2018年05月23日
すみません。前記事の補足、訂正です。
すみません。前記事の《授業の終わりのまとめはいらない。》について、補足、修正をさせていただきます。それは、前記事にお寄せいただいた、Hidekiさんからのコメントへの返信でもあります。その内容をかいつまんで書かせていただくと、
まずは我が記事について、《すばらしい。》とおっしゃっていただきましたが・・・、
わたしが《まとめはいらない。》とした点については、まとめの重要性とその意義を書いてくださいました。
それは共感できるものであり、ありがたく拝読しました。また、かつては自分もHidekiさんがおっしゃるような意味でのまとめをしていたこともあって、何よりむかしの我が実践を思い出させていただき、その点、恥ずかしくなりました。
その上、初任者Aさんにも、何回かまとめはいらないと話してきましたので、これはもう、補足、訂正させていただかなければと思いました。
ああ。さらに、その上・・・、前記事ではサブタイトルとして、《問題解決学習とは》としています。
問題解決学習に、一時間の授業のまとめは不要・・・。そんなことはないはず。
これはもう、本記事を読まれる若い教員のためにも、改訂版を書かないわけにはいかないな。そう思いました。申し訳ありませんでした。
ここで、その部分に関するHidekiさんのコメントを引用させていただく。
《「まとめ」を先生がすることは正解主義≒教え込みにつながるかもとは思うのですが、生徒自身がまとめをすることは重要なのではと思うのです。
漠然と感じた、感覚そのものは大切にする必要はあると思いますが、いっぽうでそれを言葉に落とし込むと感じたことの正体がくっきりとすることで考えや思いが深まると私は思っています。》
わたしがまとめはいらないとした最大の理由は、Hidekiさんのお言葉をお借りすれば、《「まとめ」を先生がすることは正解主義≒教え込みにつながる》という点にあった。
このまとめ方だと、子どもは受け身で、何よりまとめることの必要性、切実性がない。よく理解できないまま、ただ黒板を写すことにもなりかねない。すなおな子、力のある子は、「ああ。これが大事な学習内容なのだな。」と思うかもしれないが、多くの子にとっては意味なくただ写しているに過ぎない。
そして、言うまでもないが、全員同じまとめとなる。ノートはきれいかもしれないが、でも、それだけのことだ。
その一方で、《言葉に落とし込むと感じたことの正体がくっきりとする》については、まったく異存がない。子どもが主体的にふり返り、自分の言葉でまとめるのならね。
まあ、負け惜しみではないが、わたしの前記事での思いは・・・、言葉に落とし込まなくても、《話し合い学習のなかで、学んだことの価値、概念がくっきりと明確になるような・・・、そういう授業を目指しなさいよ》と、Aさんに言いたかったのだが・・・、
でも、でも・・・、《そういう授業をすれば、言葉に落とし込む必要はない。》と言ったら・・・、やっぱりそれは言い過ぎだろう。
話し合い学習でのそれは、躍動、活発、ひらめき・・・、そうしたなかでの獲得であるのに対し、書く活動でのそれは、沈思黙考、落ち着き、静的な中での獲得ということになろうか。
やはりどちらもあっていいし、大切。
ああ。したがって、前記事で、ふり返ることはないというのは、やはり言い過ぎだった。
さて、それでは、まとめ方はどのようになるだろうか。
たとえば、
「先生。今日、Aさんが言ったこと、すごくよかったよね。みんなも賛成したし、ぼくも確かにその通りだと思った。忘れたくないから、ノートに書いておくんだ。」
そんな発言があれば最高。いや。なくてもそんな気分でまとめるようになればすばらしい。
そして、それぞれの子どもが自分の思い、一番心に残ったことを中心に、自分の言葉で書き留めるのだ。

一番心に残ったこと、それはいろいろあるだろう。
・友達と議論し合ったなかで、心に残ったこととか、
・議論した結果、自分の思いが変わったとか、深まったとか、
・逆にみんなが自分の思いに賛意を表してくれてうれしかった。その中身は、など・・・、いろいろあっていい。
・また、発言でなくても、《あの資料で寄木細工に携わる人のわざは〜で、すごいと思った》など、心を大きく揺り動かされた資料などを中心にまとめたっていい。
何を書くかは子どもの思いで自由だ。それでこそ、個性的で生きてはたらく知識を獲得できる。
そして、折々にノートを集めチェックする。ねらいに迫っているか、枝葉の部分にとどまっているか、関心はどの方向に向かっているか、分かったこと中心か、次の授業につながるような疑問、問題などにふれているか・・・など、など。
まだこうしたまとめ方になれていない段階なら、指導者が、いいなと思うノートを全体に紹介するのもいいだろう。本人の了解をもらってだけどね。
さらに・・・、《この授業の殊勲賞は誰だろう。》
そう言って、一番活躍した子をみんなで認め合うようなこともやったらどうだろう。
その基準はいろいろだ。たとえば、
・ふだんあまり発言しない子がしたら、内容に関係なく認めるとか、
・学習内容を深める発言をしたのは誰かとか、
・授業を盛り上げたのは誰かとか・・・、
ああ。でも、これは、Hidekiさんがおっしゃるまとめとはちょっと違うね。授業を活性化するための一手法と言ったらいいかな。
でも、でも、そんなにあれもこれも、やる時間がない。次の授業の学習問題も意識させたいしね。ただでさえ、時間を押してしまうことも多いのだから・・・。
だから、そうする必要はないだろう。授業ごとに、その授業の終わり方によって、いろいろあっていいのではないか。
我が後輩の話で思い出すことがあります。この方は、現校長でもあります。聞いたのは数年前ですが、担任時代のことを話してくれました。
「先日、教え子の同窓会がありましてね。子どもたちが言うのです。社会科のノートは今も大事にとってある。とても捨てられるものではないって。
そのとき、そのときの自分たちの思いがつまっていますし、なつかしく授業を思い出すのだそうです。」
「それはすごい。わたしはとてもそんなところまではやれなかった。
思い出すというのは、ただ思い出すだけではないと思いますよ。今も、彼らの生き方にひびいているのではないでしょうか。
問題解決に悩んだり、困難な事態に遭遇したりしたとき、また逆に、乗り越えたときなど、ノートをそっとふり返って見るなどという子もいそうですね。」
わたしはそんなことを言いました。
ああ。前記事にお寄せいただいたHidekiさんからのコメント2つ。まだお読みでなかったら読んでいただければ幸いです。
もう一つ。《ああ。》
前記事を書いたとき、このエピソードを完全に忘れていたことが悔やまれます。




