2016年08月22日

旧東海道を歩く。(4)

IMAG0982 本シリーズの最終章は、戸塚駅から横浜市隣りの藤沢市(駅)までのつもりだったが、前記事が東戸塚駅付近で終わっているので、まずは、そこからスタートさせていただこう。

 東戸塚駅入口の信号で国道と一緒になると思いきや、旧東海道は国道一号線を横断していた。そして、すぐカーブして国道と並行し、数百メートル先の赤関橋で合流した。

 そのまま国道を歩くと、今度は不動坂でまたまた国道から離れた。ほんの数百メートルだが、ここでは、心に残る史跡、石碑、建造物を見ることができた。

 そのなかの一つ。ちょっとこの辺では不似合いなくらい、ものすごく古く、しかしがっちりとした建造物を見つけた。鎌倉ハムの倉庫だ。戸塚区のホームページによれば、明治20年代の建造とのこと。港の赤レンガ倉庫と同じころだ。驚いたのは、今も倉庫として使用しているとのこと。単なる史跡ではない。すごい。IMAG8132 (1)

 鎌倉ハムの名前の由来については・・・、

 ずっとここは横浜ではなく、鎌倉郡だった。横浜市に編入されたのは・・・、

 編入は、市制がしかれた明治22年以後、6回にわたって行われた。編入以前は、都筑(つづき)郡、橘樹(たちばな)郡、久良岐(くらき)郡、それに、ここ鎌倉郡だった。鎌倉ハムがある地が編入されたのは昭和14年。最後の編入であり、これにより現在の横浜市の市域が確定した。しかし当然のことながら、鎌倉ハムの名はそのまま存続した。

 なお、人口増加により分区が数回にわたり行われたが、平成6年の分区にあたっては都筑区が誕生。かつての郡の名が区名として復活した。

 それにしても不思議なことがある。開港のころの横浜は文明開化の地。《横浜もののはじめ》が有名だが、外国からいろいろな文明が入ってきた。今、港周辺を歩くと、《〜発祥の地》なる碑をたくさん見ることができる。IMAG0958

 しかし、横浜中心部から離れたこの地が、日本で初めてハム・ソーセージの製造販売を行ったとは・・・、

 それで、Wikipediaで調べてみると、イギリス人が畜産業から始めて肉製品を作ったことが分かった。なるほど。畜産業からであれば、郡部の方が向いているね。

 さて、前述のように数百メートルでまた国道と一緒になる。しばらく歩くと、左の写真の、江戸見附前信号あり。この名前は前記事にも登場した。そう。今度は戸塚宿の入口となるわけだ。ここには、江戸方見附跡の石碑もたっていた。

 さらに、数百メートルで吉田大橋にたどり着く。冒頭の写真がそれだ。なお、写真の街燈だが、この変わった形は大名行列の毛槍を模しているのだという。IMAG0989

 また、この橋で特筆すべきは、なんと橋の欄干両側に2枚ずつ、計4枚の戸塚宿にまつわる浮世絵があることだ。

 ほんとうに、これまで、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚と、旧宿場町を歩いてきたが、どこも、歴史をすごく大切にしている。戸塚宿まで来て、どこも、まちの人たちは、郷土の歴史を誇りにしているのではないかという感想をもつようになった。

 浮世絵では、おもしろいことを2つ発見した。hiroshige018_main139007514573806287227_totsukashuku


 
  ・広重の戸塚宿の絵は、左の絵
  のように二種類ある。読者の皆
  さんは、双方くらべて、どこが違
  うか気づかれただろうか。分かりにくければ《拡大》をかけてご覧いただければと思う。

 そう。一つは旅人が馬から跳び降りている。もう一つは馬に乗ろうとしている。

 上の方がよく知られた絵だが、実は双方とも、旧東海道で見ることができる。これには感動した。あらためて思う。旧宿場町はどこも通りがそのまま美術館のようだ。

 見られるのはどこか。上の絵は吉田大橋の欄干で、もう一つは江戸見附前信号の写真に写っているダイソーで。

 ダイソー前で、同壁面を飾る絵を見ていたら、そこの店員さんが現れた。
「ええっ。この絵、2種類あるのですかあ。知らなかったです。吉田大橋の絵と同じだと思っていました。あらあ。今度よく見なきゃいけませんね。」
 店員さんが知らなかったとは。なんかおかしくなった。でも、100円ショップがこうした絵を掲示してくれていること。わたしはその店員さんに感謝の気持ちを伝えた。
 
・もう一つある。この絵に描かれている右の橋。これは、200年前の吉田大橋だ。吉田大橋で、むかしの吉田大橋の描かれた絵が見られるというのも、おもしろい。劇中劇のようだなあ。

 さて、大橋を渡るとすぐ道は二手に分かれる。直進はJR線の下をくぐるように作られたアンダーパスへ向かう。自動車バイク専用道路だ。

 もう一つの方、左前方が旧東海道だ。こちらは、開かずの踏切として有名だった踏切に進む。でも、今、その踏切はない。かわりに《大踏切デッキ》という大きな歩道橋に生まれ変わった。踏切はなくなったのに、歩道橋の名前は、《大踏切デッキ》。なんかおかしさを感じた。

 3・40分待たないと渡れなかった踏切。この解消は長年の懸案であった。むかし箱根駅伝がここを通っていたころ、ほとんどの走者は開くのを待たされ、さまざまな悲喜劇を生んだ。そのためだろう。近年箱根駅伝はここを通らず、不動坂から横浜新道へとコースを変えた。

 アンダーパスと大踏切デッキが完成したのは昨年である。このまちの方や買い物客たちは大変喜んでいるに違いない。

 実は、これだけではない。踏切は戸塚駅に近接していて、この完成は戸塚駅西口の再開発と一体化している。そしてその再開発もほぼ完了した。ごみごみしたまちが、近代的で便利なまちに生まれ変わったのである。

 わたしは歩行者だから、大踏切デッキを渡った。そしてできたてのほやほやのまちを通った。

 その先は旧東海道の宿場町の中心となる。例によって、澤邊本陣跡、八坂神社、富塚八幡宮、上方見附跡などの案内表示が見られた。

 上方見附跡からは、大坂の上りとなる。権太坂に匹敵するような坂だ。そして、坂を上り切ったところで横浜新道と合流する。ここから先は、ずっと国道と一緒だ。ところどころに史跡、案内表示は見られるが、旧東海道の面影はやはり少なかった。IMAG8262

 約4キロメートルにわたり台地を通り、お隣の藤沢市の遊行寺坂で下りとなった。この坂も箱根駅伝で有名だね。

 遊行寺に寄らせてもらった。巨木の下には露店が数店。ちょっとしたにぎわいを見せていた。ここは一遍上人開祖の時宗総本山として有名だ。

 さあ、4日にわたり歩き通した旧東海道の旅も終わりに近づいた。藤沢橋を渡る。ここも藤沢宿の真っ只中なのでいろいろな案内表示が目についたが、帰路を急いだ。

 旧東海道は右に行くことになるが、わたしは左へ。そして藤沢駅に向かった。

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sekihi 左の写真は、ある石碑の裏面です。本記事冒頭の鎌倉ハム倉庫のそばにありました。

 表には、大きな文字で、《史蹟への小径》とあります。そして、裏には、本シリーズにも関係するすてきな言葉が刻まれていました。

《歴史は 古く 永く そして悠久に 継承される》

 なんと魅惑的な言葉でしょう。わたしはすぐ、前記事に書いた、《投込塚》を思い浮かべました。何せ、時代は変わっても、人の心は、江戸時代から現代にいたるまで・・・、さらには未来まで、継承されていくのですね。

 また、その土地、土地に、小学校社会科の実践で教材化してほしい歴史事象がたくさんあることにも気づかされました。

 地域の歴史事象を大切にし、継承される人の心を子どもが学び取ることによって、地域を愛し、人を愛する心情が養われるのではないかと、思いました。

〇本文に書けなかった中から案内表示、史跡などの主なものは、下記のとおりです。

 柏尾  大山道道標、大山前不動
 戸塚宿 吉田一里塚跡、明治天皇戸塚行在所阯
 大坂上 お軽 勘平 戸塚山中道行の場 石碑
 原宿  原宿一里塚跡
 藤沢宿 遊行寺坂一里塚跡、江戸見附跡


rve83253 at 01:18│Comments(2)TrackBack(0)自己啓発 | エッセイ

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この記事へのコメント

1. Posted by Hideki   2016年08月23日 22:21
toshiさん、

ちょっと話題はそれますが、ジブリのアニメの「コクリコ坂から」が戦後間もない頃の横浜(海に臨む丘陵だから、山下公園あたりかもしれません)を舞台としたアニメです。

もし、機会あれば。

http://kokurikozaka.jp/index.html
2. Posted by toshi   2016年08月27日 14:09
Hidekiさん
 またまたすてきなサイトをご紹介いただき、ありがとうございました。
 ほんとうにお世話になりっぱなしですみません。
 映画《コクリコ坂から》は、わたしは知らず、見ていなかったのですが、娘が見て、興奮するように、いろいろ話してくれたのを思い出しました。
 このたび、Hidekiさんからいただいたコメントをもとに、いろいろ検索をかけましたら、全編インターネットで見ることができました。
 そんなわけで、次回記事にまとめさせていただこうと思います。
 よろしくお願いします。

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