。
「やはり無理なように思います。力が付いているようにはみえません。一度、先生と保護者とで、現状を中心に話し合いの時間を設けていただけませんか。必要ならわたしも加わっていいですよ。」

 保護者はとても残念がりながらも、取り出し指導をあきらめたようだった。それで6年になるとともに、やめることにした。

 以上2例。

 学習障害。一口にそう言っても、十人十色の様相がみえる。だからこそ、《一人ひとりの特別な教育的ニーズ》と言われるのだろう。

 Fさんの場合の教育的ニーズは何だったのか。それについてのわたしの思いは次回にゆずらせていただこう。

 にほんブログ村 教育ブログへ

 ninki


〇『一人一人の教育的ニーズ』。いいブログを見つけました。ご覧いただけたら幸いです。《公益社団法人 日本発達障害連盟》のブログ

 本記事とはまた違った趣旨で書かれています。同ブログによるとこの概念は、教師等支援者の教育観、障害観などに左右されるとあります。

 そう。そういった側面も確かにありますよね。そして、『教育的ニーズとはこれ。』といった、一定の概念はまだ形成されていないとのことでした。


〇特別支援教育は、取り出し指導だけを言っているのではありません。
特別支援学校在籍の児童とその児童の居住地域の小学校との交流、
特別支援学級(従前の特殊学級)の児童とふつう学級の児童との交流
ふつう学級に6.3%在籍するといわれるLD(学習障害)・ADHD(注意欠如・多動性障害)・高機能自閉症等の児童に対し、学級担任がどう教育的ニーズに応じた指導をしていくか・・・、

 みんな大事なことだと思います。そして、それらは我がブログの過去記事がありますので、今、代表的な記事ににリンクさせていただきました。また、カテゴリー欄の《個別(特別)支援教育》《交流教育》も参考にしていただけたらと思います。

 お時間のある折、ご覧いただけたら幸いです。

〇すみません。もう一つ、ふれさせてください。

 わたしの出版本から始まった《はじめての学級担任》シリーズですが、その3が出版されました。そして、これがまさに本記事にかかわる著作です。ご覧いただければ幸いです。
 
 『通常学級で使える「特別支援教育」』中尾繁樹氏 


 
 

rve83253 at 12:20│Comments(0)TrackBack(0)個別(特別)支援教育 | 子ども

トラックバックURL

コメントする

名前
URL
 
  絵文字