2013年10月16日

日本でインクルーシブ教育は実を結ぶのだろうか。

kodomo10 1.インクルーシブ教育とは、

 インクルーシブ教育。読者の皆さんにとっては、あるいは聞き慣れない言葉かもしれない。わたしもこの言葉を知ったのは数年前のことである。

 目からうろこが落ちる。

 障害児教育について、いや、知れば知るほど、これは障害児への教育に限定されるものではなく、日本の教育の姿、いや、日本社会のあり方を変える力となるかもしれない。

 いや。待てよ。日本は変わるだろうか。変わってほしいが・・・、どうだろう。

 と、問題提起させていただいて、まずは、インクルーシブ教育について、概略説明させていただこう。

 ことの発端は、2006年、国連で障害者の権利に関する条約が採択されたことにあるようだ。日本も署名したが、批准はいまだしていない。国内関連法の整備が急がれる。

 そしてその中身だが、国の説明によれば、

・「インクルーシブ教育システム」とは、人間の多様性の尊重等の強化、障害者が精神的及び身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能とするとの目的の下、障害のある者と障害のない者が共に学ぶ仕組みであり、障害のある者が教育制度一般から排除されないこと、自己の生活する地域において初等中等教育の機会が与えられること、個人に必要な「合理的配慮」が提供される等が必要とされている。
・共生社会の形成に向けて、障害者の権利に関する条約に基づくインクルーシブ教育システムの理念が重要であり、その構築のため、特別支援教育を着実に進めていく必要があると考える。(《文科省・共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進概要》からの抜粋

となる。

 簡単に言えば、《障害のある者とない者とが共に学ぶ仕組み》の構築となるだろうか。そして、《誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様な在り方を相互に認め合える全員参加型の社会=共生社会》を目指していくことになる。

 ともに学ぶ。

 これまでも、まったくなかったわけではない。本ブログにおいても、《交流教育》のカテゴリーには、そうした記事が満載である。

 さて、本記事ではそれらをふり返り、インクルーシブ教育を支える教育観、さらには実践を考えてみたいと思うが、それは後に譲らせていただいて、まずは現状、大きな改革点についてふれさせていただこう。日本も同条約に署名し、批准を目指しているはず(?)と思うので、どのように国内の法整備(ここでは教育現場における整備に限定させていただく)を進めようとしているかに、ふれさせていただきたい。

〇特殊教育から特別支援教育に名を変えた。それに伴い、『特別な場』で障害の種類,程度に応じて行われていた教育から、一人一人の教育的ニーズを把握し,その持てる力を高め,学校における生活や学習上の困難の改善又は克服に向けて適切な指導を通じて必要な支援を行っていく教育に改められた。

〇また、従前、ふつう級に籍を置き、特に支援の対象とされてこなかったLD(学習障害)・ADHD(注意欠如・多動性障害)・高機能自閉症等の児童も、新たに創設された特別支援教室で取り出し指導を受けることができるようになった。(これについては、本ブログにおいても、《通級指導(特別支援)教室の一員として、》なる記事でとり上げさせていただいた。)

〇地域・あるいは個々の学校において、特別支援教育コーディネーターを中心に教員同士、また関係者とも連携し、組織的・意図的に特別支援教育に取り組むようになった。我が勤務校においても、特別支援学級に籍をおく子、ふつう級に籍はあるが特別支援教室での取り出し指導を受けている子、ふつう級で支援員の支援を受けている子などについて、情報を交換し共有し合う取組が行われている。

〇特別支援学級の児童はもちろん、LD(学習障害)・ADHD(注意欠如・多動性障害)・高機能自閉症等の児童についても、個別の教育支援計画を作成し、一人ひとりの教育的ニーズに応えての指導を行っている。

と、まあ、そうなるわけだが・・・、ほんとうに成果は上がっているだろうか。形ばかりが先行し、真の意味で共生社会実現に向けた取組が行われているだろうか。

 しかし、それは、必ずしも学校の責任ではない。学校はまじめによくやっている。それにもかかわらず、この取組には限界がある・・・ように思う。くわしくは後述するが・・・、

2.インクルーシブ教育前夜 〜我が実践から〜
 
 そこで、真の意味での共生社会実現に向けた取組(・・・と、わたしが想っているのだが、)について、かつてのわたし自身、また、わたしの管理職当時の実践を書いた過去記事を中心に考察してみようと思う。もちろん、特別支援教育以前、特殊教育と言われていたころの・・・、ふつう級の中で、また、ふつう級と当時の特殊学級との交流、さらには小学校と当時の養護学校との交流における、《ともに学ぶ》実践である。そういう意味では、インクルーシブ教育前夜と言えるかもしれない。

〇我が担任時代、LD(学習障害)・ADHD(注意欠如・多動性障害)・高機能自閉症等という言葉は聞いたことがなかったと思う。まだそのような概念はなかったのではないか。しかし当時だって、そういう児童は当然ふつう級にいたわけで、多くは、《落ち着きがない。》《知能は優秀なのに、学習が身につかない。》《場違いな発言が多い。》などとみられていたのではないか。《学級の秩序を乱すこまった子》とみられるケースもあったように思う。

 そういう子が我がクラスにもいた。今、過去記事にリンクさせていただくが、その記事ではAちゃんだ。わたし自身、初めての経験だったがゆえに、試行錯誤、失敗の繰り返しだったが、Aちゃん自身のがんばりと、Aちゃんがいるからこそ学級集団の心が鍛えられるのだという取組をしていった。
 リンク先記事はだいぶ長いが、記事の中ほど、《さて、それでは、当時の学級の様子を、概括的にではあるが述べてみよう。》からをご覧いただけたら幸いである。

 なお、記事中の最後の言葉を再録させていただこう。

 卒業が近づいたころ、Aちゃんのお母さんがおっしゃった。
「ほんとうにクラスの皆さんのあたたかな雰囲気に包まれ、うちの子は幸せでした。ありがとうございました。でも、中学校は心配です。他の小学校からも、何も知らない子たちが大勢入学してきますものね。大丈夫でしょうか。」
 わたしは子どもたちの言葉を伝えた。
「中学校へ行って、Aちゃんがこまるようなことがあったら、ぼくたち、わたしたちが絶対守ってみせる。」
 おかげで、中学校でパニックになるようなことは、ほとんどなかったようだった。まさに、Aちゃんも、クラスのみんなも、『生きる力』を身につけたといえよう。


 この場合の《生きる力》こそ、まさに共生社会を実現させる力といっていいのではないか。

〇我が地域においては、わたしが管理職のころ、特殊学級全校設置へのあゆみが急速に進んだ。それとともに、特殊学級とふつう級との間で行う交流教育も活発化していった。初めは給食だけの交流だったが、徐々に一人ひとりの子どもの障害に応じ、音楽、図工、体育などの授業を中心に、可能な限りともに学ぶようになった。

 本リンク先記事は、わたしの退職後、初任者指導における一コマである。

 わたしは現職中もそうだったが、基本的に子どもの言動を見守る。そして、価値ある言動については、その価値を指摘するようにする。そうすることによって、初め子どもは無意識のうちにやった行為であっても、自分の行為の意味を知るようになる。無意識の意識化である。自分がやった行為だけに、意識化することによってそれが身についていくことが期待できる。
 本件の場合は、障害児の心に寄り添う力、障害児の想いへの洞察力。それが、《生きる力》となっていくのではないか。そして、これもやはり、共生社会の実現に向けての大切な資質となるであろう。

〇我が地域においては、平成に入ったころから、当時の養護学校に在籍する児童とその子が居住する地域の小学校との交流が始まり、リンク先記事にあるように、一定の成果を収めるようになった。

 ほんとうに子どもの心は柔軟だ。このリンク先記事では、大人が想像もつかないような提案を子どもがして、それが実現するという、感動を味わった。重度重複障害児のDちゃんとDちゃんが居住する地域の小学校との心温まる交流である。

 ここでは、Dちゃんのお父さんの言葉が強く印象に残る。今、それを再録させていただこう。

 『〜。
 交流授業の際は、A先生をはじめ、児童の皆さんにあたたかく接していただき、楽しく授業に参加させていただいております。
 先日は、社会科見学にも、参加させていただきました。ふだんの交流授業では、A先生のクラスの児童と交流しておりますが、今回の社会科見学では、5年生全員が参加していたため、Dを他のクラスの皆さんにも紹介していただきました。
 また、5年生全員による合唱のプレゼントまでしていただき、Dもいつになくよい反応(目をキョロキョロ)をしていたので、わたしもびっくりしてしまいました。
 このような交流授業がどこの学校でも行われるようになれば、障害を持つ子どもたちにはよい刺激となり、健常者の子どもたちには、「世の中にはいろいろな人たちがいるのだ。」ということが理解されるようになるのだと思います。

 わたしたちは、なるべくDを連れて、地域のイベントにも出向くようにしています。夏祭りや盆踊りに行くと、Dを見かけて、B小学校の子どもたちが、
「元気でしたか。また、学校に来てくださいね。」
と、声をかけてくれるようになりました。これも、交流授業に参加しているおかげだと感謝しております。
 〜。』


 このDちゃんのお父さんの言葉には、重要な意味合いが秘められている。

〇Dちゃんは、肢体不自由なため、ほとんどベッド生活である。自力歩行はできないし、言葉を発することもできない。食べ物を飲み下す力が弱いため、鼻から胃に管を入れ、その管で栄養をとる。

 そんなDちゃんだが、交流しているB小学校の子どもたちは、Dちゃんがどのようなことを喜ぶか、逆にどのようなことを悲しむか、そういうことがDちゃんの体による表現(目の動きなど)、表情などによって分かるようになっていく。

〇もう一つ。わたしはかつて、日本を旅する外国人が思わずつぶやいた言葉が印象に残っている。 
「日本は、障害のある人が少ないのですね。街を歩いていてもほとんど見かけません。」

 ああ。違うのだ。日本は、障害のある人が、ない人同様に自然体で街を歩くことに抵抗を感じてしまう風土なのだ。それを感じ、とても残念に思った。

 まだまだ日本には、障害のある人への偏見、差別がある。それは過去記事にも書かせていただいた。
     差別のない社会へ

 このリンク先記事には、無知なるがゆえに起きる差別の実態と、それゆえ、心が柔軟な幼いときからともに学ぶ取組がいかに大切かを示す出来事が掲載されている。

 障害のある人たちが、街を自然体で歩くことができるようになること。願わくば、DちゃんとDちゃんのご両親が、街で幸せな思いを持続、発展させるられることを願う。それは、共生社会の入口、インクルーシブ教育が一定の成果を上げることを意味する。

 障害のある人への偏見、差別。これをなくすことは、障害者の権利に関する条約の大切なテーマでもある。また、インクルーシブ教育の大切なねらいの一つでもあるのではないか。

 同教育では、可能な限り、ともに学ぶことの大切さを指摘し、実践しようとする。交流の枠を超え、ともに学ぶことの常態化を図るのである。

3.日本は変わっていくだろうか。

 さて、ここまで述べて、冒頭問題提起させていただいた、《日本は変わるだろうか。変わってほしいが・・・、どうだろう。》に踏み込ませていただく。

 最近の公教育を取り巻く環境はどうなっているだろう。

〇つい最近も、頑迷なまでのテストの点数指向。公教育を、心の豊かさを育むというよりも競争社会の入口とみなす、そんな教育観の根強さに出っくわしたばかりだ。他人をけ落としてでもはい上がっていく。そんな風潮が蔓延(?)しつつある。

 だから、一部市民には、『共に学ぶ』ことへの拒否反応がある。障害のある子どもとともに学ぶことによって、競争から取り残されることをおそれるのだろう。

 国もいけない。一方で、インクルーシブ教育の推進をうたいながら、そして共生社会の実現を目指すと言いながら、他方では、全国学力調査の都道府県別ランキングを公表し、テストの点数指向をあおっている。

 だから、教育現場も混乱している。たとえば、一方で《ともに学ぶ》を推進しながら、他方では《習熟度別授業》を推進する。

 幼いときからのこうした教育環境は、自我の分裂状態を招くに違いない。

〇共に学ぶことへの拒否反応は、一部障害のある子どもをもつ保護者の側にもある。

 学級がまとまり、友達への思いやり、気配りが見られるクラスならいい。しかし、現実は必ずしもそうとは限らない。そうしたなかでは、我が子が仲間外しにあうのではないか、いじめにあうのではないか。そうしたことが気がかりとなってしまう。

 これは、形ばかり、システムばかりを大切にする結果としても言えることだろう。形だけの《共に学ぶ》は、マイナスの効果を生む危険性がある。
 
 だから国には、インクルーシブ教育の方向で、教育をすっきりとさせてもらいたいものだ。また、心の育みを大切にする意味でも、教員の研究・研修は欠かせない。


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4.共生社会の実現に向けて

 共生社会の実現。それは何も障害のある人とない人との共生だけではないでしょう。

 わたしには心に残る言葉があります。

    人権教育(15)交流をテーマの総合的な学習の時間

 ここに登場するのも、DちゃんとB小学校C学級の子どもたちです。寝たきりの生活を余儀なくされる重度の障害のあるDちゃん。そのDちゃんとの交流のあるべき姿を真剣に話し合う子どもたち。

 この授業は、Dちゃんの担任であるA養護学校(当時の呼称)のEさんもご覧になっていました。そして、授業の最後に、とても印象的で心に残る話をされたのです。

 話すこともできないDちゃん。そのDちゃんの心、気持ちを分かろうとするC学級の子どもたち。その子たちへの感謝の言葉の後、次のような話をされました。今、これも再録させていただきましょう。

 〜。
 どんな交流をしていったらいいかなって、みんな真剣に考えてくれていたのだけれど、それを考えることもとっても大切なんですが、Dさんの気持ちを分かろうとする、それはDさんの表情を見るとか、手をさわってみるとか、そういうところを、みんな感じ取ろうとしてくれていると思う。
 そこでね。Dさんのことを分かろうとするくらいの気持ちで、このクラスの他の友達のことも考えてみてください。そうすると、目や耳だけでは分からなかった友達のことが見えてくると思います。そんなふうにして他の友達や兄弟や家族のことを考えてみると、また違ったところが見えてくるかもしれません。頭の片隅にそんなこともおいてくれるとうれしいです。
 〜。


 ほんとうにね。冒頭書かせていただいた言葉に、《誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様な在り方を相互に認め合える全員参加型の社会=共生社会》というのがありましたが、まさにこの、《誰もが》にあたる話をしてくださいました。

 今日は3本、我が実践、そしてわたしが管理職当時、さらには退職してからの参観授業を例に語らせていただきましたが、インクルーシブ教育はその発展に位置づくものだと思います。

 国のいう「インクルーシブ教育システム」を整え、早期に障害者の権利に関する条約を批准し、そして真の意味での共生社会を実現したいものだと思います。


rve83253 at 20:32│Comments(25)TrackBack(0)個別(特別)支援教育 | 教育制度・政策

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この記事へのコメント

1. Posted by 伊藤   2013年10月16日 23:15
ノーマライゼーションやインクルージョン教育なども含まれるのでしょうか。
武蔵野東の実践などもありますが、障害(障がいと障碍と書くのは嫌いです)に対する考え方も日本は厳しいでしょう。それはハンセン病や精神科の閉鎖病棟などにも表れています。
テスト公開については、私は問題ないと考えてます。ただ、点数だけを出せば相対評価にしかなりません。
絶対評価にして、基準を明確にすること。
点数の高い低いの原因は、教師の問題か地域性かどうかはきちんと追跡すること。
出た課題や問題が学校ないし地域で解決できたか検証すること。
この3つが重要ではないですか?

個人的な話ですが、採用試験はダメでした。当たり前ですが、能力が低いことに尽きると思います。
2. Posted by 藤村眞樹子   2013年10月18日 10:42
共生というものをより深く考える必要もあると思います。日本が今直面している周辺国との複雑な関係を考えますと個々の能力をしっかりと伸ばす必要があると考えます。
そのうえで人に優しく格差の少ない社会をつくる
ということだと思います。

競争社会で、優しい日本の若者が賃金が安く不安定な過酷な労働に駆り立てられることがあってはならない
そのために具体的な教育はどうしたらよいのか
ということが大事だと思います。

障害者の方のそれぞれの優れた資質を見出し、その能力を伸ばす方向が必要ではないでしょうか。
3. Posted by toshi   2013年10月19日 07:35
伊藤さん
 採用試験、残念でしたね。能力が低いなどということはありません。これまでいただいたコメントを振り返っても、しっかりとした信念をお持ちでいらっしゃいます。来季を期してがんばっていただければと思います。
 わたし、横文字に弱いので、ノーマライゼーションやインクルージョン教育について調べてみました。本記事くらいの押さえでしたら、含まれると言っていいように思いました。
 障害の表記については、わたしに迷いがあります。一時このブログにおいて、障がいとしていたときもありました。でも、人それぞれの思いもあり、それは尊重したいと思います。
 テスト公開については、本来ならわたしもさほど気にしないと思います。ただ現在は、世の中があまりにも点数にこだわり、そのため学校教育をおかしくしているといった思いがあります。
 ご指摘の3点。ほんとうにその通りと思います。特に2点目のご指摘は、今の時代、ほんとうに大切と思います。
 
4. Posted by toshi   2013年10月19日 08:27
藤村眞樹子さん
《個々の能力をしっかりと伸ばす必要がある》
 ほんとうのおっしゃる通りと思います。自分の考えはほとんどなく人の考えの受け売りをしているケースがあまりにも多いと思います。そして、それを自分の考えと錯覚している場合もあるでしょう。
 藤村さんへの直接の返事にはならないかもしれませんが、今の格差社会の状況が若い人たちの不安をあおり、それが点数指向を強めているのかもしれないと、藤村さんのコメントを拝読しながら思いました。 
5. Posted by 藤村眞樹子   2013年10月19日 10:35
私の狭い体験からで恐縮ですが
子どもの個々の能力を発見するのには母親の観察が
大事だと思います。
またどういう能力でも思考力というものが基本だと思いますが、幼児期、英語を尊重して日本語を粗末にすることになってはいけないような気がします。
母親が絶えず話し掛けるという環境が大事だと思います。
6. Posted by 藤村眞樹子   2013年10月19日 10:39
たびたびお邪魔して申し訳ありません。

インクルーシブ教育とは日本語ではどのように表現されますでしょうか。
7. Posted by toshi   2013年10月20日 07:48
藤村眞樹子さん
 なんか、すごく共感できます。うれしい思いで拝読しました。子どもの身の回りにいる大人が、子どもに教えようとしなくても、子どもは日々話し、行動しています。それをしっかり観察し、受容、共感、感動等の言葉かけをすれば、子どもは自分らしさを発揮しながら育っていきます。
 また、思考力が基本というのもまったく賛成です。コメントの4番でもふれましたが、自ら主体的に考える力が、今何より求められるのではないでしょうか。
 インクルーシブ教育を日本語ではというお尋ねです。障害者の権利に関する条約の仮の訳文では、《包容する教育》となっています。こうした複雑な概念をもつ言葉を訳すことはなかなか大変ですね。
8. Posted by 協働学欲   2013年10月21日 09:21
 個々の能力育成は大事ですね。正し、能力の中身や意味づけも大事だと感じます。「独力でできる力」なのか、「他者の力を借りてできる力」も能力なのか。特に能力的に厳しい子どもにとっては、「他者の力を借りてできる様になる」という能力が大事だという気がします。

 自然界・動物界であれば、能力的に厳しい個体は淘汰されてしまいます。障害は死と直結しているのです。弱くとも、たとえ病んでいようとも、助け合うことで生き合っていける。これが、人の持つ社会性性の素晴らしさなのではないでしょうか。今病んでいる人、老いている人は明日の自分なののかもしれません。

 また、テスト問題で世間が騒がしくなっていますね。自分のところにも行政施策の参考に意見を聞きたいという依頼が届いています。ここでは私見は述べませんが、採用試験を目指している方々には
「新しい評価を求めて―テスト教育の終焉―」
「学力政策の比較社会学(国内編・国際編)」
を読んでみることをお勧めします。
日本で年間70億円、イギリスで400億円。悉皆調査と順位公表が、このコストに見合った成果を上げるのか、考える上で参考になろうかと思います。
9. Posted by 藤村眞樹子   2013年10月21日 11:34
他者の力を借りてできる力
につきまして、最近とくに感じるところがあります。

災害支援でもあるいは高齢者になってからでも
それぞれの助ける力と助けられる力というものが大事だと思います。
まずにっこりして「ありがとう」と声に出すことが必要ではないでしょうか。
あいさつ運動のなかに、にっこりして「ありがとう」を含んでほしいですね。
10. Posted by toshi   2013年10月21日 17:39
協働学欲さん
 「他者の力を借りてできる様になるという能力」という言葉から、わたしは、障害者の権利に関する条約の、《個人に必要な「合理的配慮」が提供される》を思い浮かべました。
《弱くとも、たとえ病んでいようとも、助け合うことで生き合っていける。これが、人の持つ社会性の素晴らしさなのではないでしょうか。》
 なるほど。おっしゃる通りですね。《人の持つ社会性》を磨き、養うことこそが教育の目標にならなければいけませんね。
 本のご紹介をいただきました。ありがとうございました。
11. Posted by toshi   2013年10月21日 17:45
藤村眞樹子さん
《災害支援でもあるいは高齢者になってからでも、》ほんとうに、インクルーシブ教育は、障害者との共生にとどまる話ではないですね。いろいろな分野に転移していきます。
《にっこりして「ありがとう」》
 素朴な言葉の中に、一番大切なものが含まれているように思いました。
 それこそ、ありがとうございました。
12. Posted by 藤村眞樹子   2013年10月22日 05:39
実は地域の文化祭のまちづくり活動の展示にむけて
笑顔の写真を集めております。
どうしても笑顔ができない方がおられることに気づきました。
日本の社会の抑圧というものを考える必要がありそうです。戦前の教育が影を落としているような気もします。
家庭内暴力、飲酒、セクハラ、パワハラなどなど
そのなかで育つ子どもは笑顔ができないかもしれません。それとも健気に明るくふるまうものでしょうか。
13. Posted by toshi   2013年10月25日 07:49
藤村眞樹子様
 コメントをいただき、自分の経験で、笑顔のできない子どもがいたかなと、過去を振り返ってみました。
 やっぱり表情が常に固い子というのはいましたね。写真を見ても、みんなが満面の笑顔をうかべているとき、一人だけそういう子を見ると、そういう子に寄り添う必要性を強く感じたものでした。
 徐々に友達ともふれ合えるようになると、控えめながら笑みを浮かべるようになったものでした。それを見て、こちらも微笑み返してやります。
 笑顔は、幸せ度を測るバロメーター。そんな感じがしたものでした。
14. Posted by 藤村眞樹子   2013年10月25日 22:27
きょうのNHKのいじめについての番組を見ておりまして思い出したことがあります。
30歳台半ばで非常勤講師として働き始めたころ、職員室の様子が珍しくあれこれ観察をしておりました。
教員間のいじめというものがかなりあるように思いました。
教員間のいじめをなくすることも考えるべきではないか、と思ったりいたしますが、いかがお考えでしょうか。
たとえば必要な書類を机の間に落とすという話を聞いたことがあります。
当時は組合員と非組合員の対立があったりしたようです。
また、生活指導など雑用が忙し過ぎて、生徒に向き合う時間がないなどのストレスがあったりするのでしょうか。
教員の精神疾患が増えていることを直視する必要がないでしょうか。
15. Posted by toshi   2013年10月28日 08:20
藤村眞樹子さん
 わたしが勤務した学校も含めて、我が地域においては、教員間のいじめなどは聞いたことも見たこともありません。ただし、よそにおける話は聞いたことがあります。組合員と非組合員との対立も同様です。あってはならないことと強く思います。子どもを教育する立場なのですものね。
 生徒に向き合う時間がないという話は、よく聞きます。しかし、わたしは、授業こそがまさに子どもと向き合う時間であり、子どもに寄り添い、理解する大切な時間であるので、それを一番大切にしてほしいと言ってきました。
 教員の精神疾患については、過去記事がありますので、紹介させてください。toshiのところをクリックしていただければ出るようにしました。
16. Posted by のぞみ   2013年11月10日 21:21
公教育は、福祉の側面を負っているとの思いから
インクルーシブ教育は、これまでの日本の教育を変える可能性が大いにあるように感じました。

>だから、教育現場も混乱している。
その通りだと思います、管理職も混乱しているから教員も混乱して、結果色々な問題が噴出して更に混乱するのではないかと、今までの拙い経験から感じております。
一部の保護者・地域住民は何でも学校と言う風潮が我が地域ではあるのですが、私はまず「教員の負担を軽減する」と言うスタンスで、これまで学校と関わって参りました。教員の多忙化の中には、教員免許がなくても解決出来る問題が結構あるのです。

例えば今回のインクルーシブ教育は、教員でなければ出来ない事は教員で、教員でなくても出来る事は支援者でと分担する事で、かなりハードルは低くなるような気がします。その他の場面でも、地域住民や支援者が学校と関わる事によって学校で起こっている現状を共に感じ、問題に向き合う事こそが大切だと思います。

共生教育を拒んだり、学校歴が大切だと思う保護者は、私立学校に通わせて下さい、学区は関係ありませんよ。公立学校は基礎学力を保証する場であるのと同時に、福祉の側面もある所なのです。

17. Posted by toshi   2013年11月12日 05:57
のぞみさん
《公教育は、福祉の側面を負っている》
 これはのぞみさんの過去のコメントでもふれられていましたね。ほんとうにその通りと思います。福祉教育という言葉もあるくらいです。福祉教育とこのインクルーシブ教育とは、極めて親和性の高い概念ではないかと思います。《教員でなければ出来ない事は教員で、教員でなくても出来る事は支援者でと分担する》
 いいですね。そうしたお考えの方が地域にいらっしゃるということは、地域との連帯感も深まりますし、現状、人的にはまだまださびしいものがあるのですが、その解消にも役立つでしょう。
《共生教育を拒んだり、学校歴が大切だと思う保護者は、私立学校に通わせて下さい。》
 はい。記事でもちょっとふれましたが、こうした雰囲気は確かにあるのです。現在のテスト点数重視の風潮が、それに拍車をかけているようです。テストの点数重視と共生教育推進とは、どうも反比例の関係にあるように思います。
 また、教員の研修も大事です。ふつう級の子を障害児のお守り係にするようでは、何をかいわんやですから。 
18. Posted by 某県県民   2013年11月17日 19:41
インクルーシブ…うちの県の県立普通高校普通科では随分前から行われています。今は全日制でも入学卒業可能な状態です。(もちろん入試もあり申請すれば障害を事由とする配慮可能です)私は障害のある普通高校普通科卒業生を数十人知っています。但し残念ながらこの貴重な情報をご存知の親御さんや中学校の先生は滅多におられなくて…だから県内の大概の当事者親子の皆さんは、県立普通高校を視野に入れることなく、支援学校高等部や高等支援学校やサポート校タイプの高校に流れていかれます。ああ本当にもったいない話だ!と思っています。親御さんは常に自治体や国の動向を掴んでおかないことには。学校からの情報に頼らず。それをなさるかなさらないかで障害があるお子さんたちの一生は随分変わってくるようにお見受け致しております。人にとってはインクルーシブこそが本来の自然な形ということではないでしょうか。
19. Posted by 某県県民   2013年11月17日 20:20
(つづき…)

インクルーシブ教育について、うちの県は日本の中でも有数、先進的な自治体のようです。

1979年に養護学校(へ行くこと)が義務化された以降も、県の方針としては「障害の有無に関わらず共に学び共に育つ教育」を県立学校の教育の根幹としてきたそうです。

ところが…県内で一番大きな(子どもの数も最多)某政令指定都市では、インクルーシブの考え方とは違う発達保障の教育を、障害者にとっての正しい教育としてきました。(今は変化してきたとは言っていますが…県と比べると未だ未だです)そして市内の当事者親子に対してインクルーシブではない障害児を分離する障害児教育を推奨推進してきたのです。

これまで40年近くもの間、県と市とでは考え方が違った。この捻れ現象により…市立中学校卒業後に、進むべき進路をねじ曲げられてしまった子どもたちは、それはもう数えきれないほど…数多くいたと思われます。本来ならば中学校卒業後の段階で県によるインクルーシブな教育を受ける権利が有ったのにも関わらず。。
そしてこの反インクルーシブな流れは未だに続いており…支援学校高等部が足りない足りない…と言って騒いでいます。が…県のインクルーシブな方針からいくと…そんなはずは無い。受験すればいいのです。障害児の受験生が増えてくれば、それはそれでまた県は対応するのだから。障害児がインクルーシブな教育を受ける権利があることを知らない県民が余りにも多すぎます。

20. Posted by toshi   2013年11月18日 05:01
某県県民さん
 貴重な情報をいただき、感謝しています。ありがとうございました。
 わたし、けっこう誤解していたようです。と言いますのは、このたび、貴情報をいただいたことから、検索したところ、貴地域のような取組は、全国各地で行われていることが分かりました。そのなかでも、貴地域は、先進的な取組を見せていたわけですね。
 わたしは、高校は入試があるだけに、こうした取組には限界があるだろうと思っていたのです。そんなことはなかったですね。目を開かせていただいた思いがしております。
 ただ、貴コメントの《この貴重な情報をご存知の親御さんや中学校の先生は滅多におられなくて、》と《県と市との捻れ現象》は気になりました。どうして情報を周知しなかったりねじれたりしているのでしょうね。そこに何かがあるように思いました。
21. Posted by 某県県民   2013年11月21日 07:32
お住まいの都道府県内で活動しているインクルーシブ教育推進団体に入会され自治体教育委員会との話し合いに参加されればコトの全て=真相が見えてきます。日本の学校教育界には未だに根強い障害者差別が存在しています。障害児が高等学校で高校教育を受けることを拒否したい方々が大勢を占めているというわけです。
それを「障害児には職業教育が向いている」とか「お子さんの為には職業教育を」と言って根本的な課題をすり替えたりもしていますので、親御さんたちには「障害のあるお子さんが教育差別を受けているんだ。」という現状をもっと知っていただきたいですね。でもなかなか、ここまでご存知の親御さんはいらっしゃらないですね。それは障害の有無にかかわらず教育をお上に任せきっているからです。
22. Posted by toshi   2013年11月24日 13:29
某県県民さん
 いろいろありがとうございました。
 学校教育は差別を克服しようと努力していると思いますし、その一端は拙ブログにおいても紹介させていただいていますが、まだまだなのかもしれませんね。
 インクルーシブ教育の難点を教えていただいた思いです。
23. Posted by ポスティング   2013年11月28日 21:18
周りに拡散して下さい、お願いします

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ユダヤ金融資本のために殺し合う日本と中国
石破茂「戦争に行かない奴は死刑」と発言
7・21不正選挙、大クーデターしやがった
日中戦争阻止、侍日本人は命を失っても戦います

2013年、年内にユダヤ・朝鮮裏社会が
日本テロを実行する計画があるようです。
また日本人が虐殺されます、阻止します。
24. Posted by のぞみ   2013年11月29日 10:21
toshi先生の仰る通り、教員の研修こそ大切な事だと
思います。
学校と言う現場は、教員が現場の最前線にいる
訳で、特に担任が外部支援者を積極的に受け入れる
かそうでないかで、全く変わって参りますから…。

限られた学校予算の中で、基礎学力の提供(年間980時間だったでしょうか…。)の他に、道徳・生活科・総合と言った時間で、こうした共生教育を進めるのは
管理職の腕の見せ所であるのと同時に、教員の意識を高めるような研修を進める事も、もっともっと必要だと思います。今の教育委員会の通達通りの学校運営では点数主義に陥り、公教育の自殺に等しい事にもなり兼ねません、これは非常に危ういですね。

我が地域でも、まだまだ人的に寂しい所もあります
が、こうした取り組みが少しずつですが取り入れられて来ております。

地域住民ももっともっと学校と関わらないといけませんね…。私も再び学校と関わっておりますが、子ども
と関わる事で元気をもらう事が沢山ありますから…。
25. Posted by toshi   2013年12月02日 04:36
のぞみさん
 学校管理体制が強化されると、通達通りの学校経営となるわけですね。それは特色ある学校づくりを阻害しますし、某県県民さんのコメント19番のように、県と市でまったく考え方が異なる教育行政ですと、現場は混乱の度を強めるケースもありそうです。
 インクルーシブ教育に限らず、のぞみさんのように理解ある地域住民の方々のご支援は、今後ますます大事にされなければならないでしょう。

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