2017年04月02日

問題解決学習のtoshi的考察(3)

tako2 拙ブログでは近年、恒例になっていることがある。右サイドバーに《人気記事(過去15日分)ベスト20》を掲載しているが、年度末になると必ず《卒業式の式辞》が1位となるのだ。さらに今年は、なんと読者数が一時期2,000を超えたことがある。ありがたく感謝している。

 この記事、もうずいぶんむかしになってしまった。掲載してから早10年。式辞のときからでも20年を超えた。ああ。光陰矢の如し・・・か。

 今、あらためて読み返す。特に印象に残っているのは・・・、

 わたしは卒業式が近づくと、6年生の教室で卒業記念の授業を行わせてもらった。この年は道徳だったが、特に印象に残る子どもの発言があった。わたしの、
「中学生になろうとしている今、もっとも大切にしているものは何ですか。また、その理由は何ですか。」
という問いかけに対して、
「友達の個性です。」
と言った子がいたのだ。

 友達の個性を大切にするというのは、
・友達のあるがままを受け入れ、尊重する。
・自分とは違うタイプの友達の言動であっても、なぜそう言うのか、なぜそう行動するのかなど、人間探求の心で接する。
ということではなかったか。

 この年、卒業生の多くはそんな姿をふんだんに見せていた。何より自閉症の同級生をも包み込み、ダメなことはダメとしながらも、豊かに心通わすやさしさをもっていた。

 もう一つ、別な記事も紹介させていただきたい。《差別に気づき、差別と向き合い、差別を許さない授業の実践》である。

 これは、わたしが他校で見せていただいたのだが、学級づくりと社会科の学習とを《差別》をテーマに一体化させた実践だった。

 学級内にボス的なふるまいの子がいた。リンク先記事ではEさんだ。そのEさんが差別の学習で、差別する人の心情、される人の心情を学ぶなかで、それが学級で自分がやっていることに重なり合っていることに気づく。
 自分も学級内で友達を差別しているのではないか。『友達に一方的に命令したり言うことを聞かせようとしたりするのはいけない。』と思うようになった。

 それにつれ、学級内にも変化が生まれる。それまでEさんの発言に対してはおとなしかった子どもたちが、徐々にEさんの主張に言葉をさしはさむようになった。さらに、反対意見も言うようになった。Eさんの変容と学級の変容は相互に作用した。同時進行だった。
 
 このように問題解決学習は、一人一人の内面に好ましい変容をもたらし、生き方にひびいていく学習である。単なる指導法の一つととらえる向きもあるが、そんな単純ではない。授業が、学級内の好ましい人間関係構築と一体化しているのだ。

 自分を大切にする。それが友達を大切にすることにつながる。友達を大切にすることが学びの価値を深め合うことにつながる。相互に作用し合い、一体となって子どもを育んでいくのである。

 双方ともくわしくは過去記事をお読みいただきたいが・・・、

○Aさんの変容

 まずは本シリーズ(1)の事例をとり上げてみよう。

 ここに登場するAさんはおとなしい子だ。とてもこんな、物議をかもしそうなことを言う子とは思えなかった。だって開発単元の導入なのに、その開発に真っ向から反対するのだもの。かなり大きな声で、言わずにはいられないといった感じだった。おとなしい子だけに、勇気ある発言だった・・・かな。

 案の定みんなから反論された。『ええっ。なんでえ。Aさんは開発しなくていいって思うの。』というわけだ。

 さあ、この反論、対立についてだが・・・、こういうとき、どうだろう。ともすると、指導者は避けさせる傾向がありはしないか。批判される子がかわいそうだと思う。勢いきれいごとに終始してしまう。《他に》《つけたし》ばかりで意見の羅列になりがちだ。これだと、学習が平板になってしまう。

 Aさんのクラスの場合意見の対立があり、孤立無援にみえるときがあっても、《かわいそう》という雰囲気にはならない。互いの思いをぶつけ合いながらも、そこには温かさを感じさせるものがある。担任のBさんには、《意見が対立して議論し合っても、それによって友達理解が進むので、かえって仲良しになる。》といった考えがある。

 また、上記、《友達の個性を大切に》にもつながる。この場合は、友達の発言を大切にとなるか。反対意見を言ったり、友達の考えを批判したりしたとしても、相手の思いはあくまで尊重する。

 わたしも、それを側面から支援する。記事にも書いたが、再掲させていただくと、
「(みんなは、Aさんの考えに反対のようだけれど、)誰か、Aさんの気持ちになってAさんがなぜそう思ったか、そのわけを想像できる子はいるかな。」
と投げかけるのだ。

 そう。自分とは違っても、友達の心の内を想像する。これは洞察力を養うことにつながる。冒頭述べた人間探求の心にも通じる。また、多様性の理解(間違いは正さなければいけないが、違いは尊重しなければいけない。)でもある。

・自分と違った考え方だが、Aさんはなぜそのように考えるのだろう。友達の考えを知ることはとても興味深い。いろいろ考えがあるのだと想像することはおもしろいし、楽しい。そして、自身の成長を感じる。
・どの考えが正解でどの考えが間違いというものではないね。いろいろな考えがあっていいのだ。
・どの考えも尊重しなければいけない。自分とは違う友達の考えであっても大切にする。だから、友達もわたしの考えを大切にしてくれる。

 こうしたことは、社会科のねらいに迫るうえで大事だが、それだけではない。授業を離れ学級生活全般においても、《友達の個性を大切に》することになる。
 
○思考力の育みと知識の習得は同時進行で、

 『まずは知識の習得だ。知識が乏しいところで思考は成り立たない。』そういう大人は多い。教育に携わる者でもそうだ。しかし、それは違うのではないか。

 江戸時代の開発の学習だが、上記、Aさんは、現代の環境問題をベースに考えている。江戸時代をまだ知らないのだから、思考は現代の常識でしかはたらかない。当然未熟だし、間違った基盤で思考しているともいえる。

 それでは、その思考はダメなのか。正しい知識がないまま考えても意味ないのか。

 そんなことはないはずだ。今、まさに発展途上にある子どもだもの。友達と意見を戦わせ、反論されたり、支持されたりしながら、思考を鍛え知識を身につけていく。

 Aさんは聞く一方になることが多かったが、自分が開発不要論をぶったこともあり、友達の話を真剣に聞いていた。そして、まったくの寒村であった横浜、すべて手作業による工事など、江戸時代の開発の様相をとらえるにつれ、当時の開発についてだんだん的を射た思考をはたらかせるようになっていった。

 そう。だから、思考と知識の習得は車の両輪。同時進行で養っていくのだ。一体となったり相互に作用し合ったりしながら、当初の思考を修正、深化されていく。Aさんも、本単元の終末時においては、江戸時代の開発容認へと考えを変えていくことになる。

○学習意欲の喚起へ

 こうした学びは学習意欲を喚起する。お仕着せでなく自分自身で考えているからだろう。子どもたちが生み出した学習問題。それを解決すべく多様な考えでもみ合う。それが、学びに切実感をもたせ、自分の考えの根拠づけを求める。そして、ストンと胸に落ちる理解へとつながる。

 これは問題解決学習の醍醐味といえるのではないか。指導者による一方的な教え込みでは、こんなダイナミックに思考が展開することはないだろう。大部分の子は、受け身の学びゆえ、覚えることばかりで、思考の展開など望むべくもない。

 自ら学ぼうとする意志があって、初めて思考をはたらかせるのだ。そのために、子どもが抱く、《ええっ。どうして。》《おかしいよ。変だよ。》の思いを大切にしていく。これは学習の起爆剤だ。

 指導者は、間違っても《何変なこと言っているの。》といった態度をとったり、無視したりしてはならない。そんなことをしたら、子どもの意欲は萎えてしまい、発言もしなくなるだろう。

○学びの態度、質の向上

 先にもふれたが、こうして学ぶ子は、簡単に納得しない。それは、本シリーズ(2)に表れているだろう。工場がはき出すばい煙や廃液を市民が誇りとしていることについて、指導書では高度経済成長の象徴といった趣旨の説明が載っているが、子どもは、《そんなのおかしい。死者まで出ているのに、なんで誇りなんだ。》と怒りにも似た気持ちをもつに至る。

 それでわたしに授業の依頼があったわけだが、わたしの授業で納得したかどうかは分からない。そのくらい深く追求しようとする子どもたちだ。《ええっ。なんでえ。》《おかしいよ。変だよ。》という心情には旺盛なものがある。
tako1 
 ちょっと離れてしまうが・・・、わたしには楽しい記憶がある。まだ30代そこそこのころだった。わたしは修行中だったといっていい。Cさんという子がいた。
「toshi先生は、ぼくたちに〜って言ってほしいみたいなんだけど、ぼくはそう思わないのであって、〜。」
そう前置きして意見を言い始めたのだ。これは研究授業で、後ろには大学教授なども見ていらしたが、その方が実に楽しそうに笑みを浮かべていた。あとで、
「toshiさんはすごい子どもを育てているではないか。教師の胸の内までちゃんとお見通しだ。」

 そう。まだまだ修行が足りなかった時期だ。子どもの反応のいちいちに、《おっ。いいぞ。》《うわあ。こまったなあ。》など、顔に出していたのだろう。これだと、指導者の顔色を見て発言する子を育ててしまいがちだが、このCさんの場合は、そんなことを超越し、しっかり生きる力を育んでいるし、自立していたともいえそうだ。

 子どもの育ちはまだある。よく、《問題解決学習ははい回る。子どもたちはどうでもいいことに熱中して時間をとってしまい、そのため、大事なねらいがぼやけてしまうことが多い。》などと言われるが、我がクラスのDさんは、途中まで言いかけて言いよどみ、
「うん。今、問題になっていることについて、ぼくはEさんに賛成で、〜と思っていたの。それでその意見を言おうと思っていたのだけれどね。
 でもね。今のFさんの発言を聞いていたら、そんなことはどうでもいいと思うようになって、やっぱりFさんが言うことのほうが大事だからね。
 みんなはFさんは場違いで話題に合わないことを言っていると思ったようだけど、ぼくは、話をFさんの言う方に変えたほうがいいと思う。だって、〜。」

 うん。もう、40年近くもむかしのことだ。はい回る話し合いを子ども自らがただし、価値ある学習へと流れを変えてくれた。何の話し合いをしていたかは忘れたが、こうした子どもの育ちにかかわることは、特に印象深く覚えている。

 こうした学力は、大人になって仕事をするうえでも、特に大事になると言っていいだろう。大人になっても生きてはたらく学力を養っていることになる。

 40年近く前の話をまだまだ続ける。

 子どもたちが意欲的に学ぶようになると、当然発言も多くなる。35人以上もいる学級で、ほとんどの子が発言するようになると、一人はせいぜい2回までだろう。そうなると、だんだん自分の出場(でば)をわきまえるようになっていく。
「今はまだ単なる資料の読み取りだ。手を上げても、先生は指してくれないだろう。」
「おっ。やっと互いの思いを出し合うようになった。今なら指してくれるのではないか。言いたい。」
「今はまだ資料の読み取りだから簡単。今のうちに手を挙げて言っておかないと、後ではもうぼくの出番はない。よし。手を上げよう。」
など。

 発言以外でも、それぞれが自分の得意分野を自覚し、学級の中で自然に役割が決まっていく。なんでも得意な子もいるが、多くはそうではない。

・街へ出て資料収集するのが好きで得意な子。しかし、集めた資料はほったらかし。
・自分は街へ出るのはおっくうで嫌だが、友達が集めた資料を整理、グラフ化するなどということは好きで得意。
・友達が作った資料を基に、いろいろ考察するのが好きだ。

など、それぞれが得意分野で活躍していく。そして、協力体制が充実してくるにつれ、得意分野はだんだん広がり、なんでもやり遂げるようになる子もふえる。

 また、次のようなこともある。

 我が強く言い張る子、かたくなで自説を変えない子がいると、問題解決学習は暗礁に乗り上げる。当面困った存在となる。勢い、指導者は強権発動となりがちだ。わたしにもそうした苦い経験はある。

 資料などにより、《ああ。そうか。なるほど。分かったよ。》というように、多くは納得しているのに、こういうタイプの子は特別な場合を持ち出し、自説を変えない。まわりの子たちも、《あきれた。もうやめたら。》といった顔をしている。

 こういう子には、お説教をしてもかたくなさは消えないだろう。それどころか、ますます意固地になる場合も多い。

 こういうのって、友達の力が大きいのだよね。友達の受容的な姿勢。学級の雰囲気の盛り上がり。それが力を発揮する。前述の事例、ボス的にふるまっていたEさんの事例など、《差別》という学習内容の理解と友達の力によって、見事に変容していった例と言えよう。

 問題解決学習により育った学級の雰囲気。その一例だが、

 友達の意見に、資料に、心から納得できれば、素直に自分の思い、意見を修正していく。《ああ。そうか。》《なるほど。》《よく分かったよ。》そんな言葉が教室に飛び交う。拍手が起きることもある。ストンと胸に落ちる理解を与えてくれた友達には、《ありがとう。》などと感謝の言葉が聞かれることもある。

○まとめはいらない。

 初任者に限らずだろう。
「授業の最後のまとめはいらないよ。」
そう言うとびっくりする。
「まとめなんかしなくても、しっかり定着するような授業を心がけなさい。」
そう。意欲的に学習していれば、まとめなどしなくても大丈夫だ。

 それよりもっと大事なことは、授業と授業の合間を大切にした終わり方をすることだ。
 授業の最後は次の学習問題が生まれている。すると、多くの子は次時の授業で活躍すべく、放課後、家庭やまち、図書館などで、様々な活動を展開するようになる。
 特に議論沸騰して授業を終えた場合などは、なおさらだ。

 まとめをしたくなる心理は、本時の学習内容が身についたか不安になるからだろう。それは指導者の心理であって、子どもは別にそんなことを必要とはしていないはずだ。だから、まとめはいらない。

 ただし、授業を進めていて、《ああ、既習内容が定着していないな。》と思うときはあるだろう。そのときこそ、振り返りのチャンスだ。
 いや、変な言い方だね。定着していないと感じたら、これは反省しなければいけないよね。でも、そんなときこそ、子どもも振り返りの必要性を感じるはずで、やればいい。

○体験を通してこそ

 これについては、先の記事にHidekiさんよりコメントを賜った。ほんとうに、体験を通すからこそ、より実感的な、体を通しての思い、考えとなる。

 もっこによる土運びの体験では、
「肩が痛くなった。登りになったらもっと重くなった。」
「かついでいたら、土の入ったかごがゆらゆら揺れたから運びにくくなって、かごのひもをもって揺れないようにしたけれど、むかしの絵を見たらちゃんとひもをもって運んでいたから、ああ、これでいいんだと思った。」
など、これも実感的な分かり方をしていることがよく分かった。

 体験を通すからこそ、むかしの仕事にはコツや慣れ、つまり経験が必要なことをとらえることができる。

 なお、先に紹介させていただいたHidekiさんのコメントの一部を転載させていただきたい。

 広く社会で仕事をしている大人のことをおっしゃっているのだと思うが、

《机上でものを考えるのではなく、かならず現場で自分の目で耳で肌で感じて考えることが大事だという、一番の考えることの原点を学ぶことにつながるからです。机上の考えで現場と遊離して大失敗した例は、それこそいっぱいありますからね。》

 先の、《放課後、家庭やまち、図書館などで、様々な活動をするはずだ。》にも言えることだが、《机上の考えで現場と遊離して大失敗》しない学習を子どものうちから経験してこそ、学校で学んだことは社会に出てからは通用しないといった学力観を排除することができる。

○偶然も必然に

 Hidekiさんの同コメントでは、タコの体験について、《たまたまかもしれないけれど》とある。確かに、本記事の写真にある《タコ》は、担任のご家族の方のやさしさから生まれたハプニングだったが、問題解決学習により、子どもが意欲的に学ぶようになると、ハプニングはつきものとなる。とにかく授業の合間に指導者の意図を離れたところで活躍するようになるのだから、予測不可能なこともふえる。

 このハプニングをいかにこちらの指導計画に取り込むか、そこにも、指導力の真価が問われることになる。

 一つ一つは偶然の所産だが、そうしたことが必ず起こるという意味では必然である。

○補足
 
 自立、自分らしさ、自己実現。その裏返しが、他人に合わせろ、空気を読めということになろうか。

 現状、日本においては、むずかしい課題だよね。そんな日本だからこそ、子どものときからの自己表現を大切にした教育が求められるのではないか。問題解決学習が現代的な意味で、ますます重要になっていくと思われる。

○発達障害と問題解決学習と

 最後にふれたいことがある。

 わたしは発達障害について専門的に学んだことはなかった。しかし、本記事とは別に、わたしも自閉症傾向のある子どもを担任したことはあり、その児童への対応については、試行錯誤の連続だった。

 その試行錯誤は、退職後拙ブログを始めさせていただいてから、さらに深まった。発達障害について専門的な知見をお持ちの方のブログを拝読するにつれて、それまですっきりしていた問題解決学習について、あれでよかったかという思いが生じてしまったのである。

 ここではもうだいぶ長くなってしまったのでふれないで、リンク先記事にゆだねよう。お時間のある折、ご覧いただけたら幸いである。

 わたしの問題解決学習への思いはさらに深まったといえよう。

    発達障害児と問題解決学習と、(3)

 にほんブログ村 教育ブログへ

 ninki


 《学びが意欲的になる。》ということ。今年度の我が実践から楽しいエピソードを紹介させていただきましょう。

・県内の伝統的な技術を生かした工業の学習を終えた時です。お父さんに、誕生日のお祝いに何がいいと聞かれたGさん。《寄木細工の秘密箱がほしい。》と言ったそうです。お父さんは、ネット通販で購入してくれました。また、寄木細工の故郷である箱根畑宿を訪ねた家庭も複数ありました。

・吉田新田の学習を終えるころ、Hさんはご両親におねだりし、一緒に吉田新田の周り(約7劼らいか。)を一周し、埋め立ての規模を実感的にとらえました。

・また時宜を得たテレビ放送もありました。ブラタモリの横浜編です。《はまの秘密はハマにあり》。今年の正月、再放送がありました。

 関内駅の地下に江戸時代に築かれた石垣があるとのこと。わたしはまったく知りませんでした。テレビでは、幕末の横浜開港のときの街づくりのときに造られたと言っていましたが、わたしは、もっと前の吉田新田埋め立てのときの汐除堤ではないかと思いました。それで横浜市歴史博物館に問い合わせましたが、くわしくはよく分からないとのことでした。

 分からないということは、可能性としては・・・

 歴史って楽しいですね。

rve83253 at 09:55│Comments(5)TrackBack(0)問題解決学習 

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by 小6の母   2017年04月04日 23:54
5 toshi先生、ご無沙汰しております。

前回の記事を拝読して、
『思考における個別と集団の役割の違い』のような事を考えていました。
なかなかまとまらず、休憩中でした。

先日までは、集団は、思考に必要な集中力のパワーを高めるのではないかと思っていました。
ただ、それでは集団の思考は多数決に左右され、危険な方向へ導かれる事も多くなるので、少し違うような気がしていました。

今回、先生のお話から、多くの意見を否定せずに受け入れる事が出来れば、問題解決の糸口の数を増やしておく事が出来るということかなと考え始めました。

人間の優れた能力は曖昧さや矛盾を感じる事が出来る所だと思います。

toshi先生がおっしゃるムダなような事や這い回るような事が、曖昧さと矛盾を教えてくれるのでしょうね。
だとしたら、最短距離で正解にたどり着くことしか教えない今の教育の多くが、間違っている事になります。
せっかく、集団で学ぶ場所でありながら、いかに統制された集団であったかを評価するのでは残念でなりません。

toshi先生、『思考と知識の習得は車の両輪』
これも素敵な言葉ですね。
今月始まる学生の指導に引用させていただきます。

個別と集団の違いの件、なんとなくまとまって来たような気がします。
2. Posted by toshi   2017年04月16日 16:58
小6の母さん
 またまた返信がえらく遅れ、ごめんなさい。
 『思考における個別と集団の役割の違い』。とのこと、おもしろいテーマですね。これも問題解決学習に深くかかわるテーマだと思いました。
 そして、個々の思考、集団の思考が、らせん状に繰り返されるのも、問題解決学習の醍醐味かなと思いました。
 さらにもう一つ。考えるヒントをくださったのが、《集団は、思考に必要な集中力のパワーを高めるのではないか。ただ、それでは集団の思考は多数決に左右され、危険な方向へ導かれる事も多くなる》とのこと。
 思ってもみなかったことなので、大いなる刺激をいただきました。そして、本シリーズの(4)が書けそうな気がしてきました。ありがとうございます。


 
3. Posted by 小6の母   2017年04月18日 06:18
5 toshi先生、おはようございます。
お返事、ありがとうございました。

『思考がらせん状』のお言葉に衝撃を受けました。
すごくイメージし易いです。
第4弾の記事も楽しみにしています。よろしくお願い致します。
4. Posted by Hideki   2017年04月25日 07:48
自分と異なる考え方や反対意見に対して、きちんと反論できることも大切なのでしょうが、まずはその前にしっかり受け止めることが大切なんですよね。

その趣旨や意図、理由をきちんと理解した上で、言うべきことは言う。

その点で、自分と異なる意見の人の気持ちになって、なぜそんな意見を言うのか?を想像する試みというのはとてもとても大切なことだと思う。

特に今の日本は、このことができない。

最近の日本は、自分と同じ意見の人だけで群れてしまい、反対する意見の人を排除して攻撃する傾向が非常に高いように感じています。

インターネットのおかげで情報が余りに多すぎるので、仲間で群れるようになったのも原因のひとつ。

多様な考え方や価値観を受け止めつつ、自分の意見や価値観を主張する、それが本来の姿ですよね。
5. Posted by 小6の母   2017年04月28日 06:26
5 Hideki先生
しっかり受け止めること、私も出来ていないかもしれません。
私の場合は、感情が思考を停止させる事が多いでしょうか…。『思い込み』を排除する事が難しいのです。

娘の学校では、授業公開が月一回あるので、様々な授業を見られます。ただ、どの授業も先生が必要な場面で意見を沢山出して、先生が正解に近い意見をまとめたり、拾い上げたり、こんなに沢山出ましたね、で進んでいきます。
1つの問題を深く意見交換していく場面は、見た事がありません。

なのでtoshi先生の授業が羨ましくなるのです。
今日も社会の資料集から予習する宿題と小学生が言ってますが、そこに『ナゼ?』は生まれているかな〜と横から見てます。
賢い小学生は、自ら滲み出てくるのでしょうね(^_^;)
ふと立ち止まる事がもっと小さい時に沢山必要だったのかな、と反省してます。


コメントする

名前
URL
 
  絵文字