久しぶりの初任者指導で、すみません。前記事の補足、訂正です。

2018年04月23日

Aさんへの最後の初任者指導 (問題解決学習とは!?)

sotugyo 昨年度の最終日は、修了式に続いて離任式が行われた。初任者指導のB小では、今年度初任者の着任がないということで、わたしは自動的に離任となった。

 そうは言っても、実は1月から3月までの3か月間、4年生3クラスで社会科専科となっていた。

 それは、

・前記事に書いたように、初任者Aさんの学級経営力がすばらしいこと
・わたしは前年度まで、お隣のC小で社会科専科を仰せつかっていたが、そのことをB小の先生方も知っていて、うちの学校でも是非ということになったこと

などがあったからだろう。

 わたしにとってもこれはうれしい話で、校長先生のご了解をいただき、やらせてもらうことにした。

 あるとき、Aさんと話した。
「社会科専科を仰せつかってから、初任者指導はたまにしかやらなくなってしまったな。」
「いいえ。そんなことないです。確かに直接ご指導いただくことはへりましたが、その分毎回、わたしのクラスで社会科の授業を見せてもらっていますから、それが研修になりますし、ありがたく思っています。」

 さらに続けて言うには・・・、

 子どもたち、次の日、社会科があると分かると、『ばんざあい。』『やったあ。』などと言うらしい。すごく喜ぶのだそうだ。

 これはある意味、意外だった。なぜかと言うと・・・、それまでこのクラスの子たちは、わたしに対してよそよそしい態度がないわけでもなかったからだ。

 ふだん、笑顔を向けてくれたり挨拶してくれたりはするものの、気軽に話しかけてくる子は少ない印象だった。

 これはやはり、Aさんと子どもたちとの関係がすばらしいからだろう。わたしは空気のような存在だった。

 でもこれは喜ばしいことだ。Aさんのクラスなのに、子どもがわたしの方にばかり寄ってくるとしたら、その方が問題だろう。

 そんな思いもあり、示範授業と称するわたしの授業は、極力減らしてきた。

 そんな折りの社会科専科だったわけだ。
 
 さて、それでは、前述のように、年度末、Aさんと話す機会はめっきり減ってしまったので、このブログを通し、この3か月間のわたしの授業をとり上げながら、最後の初任者指導をさせていただこう。

なお、本記事は、問題解決学習がテーマとなる。

1,前記事で、冒頭の導入でのふり返りと終末のまとめはいらないと書いた。

 わたしの授業がまさにそうだった。基本的に本時の学習問題は、前時の最後ににじみ出るように生まれている。それは子どもの思いによるが、子どもの思いをより明確にしたり際立たせたりするために、わたしが口を差しはさむこともある。

 そうすると、子どもたちは、家で調べたり親に聞いたりして次の授業に臨むようになったり、どの資料が役立ちそうかと心に留めたりするように・・・、そういう子がふえてくる。

 彼らは発言したい思いでいっぱいだ。朝、廊下で出っくわすと、うれしそうに、
「toshi先生。今日は、〜をやるんだよね。ぼく、調べてきたよ。」
「toshi先生が昨日見せてくれた資料はおもしろかった。それでね。ぼく、その資料で発表したいことがあるんだ。だから最初に指してね。」
などと報告に来たり、お願いをされたりする。

 また、担任から、
「toshi先生。うちのクラスのDさんが、いい資料をもってきたんですよ。後で見てやってください。」
などと言われることもある。そんなときは授業の冒頭、
「Dさん。どんな資料なの。楽しみだな。見せてくれる。」
と、今度はわたしがお願いをして、その資料が導入の役割を果たすこともある。

 ぞんなわけで授業はいきなり核心から入ることになる。また、繰り返しにになるが、終末のまとめもいらない。授業の終末は次時の学習問題が生まれるように努めたい。ふり返るのではなく、先を見つめるのだね。

2、授業と授業の合間を大切にしたい。

 くわしく見てみよう。

 B小の1月以降の単元は、
〇郷土の開発では、江戸時代の、入海をうめたててできた吉田新田(現在は横浜の中心部)
〇地域の伝統工芸では箱根寄木細工
〇地域の産業では三浦市のダイコンづくりと三崎漁港のマグロはえ縄漁をとり上げた。(神奈川県の概観はすでに担任が指導している。)
となっている。

 さっそく両親にせっついて、現地を訪れる子が現れた。吉田新田の外周(約5km)を一周したり、寄木造りのふるさと、箱根畑宿を訪ね、見学したり体験教室で学んだりした。

 多忙な中、我が子の思いにこたえ、一緒に行ってくれたご両親には感謝している。

 これは、ホットな学習問題に対して、解決せずにはいられない心情が生まれているからだろう。

 だいたい、解決のための資料は指導者が用意すること、当然であるが、このように子どもが動くようになると、徐々に子どもの手によって解決する場面が増えていく。

 ただ、その成果が、必ずしも授業の流れに合うとは限らない。ホットな学習問題とは、ずれることも多いのだ。その場合は、
「すごくいいことを学んで(調べて)きたね。でも、それをとり上げる授業は何時間後になるかな。そのとき絶対やるから、待っててね。」
などと言う。

 そう。子どもたちが主体的に学んだことは、できるだけ授業にとり込むようにしたい。そして、
「この学習は、Eさんのおかげでできたのだね。」
と言って感謝するようにする。

3、テレビに例えると、授業には、大河ドラマ型と水戸黄門型とがある。
 大河ドラマ型は、今日の続きはまた次時へというわけで、終わると次の展開が楽しみとなる。その2で述べたとおりだ。ここでは、F組の箱根寄木細工における、子どもの思考の流れの一端を追ってみよう。

 単元の導入では、わたしや子どもたちが持ち寄った寄木細工の工芸品を見た。そして、感想を中心に思ったことや疑問などを発表し合った。

 2つのクラスでは、《どうやって作っているのだろう』という疑問から工程を追っていくことになったが・・・、F組は違った。

 印刷したものが箱に貼ってあるのだろうと思った子が何人もいて、物議をかもした。そこで、製作の様子を示した写真を教室の大きなテレビに映した。その結果、印刷などではなく、木を切ったり貼ったりけずったりして作っていることをつかむ。

 すると、Gさんが、 
「でも、ふしぎだ。寄木細工の模様には、木の色じゃないのもあるよ。黒い木や赤い木なんかもあるじゃん。」
「そうだ。そうだよ。そんな色の木、ないよ。」
と何人もの子が言う。そこで、この疑問を次時の学習問題とする。

 次の授業では畑宿の寄木会館で撮影した原木の写真を示す。そこには、赤や黒はもちろん、他にもいろんな色の木があることが分かり・・・、

 そう。一件落着する。そして、落着すると、そこから新たな疑問が生まれる。

 今度は、各、原木に添付された表示を見て、その多くが国内各地、さらには外国から輸入した木まであることが分かり、驚く。《どうして箱根の木を使わないの》というわけだ。

 特に寄木細工の歴史を調べている子は、箱根で寄木細工が盛んになったわけとして、《箱根にはいろんな種類の木が豊富にあったから》というのを知っているから、余計ふしぎがる。

 この議論は沸騰した。

・赤や黒の木の産地が分かったことにより、箱根だけでは、色の種類が限られてしまうのではないかと考えた子、でも変だ。箱根の木はまったくないよ。箱根の木は使わないみたいと反論する子。
・箱根がはげ山になってはいけないからと考えた子。しかし、これには、あんな小さな模様なのだから、いくらたくさん作ったとしても、はげ山になるほど切ることはないと反論する子。

 そして、最終的には、わたしが示した資料により・・・、

 国立公園は観光客が大勢来るから、自然を守らなければいけない。そのために木を切ることが禁止されていることをとらえる。

 ・・・授業の流れを追うのはこのくらいにしておこう。ただ、工芸品と原木とを見たことから、その間の製造工程に関心が向かい、他の2クラス同様の流れとなった。

 なお、この単元では、
・手作業による製造工程理解の他、伝統工芸士の修行、江戸時代からわざを伝えてきたこと、
・ズクという古い技法を大切に守る一方でムクという新たな技法も生み出したこと、
・畑宿には旧東海道の一里塚があり、旅人の休憩所になっていたことから、お土産として人気があったこと、
・国は伝統工芸として、全国各地の工芸品を指定していることなどをとらえる。

 さて、それでは、水戸黄門型の授業にも触れてみよう。「この印籠が見えないか。」ではないが、授業はいつも一件落着で終わる。そして、次の授業はまた別な学習内容となる。教師主導になりやすく、子どもの思考はつながらないのがふつうだ。次の授業への情熱もあまり期待できない。

4,子どもの思考によって展開する以上、できるだけ多くの子どもが授業で活躍できるように配慮したい。少なくとも《お客さん》をつくらないようにしたい。

 ・発言する子を増やすには、指導者が子どもの発言をよく聞くことだ。
 意味不明だから、あるいは変なことを言うからとばかりに切り捨てない。さらには、教師の期待した発言ではないからといって無視しない。
「Fさんが言いたいことは、〜ということかな。」
「Fさんの言っていることがよく分からない。ごめんね。もう一回言ってくれるかな。」
「Fさんの言っていること、分かるっていう子はいるかな。いたら、通訳して。」
「なるほど。それも言えるね。先生、思ってもいなかったよ。見方が広がったね。」

 三番目の《通訳》に関係して、おもしろいことがあった。

 単元の導入、寄木細工の工芸品を見て、その感想を中心に思ったことや疑問などを発表し合う学習のときだ。

 H組のJさんが、感想として、
「どの模様もきれい。同じ模様でつながっているところと、いろいろな模様のところがあっておもしろい。寄木細工って、新しい製品だと思う。」
と言った。

 前半は、「ああ。工芸品をよく見ているな。」と感心したが、「新しい」にはちょっとびっくり。でも、そのまま板書した。特に反論もないまま授業は進んだ。

 何人目かで、《むかしから伝わっている作り方だと思う。》という感想の発言があった。

 感想が一応出尽くしたかなと思ったタイミングで、わたしは、板書の「新しい」と「昔から伝わる」を線でつなげだ。

 Kさんが声を張り上げた。
「おもしろい。正反対じゃん。」
何人もの子が同感の表情だ。

「そう。おもしろいよね。でも、これ、工芸品を見た感想だから、感想は自由だよ。今日の学習では、どっちが正しくてどっちが間違いということはない。ただどちらの思いに近いかは言ってほしいな。」

 発言した子全員が、《むかしから伝わる作り方》に共感の念を示した。そんなときだ。Lさんが、Jさんの思いをおもんばかって発言。

「ねえ。みんな。Jさんは新しいって言ったんだけど、これは、これまで見たことがない模様とか、めずらしい模様とか、そういうことを言いたかったんじゃないの。」

 Jさん、うん、うんと言いたいばかりに、うれしそうにうなずく。他の子の中にも、《そうか。そういうことだったのか。》とばかり、納得している子が多い。

 《通訳》というのはそういうことだ。大人にとって意味不明の発言も、子ども同士なら共感し合ったり理解し合ったりすることができる。

 わたしは、Lさんの、友達の思いを大事にし、おもんばかる心を絶賛した。

 それにしても、少しは《新しい》に共感する子もいるのではないかと思ったが、まったくいなかったので、少し、Jさんにかわいそうなことをしたなと思ったわたし。わたしもLさんの発言で救われた。

 そこで、《新しい》の板書を消して、《見たことがない》《めずらしい》と書き換えた。

 ここで言いたいことは、

 子ども同士のやりとりに、対立場面でも、相手を理解しようとする心が感じられる。いや、対立するからこそ、自分と違う思いに興味関心をもち、見方を広げようとする心情が養われるのだ。

 わたしはそうした心を絶賛するだけでいい。

 問題解決学習は、子どもの心をも耕す。

5.お客さんをつくらない手立てとしては・・・、

 実は、以下、Aさんのまえではやっていないので、ここで述べるのは大変恐縮してしまうのだが、
もう一つ、ぜひ書いておきたいことがある。

 それは座席表指導案なるものだ。

 ここで言いたいことは、にじみ出て終わるのではなく、生まれたら、その学習問題への思いも書かせたいということだ。

 書かせたらそれを読んで、本時の授業に臨みたい。

・おもしろい。LさんとMさんの思いは正反対だな。よし。この対立を浮き立たせようとか、
・授業冒頭では、Nさんの思いをとり上げようとか、
・Pさんはいいことを書いている。ぜひ発言してほしいが、ふだんほとんど発言しない子だ。たぶん言わないだろう。よし。それなら、
「誰が書いたか忘れちゃったけれど、すごくいい感想を書いた子がいるよ。わたしが紹介するね。」
あるいは、
「Pさん。とってもいい意見だ。発言できたらしてごらん。できないなら、代わりにわたしが言ってもいいかな。」
など、どう投げかけるかを考えるとか、
・いろいろな思いがあるな。よし。それらをとり上げて、子どもたちにその多様性を気づかせようとか、
・Qさんの思いに収束しそうだ。それなら、この資料を用意しておこうとか、
・その他、いろいろ・・・

 このようにして授業の構想を練るのだ。

 しかし、なかなか現実は構想のとおりには流れない。そこに生きた子どもの姿がある。そこから、生きた授業というものを学んでほしいのだ。学び続けることによって、子どもの姿がよく見通せるようになっていく。子どもも躍動的になっていく。

 ああ。ごめんなさい。今回の、1月から3月までの授業では、そこまでAさんにお見せすることはできなかったね。

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〇1で、子どもの資料によって授業が始まると述べましたが、その資料はわたしも持っていることが多いです。でも、あえて、「Dさんのおかげで今日の授業が成立した。」というかたちをとるのです。

〇2にかかわりますが、学校も社会科見学は積極的に行っています。吉田新田の場合は、新田にあたる部分の半分を縦断したり、近くの丘から新田の全体を眺望したりしました。新田と言っても、今はビルばかりですがね。

〇3で述べた、問題は解決するそばから次の問題が生まれるということ。これは、単なる指導法の問題ではありません。社会事象はそういうものではないでしょうか。大は世界情勢から、小は家庭生活、学級生活に至るまで、一件落着のそばから、次なる問題が生まれているのだと思います。

 これで人生バラ色、世界もバラ色。何の問題もない、極楽極楽・・・、そんなことは永遠にあり得ませんものね。

〇4.の、対立するからこそ仲良しというのは、他者理解につながるからです。

 話は変わるのでしょうか。変わらないのでしょうか。

 このB小は、歌もすばらしいものがあります。どのクラスも、まるで合唱団のようです。これは、他のパートをしっかり聞いて、声が溶け合うように、響き合うように、意識して歌っているからではないでしょうか。

 合唱と話し合い学習と・・・、他者を大事にする。響き合う。何やら、通じるものがありそう。そんな思いも持ちました。

〇問題解決学習を進めるにあたっての、子どもへの究極の願いは何でしょう。

 上の学校に進んだとき、また、大人になった時、仕事でも、学校、家庭生活でも、様々な問題に遭遇するでしょう。そのときは・・・、よりよい選択をしなければなりません。行き当たりばったりでなく、問題を的確に把握し、より客観的に事態を見つめ、真に自分に合った人生の選択をするのです。つまり自己実現に資する。そういう学びなのです。


rve83253 at 05:20│Comments(3) 初任者指導 | 問題解決学習

この記事へのコメント

1. Posted by Hideki   2018年04月23日 08:23
素晴らしいですね!

いろいろな点で、さすが!と思わせるのですが、特に「疑問を見つける・問題を見つける授業」に徹していること。

問題解決学習というと、問題をどう解決するか?という点に焦点が集まりがちなんですが、実は問題をみつける(何となく感じる違和感を言葉にする)ことがすごく重要で、しかも難しいんです。

それは、社会人になって顕著にあらわれてきます。今までのやり方や考え方をゼロベースで考え直し、しかも全否定ではなくその中の良い点も見つける。。。これが最も大切なのですが、なかなかできない。

どうしても前例主義に陥ってしまう。

そうなると、革新的なものは生まれないばかりか、むしろ問題に気がつかず最悪な場合は不祥事を永年にわたって続けるという事態すら招く。

それもこれも、問題は与えられるもの(=指示待ち)という教育の問題も大きいのではと感じています。

あと、他人の意見(異論)を尊重し受け入れる姿勢もすばらしいです。

一点だけ、気になったことがあります。

授業のまとめをしない、とありますが、「まとめ」を先生がすることは正解主義≒教え込みにつながるかもとは思うのですが、生徒自身がまとめをすることは重要なのではと思うのです。

漠然と感じた、感覚そのものは大切にする必要はあると思いますが、いっぽうでそれを言葉に落とし込むと感じたことの正体がくっきりとすることで考えや思いが深まると私は思っています。
2. Posted by toshi   2018年04月29日 14:19
Hidekiさん
 Hidekiさんは教職に就かれた方ではないのに、すごいなと思います。問題解決学習をよく理解されています。そして、大人になっての生き方につなげて考察されています。
 Hidekiさんのコメントの
《革新的なものは生まれないばかりか、むしろ問題に気がつかず最悪な場合は不祥事を永年にわたって続けるという事態すら招く。それもこれも、問題は与えられるもの(=指示待ち)という教育の問題も大きい》
からは、今の日本の政治の不祥事、疑惑などを思い浮かべてしまいました。
 気になった点とおっしゃっていることからは、わたし自身が学ばせていただいた思いです。この点については、次回記事にふれさせていただこうと思います。
 よろしくお願いします。
3. Posted by Hideki   2018年05月16日 10:51
Toshi さん、実は問題解決学習というものを私が知ったのは、35歳の頃のビジネススクールにおいてなんです。

そこで、「考えることにも技術」があるということを初めて知りました。技術というとテクニカルなことに思われますが、むしろ頭の使い方という基礎スキルを指します。

ボールを投げるときの筋肉の使い方ってあります。それを知らないで無理やり力いっぱい投げても肩を壊すだけ。脳にも同じことが言えるのです。

そして、そこでの学びは、それ以降の私の社会生活すべてに生きています。

その上で、そのことを自分自身は子どもの頃に学んでいなかったこと、もっと小さい頃からそのことを学んでいく必要があるのではないか?と10年ほど前から痛切に感じるようになりました。

新入社員などを見ていて、この考える力が考える技術が足りていない、そう感じたからです。

また、灘高校のとある授業を描いた「奇跡の授業」という本を読んだとき、その素晴らしさに感動しました。(銀の匙という本を3年かけてゆっくりと読むという国語授業の話です)

だから、昨今の学校での「問題解決学習」に対する注目は私にとっては文字通り、意を得たものであり大変期待をこめてみていた次第です。

しかしながら、どうにも勘違いしているとしか思えないものが散見される。テクニカルに過ぎる、プラクティカルに陥ってる。

そんな最中でのtoshiさんの授業は、まさしく本当の問題解決学習だと感じ入った次第です。

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久しぶりの初任者指導で、すみません。前記事の補足、訂正です。