2016年08月14日

旧東海道を歩く。(3)

IMAG8084  3日目は保土ヶ谷駅からのスタート。西口のバス乗り場の向こうが旧東海道である。そして、ここは保土ヶ谷宿の真っただ中だけに、例によって史跡の案内表示がたくさんある。

 まずは前回分になるが、江戸方見附跡、旧帷子橋跡。

 江戸方見附は、江戸から来たときの宿場の入口で、見附は土盛りをした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしているという。
 反対に京都方面からの入口は、上方見附という。だからその両者の中が宿場となるわけだ。ukiyoe-02

 また、旧帷子橋は広重の浮世絵に登場するが、前の記事に書いたように、河川改修があったため、今はまったくの陸地、公園の脇になってしまった。

 それにしても、この改修工事の困難さがしのばれる。工事は昭和30年代に行われた。そしてなんと、蛇行のため、一部、相鉄線の反対側に流れ込んでいたのをまっすぐにしたのだ。もうこの時期、市街化はかなり進んでいる。そんなときに、相鉄線にかかる橋2つをなくしたり、土地の明け渡しをお願いしたりするのは、さぞ大変だったことだろう。

 さらに、今昔マップを見ると、改修は保土ヶ谷区全域に及んでいる。市民の理解がなければとてもできる工事ではなかったと思われる。市民も、洪水を防ぐためならと、協力したのではないかな。

 さて、話を今回分に進めよう。

 史跡の案内表示だったね。前回分に続き、問屋場跡、高札場跡、本陣跡、脇本陣跡、一里塚跡など、きめ細かく、案内が出ていた。IMAG8070

 また、《金沢横丁》なる案内もあった。これは、かなざわ・かまくら道との分岐を示していた。

 そう。これも前回記事でふれたが、江戸中期までは、保土ヶ谷宿近くまで海が入り込んでいたので、金沢、横須賀方面に行くには、ここまでの迂回を余儀なくされたのだ。

 JRの踏切を渡ると、すぐ国道に出っくわす。ここからはまた、国道が旧東海道となる。これまで国道と重なるとさしたる史跡案内はなかったが、ここ、保土ヶ谷は違っていた。前記の本陣跡、脇本陣跡、一里塚跡などの表示はみんな国道にあった。

 それだけではなかった。旧東海道の雰囲気を復元しようとする営みも随所に感じた。

 冒頭の写真はその一つだ。かつてあったはずの松並木。しかし、それが道路の拡張に伴ってどこもかしこもなくなってしまっている。現在では、大磯まで行かないと往時の松並木は見られない。

 ところがここ、保土ヶ谷では松並木の復元が進んでいる。もちろんまだ若木だが、数百年後は、きっと大磯並みの並木になることだろう。

 ここでまた、国道を離れる。一緒だったのはわずか数百メートルだった。そして、権太坂へと向かう。IMAG8088 (1)IMAG8092

 ああ。この、権太坂は有名だね。箱根駅伝では順位、タイムなどのチェックポイントとして各大学の走者が走るたびにテレビの画面に登場する。しかし、あれは国道なので、旧東海道の権太坂とは異なる。

 この坂、駅伝以前から有名なのだが、歩いてみてその理由が分かった。

 横浜はもともと丘陵地が多い。広々とした平野はない。逆に谷戸は多いはずだ。したがって、どこを歩いても坂はつきもの。小学校の名前にも、丘、岡、台がつく学校は多い。

 さらにその丘陵はだいたいどこも同じ高さで、急坂、緩やかな坂の違いはあるにしても、40〜50メートルくらいの標高が多い。

 案内表示を読むと、旅の難所とあるが、これにはちょっとびっくりした。いくらけわしいと言っても、上り切ったところにある境木小学校で調べると、標高は他よりはちょっと高いが、それでも70メートル余。同じ神奈川県の箱根なら、800メートル以上もあるからね。くらべものにならない・・・、はずだ。

 しかし、しかしだ。難所の証明になるものを発見。それは上記境木小学校のすぐ近くで見つけた。何と、《投込塚》なるものの案内がある。IMAG8099 (1)

 初めは何を投げ込んだのだろうと思った。気になったので、旧東海道からは少し外れるが行ってみた。そして、《投込塚之跡》なる石碑を見つけた。

 この土地の方だろう。初老といってもいいような方が、まるでお墓参りのようにお水をかけたりお供え物を置いたりして、お参りされていた。

 わたしが立ち止まるとその方はすぐ立ち去られた。碑文を読む。

 もともとこの地は、権太坂投込塚という地名だったようだ。江戸時代、行き倒れる旅人が多く、そのたびに埋葬していたらしい。さらに昭和30年代になりこの地で宅地開発が進むと、多数の白骨が出てきた。それらを近くのお寺で、供養埋葬したようだ。

 そこで思ったこと2つ。

・確かに標高差からすれば、箱根にくらべ物の数ではない。しかし、江戸からここまでは、多くが海岸沿いということからも分かるように、ほとんど平地だった。そういう意味では、最初に出現する本格的な坂。それだけにダメージを受ける人が多かったのではないか。

・この地の方はむかしから、行き倒れた方を気の毒に思い、おそらく少なからず無縁仏になってしまったであろう旅人を手厚く葬ってきた。それはもう、行き倒れる方などありえない昭和30年代になっても・・・、

 それこそ、この時期なら、出てきた白骨のすべてが無縁仏だよね。その方々も手厚く葬った。その思いは持続したのだ。それが、さらに今も・・・、

 まるで自分の家のお墓であるかのように掃除したりお参りしたりする人がいる。むかしの旅人を思う心はしっかり引き継がれているのだ。
 
 今はもう、難所どころか、いたるところが宅地化された。前述のように学校まである。おそらくこれからも、この地の方々によって、この塚は守られ、大切にされていくであろう。

 さて、前述のように、ここには境木小学校がある。そう。この地は、武蔵の国と相模の国との国境にあたる。横浜市は双方にまたがっているのだ。IMAG8096 (2)

 そして、ここは見晴らしのよい高台で、西に富士、東に江戸湾を望むことができる。景観がすばらしく、旅人は必ず足をとめたという。

 今は、富士山こそマンション群のあいだに望めるが、東京湾は、代わりにみなとみらいなどのビル群が見えるようになった。

 国境を過ぎると下り坂となる。焼餅坂と品濃坂だ。そのなかでも品濃坂はかなりの急坂だ。下りだからよかったものの、これが上りなら・・・、やはり行き倒れとなってしまったかも・・・。IMAG0574

 さて、この双方の坂の間に、品濃一里塚がある。この一里塚は特筆すべきもので、神奈川県下、ここだけが江戸時代のまま残っている。
 一里塚には築山が道の両側にあるのだが、それがそっくり残っているのはここだけだ。

 そのことから分かるのは・・・、

 江戸時代の東海道の道幅が分かる。それが右の写真だ。読者の皆さんはどう感じられたかな。

 これだけなの。そう。これだけの道幅なのだよね。ここを大名行列のかごや飛脚や馬などが往来していたことになる。

 もう一つ。双方の坂の間を、今は、環状二号線が通っている。実はかつて道が分からなくなってしまったところの一つがここだった。何せ、小道といってもいいような道だから、曲がり角などになるともう、お手上げだった。IMAG8121 (1)

 でも、今回分かったのは・・・、また、分かったと同時におかしくなってしまったのは・・・、何と環状二号線にかかる歩道橋に、《旧東海道》の文字があった。まさか、歩道橋が江戸時代の東海道とはね。

 でも、これがないと、歩道橋を渡るべきなのか否か、さらにその先はどこへつながるのか。まったく分からなくなってしまうだろう。今昔マップがあるとはいえ、歩道橋までは載っていないからね。

 その先は品濃坂の続きだった。やはり急坂。その上、新しい住宅地を通ることになった。何とも、真新しい住宅地は、旧東海道のイメージとは合わず、ちぐはぐな感じは否めなかった。

 そして、その先は、またまた国道一号線と合流することになった。この先、ほんの少し、国道から外れるところはあったが、戸塚駅までほぼ同じだった。

 品濃一里塚で確認した江戸時代の道幅。それが分かっているだけに、国道に変身してしまった旧東海道が、いかにむかしのものをなくしてしまったか、あらためて残念な気がした。

 国道一号線は、不動坂で2つに分かれる。2つとも一号線だ。右へ行くと、横浜新道に合流する。吉田茂首相の、鶴の一声でできた道だ。左は戸塚駅に向かう。これが旧東海道だ。

 本記事もだいぶ長くなってしまった。3日目は戸塚駅から帰路についたのだが、本記事はここで終わらせていただこう。

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 〇本文に書かなかった中から案内表示、史跡などの主なものは、下記のとおりです。

 境木立場跡、東戸塚駅沿革概略の碑です。

 なお、品濃一里塚は、東戸塚駅の近くにあります。環状二号線を渡るとすぐです。

rve83253 at 09:04│Comments(2)TrackBack(0)自己啓発 | エッセイ

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この記事へのコメント

1. Posted by tsuguo-kodera   2016年08月20日 12:10
 久しぶりです。確か二度目のコメント投稿です。当方、学校を首になり、自費出版と温泉リハビリ旅行を楽しんでいます。坐骨神経痛になり、学校は首になりましたので楽になりました。
 最新の私のブログの記事は箱根町です。旧東海道や広重の絵の管理人様の記事に惹かれ、記事を読みました。管理人様は神奈川の校長を各所でしていたのですね。箱根は勤務経験がありましたか。箱根の資料館は凄いところでした。目から鱗でした。
 私は小中高と成城学園でしたので遠足と言えば箱根。神奈川の友人がたくさんいたので、川崎近辺まで各所に遊びに行きました。
 昔は旧東海道の石畳みも歩いたことがありました。足に自信がありました。運動が好きでしたし、箱根マラソンで今回の3つの記事の地名を良く知っていました。仕事でも日立やNTTの工場や研究所によく行きました。記事の地名は懐かしいところばかりです。
 今は坂道はほとんど歩けないので、箱根の8里は一部でも無理です。温泉に浸かっただけでした。
2. Posted by toshi   2016年08月22日 12:17
tsuguo-koderaさん
 ご覧いただき、ありがとうございます。
 政令指定都市ということに関係すると思うのですが、基本的に横浜以外の学校に勤めることはありません。
 でも、若かったころの夏休み中の宿泊体験学習は箱根でした。
 子どもとともに、乙女峠から金時山を経由して下山し強羅まで歩いたのも、なつかしい思い出です。
 今も市内の小学校で社会科専科を務めておりますが、箱根寄木細工をとり上げるたびに、畑宿におじゃましております。
 ここにも畑宿一里塚がありますね。石畳の旧東海道は魅力的ではありますが、寄る年波、わたしももう踏破するのは無理だろうと思っております。

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