2013年09月29日

全国学力調査は、子どもたちのためにやめた方がいいのではないか。

kosumosu to syabon  いやあ。驚いたのなんの。今回の静岡県知事が引き起こした、全国学力調査をめぐっての一連の騒動だ。

 静岡新聞が社説で、「全国学力テスト、最下位とはショックだ」と書いたらしい。しかし、わたしに言わせれば、「静岡県知事が学力調査で下位の学校の校長名を公表....」と報じられたニュースの方が、よほどショックだった。

 だって、最上位があれば最下位があるのは、当たり前のこと。しかしそれで校長名公表となるのは、あまりにも異常だ。ふつうみられる姿ではない。ショックの度合いもまるっきり違う。

 このニュースをわたしが知ったのは、このブログの三つ前の記事に寄せられた、ももぱぱさんのコメント(1番)だった。今、その部分を再掲させていただこう。

 〜。ところで不躾ではありますが
元校長先生として意見を伺いたい事があります。
本日、報道で「静●県知事が学力調査で下位の学校の校長を公表....」ご存知でしょうか?

こんな事を言う輩、出てくると思っておりました。それでも学力調査をやる意味あるんでしょうか?
こんなとんでもない勘違い「恐喝経営者」は先の高校生にも劣ります。

私には単なる「地方自治体財源を大枚かけているんだから、結果を出せないなら罰だ」
と、大阪の誰かの二番煎じとしか思えません!


 まったく同感だ。それにしても、さびしいニュースだった。《元校長先生として、〜》とのお尋ねだが、さびしいとしか言いようがない。

 校長として、日々学校経営に努力するのはもちろんだが、一番成果が上がったとするなら、それは何だろう。喜びと言ってもいいかもしれない。

 それはやはり、《子どもたちが日々充実した思いで登校し、満足感をいだいて下校する。》その姿に表れるのではないか。そのなかには、分からないことが分かるようになったりできなかったことができるようになったりする、達成感も当然含まれる。

 そして、それは、地域・保護者の方なら、日々感じ取ってくださっているだろう。

 それこそが大切で、学力調査など、そのわずかな一断面にすぎない。

 それにしても、日本の学校教育を取り巻く環境は変わってしまった。

 わたしが現職のときとは、大きく変わってしまった。

 それも、今回の事件は、皮肉なことに拙ブログにおいて、心なごむ、温かな話題をとり上げているさなかの出来事だった。

・東京オリンピックプレゼンでの、日本の伝統文化である《おもてなし》の精神。それは、
 他を心からいつくしみ、互いに想いやり、心配りをする。〜。安全な街、親切な街。
 滝川さんによって、そのように語られた。

・また、高校生による、実証的に問題追求し、解決をはかろうとする、それこそ、テストなどでは測れない、生涯にわたって生き抜く力を養っている日本の教育、

 そういう日本の伝統、日本の教育のまだまだ捨てられていない良さ、そういったものを根絶やしにする言動。わたしにはそのようにうつった。
 これはまた、古くからの日本の良さに対しやいばを向ける、人間のみにくい部分をまさに行政府の首長が示してしまう行為だった。上に立つものがこれではね。

 憎しみの心には憎しみの心しか返ってこない。肝に銘ずべきだろう。

 今、地域にもよるが、学校現場は大変だ。目先のことに追われっぱなし。短兵急に成果を求められる。そこには、『人間性豊かな』とか、『個性を大切に』とか、『自主的・主体的な学びを』とかいった、悠久な精神は忘れ去られてしまったかのようだ。

 悠久な精神は、『得体が知れないもの。』『どうにでも言いのがれできるもの。』として排斥される。そして、『テストの点数』『子どもが読んだ本の冊数。』『家庭学習の定着の度合い。』などといった目先の数値目標によって、教員の指導力が決められてしまうようになった。

 いきおい、教員も余裕はなくなり、子どもを追い込み、苦しめていく。そんな地域も多い。

 ああ。今回の騒動は、それに拍車をかけるものではないか。

 テストの点数。それがそんなに大切か。教育にはそれしかないのか。テストの点数の上位校が、すばらしい教育をしているというのか。

〇今回、騒動を引き起こした知事は、《県民の皆様、特に先生方に》なる文書を公表した。わたしにとっては他県のこととはいえ、一地域にとどまる話題でもないので、熟読させていただいた。

 どうにもならないくらいの矛盾を感じ、またまたさびしさを感じてしまった。

・知事は今回の騒動に関して、同文書で、
《当初、成績下位校の校長のみを公表するといったのは、それらの学校の先生方に集中的に県の助力を傾注するためです。弱いところを支え、強くすることが、私の仕事です。》と述べている。

 しかし、弱いところを支え、強くするのが仕事なら、どうして下位校の校長名公表となるのか。いくら考えたって理解不能である。そこにはぬぐいようのない矛盾があろう。
 公表などしなくても、いくらも集中的に県の助力を傾注することはできる。いや。しないでそっと支えた方が、地域・保護者も喜び、児童の意欲的な学びにつながるというものだろう。

 むしろ以下のように見た方がすっきりする。
 
 同文書では、《これまでの経緯》と題し、県教委の閉鎖的体質をるる述べている。そこからは、積年の憤まんやるかたない思いをうかがい知ることができる。自分の思い通りにならない教育委員会に対して、常日頃、はらわたの煮えくり返る思いでいたことが推察できる。つまりそのうっ憤晴らしではなかったかということだ。

 ねっ。憎しみには憎しみで、それを地でいった感が強い。誰が見たってこの公表騒動は、懲罰以外の何物でもない。上に立つものがこれでは、教育は荒廃せざるを得ない。

・また、県教委を《専制者の姿勢》とし、《知事は民の代表》とも述べる。
 ここには、逆立ちの論理が見られる。この、下位校校長名公表のニュースに接したとき、いったいどちらが専制者とうつるか。それはもう語るまでもないであろう。

 戦後一貫して続いてきた教育委員会制度、それは教育の政治的中立を守るためであった。時の権力者の影響が及ばないようにするためであった。教育委員会は、県の一部局ではないのである。
 そうしたことへの歴史的経過を忘れ、いったん選挙で勝利すれば、教育をも思い通りに牛耳ろうとする。

 いったいどちらが専制者なのだろう。

 今、教育委員会が閉鎖的体質というのは、多くの地域で語られる。いじめ問題などでは、その矛盾が露呈されたといえよう。しかし、知事ならば、枝葉末節のテストの点数などで怒るのではなく、日ごろから教委の体質をとり上げ、改善点を明確にして県民に語りかけるなど、地道な説得に努めるべきではないのか。それこそが理性ある対応といえよう。

・また、この文書は、テストの点数のみが学力であり、教育の成果であると言っているに等しい。
 
 知事には、学習指導要領から、しっかり勉強してほしいものだ。何が学力かということだ。そこには、前述の《生きる力》につながる言葉が数多く示されている。《人間としての調和》《主体的に学習に取り組む態度》など、テストではうかがい知れない学力も強調されている。

 これらにふれることなくして、単に学力調査の点数のみで、教育の成否を語る。

 こうした決めつけが、どれだけ教育現場を荒廃させるか。子どもを不幸にするか、知事にはそうした判断力はないようだ。

 あえて申し上げよう。テストの点数のみが学力ではない。
●学校は道徳教育も行っている。
●自ら主体的に生きる力を養うためには、特別活動もある。
●その他、人権教育だ、福祉教育だ、交流教育だ、・・・・・・。
 先の高校生の事例を上げるまでもなく、学校はいろいろな教育活動を行っているのだ。衷心より申し上げるが、そうした意味もこめて、総合的に学力というものをご判断願いたい。

・知事と教委とのいい関係の構築を目指してほしい。

 いきなり、憤まんをぶつけるのではなく、日ごろから懇話会など、理解し合える関係を築いたらどうか。意思の疎通を図る。

 教委は、教育のプロが多いだろう。それに対し、知事は、いわば教育の素人ではないか。素人には謙虚さが必要だ。また、プロには、閉鎖的体質などと言われないように、広く説明責任を負うといった態度がほしい。

 先に、おもてなしの心で、《他を心からいつくしみ、互いに想いやり、心配りをする。》と述べた。お互いに、自分の領分を守りながらも、他を思いやる心があれば、うまくいくはずなのだがね。

・再び、《県民の皆様、特に先生方に》なる文書に戻るが、

 《うまくいっているところは放っておいてもよいのです。》とのこと。

 これはいけない。冗談ではない。県として、ほおっておいていい教育現場などあるはずがない。うまくいっているところだってそれなりの教育的課題はあるはず。教育行政がこういう姿勢なら、さらに伸びるべき芽も枯れさせられてしまうだろう。

 この言葉にも、テストの点数至上主義を感じる。どの現場も、その現場なりの課題があるのであり、支援の手を差し伸べなければならない。知事であるなら〇☓思考ではなく、その地域・学校・児童に合った差し伸べ方を熟慮すべきだろう。

〇今後、静岡県に限らず、全国学力調査対策としての授業は全国的に横行するようになるだろう。
 そのほんの一例だが、今回同県では、無答が多かったとのこと。したがって、時間内にやりきる訓練をするようになるだろう。
 すでにそうした地域はあり、拙ブログにもそうしたなかで子どもの実情を訴えるコメントをいただいている。
・テストでパニックになった子ども
・テスト用紙を見ただけで、頭がくらくらする子ども
・できないことで泣き出す子ども
 大人の危機感が、子どもをそのような状況に追いやってしまう。

 一連の騒動で、学校はどうなってしまうのだろう。子どもは大丈夫か。 

〇わたしは、全国学力調査が始まって以来、この調査問題を前向きにとらえ、支持してきた。
 
 特にBの活用問題は、PISA調査の影響を受け、従来の日本の伝統的な問題にはなかったものだ。『学力観の黒船』と称したこともある。

 従来の日本は知識・理解を問う問題がほとんどだった。しかし、本調査はそれとはおもむきを異にし、子どもの生活場面をとり上げながら、資料活用力、思考・判断力などを問うたり文章記述問題をふやしたりするなど、良問が多い。世の中のグローバル化の方向を視野に入れているといえよう。
 したがって、さらに改善を図ってほしい点はあるものの、この問題を教員の授業力、指導力を高める方向で活用すれば、真の意味での学力が向上するに違いない。そう思って期待していた。

 しかし、為政者がこんなにも目先の点数にこだわり、学校に圧力を加え、落ち着いた授業改善、学級経営、学校経営の営みを妨害するなら、冒頭のももぱぱさんのコメントにあるように、わたしもこの調査に反対したい。子どもたちのために。

 それにしても、各学校におかれては、こうした点数アップにこだわる声に負けることなく、子どもたちの健やかな成長、全人格的発達を目指して、がんばってほしいものだ。

 
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 本記事と同様の趣旨の記事は、すでに4年前に書いています。このときは、大阪が舞台でした。本記事より具体的、事例的ですので、お時間のある方はご覧いただければ幸いです。
 
この国の子どもたちの幸せのために、
 

rve83253 at 06:32│Comments(12)TrackBack(0)全国学力調査 | 教育制度・政策

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この記事へのコメント

1. Posted by ちゃりこ父   2013年09月29日 08:58
学力なんて、くだらない指標だよ。いろんなスタンダードを狂わせてきたのは、経済第一主義と学校制度だよ。
劣化した制度は廃止させよう。
隠蔽、捏造だらけの 卑劣な教育関係者のためでしかない教育委員会制度、学校制度廃止へ。
「学校なんていらない」
http://plaza.rakuten.co.jp/nennenosshan/
2. Posted by noga   2013年09月30日 02:02


学校長は、学校教育に責任のない人なのか。ただ、他の教員よりも金を多く貰っているだけなのか。
その責任者であるならば、問題があれば、名前を明らかにされても仕方がない。
問題の解決には、何よりも責任者の自覚が必要である。

意思のあるところに責任はある。
意思のないところには、責任がない。
責任者は、責任を持って問題の解決を図ることを期待されている。
無意思の責任者には、問題を解決する力はない。

死刑執行人は、殺人罪に問われない。
彼らは、殺意がないからである。彼らは ‘頼まれ仕事’ をしているのである。学校長の仕事もそのような ‘頼まれ仕事’ なのであろうか。


http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/


3. Posted by 協働学欲   2013年09月30日 16:19
わかりかたと測り方は裏表です。そこで切り取られる学力は部分的であり、通過点に過ぎません。

先週土曜も静岡で先生方と授業分析会を行ったのですが、点数にならない育ちが授業記録から沢山読み取れました。

例えば、これまで自分の勝ち負けだけに拘った発言ばかりした子どもが、始めて相手の立場に立った発言をしたり、仲間の見つけた算数のきまりを自分の言葉で言いかけ始めたり・・・点数でつけにくい育ちが沢山評価できました。そして、そこから「大造じいさんとがんで、この子にもう一度卑怯さや自分が勝てば良いという価値観からの成長を再度確かめたい」という様に、できる子どもを診立てた指導が構想されていきました。

思わず、講話で「教育評価の課題と授業」について力説してしまいました。

今月も来月も再来月も静岡県内の小中へ校内研修会で伺います。流動的な授業の中から、点数化しにくいが大事な子どもの育ちを見とり合い、次の授業づくりに生かして行く手伝いをしたいと思っています。めげるな静岡の先生方!、誇りを持て静岡の子ども達!。「点数あって、子どもなし」にならない様に。

※ぼくは多分点数がとれなかったから、校長先生の名前が出たら僕の責任だ。校長先生ごめんなさい・・・と言っている子どもがいました。子どもや教師を支援、応援する文教政策が進むといいですね。
4. Posted by はるさやの母   2013年09月30日 18:58
3 学力調査と校長先生の評価は別ですよね。
5. Posted by toshi   2013年10月01日 05:41
ちゃりこ父さん
 学校教育に強い不信感を抱いていらっしゃることが分かりました。何があったかは分かりませんが、申し訳ないことだと思っております。少しでも信頼を取り戻せるよう、不断の努力をしている者もいることをご理解いただければと思います。
6. Posted by toshi   2013年10月01日 05:54
nogaさん
 申すまでもなく、学校長は学校教育全般に責任をもっています。子どもたちの健やかな成長、全人格的発達を目指す責任を有しています。テストの点数では測れない部分が大部分です。
 称賛してくれるなら、そうした面に目を向けてほしいと思います。具体的には、本コメントの3で、協働学欲さんがその一例を示してくださいました。まじめに地道に努力、奮闘している学校、教員があることをご理解いただければと思います。わたしもその一翼を担えればと念願しております。
7. Posted by toshi   2013年10月01日 06:14
協働学欲さん
 コメント、ありがとうございました。荒涼とした砂漠のなかでオアシスに出会えたような喜びです。
 そして、このようにして協働学欲さんが子どもの真の意味での成長発達を促す学校の取組を支えてくださっていることに、敬意を表します。
 学級は単なる学校のなかの一組織体ではありません。子どもにとってかけがえのない仲間です。ともに学び合い、ともに成長し合う仲間です。支え合うことも学ばなければいけません。
 ああ。しかし今の日本では、こうした学校はまだまだ少数に過ぎないようです。一般の方々の理解をいただくには遠い道のりを感じます。微々たる営みにすぎないのかもしれませんが、こうしてブログでPRしていくしかないのかもしれませんね。
 どうぞ、そういう意味で、今後ともよろしくお願いします。
 
8. Posted by toshi   2013年10月01日 06:22
はるさやの母さん
 はい。ほんの一部にすぎないと思っています。コメントの3番で協働学欲さんがおっしゃってくださっているような、そんな学校を創り上げるのが、校長の最大の責務と思います。
 ただ日本全体を見ると、そうした学校はまだまだ少ないと思いますので、努力しなければなりません。わたしも微力ながら本ブログを通し、がんばっていきたいと存じます。よろしくお願いします。
9. Posted by 協働学欲   2013年10月01日 10:18
評価が数値化されると、わかった様なつもりになると言う点が怖いですね。

先日傍聴した、中教審の検討会の中でも「評価と評定」をごちゃまぜに捉えてしまうという、危惧の声が出ていました。

Aちゃんの60点とBちゃんの60点は、数値上は同じでも、教育的な価値は違っています。同じ60点にしか見えないのは、点数を見て子どもの育ちの個性が見えていないのです。

点数は一見解釈の余地や必要が無い様に見えてしまいます。しかし、授業を通して子どもの育ちを促して行こうとすると、数の背後にあるものを解釈する必要が生じて来ます。

先生方は数値も見ていますが、その背後にあるそのらしさやその子らしい伸びも捉えようとしています。数値を通して子どもを決めつけるのではなく、子どもを通して数値を考える。私の周りにはそういう先生方が沢山おられます。

今の点数だけでなく、今の子どもを見つけ、見つめ、見守りたいものです。toshi先生も同じ様な思いなのかもしれません。
10. Posted by toshi   2013年10月03日 05:42
協働学欲さん
 ありがとうございます。今の日本は数値にこだわり過ぎているように思います。そして数値にこだわると、真の子どもの育ちが見えにくくなることを協働学欲さんはおっしゃってくださっています。
 ただ、わたしたち教員は、このように授業を通し、また現実に生きている子どもたち一人ひとりの見とりを通して、全人格的発達を図っているのだということを、広く市民向けにもPRしていかなければいけない時代だなということを痛感しています。
 協働学欲さんは、中教審も傍聴されるなど、すごいですね。
 どうぞ、今後とも、お力をお貸しくださいますよう、よろしくお願いします。
11. Posted by ももぱぱ   2013年10月08日 01:47
toshi様

私のような素人に
丁寧に返答して頂きまして、誠に痛み入ります。
toshi様のブログにアクセスして
今、びっくりしております。
さらに、背中に冷や汗も浮かべております....。

決して、「元校長」であるToshi様に
猜疑心を決して抱いておるのではありません。
誓います。私の質問の仕方が悪かったかもしれません。
申し訳ありません。

話は変わりますが
この事件のオチ 「上位の学校の校長を...」へと
腰砕けな展開になりましたね。
どうせなら知事の職を辞しても
世論や業界を敵に回してでも、発言した意地を貫いて欲しかったのです(笑)

学校長に関しては
学校組織運営、安全に対しては、
統括責任があると思います。
しかし、学力レベルの結果には責任は無いと思います。

これでは
「営業成績が上がらないので見せしめに社内公表する」という
古い体質の企業がやることと同じです。
今時の企業は「質の向上」を意識していますので
こんな「時代遅れな」事、やりません。

責任の定義はここでは論じませんが

調査結果に対して
主催した文科省や協賛企業内、大手塾では
データ分析を最もらしくやるでしょう。
実際、●○県式学習法を採用!という
コンビニみたいな塾の生徒募集看板を目の当たりにして、幾分、興醒めな気分に陥りました。

「どこの県が成績良くて、どこの県が悪い」

私たち、庶民のイメージはこんなもので
だから、どうした?という感想です。

願わくば、中学内申判断の参考値とならないよう願うものです。
ありがとうございました。
12. Posted by toshi   2013年10月10日 16:55
ももぱぱさん
 そのようなこと、猜疑心などまったく感じていないですよ。お言葉通りにふつうに受け止めさせていただきました。どうぞ、お気になさらず、これからもよろしくお願いします。
 学力についても、責任がないなどとは思っておりません。コメント6番に書かせていただいたように、全人格的発達を目指す責任というのは、当然学力を含んでおりますが、そうした意味で総合的に学力をとらえていただければ、また、どのように学校として伸びているかという視点も大事にしていただければ・・・、まあ、それでも、学校名ないしは校長名を公表する必要はないと思っておりますが、それは正当な学校評価と言えると思います。
 ただ一律にテストの点数で推し量るとなりますと、これは地域性などもあり、学校の努力を超えた部分が大きいです。記事には書きませんでしたが、点数の結果はすべて学校の責任というとらえは、笑止の沙汰といえるでしょう。

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