2016年08月04日

無知は偏見を生み、偏見は差別を生む。

IMAG1815 標題は、先輩の、A元養護学校長(現・特別支援学校)の言葉である。

 何とも悲しい事件だった。

 障がい者やその家族、また、学校関係者は、この社会にねづく差別の問題に日々取り組んでいるというのに・・・、今回の事件は、その努力をふみにじってしまった。

 《差別は殺人者を生む。》・・・か。

 ほんとうにショッキングな事件だった。国民はもちろんだが、障がい者の方たちには、より大きな衝撃となってしまったようだ。自分たちの存在を否定されたように思われた方も少なくない。また、まちを平気で歩けなくなってしまったという方もいらっしゃる。

 この犯人は、障がい者を《もの》だとまで言う。・・・。

 そうか。そのまえに、言っておかなければいけないことがあった。この犯人の言葉は、ころころ変わるね。《人》と言っていることも多い。また、家族へのお詫びの言葉を言うかと思うと、反省などしていないとも言う。そのとき、そのときの気分で言っているのだろう。

 ただそうしたなかでも、ある一つの思いは感じることができる。ようするに、施設の方がおっしゃったように、むかしの《ナチス》と同じなのだろう。

 テレビの映像を見た。40人以上殺傷しておいて、あの笑顔だ。護送車のなかで、なんか、純真無垢な少年のようにも見えた。それだけに、ものすごく不気味なものを感じた。

 《意思の通じない人》とも言っているようだ。数年施設で働いて、何という言葉だ。通じないのではない。通じる努力をしなかったのだ。

 二人三脚にたとえれば・・・、たいがい二人の走力は異なるだろう。そのときどうするか。決まっている。遅い方が速い方に合わせることはできないのだ。どうしたって、速い方が遅い方に合わせるしかない。その場合、合わせるのは、《合わせてあげる》のではないよね。当然のこととして合わせるのだろう。

 そこではやはり、あたりまえのこととして、励ましの声をかけたり、努力を認め合ったりするのではないか。そうすることによって、気持ちが通じ合うようになる。好成績を得るにはそれしかない。

 重度重複障がいの方のなかには、言葉を発することができない方も多い。それなら、言葉を発することができる人が手を差し伸べ、意思が通じるようにするしかないではないか。

 わたしはこの犯人が、重度重複障がい者のことをいろいろ言っているのを知って、自分の過去記事を想起せずにはいられなかった。A小学校において小学生が、A小学区に住みB養護学校(現・特別支援学校)に通う重度重複障がい児Cさんと心温まる交流を展開した事例だ。

 ここで、その交流の様子を書いた記事にリンクさせていただくが、その前にふれておきたいことがある。

 この記事内容の一部と重複してしまうが、ここに登場するCさんは、肢体不自由なため、ほとんどベッド生活である。自力歩行はできないし、言葉を発することもできない。食べ物を飲み下す力が弱いため、鼻から胃に管を入れ、その管で栄養をとる。

 そのCさんの大事な学習内容の一つは、外部からの刺激に対し少しでも反応を豊かにするということである。気持ちを表現できるようにするということである。まさに、『生きる力』を養っていると言えよう。

 犯人に言いたい。

 《人としての尊厳》という。そう。みんなどの子も学校へ通う以上、大事な学習内容とめざすべきめあてをもっているのだ。 

 この小学生たち、交流の初めは、自分たちの教室とあまりにも様子の異なる、寝たきりで鼻にチューブを入れて生活しているCさんたちの姿を見て、正直、こわいと感じたと、率直に話している。それが交流を通して・・・、

 具体的には、過去記事(人権教育(13)交流教育  共生を考える。)に譲らせていただこう。ただし、Cさんのお父さんからいただいたメールは、そのまま再掲させていただく。

 〜。交流授業の際は、担任のD先生をはじめ、児童の皆さんにあたたかく接していただき、楽しく授業に参加させていただいております。

 先日は、社会科見学にも、参加させていただきました。ふだんの交流授業では、D先生のクラスの児童と交流しておりますが、今回の社会科見学では、5年生全員が参加していたため、Cを他のクラスの皆さんにも紹介していただきました。 また、5年生全員による合唱のプレゼントまでしていただき、Cもいつになくよい反応(目をキョロキョロ)をしていたので、わたしもびっくりしてしまいました。

 このような交流授業がどこの学校でも行われるようになれば、障害を持つ子どもたちにはよい刺激となり、健常者の子どもたちには、「世の中にはいろいろな人たちがいるのだ。」ということが理解されるようになるのだと思います。

 わたしたちは、なるべくCを連れて、地域のイベントにも出向くようにしています。夏祭りや盆踊りに行くと、Cを見かけて、A小学校の子どもたちが、
「元気でしたか。また、学校に来てくださいね。」
と、声をかけてくれるようになりました。これも、交流授業に参加しているおかげだと感謝しております。〜。


 本実践に登場した子どもたち。あれから10年近くが経過した。今、成人式を迎えようとしている。この事件をどんな思いで受け止めたか。彼らにもかわいそうでならない。

 先ほど、犯人は、《通じる努力をしなかったのだ。》と書かせていただいた。その片鱗がCさんのお父さんのメールに現れているなと感じる。

 いつになくよい反応とあるよね。でも、それは、具体的には、《目をキョロキョロ》というように、目の動きなのだ。介助者は、目をよく見ていないと、よい反応かどうか分からないままになってしまう。

 ここに、障がい者を介助する人に期待される大事な心構えがあるなと感じる。

 また、上とは別な過去記事を読み返して、今回の事件との関連を思わずにはいられなくなった。

 関係する部分だけ、これも抜き書きさせていただこう。

 我々教員でも、つい口にしてしまう言葉がある。『寝ている子を起こすな。』論(《差別の事例など子どもの身のまわりにはないのだから、差別をとり上げての授業などする必要がない。》ということ。)である。

 これは間違いだ。

 『寝ている子』はずっと寝ているわけではない。何かきっかけがあれば、『寝ていた』ように見える差別意識が出てしまう。


 相模原での事件の犯人に、この論理が通用するのかどうかは分からない。でも、この仕事についたとき、障がい者を不憫に思い、同情する気持ちもあったようだ。前述のように、どこまで本心を語っているのかは分からないが、もしそうなら、この『寝ている子』論が、まさに最悪の方向に向かってしまったように思える。

 あっ。ちょっと訂正。今、《不憫に思い、同情する気持ち》と書かせてもらった。でも、これは果たしていいのかな。不憫に思う心、同情する心に、自分を優位におく心はないか。介助するとき、《〜してやる。》という意識にならなければ幸いだ。やはりここは、対等な意識で、人として尊重するという姿勢が大切なのではないか。

 さて、『寝ている子』。これは、本標題に深く関係する。無知のままだものね。

 無知は悪である。

 こう言ったら、読者の皆さんは驚かれるかな。

 もう少し正確を期そう。

 このわたしもかつて、無知なるがゆえに、差別してしまったことがある。そのとき気づいた。

 無知なるがゆえに、無意識に、無自覚に、差別するつもりはないのに、出てしまう言葉、行動。差別される側を苦しませたり悲しませたりしてしまう言葉、行動。それが悪なのだ。

 それで、今回の事件に関係して、標題に続けて書かせていただいた《殺人者を生む》の件だが、これはあくまで特異であって、無意識、無自覚にやってしまうものではないだろう。そういう意味では、大丈夫だ。

 でも、でも・・・、冒頭書いたように、今回の事件でこうむった障がいの方々の思いは、また別だ。とても大丈夫だとはならない。それを、わたしたちは深く自覚する必要がある。

 話を戻そう。

 差別の意識はだれもがもっているという。日ごろわたしたちはそれを自覚していない。いないから何かあると出てしまうのだね。だから、障がいのある方々には申し訳ないが、誰もがもっているのであれば、出てしまったとき、

『ああ。しまった。ごめんなさい。』

 そう思えれば、またそう口に出して言えれば、救われる。そして、自分のうちにある差別意識を自覚し、学んでいこうという気持ちになる。,

 そのとき、もはや無知ではなくなる。


 ここで話題を転じよう。

 読者の皆さんは、わたしの主張について、《鉄は熱いうちに打て》ではないけれど、こういう学びを幼いうちからやっていくことが大事と・・・、そう言っていると思われたのではないかな。

 それは大事だ。大事であることは間違いない。だが、ただ交流の機会をもてばいいというものでもない。

 実は、わたしの記事は、ブロゴスにも掲載していただくことがあるが、かつて、《日本でインクルーシブ教育は実を結ぶのだろうか。》なる記事を掲載してくださったことがある。

 そのとき、ブロゴスに寄せられたコメントは、インクルーシブ教育に反対の声がほとんどだった。拙ブログに寄せられた声とはきわだって異なっていた。その反対の声の中に、忘れもしない。次のようなものがあった。引用させていただく。

 不登校児のお世話係(毎日連絡帳や手紙を書く、届ける、保健室登校したら保健室で一緒に給食を食べてあげる、等)でさえ、子供には負担になります。

 普通学級にも発達障害児、家庭に問題があり落ち着いて学習に取り組めない子、日本語が分かない外国から来た子、勉強が遅れていて授業を理解できない子、不登校児、などサポートが必要な子がいるのが普通で、更に障害児を受け入れては、大多数の子供達が心を落ちつけて勉強に集中することは出来ません。理想を追う前に、まずは目の前の子供達を何とかしてあげないと。


 不登校児のお世話係か。

 こういう実態があるのだね。いや。多いのかもしれない。公教育の現場で、このようなことが行われているのであれば、その実態に対してわたしはお詫びしなければならない。

 係にしてしまうものではないだろう。負担を感じさせてしまったら失敗だ。

 こんなことをしていたら、障がい児のお世話係。たぶん、《お世話してあげる》という意識になってしまうだろうね。第一、障がい児に対し失礼だ。
 
 子どもの内面を育むことなく、形だけの交流では、まあ、それでも殺人にはつながらないだろうが、《もう、こんなことはまっぴらごめん》という意識はかなりの確率で養われてしまうだろう。

 もう一つある。こうした実践とはいえないような営みは、同コメントにもあるように、《これもやる。あれもやる。その上さらにこんなことまで。》《落ち着いて学習できる状況ではなくなる。》という考え方だ。

 お世話係では、こうした意識になるのもむべなるかな。

 でもね。Cさんのお父さんからのメールにもあったように、地域のお祭り、盆踊りなどで、自然発生的に生まれる交流。こうした子どもには負担感などないはずだ。喜び、うれしさ、そうした思いだろう。

 同コメントには、《理想を追う前に》とあった。

 これだけはご理解いただきたい。理想ではないのだ。わたしの書いている実践は、至らない点は多々あるにしても、我が地域においてかなり根づいている。

 だから、インクルーシブ教育に反対するのではなく、そうした実践が増えるように、そのための手だてを考えるのが、大切なのではないか。

 そうして初めて、無知ではなくなる。偏見もなくなる。差別も同様だ。

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 国、地方公共団体に要望したいことがあります。

 待機児童の解消、そのための保育士の待遇改善。それも大切です。大切ですが、数字ばかりが取りざたされています。その状況は問題ではないでしょうか。数だけそろえればいいというものではない。それを今回の事件は立証しています。

 働く人の意識を上げるためにどうするか。いや。人々の意識ですね。それを、はやりの審議会などでまじめに議論し、メディアの関心を集め、国民を巻き込んだ形での議論が盛んになるよう、願わずにはいられません。

 また、ヘイトスピーチ対策法が成立したのはよかったのですが、ちょっと遅きに失しましたね。

 こうした状況が、一部に差別意識をつのらせたのではないでしょうか。なお一層の対策を考えて、徹底防止を願いたいものです。

 最後になってしまいましたが、今回の事件の犠牲になられた方々には、謹んで哀悼の意を表します。また、けがされた方々が心身ともにお元気になられる日が一刻も早く訪れますよう、お祈り申し上げます。

rve83253 at 16:34│Comments(8)TrackBack(0)人権教育 | 交流教育

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この記事へのコメント

1. Posted by Hideki   2016年08月05日 08:51
Toshi さん、本当に仰るとおりです。

ただ、それ以上にいやなのが、一部とはいえこの犯人の意見に賛同する声があるのです。

ナチスの蛮行も20万人の障がい児の大量虐殺はヒットラーの凶行ではなく、医者からの意見に沿ってすすめられた、いわゆる社会の声だったのです。もちろん、その社会の声を煽動したのはヒットラーですが、それに賛同した社会があったということ、それが昔の話ではなく現代に通じる現代の問題に思う次第です。

そもそも障がい者は何ももたらさないのか?…私は違うと思っています。
そして、仮に何ももたらさない人がいたとして、その「人」の存在・尊厳を否定してよいのか?

このことを拙いながらもどうしても言いたくて拙文を書きました。

「人のもたらすもの ・・・相模原の事件から」

http://ameblo.jp/jaboyan/entry-12185307210.html
2. Posted by toshi   2016年08月08日 14:02
Hidekiさん
 貴ブログ拝読しました。わたし、2チャンネルは見たことがないのですが、そうですか。賛同の声があるとは、これもまた、ショックです。
 賛同する人には何を言っても無駄なような、でも、そんなのはごく一部に過ぎないと思えば、やはり言いたいような、そんな思いです。
 貴ブログの最後、
《全く他の人との接点が無い人は、価値がないのか?》
 今まで考えたこともないテーマです。他の人との接点がないなどと、そんな人はいないのではないかと思いながらも、考え込んでしまいます。
《人間は、どんな人でも幸福に生きる権利がある。》この当然のことを重く受け止めています。
3. Posted by Hideki   2016年08月09日 09:25
Toshiさん、ありがとうございます。

いつの時代にも様々な発想・考え方がありますね。ただ、現代の「成果主義」「数量化・定量化」の歪みが、人の優劣化として現れている気がしているのです。もちろん、成果主義・数量化定量化は大事なことなのは確かですが、その短所・課題もしっかり見据える必要があると思う。

わたしが長男という障がい児を通じていただいたものに、どうにもまだ語り足りないことがあったので、別立てでもう一度まとめてみました。もし宜しければ、こちらもご覧になっていただければ幸いです。

「天使のこころ、障がい児は天使か」

http://ameblo.jp/jaboyan/entry-12188471553.html
4. Posted by Hideki   2016年08月15日 16:19
toshiさん、実は昨夜同窓会があり、そこでこの話題になりました。その中に相模原の犯人の気持ちが少しだけわかるという人がいました。自傷・他傷がひどく行動も不可解な人だと見ていられない、楽にしてあげた方がいいのじゃないかと思えるのは自然の感情だという話でした。

酒の席ですので余り深刻な話にする気もなかったのですが、どうしても我慢できず「もし、本人が苦しくてつらくて、早く楽にしてくれといってるならまだ分かる。でも本当にそう思ってるのだろうか?本人は一生懸命生きている、生きたいと思っているのかもしれないよ。それを勝手にこちらで決めつけてしまうのは良くないと思うな」という旨を言いました。

楽にして「やろう」、そこにとんでもない勘違いが生んでいる、そしてそこに自己正当化まで潜ませている。ナチスの障がい者虐殺は、ヒトラーではなく現場の医者・学者の発案だといいます。そこに、現代にも通じる大きな問題の根っこを感じます。
5. Posted by toshi   2016年08月19日 12:30
Hidekiさん
「天使のこころ、障がい児は天使か」を何度も拝読しました。拝読するたびに、新たな思いが沸き上がりました。
これは教員の、あるいは親の、元来持つべき心構えを言っているのではないか。子どもの生活を見つめ、子どもの言動を受け止め、子どもを引っ張ろうとしない。
 教員や親は、子どものあるべき姿や目指すべき目標を勝手に押し付けない。あくまで子どもの実態に即し子どもの思いになって子どもに寄り添っていくという、教育の真髄を思い出させていただきました。
 《答えは「何もしない」。ごろんと寝ころがっていてください。そして、子供のほうから寄ってくるのをじっと待ちなさい》
 これだけ言うと、多くは誤解します。《楽でいいねえ。》教員や親の怠慢の勧めと受け止める人が多いです。
 そして、《子供のほんの些細な働きかけの合図・仕草を見逃さないようにすること》も、そんなの簡単、簡単と軽く受け止めてしまうので、成果どころか、ますます事態を悪くしてしまう放任子育ても横行します。
 Hidekiさんのこのブログを多くの方に読んでいただきたいなと思いました。
 そして、軽くなんかない。これは、教員や親の意識改革、ひいては生き方の変革を求められているのだということをとらえていただければと思いました。
 わたしなど、Hidekiさんご夫妻の万分の一の意識改革でしかないのですけれど、子育てや授業実践、児童理解を進める中で、多くを学ばせてもらいました。
 ありがとうございました。
 
6. Posted by toshi   2016年08月19日 12:55
Hidekiさん
 同窓会で、犯人の気持ちが分かると言ったというお友達の話。これは、相模原の犯人の想いの一部分ではないかという感想を持ちました。
 お友達の思いに対しては、わたしはHidekiさんと同じ思いをもちました。たとえ家族であっても、勝手に人の生き方を侵してはいけない、それは極度な僭越行為と思います。 
 ただあの犯人の考え方は、それに加えて、さらに重い部分として、《社会に何も恩恵をもたらさない、ただ国民の税金を食いつぶすだけの存在は、抹殺されてしかるべきだ。その分の税金を他にまわせるのだから》といったものがあったのではないでしょうか。
 だから、つかまってもあの笑顔でいられるのでしょう。きっといいことをしたと思っているのでしょう。
 Hidekiさんがやはりご自分のブログに書かれた、《全く他の人との接点が無い人は、価値がないのか?》が重くわたしの心に残っています。価値がないなどということがあるものかと明確に思う半面、その答えが明確にならないのです。曖昧模糊としたままです。ごめんなさい。
7. Posted by tsuguo-kodera   2016年08月21日 14:54
 先の記事へのコメントをして、この記事に気が付きました。題名から想像していた内容でした。素敵な校長だった管理人様が書くだろう論旨、論理的には全く異論はありません。
 しかし、私はこの記事の内容に極めて感情的に賛同しかねません。なぜ無知や偏見があるのでしょう。それは学校の先生の普遍的な心の様相にしたがっているだけなのでは。無知は学校人が反省すべき普遍性。先生は井戸中の蛙、社会や世界を知らないだけなのでは。
 私のやり方を見て欲しい、学校人では気が付かない、企業人を誇りにする会社の教育のエッセンスをお見せしたいと。無料で。場所と生徒さんさえいればして見せます。参考にしてくださいと言ってきました。
 2年前、私は坐骨神経痛を発症し、高校の非常勤もままならなくなりました。今から頼まれても、言ってきたとおりの筋書きではして見せられない老人になりました。
 今頼まれても嘘つきkoderaと言われてしまいます。これは皆さんの無知ゆえに私を無視してきた結果でしょう。残念です。
 私は今日も体育館で中学生と保育園児と遊んであげてきました。子供は私の言うことをとても良く聞きます。動けない老人のバド指導をです。
 色々なブログでコメントをしてきて、ただで、自分が勝手に行くと。でもお座敷はかかりませんでした。
 唯一の例外がネムオロ塾のエビス先生でした。2年前突然体育館でバドを教えて欲しいと言われました。言葉の指導だけでしたが、あり難い記事を書いていただけました。根室ですので、一回でおしまいになりました。
 偏見をなくす、無知をなくす。正しい教え。でもできませんよきっと。私は、随時随所楽しまざるなし、求むろ所第一義の、沢柳政太郎先生の教えで生きています。
 何で学校人は沢柳精神を忘れたのでしょう。無知ではありませんか。管理人様に、肯定的に前向きに、楽観的に指導する、沢柳政太郎の評価を聞いて見たくなりました。
8. Posted by toshi   2016年08月22日 12:36
tsuguo-koderaさん
《toshiが書くだろう論旨、論理的には全く異論はありません。》とされながら、《感情的に賛同しかねません。》とのこと。初めはびっくりしました。 
 でも、拝読しているうちに、《なんだ。わたしと同じ思いではないか。》と思うようになりました。
 悪しき公教育の実態は、やはり無知から来るものと言わざるを得ないでしょう。

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