2017年06月28日

問題解決学習のtoshi的考察(4)

IMAG2868 本シリーズは(3)をもって終えるつもりでいた。しかし、小6の母さんやHidekiさんからいただいたコメントが、《ああ。まだ書けるな。》と思わせてくださり、本記事となった。

 わたしはこれまで、問題解決学習というと、子どもたちが白熱した話し合いを展開する、そんな躍動的な授業を中心に紹介させていただいたように思う。想いが対立するなかで多様な想い、考えが出て、その後、資料などによって解決していくといった感じだ。

 そのなかで、自己の想いの修正を余儀なくされたり、解決するそばから新たな学習問題が生まれたりする姿も紹介させていただいた。

 そんな授業での指導者の役割は、意欲的な発言を支えたり、流れを分かりやすくしたりして、できる限り子ども自身の力で問題解決するように仕向けていく。さらにはどんな調べ方をしたらいいか、何を問題として取り上げたらいいか、そんな学び方にかかわることも子どもから出てくるように工夫を凝らすことだ。

 そして、真理を愛する子ども。さらに、それが獲得できたときの充実感、喜びを味わわせることのできる授業を目指した。

 ところで、それを味わわせるには、いつも話し合いが白熱していないとダメというわけではないだろう。学習内容によっては、深く静かに・・・、ときには沈思黙考を余儀なくされることもある。

 たとえば、公害病。戦争。地球温暖化などがテーマのときだね。そんなとき、沈痛な表情を浮かべ、苦悩に満ちた発言となることも多い。

 また、そんな深刻でなくても・・・実は本記事ではそうした授業を取り上げるのだが・・・、しっとりとした味わいのある授業もある。

 そんな視点から、これまでとはちょっと違った趣の授業に迫ってみたい。

 と申しても、その授業はすでに紹介させていただいた。早いもので、もう一年前になる。オバマ米前大統領が広島を訪問されたときの記事だ。もっとも授業そのものは、20年近くも前のものだけれどね。

 校長時代、わたしは卒業式が近づくと、卒業を記念しての道徳の授業を行うのを恒例とした。ある年とり上げた教材文は・・・、そう。原爆が投下された広島を舞台とした話だった。

本リンク先記事は、オバマ演説から書き出し、教材文も全文、掲載させていただいているので、かなり長くなるがよろしくお願いしたい。
なお、一応リンク先記事を開かなくても、意は通じるように書き進めたいと思うが、どうだろうか。もし無理なようだったらごめんなさい。開いてください。

また、最後は授業から離れ、小6の母さんやHidekiさんからいただいたコメントにもふれてみたい。

 それでは、どうぞ。

  オバマ演説から、かつての道徳の授業を思う(再改訂版) 〜母さんの歌全文掲載〜

 繰り返しとなるが、この授業は、子どもが対立したり、反論や賛成意見が渦巻いたりして白熱する授業とはかなり趣を異にする。しかし、子どもが想いを出し合い、それによって想いを深め、感じ取り・・・、学級の友達みんなと話し合うことによって・・・、そう、おうちでは一人で考え、感じ、味わうことになるが・・・、せっかく学級のみんなが一つになり学んでいるのだ。それなら、想い、考えを交流することによって、一人では到底到達しえないところまで学びを深めたいものだ。

 ところで、このリンク先の授業記録では、わたしの言葉は書いていないのだが、もとより何も言わなかったわけではない。

 何を言ったか。ふつうあるような発問はしていない。わたしの投げかけは、最初に、
「さあ。これから配るお話を読んで、みんながどのような感想をもつか。それを自由に言ってください。楽しみにしています。」
そのようなことを言ったに過ぎない。

 そして後は、記事にも書かせていただいたが、不明に思う子どもの発言内容を問いただしたり、一人の発言を別な子の発言に関係づけたり、深めるきっかけになった発言を賞賛したり・・・、そんな言葉かけをしたに過ぎない。

 開かれた授業。子どもにとっては自由に感じたまま発言できる授業。
 
 また最後も・・・、

 子どもたちの発言がすばらしかったから、教訓じみた言葉は不要だった。ただ、
「皆さんの発言のすばらしさに心打たれました。最後の方の発言にあったように、中学校へ行っても、《お母さんの心》をもち続けてくれるものと、大いに期待しています。」
などと言ったに過ぎない。

 そのくらい子どもたちは、よく読み、感じ、道徳的な心情を養ってくれた。

 それでは、授業の流れとその考察に入らせていただきます。

 初めは、原爆投下で悲惨な目にあいながらも、避難し続ける人々とその人々を守ろうとするくすのきに思いを寄せての発言が続く。悲しい、つらい、忘れられないなどといったたぐいの発言が続く。

 途中、くすのきがうれしかったという表現があり、それが少し子どもたちの心を波立たせるが、《くすのきは、体をふるわせていました。》なる文章に着目、その瞬間だけの母子の姿にうれしさは感じても、大変な悲劇の中で、いや、悲劇の中だったからこそ感じることのできたうれしさというとらえで元に戻る。

 その瞬間だけの母子とは・・・、

 幼い坊やも原爆にあい、焼けただれたまま肉親ともはぐれ、『お母さん、お母さん』と泣き叫んでいる。その姿を見た、これも避難してきた女学生が、見知らぬ幼児のお母さんになってあげる。そして幼児を抱いたまま二人とも亡くなっていくという・・・、

くすのきのちょっとしたうれしさというのは、お母さんの心になった女学生のやさしさにふれたからだった。

 そして、子どもたちは続ける。

 女学生のやさしさが、くすのきだってやさしいという思いにつながり・・・、

 さらには、女学生も坊やのお母さんになってあげたことで、独りぼっちではなくなった。死んでいくにもかかわらず、少しは幸せ感もあったのではないかという発言へとつながっていく。

 そして、教材文に書かれている《お母さんの心》なる言葉に、女学生やくすのきの心が収れんされていく。

 ああ。先ほど、《一人で考え、感じ、味わうことも大事だが・・・》と書かせていただいた。

 そう。繰り返しになるが、

一人で読んでも思考をめぐらせ、感性を育むことはできる。でも、みんなで考え合い、感じ合い・・・、それであればさらに、一人では到底到達しえなかったところまで、思考をめぐらせたり感じ合ったりすることができる。

 そして、それはさらに・・・、

時として、一人の指導者の想いをも超えてしまうのだ。本授業で言えば、《女学生も坊やのお母さんになってあげたことで、独りぼっちではなくなった。死んでいくにもかかわらず、少しは幸せ感もあったのではないか。》
などという想い。これはもう、指導者たるわたしの想いを超えていたとしか言いようがない。それほどすばらしかった。

 今、わたしは実感している。指導者が発問を繰り返していたら、子どももそのはんちゅうでしか気づくことができず、またとらえられず・・・、指導者を超えるなどということはまずないのではないかと。
 
 そして、本授業の最後・・・、この授業は6年生の卒業を前にしての授業なのだが・・・、中学校へ進学するにあたっての自分たちの想いへと話を進めていく。そうか。想いというよりも、自分自身のこれからの生き方にひびくような発言だね。

 こうした授業の流れを振り返ると、どの発言も、それより前の友達の発言を聴き、それをよりどころとして思い浮かんだことを発言しているのに気づく。想いはあくまで一人一人だけれど、互いに刺激し合い、影響を受け合って、その想いを深めていくのだ。

 ここにこそ、学級の存在意義がある。友達のおかげで共同思考が成立している。そして、共に学び、思いを交流させてこそ深め得たのだという喜び、満足感、充実感をももつことができる。

 そう。本授業の最後の子どもの発言。
「このお話を小学校生活の最後にみんなと一緒に学んだことは忘れないようにしたい。」
なる発言が端的にそれを示している。
 
 さらにもう一つ。これは逆に、卒業期に至ってもなお、子どもたちにとっての問題解決学習は発達途上であることを示す事例だが・・・、

 授業終了後、わたしのところにやってきたEさんだ。

 Eさんは友達の発言を聞いているうちに、友達の想いに納得し、共感し、共有できるようになった。しかし、共有できたら・・・、《さっきまで発言しようと思っていたことは、どうでもいいこと。それよりもっともっと大事なことがあるのだな。》という想いをもつに至り、それで発言できなくなってしまったのだね。

 でも、Eさんには、言わずにはいられない思いはあった。だからこそ、わたしのところへ来たのだろうが、

わたしの《今、わたしに言ったように、その言葉をそのまま発言してくれればよかったな。》の言葉で、目が開かれたと思われる。《そうかといったように、ハッとした表情を見せて、ちょっと笑みをもらしてくれた。》のだからね。

そう。変容自体、すばらしいのだ。だから、《友達のおかげで、このように思いが変わった、深まった。》という趣旨の発言をすればよかったのだ。

 以後そうした発言もできるようになったのではないかな。 

 一時間、一時間の授業。それは子どもの成長のためにある。そして、このEさんの変容、深まり。これも一つの成長と言える。その成長を自身で感じ取る力。これも大事な、大事な学力だ。


 それでは、小6の母さん、 Hidekiさんからいただいたコメントにふれさせていただこう。

 小6の母さんからいただいたコメントには、《集団は、思考に必要な集中力のパワーを高めるのではないか》とあった。

 まったくその通りだと思う。ここまで述べてきたとおりだ。

 そして、これは担任の日々の努力があってこそだろう。一日にしてこんな話し合い、深め合いができるようになるなどとは思えない。時には激しく議論し、ときには沈黙の中で自分の想いをふくらませる。そうした子どもを養う日々の営みがあってこそだ。

 まだある。やはりより多くの子が発言できる雰囲気。これも担任の日々の努力の結果だろう。より多くの子が発言してこそ、学びはみんなのものになる。いろいろな力の子がいるのだ。一部の力のある子だけで話し合いが進めば、どうしても話し合いはむずかしくなってしまう。それではついていけない子もでてきてしまうだろう。

 こうした担任の努力によって、集中力のパワーが高まるのだ。

 わたしたち、問題解決学習を標榜するものは、よく、《問題解決なき問題解決学習も可》という。

 子どもから多様な考え、想いが出る。それらはどれも尊いものだ。価値あるものだ。だから、無理して一つにまとめる必要はない。

 そして、友達の想い、考えを理解し、《ああ。自分とは違うが、そんな考えもあるなあ。》と感じる力も大切だ。また、それを自己の想い、考えに取り込むこともあっていい。それによって、見方、感じ方の幅が広がる。

 ああ。これはHidekiさんと思いを共有することになるが、今の日本の大人社会はどうだろう。

 日本は言論の自由が保障されているのに、ほんとうに自由かな。内なる意識で不自由にしてしまっていることはないかな。自己規制、自己抑制。それが行き過ぎて、自分自身がそれに気づかない。自己を発揮するのは悪かのように思ってしまっている。あるいは、思わせてしまっている。

 これは、幼少期からの自己表現、自己実現になれていないからではないか。経験が乏しいからではないか。場合によっては、自分を出すことは悪かのように思わせられてしまっていることもありそうだ。だから、幼いうちから他に合わせることしか眼中にない。

 そう。小6の母さんがおっしゃる多数決。これも同じだね。気づかないまま長いものに巻かれてしまっている。

 そこに学校教育の責任はないだろうか。授業はどうだろう。子どもの自己表現を大事にしているだろうか。

 小6の母さんがふれてくださっている。

 《どの授業も先生が必要な場面で意見を沢山出して、先生が正解に近い意見をまとめたり、拾い上げたり、こんなに沢山出ましたね、で進んでいきます。
 1つの問題を深く意見交換していく場面は、見た事がありません。》

 ああ。小学校学習指導要領には、「主体的に学習に取り組む態度を養い,個性を生かす教育の充実に努めなければならない。」とあるのだけれどね。

 

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 今、アクティブラーニングがいろいろとりざたされています。日本語では能動的な学習と言われているようですね。受け身の学びではなく、子ども自らが積極的、意欲的に学ぶということでしょう。その意味では問題解決学習と軌を一にすると言っていいかもしれません。

 しかし、現状言われているところを見ると、似て非なる部分もありそうです。それは、どうも単なる指導法の問題ととらえているからではないかと思います。

・ほんとうに子どもが自ら解決したいという思いを尊重しているか。養っているか。
・毎時間は無理としても、子どもが生み出す学習問題を大事にしているか。
・知識・技能も大事だが、学び方、生き方にかかわる学習内容も大事にしているか。


rve83253 at 17:14│Comments(6)問題解決学習 | 教育観

この記事へのコメント

1. Posted by Hideki   2017年07月04日 10:00
Hideki です

いま、世間では「ファシリテーター(略称ファシリ)」の重要性がとても注目されています。

ところが、見ていると自分の考えを前面に出し、自分の意に沿うように全体をコントロールするファシリが多いように思うのです。

でも、それはいってみれば「アジテーター」です。「ファシリテーター」では決して無い。

自分の思う姿・自分の理想・自分の考えに、沿うように誘導するのはファシリテーションではありません。

Toshiさんのお話をうかがっていると、まさしく子ども達の考える力を引き出すのは教師の「ファシリテーションのスキル」が大きいと感じました。

ただ、残念ながらファシリテーションの意味を知らない教師も多いのでは無いでしょうか?

それは、そういう教育を受けてこなかったのだから無理もない話なんですが。

かくいう私も、それは35歳のときにビジネススクールで初めて目の当たりにした次第です。それまでは、そんなことを意識もしなかった。

学校教育と社会人教育は一緒にはできないものと思いますが、「考える力を育てる」「考える技術を身につける」という点で通じるものはあると思うのです。
2. Posted by 協働学欲   2017年07月04日 15:53
欧米の学習も、プッシュ型(押し込み型)からプル型(引き出し)への転換が課題になっていますね。プル型ではプッシュ型以上に子どものことをよく把握し、引き出し処を見つける指導技能が大事になりますね。

アクティブという型が大事なのではなく、その学びの場でどの様な質の考え合いが形づくられているか。教科的なものの見方、考え方という視点で安心している様では、真の学びの深みを知ることができないでしょう。それも、大事ですが・・・。

子どもと共感しつつ情緒的にも子どもと揺れながら響き合う。響感の学び。時には子どもと共に迷うことを恐れつつも、子どもの力を借りつつ共に学びを深めて行く。そんな授業はいいですね。

教師がする授業づくりだけでなく、子どもが行う授業づくり。子どもが授業づくりの主体として活躍する授業をデザインできる教師が求められている気がします。
3. Posted by toshi   2017年07月05日 14:59
Hidekiさん
 大変興味深い話題です。ありがとうございます。
 授業においては、指導者にねらいがあり、学習内容についても明確なものがあります。ですから、《自分の思う姿・自分の理想・自分の考え》は明確にあるのですが、コントロールは極力しないように努めるわけですね。少なくとも、それが子どもの目に見えれば見えるほど、子どもは受け身になりますし、自主性、主体性ある学びをそこなうわけです。
 また、別な観点から言わせてもらうと、
 一時間一時間の授業には指導案をもちますが、わたしたちは指導案は覚えて忘れろと言います。ほんとうに忘れてはいけないのですが、教室で子どもの前に立てば、第一は子どもですよという意味です。子どもの想い、考え。まずはそれが優先します。それをどう指導者側のねらいや内容にそわせるか、それが勝負どころとなりますね。
 子ども側から見た場合には、自分たちががんばって、先生がそれを支えてくれたから、とても充実した学びになったという想いになってもらいたいと願います。
 ファシリテーションスキル。学ばせてもらおうと思います。ありがとうございました。
4. Posted by toshi   2017年07月05日 15:14
協働学欲さん
《時には子どもと共に迷うことを恐れつつも、子どもの力を借りつつ共に学びを深めて行く。》
《教師がする授業づくりだけでなく、子どもが行う授業づくり。》
 またまた、新たな概念を抱かせていただきました。ありがとうございます。
 子どもを学びの主体者として位置づけられるか、子どもを信頼できるか、ある先生は、子どもを尊敬できるかと言いました。
 わたしなど、とても尊敬とまではいかないのですが、しかし、自分の記事を振り返ると、《時として、一人の指導者の想いをも超えてしまうのだ。》あたりが、尊敬に値するかなと思いました。
 また、協働学欲さんのコメントからは、わたしたち、子どもとともに創る授業とよく言うのですが、それを思い浮かべました。
 ありがとうございます。
 
 
5. Posted by 若松若水   2017年08月06日 23:02
5 いつも、愛読しています。
私は、ずっと国語科の高校教員をしてきましたが、今年が満60歳、ラストイヤーです。
先生のような充実した「定年後」を送りたいと希望しています。
最近、始めたばかりの私のブログ「紙風船」も覗いていただければ幸甚です。



6. Posted by toshi   2017年08月11日 16:08
若松若水様
 ご愛読賜り、ありがとうございます。
 拙ブログは、高校の先生にもよく読まれているで、そういう意味でも、ありがたく思っております。
 最後の年はいろいろ感慨無量なものがあるでしょうね。教職においては、今はむかしと違い、退職後もいろいろな仕事があるようですから、ご奮闘を祈念しております。
 貴ブログ、拝読しました。ブログ開設、おめでとうございます。
 どうぞ、お仲間として、末永くよろしくお願いします。
 実は、我が亡母は、福井県の出身です。ですから、わたしの血は半分福井県であると思っております。
 そういう意味でも、どうぞ、よろしくお願いします。

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