2016年09月04日

《コクリコ坂から》の社会科的考察

landmark  このたび、《旧東海道を歩く》シリーズを連載していたら、Hidekiさんからすてきなコメントをいただいた。《コクリコ坂から》のご紹介をいただいたのだ。この映画の上映は、もう5年前になるのだね。

 当時、おもしろい名前の坂だなとは思ったが、まさかそれが横浜を舞台にしているとは知らず、まったく関心がなかった。そうしたら、次女が見たようで、興奮したようにわたしに話しかけてきた。

 「お父さん。この映画は横浜港のそばの小高い丘陵地が舞台なんだよ。港の見える丘ってあるでしょう。そのあたりなの。それで、昭和38年の高校生が主人公なんだけどね。だから、お父さんの青春時代と同じでしょう。」
「ううん。そのときは、受験に失敗して浪人生活を送っていたなあ。とても青春などといえるものではなかった。」
「あっ。そうか。でも、そのころなの。お父さんはアニメは見ないって言っているけれど、これは見ると、なつかしい場面がいっぱい出てくると思うよ。今はない市電も登場してくるし・・・。」
「ふうん。それなら見たいものだなあ。でもね。コクリコ坂なんていう坂、聞いたことないよ。」
「ああ。それは、あくまで架空なの。坂だけじゃなくて、まちも学校もそうみたいよ。」

 見たいと思いながらも上映期間は過ぎ去り、見そこなってしまった。そのままずっと忘れていた。

 このたびのHidekiさんからのコメントでそのことを思い出し、さまざま検索をかけたら、なんと、全編見ることができた。

 それで一時リンクさせていただいていたが、ごめんなさい。いろいろとまずい点がありそうだというパソコン教室の先生のご指摘があり、リンクは外させていただいた。外しながらいろいろと映画の中味を語るのは申し訳ないが、お許しください。
   
 映画から、自分の青春時代のさまざまな思い出が、まるで今の出来事のようによみがえってきた。なんか前も同じような思いをもったことがあったなあと思ったら、思い出した。『ALWAYS 三丁目の夕日』だった。こちらは、昭和33年の設定。建築中の東京タワーが印象的だったっけ。それが今度は横浜が舞台なので、それだけ感慨も深いものがあった。

 そう。そう。架空の話なのだけれど、桜木町駅や山下公園、氷川丸などは、実にリアルに描かれていた。そのなかでも、桜木町の駅舎は建て替えられているから、『ああ。そう。そう。むかしはこの通りだ。うわあ。なつかしい。』郷愁を誘われた。なお、このころ、まだ根岸線はなかったから、桜木町駅は終着駅だった。

 またこれは桜木町駅に限らずどこの駅でも見られた光景だが、改札には駅員がいて、切符にはさみを入れていたね。

 国鉄30円区間(大人用)と書かれた表示、こげ茶色の国電など、どれもほんとうになつかしい。

 そう。当時は国鉄だったのだね。そして、料金も安かった。

 先ほど、まちや学校も架空と書いたが、それは位置関係からして言えることであって、街並みや店、交通の様子などは、当時をそのまま再現しているように思われた。特にふれさせていただきたいのは、市電だ。今、横浜ではまったくなくなってしまった。

 その他、

 坂本九の《上を向いて歩こう》もなつかしかった。当時、NHKに《夢で逢いましょう》なるバラエティがあって、わたしは欠かさず見ていた。その《今月の歌》で歌われていたのだった。また、小さな音声だったが、野球中継で、《ジャイアンツの長嶋》とも言っていた。
 
 そうした場面の一つ一つがなつかしく、もう50年以上もたってしまったかと、アニメながら、目頭の熱くなるのを覚えた。

 もう一つ。本映画で重要な位置を占める学園紛争も、当時大はやりだった。しかし、
《これは大学の話であって、高校ではこのようなことはあるものか。みんな受験で余裕がなかったはずだ。》
 初めはそう思ったが、いやあ、あった。あった。細かなことは忘れてしまったが、ほんの数校、我が神奈川県でも高校の学園紛争はあった。

 いやあ。何もかも史実にピッタリだなあ。

 そう。史実にぴったりなだけに、思い浮かべることがあった。これは、小学校の社会科の授業に使えるな。資料になるなということだった。

 旧東海道シリーズでも書かせてもらったが、小学校の3年生の社会科には、まちのむかしを学ぶ学習がある。同シリーズのまとめにも、
《その土地、土地に、小学校社会科の実践で教材化してほしい歴史事象がたくさんある》と書かせていただいたが、本アニメにも、同様なことが言えるようだ。

 今、まちのむかしとしたが、その学習では、お父さん・お母さんが子どもだったころ、おじいさん、おばあさんが子どもだったころの生活も取り上げるのが通例だ。

 むかしの生活は、むかしの道具などで学ぶ例が多い。学校の中にむかしの道具を陳列したり、まちの歴史博物館を訪ねたりする学校もけっこうあるのではないか。

 本作品は、昭和38年の設定だから、おじいさん、おばあさんが子どもだったころとなるね。そう。当時18歳のわたしに、今、中2と小6の孫がいるのだからね。

 アニメだから、ただこんな道具があったというだけでなく、動きなどから使い方まで分かる。今の子どもたちにうけるのではないか。

 使わせてもらえたらいいなあ。

 そう。そういう意味で気づいた場面を、今、列挙する。たくさんあるなあ。

・マッチをすって、ガスコンロに火をつける。
・炊き立てのご飯をお釜からお櫃(ひつ)に移す。
・洗濯機のハンドルを操作して、洗いたての衣服をしぼり出す。
・大きな米びつから一升マスでコメをはかり取る。
・街を走る三輪トラック
・まわしながらキャップをとる万年筆
・釘を口に入れて一本ずつ取り出し、板に打ち付ける。
・液体のノリを刷毛で塗る。
・建物の壁、土塀などを、こてを使って塗り仕上げる。
・数字の入ったダイヤルを回してかける黒電話
・白黒テレビ
などだ。

 日ごろ、こんなにも変わったことを意識していないわたしだが、あらためてむかしを見せてもらうと、あまりの違いに驚かされる。50年前はやはり、遠い、遠いむかしになってしまったのだなあ。

 逆にあしき光景も印象に残った。それは、電車から見える車窓風景だが・・・・、

 工場の煙突からは黙々と煤煙があがっていた。その煙突も、群立している。

 そう。当時、川崎ぜんそくなどといわれたものね。この映画の時代設定から7年後、現在の川崎区と幸区のほぼ全域が大気汚染地域に指定された。

 さて、本映画の主題に関わる重要なテーマなのだが・・・、そして、これは、小学校社会科の域を超えているのだが・・・、

 それは、朝鮮戦争での日本人の死である。公的には、戦後、日本人の戦死者は一人もいないことになっているが・・・、

 これはかくされた史実といおうか、多くの方は知らないよね。わたしもほとんど忘れかけていた。本映画を見て、はるかむかしの遠い記憶を思い出した。

 本映画では、主人公の父は行方不明として扱われているが・・・、まあ、実際行方不明者もいただろうが、Wikipediaによれば、少なくとも56名の日本人が命を落としたという。
 
 さて、本映画のあらすじは、ここではふれないことにしよう。娘もわたしに話したとき、あらすじまでは言わなかった。

 ただ、むかしは、友人の子を我が子として届け出て戸籍をつくるなどということは、ありえた。だいいち、戦争直後の混乱期は、戸籍も焼けてしまって、申し出による復元、作成などということもあったからね。

 最後に・・・、

 わずか50年余りで生活は一変した。・・・。ああ。《わずか》と思うのは、わたしのような年寄りなのだろうね。若い人にとって50年は、遠い遠い・・・歴史の範疇だろう。

 でも、年とればこの感覚が分かる。・・・。

 いや。若い人だって分かるのではないかな。

 子ども時代と、二十歳過ぎてからと・・・、同じ10年でも、その感覚はまったく違うのではないか。悠久と時が移っていった子ども時代。それに対し、二十歳過ぎてからは走馬灯のごとく・・・。

 そう。そのような速さで、老境に入っていくのだ。気分だけは若いのだけれど・・・・・・、

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 ninki


 戦争は玉砕とか、原爆とか、空襲とか、そうした直接的な惨劇だけではないですね。本映画の主題にかかわるような後遺症も残します。

 わたしの子ども時代、NHKのラジオ番組に、《尋ね人の時間》というのがありました。みんな戦争がらみで、行方、生死の分からなくなった家族、親戚、友人などの消息を求めて探しているのでした。

 それに、中国残留孤児の帰国問題などは、まだ10年くらいしかたっていないですね。

 わたしの同級生にも、満州からの引揚者は、少なからずいました。帰国問題が起きたとき、《ああ。我が学友は皆、幼いときに無事引き揚げできたのだな。》と思ったものでした。

 団塊の世代があるのも、戦争の後遺症ですね。一斉に戦地から引き揚げてきたものですから、赤ちゃんのラッシュとなったのでした。これが平準化するには、一世紀くらいかかるのだそうです。



rve83253 at 17:27│Comments(4)TrackBack(0)エッセイ | むかし

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この記事へのコメント

1. Posted by Hideki   2016年09月05日 08:52
Toshiさん、あと本編中に出てきた言葉「ガリを描く」。これも今の世代の子は何をやってるのかすら分からないと思います。私の小学生の頃でも「ガリ版印刷」はやってました。その後は、コピー印刷となりましたが。インキで手が真っ青になって旅行のしおりとか作ったりした学校でのガリ版印刷は、未だに覚えています。

あと主人公の父は朝鮮戦争での戦死だったのですか、それは気が付きませんでした。いろいろと深い話が隠されているんですね
2. Posted by toshi   2016年09月06日 05:15
Hidekiさん
 いやあ。もう、おっしゃる通りですね。わたしの仕事にとってもとても大切なもので、印刷技術の進化はすごいものがあります。
 実はわたし、映画を見て一番印象に残ったのも、ガリ版にかかわることだったのです。それで、これについては、次回記事にまとめさせてもらうつもりでした。それなのに、そのことにふれるのをうっかりしたまま記事にしてしまいました。申し訳ありませんでした。
 なお、スタジオジブリに本映画のリンクの依頼をしました。返信はないようなので、本日、リンクをはらせてもらいました。よろしくお願いします。
3. Posted by Hideki   2016年09月07日 16:51
oshiさん、
またまたで恐縮ですが、こんなサイトを見つけてしまいました

往々にして過去の思い出は美化されるものですが、実際のところを見ると実は大変な時代だったとわかります。

よくみる発展途上国のワンシーンが、そのまんま当てはまるところも多いです。


『これ本当に日本?』と驚く昭和30年代の日常まとめ1
http://ima.goo.ne.jp/column/article/1500.html

『生きていくの大変すぎ!』と驚愕する昭和30年代の日常まとめ2
http://ima.goo.ne.jp/column/article/1527.html

4. Posted by toshi   2016年09月13日 08:36
Hidekiさん
 返信がえらく遅れごめんなさい。ご紹介いただいたサイトを見ました。わたしの10代のときでした。なつかしいやら、《ええっ。こんなことあったかな。》と思うことやら、楽しくなつかしく見させてもらいました。
 ただ、このタイトルについては、ちょっと違和感も感じました。
・当時の日本人の多くは、貧しいなかにも、平和な日本を満喫する思いがあったと思います。激しい戦火をくぐり抜け、生き延びた喜びというか、そういう思いが強くあったと思うのです。
 もう一つ。
・このころの日本人の多くの奮闘努力があったからこそ、今の日本があるのだということです。
 台風が来れば風で倒れそうな家、停電が日常茶飯事だったこと、卵一個を家族5人で分けるような食事。 
 しかし、その後すぐ、毎年のように家電製品を取りそろえていったことや、新築の頑丈な家屋に住めるようになった喜びなど、子ども時代のこととはいえ、今も鮮明に思い出すことができます。
 今とかく自信過剰な雰囲気を感じなくもないのですが、それだけに当時の時代背景や気運といったものを若い人たちに伝えていかなければいけないのではないかと思いました。 

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