2016年10月16日

《コクリコ坂から》の社会科的考察(2)

image 初めにお断りさせていただきます。本記事も《コクリコ坂から》の映画をとり上げて書き進めるので前記事の続きとしましたが、小学校社会科とはあまりかかわりなく、むしろ大人の社会科といった内容になっています。

 また、バナーの下では、我が高校生活を簡単にふり返ってみたいと思います。わたしも男女共学の学校でした。

 それでは、本論に入るが、

 前記事では、映画に登場するむかしの道具について、一番印象に残るものをぬかしてしまった。

 それは、謄写(とうしゃ)版、あるいはガリ版と言われるものだ。そこで本記事では、学校現場に見られる印刷の変遷を追ってみたい。ほんとうに、驚くほどの変化を見せている。

 《コクリコ坂から》に描かれる、やすり版の上にろう原紙を置いて、鉄筆でガリガリ音をたてながら字を書く姿。また、書き終えたろう原紙を謄写印刷といわれる簡易的な印刷機に貼り付け、一枚一枚インクの付いたローラーで刷っていく姿。
 
 こんなのは、いくら文字で説明しても、子どもはもちろん、若い人だってなかなか分かってもらえないだろうな。その点、同映画を見れば、具体的に理解してもらえると思う。

 それにしても、なつかしい。わたしの子ども時代は、まさにこれだった。教員だけでなく子どもも、係活動などではよく使ったものだ。

 そう。思い出したことがある。わたしたち、A小学校の新聞部(今なら委員会活動だが)が作成した児童新聞。これを横浜国大文化祭の催しである学校新聞コンクールに応募したら、見事2位となり銀賞をいただいた。先生と二人で鎌倉まで行き、表彰式に参加した。そう。当時の国大学芸学部は鎌倉にあった。

 わたしが教職に就いたのは昭和45年。このときは、原紙と鉄筆は変わらないものの、ローラーでの手刷りの時代は去り、輪転機による自動印刷となっていた。手作業でないから、ずいぶん楽になったとうれしくなった。

 それでも、印刷し終わっての片付けは、原紙を手ではがし、インクがベットリ付いたのを不要な紙で包み込むようにして捨てるので、やはり手をよごすことはあった。

 また、当時は多くの学校で児童数、千人を超えていたから大量に印刷することが多く、そのため途中で罫線が破れ、インクがにじみ出てしまうこともあった。

 今、50代となっている教え子の同窓会では、このころの学級だよりがよく話題となる。

「toshi先生は確か、毎週出してくれていましたよね。」
「あれ、ろう原紙と鉄筆で書かれたのでしょう。ガリガリやるから大変だったのではないですか。よくあんなに書いてくださいましたよね。」

 その学級だよりをBさんのお母さんがとってくれていて、Bさんは数年前、そのファイルを同窓会の場で披露してくれた。
「『お嫁入りのとき、持っていきなさい。』ってお母さんが言ってくれたので、今もわたしの手元にあるのです。」

日々子どもの話題ばかり載せていたから、それをネタに思い出話に花が咲いた。

 話を戻し、その後昭和50年代になって、ろう原紙と鉄筆の時代も去った。ボールペンでコピー用紙に書き、それを円盤状の物に巻き付け、同じくその右側に感熱原紙を巻き付ける。その円盤が高速で回転する。一方で読み取りをし、もう一方で焼き付けるのだった。これ、ファクス製版機というのだね。

 この焼き付けは時間がかかった。たぶん5分以上かかったのではないか。

 また、どこまで正しいか自信はないのだが、このころまで、ボールペンや万年筆は青で書くのがふつうだった。それが、青では感熱せず文字が写らないので、以後、黒で書くのが主流になったのだ…と思う。

 でも、技術革新がめざましく、いずれも短期間のうちに新しい印刷法がどんどん登場していった。

 和文タイプライターにこった時期もあった。しかし、これは、扱いにくくすぐやめてしまった。

・文字をさがすのが大変。
・打つ力を加減しないと、濃くなったり薄くなったりした。平仮名はやさしく、漢字は強く打って濃さがそろう感じだった。でも、それはむずかしかった。強すぎてよく穴をあけたっけ。
・一度ひっくり返して活字が全部床に落ちてしまった。戻すのに何日もかかった。

 すぐワープロの時代となった。昭和末期だね。ブラインドタッチできるようになりたいと、夏休み中練習に明け暮れたのもなつかしい。

 ブラインドタッチの練習と文書作成とはしっかり区別した。文書作成は考え考えやるから、ブラインドタッチの練習にはならない。練習は新聞記事とか小説とか、見て打てばいいものに限定した。タイプライターにくらべ、すごく楽になったという思いもあって、習得は早かった。

 このころ、保護者からよく言われたのは、

「toshi先生。学級だより、いつも楽しみにしていますし、ありがたいのですが、前のように先生の手書きでお願いできませんか。その方が先生の温かみというか、先生のお心が感じられて、いいなあと思うのです。」
「ワープロだと、なんか、冷たい感じがしてしまうのですよね。」

 それでこのクラスを受け持っている間は、手書きに戻した。

 新たなクラスでは、もうそういう声はなく、ワープロ使用に専念できるようになった。

 するとこまる事態も起きた。手で書く習慣がなくなったからだ。当時はまだ、通信票など、手書きの時代だった。それで、ペンを握る手がすぐ疲れてしまうのだった。数人書いては休み、数人書いては休みとなった。

 わたしは、管理職のころ、パソコンを始めるつもりはなかった。それはくだらない理由だった。当時のパソコンのキーボードは数字とアルファベットのみで、日本語の文字はほとんどなかったのだ。とっつきにくい感じがして嫌だった。それに、このころの仕事は文書作成のみだったから、ワープロで十分だった。

 そんなときだ。ワープロはもう生産せずという声が聞こえてきた。びっくりした。でも、『いいや。どうせすぐ退職だもの。』

 そうしたら、何と退職数か月前にワープロがこわれてしまった。画面が暗くなったのだ。《ああ。なんということだ。》それでやむを得ず、学校のパソコンに手を出すようになった。

 当時はまだ数台あるだけ。だから、空くのを待つことが多かった。休日なら待つ必要がないから、休日出勤が当たり前になった。

 退職してからも、初任者指導という形で学校に勤めることになった。それと機を一にして、パソコンの便利さを実感するようになった。なるほど、これならワープロはなくなるわけだ。そう思った。パソコン教室に通い、ブログを開設するまでにそう時間はかからなかった。

 それにしても印刷は便利になったものだ。隔世の感がある。

 とは言っても、初任者指導の仕事って、自分が印刷機の前に立つことってまったくといっていいほどないのだよね。4年前、久しぶりに学級担任となって、ほんとう、何年かぶりに印刷機のお世話になった。

 その便利さだが・・・、パソコンで一枚印刷すれば、印刷機は製版、印刷、それに後始末まで、全部自動的にやってくれる。それに、一度に何枚も紙が出てしまうことはない。最後の一枚まできちんと印刷してくれる。インクで手をよごすこともまずない。

 あとは写真だね。小学校社会科は、具体的映像として、写真の資料は欠かせないもの。

 昭和50年代。夜、宿直室を暗室に見たて、よく写真を焼いたっけ。それでも、四つ切サイズ、白黒の写真しかやれなかった。

 今は、朝、《ああ。あの写真がほしい。》そう思ったら、出勤途上、寄り道して撮影。そのまま、SDカードを教室の大きなテレビに差し込み、カラー写真が資料として使える。

 ほんとうに、夢のようだ。

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 前記事でもふれましたが、わたしの高校生活は、《コクリコ坂から》の1年前まででした。そこで、我が高校生活とくらべてみましたが、あの映画の高校は、私立の設定でしょう。わたしは公立高校でしたので、あんな上品ではありませんでした。

 それに、あの映画の高校生は実行力がありますね。東京まで、理事長に会いに行くのですからね。すごいと思いました。それにくらべれば、わたしなど、幼いものでした。

 ただ、我が校も共学でしたので、あちらこちらにカップルができました。あるとき、屋上に上がると、二人で仲良くしんみりと語り合っている光景に出会いました。それは親友でしたので、逃げるようにして階下へ降りてしまいました。わたし自身は、ふざけ合った思い出しかありません。

 一回あこがれの女生徒が、何の前ぶれもなく、わたしの向かいにすわり話しかけてきました。たぶん係か何かの用事だったと思います。不意だったものですからボオッとしてしまい、しどろもどろになってしまいました。

 運動会では、〇学年になると、女生徒全員が浴衣姿で民謡をおどりました。それは、それは、まぶしくて、しかし、そのあこがれの女生徒ばかり見ていました。

 数年前の同窓会では、なんとその方が隣りの席になりました。もう、ボオッとはしませんでしたよ。白髪の、しかし、気品ある、やはり魅力的な女性でした。

 戦後、時代は民主主義となり、共学校では、フォークダンスがはやりました。手をつなぐだけでも恥ずかしく、つながなかったり指と指とをふれ合わせるだけだったりの光景もたくさんありました。わたしもそうでしたね。

 女生徒はみんな平然として、そんな男子に合わせているといった感じでした。

 今の高校生は、まずそんなこと、ないでしょうね。

 登校風景に移ります。あの映画ではどの生徒もちゃんと靴をはいていましたね。でもわたしは、歩いて通えたということもあり、げたで登校しました。近くの者同士誘い合って登校しましたが、みんな同じだったと思います。

 昇降口の靴を入れるところは、ほんとうなら靴箱でしょう。でも、わたしは今でもげた箱と言ってしまいます。それでもちゃんと通用するのですから、おもしろい。

 あの映画で重要な位置を占める学生運動は我が校ではありませんでした。でも、それとはちょっと違いますが、応援団などが一般生徒に練習を強制することはありました。わたしたち一部の生徒はそれが嫌で、生け垣にできた抜け穴からよく逃げたものでした。

 高校野球の県予選では、強くもないのに、学校が全校応援を決めたことがありました。我が校はすごい人数の応援となりましたが、相手校はわずかな応援。でも、試合は完敗。
「みっともないなあ。」「恥ずかしいなあ。」
友達とささやき合いました。

 勉強は、ちょっとかたよっていました。

 あるとき、父が面談に行きました。帰ってきて何ともいえない複雑な表情。
「toshiは、学年でトップとビリと両方あったよ。」
 地理がトップ、漢文がビリだったのでした。

 まあ、やりたいようにやっていた高校生活だったようです。

 最後はちょっとまじめな話。

 あの映画の、最高に盛り上がった場面。女生徒うみさんの
「わたしが毎日旗を上げてお父さんを呼んでいたから、お父さんが自分の代わりに風間さんを送ってくれたんだと思うことにしたの。」
は、単なる愛の告白ではないですね。

 戦後、平和になり、戦争を放棄した日本。それなのに、朝鮮戦争における日本人の戦死。

 しかも、それは、日本の歴史の中でかくされています。

 その理不尽さから受けるせつなさ。悲しさ。怒り。

 そんなものも感じました。

 ああ、これは、前記事に書くべきでしたね。すみません。

rve83253 at 10:46│Comments(4)TrackBack(0)エッセイ | むかし

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この記事へのコメント

1. Posted by Hideki   2016年10月26日 09:05
私が小学生高学年のころなので、昭和46〜49年頃だと思いますが、田舎だからでしょうか、1枚1枚刷るガリ版でした。旅行やキャンプの栞とか作った記憶があります。輪転型のも途中から登場したような気もしますが、調子が悪ったのかあまり使った記憶がありません。とにかく手が真っ青になりましたね。

確かガリ版用のペン?があったような気がしますが、気のせいかなぁ。
2. Posted by toshi   2016年10月29日 06:03
Hidekiさん
 そうでしたか。1枚1枚刷るガリ版も、今となってはなつかしい思い出ですね。
 わたし、記事に、今の若い人や子どもは想像もできないだろうと書きましたが、そんなことはなかったですね。
 今なら、図工でやる紙版画が、まさに1枚1枚刷って作品に仕上げています。
 また、Hidekiさんがおっしゃるように、ガリ版でも青インクがあったことを思い出しました。わたしの学校はほとんど黒を使っていましたけれど。
 ガリ版用のペンは、鉄筆と言いました。やすり板の上でろう原紙のろうをはぎとるのですから、それはそれは硬く手は疲れました。
3. Posted by Hideki   2016年11月15日 23:22
Toshiさん、

昨日「この世界の片隅に」という映画を観てきましたが、とても良かったですよ。派手さはないですが、ある女性の生きざまを丹念に描いたもので、とても味わい深い映画です。


http://konosekai.jp/

ちょっとした感想をブログにも載せました

http://ameblo.jp/jaboyan/entry-12219734074.html

4. Posted by toshi   2016年11月20日 11:56
Hidekiさん
 またまたすてきな作品をご紹介いただきありがとうございました。今、上映中なのですね。見たいなあとは思いますが、行けるかどうか。
 戦争にまつわる話だと、つい、この方は生きていたら今何歳などと思ってしまいます。戦争中の話ではありますが、当時としての日常の生活がテーマのようですね。
 わたしも自分の子ども時代を思えば思うほど、今とはかけ離れた敗戦直後の貧しさを思うのです。ただそれを今に伝えるのはむずかしいですね。このブログでも、何回も書いていますが、これでどの程度今に伝わるかなあなどと思ってしまいます。
 アニメだと、そう。伝わりそうですね。

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