2007年09月

2007年09月30日

雨のなかの運動会 学校だよりへの想い(14)4

b7c9926b.JPG 長女夫婦は、我が家から車で一時間ほどのところに住んでいる。その長女夫婦の長男が通う幼稚園の運動会が、昨日、行われた。

しかし、この、『運動会決行』には驚かされた。天気予報は雨だったし、早朝より本降りと言っていいお天気だったからだ。そこまで行くのに、ずっと、ワイパーを動かしながらの運転だったしね。まさか、やるとは思わなかった。

『それなら、なぜ行ったのですか。』と聞かれそうだ。それは、ただただ、『孫、会いたさ』だったのである。


 霧雨のなかの開会式。続いての、孫をはじめとした園児たちの見事な演技。

 そう。お天気は、だいたい霧雨。ときどき、やんでいるという状態。でも、何より寒いのには参った。わたしは、薄着で出かけてしまったので、娘のご夫君のセーターを借りて見物していた。


 小学校で言うところの徒競走とか、父母参加競技などはとばし、長期間練習をつんだであろう種目に限定し、運動会はすすんでいった。そうした流れを見ながら、わたしは、見ず知らずではあるが、園長さんの決断に思いをはせていた。

・今はピンポイントの天気予報がある。それがあんがいいい予報だったのかな。
・近接する小学校の校庭を借りての運動会だ。延期するにも不自由さがあるのに違いない。無理してでもやれるだけやってしまおうと思われたのかな。
・今のところは何とかもっている。このままの状態で昼食を迎えてしまえば、あとは、いつ中止になっても保護者は納得するだろう。それまで何とかもってほしい。

 知らず知らずのうちに、主催者側の気分になっていることが、我ながらおかしかった。
 

 ところが、昼近くなると、やや本降り状態。
 上記のような種目が一段落したようで、そのまま閉会式となった。昼食は各自、おうちに帰ってということで、お土産をもらって帰宅した。


 さて、園長さんではないが、運動会や遠足のときの、実施か中止かの判断は、頭の痛いことではある。ほんとうにむずかしい。中止にはしたが、その後天気がよくなって、子どもたちからうらまれるということは、多くの校長が経験しているのではないか。

 着任した年に、雨にたたられることが多いと、『雨校長』などと陰口をたたかれる。それも、いかんともしがたいことながら、いかに切実な問題(?)かを物語る。


 先ほど、『むずかしい、頭が痛い』と書いた。

 しかし、ことはお天気だ。決断の根拠が、それほど複雑に絡み合っているわけではない。だから、要は、決断してしまうことだ。それがどう転ぶかは、それこそ、運を『天』に任せるしかない。どちらに転んでも、愚痴をこぼされたり、批判されたりする可能性はある。それはもう、いたし方のないことだ。

 
 わたしの校長時代、以下のようなことがあった。

 昼食をとり終えたころ、集中豪雨となった。午後の部をどうしようか悩んだが、けっきょく延期とした。延期を決め放送を入れると、少したって、薄日が差すくらい天候は回復した。
 保護者のなかには、『運動会、できるじゃないか。』と言いたそうな表情も見えた。ちょっとつらかった。


 でも、でも、〜、あとは当時の学校だよりを引用させていただく。




 感激も2倍に


 今年の運動会は盛り上がる予感が、かなり前からありました。

 各学年の練習を見ても、子どもたちの意欲が、動きや表情などに感じられました。

 練習は何度も繰り返されたり、中断して指導が入ったりしますが、子どもたちはそれを前向きに受け止め、真剣に取り組みました。そして、練習を重ねるごとに上手になっていきました。何にもまして、にこにこ演技に取り組んでいる姿が印象的でした。
 そのせいか、
「うわあ。上手よ。すごい。」
「よくできたね。」
などという教員の声が何度も聞こえてきました。また、子どもの手で演技内容を決めていく学年もありました。子どもたちは豊かな発想で、何回も練り上げていきました。

 そんなある日、教育委員会指導主事の先生がお見えになり、各クラスの学習を見てまわりました。
「すばらしいですよ。子どもたちが意欲的ですね。運動会の練習にしても、子どもと教員が一体となっているではないですか。楽しそうなのがいい。ふつう練習というものは、そんなに楽しいものではないと思いますがね。」

 子どもにもそのような実感があったようです。保護者の方からうかがったのですが、おうちで、お母さんに、
「運動会の日のわたしたちの演技を見たら、担任の先生は泣いちゃうかもしれないよ。」
と言った子もいたようです。

「運動会、見に来てね。」
そういう言葉が、多くのご家庭で聞かれたのではないでしょうか。


 そうして迎えた運動会でしたが、ちょうど昼食時、雨に見舞われてしまいました。まことに残念でしたが、午後の部は延期とさせていただきました。雨はやみましたが、校庭に水が浮くようになり、続行しても危険と判断しました。

 延期の運動会に来られなくなった保護者の皆様には、まことに申し訳ない言い方になりますが、延期にしてよかったと思う部分もありました。

 まず、子どもたちの意欲は完全に持続しました。延期した日も大いに盛り上がりました。ご来賓のなかには、
「校長先生。すばらしいですね。心が一つになっていましたよ。どの子も満足感いっぱいの顔をしているではないですか。子どもたちの顔を見ていると、涙が出そうです。」
とおっしゃってくださる方もいました。ありがたい思いでいっぱいになりました。このように子どもたちがすばらしいので、2日間にわたった分、感激も2倍になったなと思いました。

 もう一つ。延期した運動会が始まってすぐのことです。保健委員会の子が2人、わたしのところへ走ってきて、報告してくれました。にこにこしてほんとうにうれしそう。
「校長先生。今日のお休みはいません。」
「欠席、0です。」
「ほんとう。それはよかった。この前の運動会の日は、少しだけれど、欠席の子がいたのだ。・・・。そうか。運動会が2日間にわたって、かえってよかったのだね。あの雨のおかげだ。・・・。教えてくれてありがとう。」
 全員参加をこれだけ喜んでくれる子どもたち。心打たれました。

〜。
 
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 雨の中の幼稚園の運動会。とても盛り上がって、それはそれでよかったのですが、親子の種目、未就園児の種目などは、中止されてしまいました。母親である長女が言います。
「わたしたちは、これでよかったと思っているけれど、年長さんの保護者は、延期して、いい天気の日にやってほしかったかもしれないわね。その方が思い出に残るし、〜。」

 それを聞いて、上記学校だよりに紹介した事例を思い浮かべました。

 『災い転じて福となす。』ということわざがありますが、何が災いで、何が福かは、ものの考え方によるのかもしれませんね。

 それでは、どうぞ、『福』の1クリックをよろしくお願いします。


rve83253 at 15:43|PermalinkComments(6)TrackBack(0)学校経営 | 学校だより

2007年09月28日

議会制民主主義の破綻(!?)3

fea5f35d.JPG 我が国の議会制民主主義は破綻しつつある。そう思うのは、わたしだけだろうか。

 『民意、民意』と言っているが、だんだん民意と、国会の議決が、離れていっているように思う。


 一つには、民意がめまぐるしく変化するということが、原因としてあげられるのではないか。

 
 参院選は、3年に一度。しかし、任期は6年だから、激しく変化する民意に対応できなくなってきている。
 衆院選は、4年に一度。しかし、解散があるから、ほとんどは4年を全うしていない。いないが、それにしても、・・・、



 わたしが破綻と思ったのは、2つある。


 まず、一点目。

 郵政解散と、それがもたらしたその後の政局である。

 あの解散は、争点を郵政一点にしぼって行われたのだった。少なくとも、小泉首相は、そう言って解散した。

 だから、その後、郵政民営化がなったのはいい。これは、民意の反映と言いうる。

 言いうるが、一度否決した参院が、その後可決にまわったのは、問題が残る。しかし、それは今、問題にしていることとは違うので、ここではあえて問わないことにする。


 だが、その後、安倍首相になって、強行採決を繰り返した。史上空前と言われる。 郵政民営化を問うて獲得した議席数で、それとは関係のない法案の数々を強引に押し通したわけである。


 次、二点目。

 今回の参院選で、民主党は、比較第一党となった。

 しかし、その争点は、何だったのだろう。

 思うに、年金の不祥事とその対応策、政治とカネの問題などではなかったか。少なくとも、自衛隊の給油問題は、国民のまったく関知しないテーマではなかったか。

 わたしは、この問題については、民主党を支持するものであるが、しかし、今、問題としたいのはそういうことではない。

 自衛隊の給油問題での民主党の対応は、民意を得ているとは言えないということだ。それなのに、あたかも民意を得たかのように、民主党は主張し、行動している。

 以上、二点。国会と民意がかけ離れつつあると言えよう。
 現在、議会制民主主義は破綻に向かっていると言えるのではないか。


民意に沿わない政治は、民主主義政治とは言えないだろう。


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 今はまだ、このこと自体を問題視する声は、あまりないようです。ないようですが、こういうことが積もり積もれば、どうなるか。
 高齢者医療の見直しなど、早くも民意を気にした政治が行われているのは、こういうことを反省した結果でしょうか。

 それでは、今日も、1クリックをよろしくお願いします。

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2007年09月26日

理科の総合化 チョウの名前を調べる(1)5

理科と理科学習の総合化とをとり上げてきたこのシリーズ。今回は、この『ベニシジミかな。』をめぐっての調べ学習をとり上げる。

 

 そのまえに、このシリーズをお読みでなかったら、前記事からどうぞ。

 

    ベニシジミかな?

    ベニシジミかな?(2) 総合的な学習の時間とは、(2)

 

 

 冒頭、A先生は、

 

「Bちゃんが、『ベニシジミかな。』って言っていたよね。ベニシジミかどうか、どうしたら、分かるかな。」

と投げかけた。

ヒメアカタテハ5 

 これは、いい。

 

わたしは、『ベニシジミかな?』の記事に書いたとおり、

「子どもには、〜、『図書室で調べてみようよ。』と言いなさい。」

と、A先生に言ったのだった。これでは、『学び方』を、指導者が規定してしまっている。

 

 しかし、A先生の発問は、そうではなかった。『学び方』を子どもに問うている。そこまで子どもに考えさせようとする姿勢に心うたれた。

 

たいしたものだ。わたしより、いいね。

 

 

 それで、子どもからは、

「外へ見に行く。」

「図書室へ行って図鑑で調べる。」

「教室のパソコンで調べる。」

の3つの考えが出た。

 

 

そうしたら、さっそく、反論が出た。

「外へ行ったって分からないかもしれないよ。チョウがいなければ分からない。」

「いたって、ベニシジミかどうかは分からない。」

「そうだよ。チョウチョウが、『ぼくがベニシジミです。』なんて答えてくれるわけないじゃん。」(爆笑!)

「ぼくたちが、チョウチョウにくわしくなって、『ベニシジミはこれ。』ってよく分かるようになってからでないと、外へ行ったって、分からないままだよ。」

 

 この意見にみんなが納得し、『パソコンか図書室の図鑑で調べよう。』ということになる。やっぱり、『学び方』を考えさせたことはよかったね。

 

 

 このやり取りから感じたことはまだある。

 

 わたしが、チョウチョウを撮影し、Bちゃんが、『ベニシジミかな。』と言ったときは、Bちゃん一人の興味・関心だったと思う。しかし、この授業では、大いに盛り上がっている。多くの子が、興味・関心をもっているようだ。

これは、その後、A先生が折にふれ、話題にしていたからだろう。よかった。

 

 

ぱそこん1 さあ、それで、パソコンを使いこなせるCちゃんら4人が教室に残り、あとの20人は図書室へ行って調べることになった。

 

 

 

 図書室へは、わたしが同行した。

 

 子どもたちは、調べ学習に慣れているようだった。いつまでも図鑑のたぐいを探している子はいない。みんな思い思いの場所から図鑑を引っ張り出して、調べ始めた。



rve83253 at 23:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0)理科指導 | 総合的な学習の時間の指導

理科の総合化 チョウの名前を調べる。(2)5

「やっぱりベニシジミかなあ。」

「でも、羽の色が違うよ。」

「色だけではない。ベニシジミは、まわりが黒いけれど、toshi先生が撮ったのは、黒くないよ。」

 

 そんなやり取りが聞こえてきた。

 

 

 子どもたちは、キタテハウラミスジシジミなどという名前も、気にしていた。『当たらずと言えども遠からず。』そんな印象をもったようだった。

 

 しかし、前者はともかく、後者は、『まったく違うではないか。』と言いたかった。でも、そこはグッとこらえた。

 

 

 いきなり、まったく別な子たちから、すっとんきょうな叫び声が上がった。D、E、Fちゃんである。興奮気味だ。

「あっ。これだ。」

「そうだね。ヒメアカタテハだよ。」

「間違いないよ。」

 

 その声を聞きつけ、多くの子が、そのグループに寄っていく。「ほんとうだ。」「そうだね。」の大合唱。

 

ぱそこん2 しかし、賛同の声に混ざって、『ええっ。違うのではないの。』の声もある。

「色が違うよ。」

 

 そう。この色の問題は、なかなかむずかしい。多くの図鑑にヒメアカタテハは載っていたが、その色は微妙に違っていた。

 

 

そんなわけで、多少問題は残していたが、そろそろ、教室へ引き上げるころあいかなと思った。

 

「じゃあ、そろそろ教室へ行こうか。パソコングループのことも気になるし。・・・。図鑑は教室に持って行こうね。」

と声をかけた。

 

 

 教室のパソコングループは、まだ、『これだ。』というのを見つけられないでいるようだった。

 

 それで、先ほどの興奮状態だったDちゃんに名前を言ってもらい、Cちゃんが検索にかけた。

 

 そうしたら、今度は、パソコングループのGちゃんが興奮状態だ。

「あっ。これだ。これだよ。ヒメアカタテハだ。」

そう言うなり、教室中を飛び跳ねだした。もう、大笑いだ。

 

 

 色の点は、教室でも、話題になった。みんな、困惑の表情だ。そこで、これは、あんに、わたしから、A先生にサジェスチョン。

 色は図鑑によっても、微妙に違うこと。携帯のカラー写真も、ほんとうの色を反映しているとは限らないことなどを、話してもらった。

 

 

 なおも、ヒメアカタテハに疑義を抱いた子がいた。Hちゃんだ。

「先生。ぼくの図鑑だと、ヒメアカタテハの大きさは、5僂らいって書いてあるよ。toshi先生は、2僂らいって言っていたでしょう。全然大きさが違うじゃん。だから、ヒメアカタテハじゃないのではないの。」

 

 これには、参った。

 

 もうすでに、大学時代の友人に聞いていたから、ヒメアカタテハであることに疑義は抱かなかったが、これだけ、大きさの異なる事実をどう解決するか、わたしも、一瞬、お先真っ暗状態になってしまった。



rve83253 at 23:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)理科指導 | 総合的な学習の時間の指導

理科の総合化 チョウの名前を調べる。(3)5

ヒメアカタテハ6 でも、これは、Hちゃん自身が解決してくれた。よかった。

 

「あっ。そうか。toshi先生が言ったのは、何の長さなの。身体なのかな。」

「そうだよ。」

「それなら、いいんだ。ぼくの持っている図鑑の5僂蓮羽を広げたときの長さだから。」

「ああ。よかった。わたしは、写真は撮ったけれど、羽を広げた長さっていうのはわからなかった。でも、胴体が2僂世ら、羽を広げれば、そのくらいの長さになるだろうね。」

 

 A先生もホッとしたようだ。

 

 

 最後に、A先生は、『今日の授業ができた殊勲者は誰かしら。』と投げかけた。前記事にも書いたように、『ベニシジミかな。』と言ったBちゃんをクローズアップするねらいがあった。

 

 しかし、子どもは、子どもで、また別な思いがある。

 

「DちゃんとEちゃんとFちゃんだ。だって、最初に、ヒメアカタテハを見つけたから。」

「パソコンで見つけたのなら、Gちゃんだよ。」

 

 

 なかなか、Bちゃんの名前が出てこない。

 

 そこで、チャイムが鳴ってしまったことだし、A先生の方から、Bちゃんを褒め称えた。期せずして、みんなから拍手が起きた。

 

 

 

 ここでこの授業は終わった。放課後、A先生に話す。

 

 

「起承転結って言うよな。さしずめ、今日の授業は、『転』だと思う。理科から、一時的に、総合化へ移行したということだな。しかし、『転』のままではいけない。また、理科へ戻らないとね。それが、『結』だ。

 これだけ、意欲的に学んだ子どもたちだ。理科に戻っても、子どもの関心は、一貫した流れとなっているから、しっかりと学習すると思うよ。

 

 さて、再度理科へ戻るきっかけは、今日の授業のなかにあったと思う。・・・。何が、きっかけになるかな。」

「・・・。」

「それはね。3年生は、昆虫の身体のつくりなどを学習するのだろう。今日、2僂硲記僂琉嫐が分かったよな。2僂録搬里猟垢機△修譴紡个掘■記僂榔を広げた長さだ。

 今日はまだ、Hちゃんとそのまわりにいた子の関心でしかないと思うのだけれど、これをきっかけとし、図鑑やインターネットを見ながら、チョウの絵を描いてみればいい。そうすれば、自然と昆虫の身体に目が向いていくだろうね。」

 

 

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 もう一つ。大事なこと。

 これは、A先生に言いそびれてしまったのですが、

 

 それは、理科に限らず、どの授業も、『発見』の喜びを味わわせてやりたいということです。この日の授業でも、Gちゃんは狂喜乱舞しました。そうした学習こそが、学ぶ喜び、充実感をもたらし、自己教育力、生涯学習力に結びつくのだと思います。

 

  それでは、今日も、1クリックを、ぜひお願いします。

 



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2007年09月24日

PTAと学校(3)4

21c01313.JPG これまでいただいたメールをもとに、PTAと学校との問題について考えているが、今日はその第3弾である。


 今日の質問は、

 「現校長になってから、学校との距離が開いてしまったように思います。子ども、保護者から信頼を集めていた先生が転勤させられたり退職に追い込まれたりして、逆な先生が、どんどん出世していきます。toshi先生は、こういう状況について、どう思われますか。」

 ほんとうはもっと具体的に書かれているのだが、ここであまり具体的に書くのもね。
 

 この問題は、むずかしい。人事のことは、ほんとうにむずかしい。

 この方のメールを読ませていただくと、かなり具体的なので、『ああ。学校(校長)に問題があるなあ。』と思えるのだが、一般的には、主観的で、事実はどうなのかという思いになることが多く、論評のしようがないことが多い。

 

 そこで、ここでは、心底、学校に問題がある場合として、書いていきたいと思う。


 かつては、『希望と承諾の原則』と言って、一校在職期間ぎりぎりでない限り、本人の了解なく転勤させられることはなかった。多くの地域でそうだったと思う。

 しかし、近年、『校長の権限強化』が叫ばれ、教員本人の了解がなくても、校長の方針によって、異動させることができるようになった。これも、多くの地域でそうなっていると思う。

 そうなのだが、現状はどうかというと、一方では、旧来の、『希望と承諾の原則』を重視する校長もいれば、『権限強化』だとばかり、ワンマン的に振舞う校長もいるということだと思う。
 ただし、この次元の話だと、地域差はかなりあるのではないかな。


 わたしは、『どちらも違う。』と思う。

 基本的には、学校運営の全責任は校長が負うのだから、校長の権限強化そのものには賛成だ。少なくとも、校長の人事権が多分に形式的だったという旧来のかたちは、おかしなものだったと思う。(『学校民営化?(2)』という記事を参照してください。)

 これは、異動の話ではないが、かつて、どなたかのブログに載っていた。
『学級担任等、学校組織の決定のほとんどが教職員の手ににぎられている結果、威勢のいい教員がいつもいい思いをし、おとなしい教員がいつも損な役回りとなる。』
全国的に見れば、そのようなケースもあるようだった。

 他方、いただいたメールにあるように、校長がワンマン的に振舞うというのも、問題だ。恣意的、好悪による人事が行われるのはよくない。

 権限強化の時代とは言っても、勝手気ままでいい訳ではない。校長がそういう学校運営をすれば、間違いなく学校は危うくなる。そうなったときの責任は、これまでになく大きなものと言えるだろう。



 そのためのチェック機能がある。地域・PTAは、この機能をうまく生かしてほしい。(とは言っても、今の時期言えるのは、たぶんに原則論です。)
 
○校長の恣意的な学校運営を正す(?)仕組みはある。学校評議員制外部による学校評価などである。

○また、これも校長の権限強化の具現化だが、校長が行う人事考課・査定がある。これも、恣意的、主観的にならないようなシステムが開発されている。

○これらの仕組みは、いずれも法制化されているのだが、国のPR不足か、まだ多くの市民、保護者は、知らないままでいるようだ。

○そして、わたしも、これまでブログ記事で、評価したり、批判したりしてきたのだが、これらの仕組み自体が、いまも、発展途上にある。まだまだ改良の手を加えていかなければいけない。

○また、後述するが、これらは、100%実施されているというわけではなさそうだ。

○さらに言えば、PTAが単独で、学校に意見具申してよいというわけではない。あくまで、校長が任命する学校評議員としての立場で意見具申するのである。この場合、まさか、PTA会長がメンバーに選出されないなどということはなかろうとわたしが考えて論述していることは、お断りしておきたい。

○でも、何より、PTAは学校と定例的な会議の場をもっているのであるから、事実上は、学校運営に対し物申すことが定例化してよいのではないかと、これも、わたしがそう考えるということである。


 
 従来、『PTAは、学校運営には協力はするが、口を出すことはしない。』が鉄則だった。

 しかし、以上述べてきたように、現在ではもう、これは通用しない。

 いや。通用しないどころか、

 先に、『人事のことは、口をはさみにくいテーマ』と書いた。

 しかし、上記、リンクした学校評議員制についての国のホームページを見ると、さらにすすんだ組織においては、『当該学校の教職員の任用に関して意見を述べる権限を持っている。』としている。

 人事についても、意見を表明してよいのだね。




 国は以上の仕組みを法制化した。しかし、〜、

 学校評議員制について、毎年、国の現状報告がある。そのホームページを開いてみたが、全国的に見た場合、学校評議員会の設置率は、80パーセント弱だった。
 もっともっと、これが設置されなければならないだろう。


 繰り返しになるが、

 ○学校運営について、積極的に意見具申しよう。

 ○制度の未熟な点についても、同様だ。

 ○校長の学校経営について疑問を感じたときも同様だ。



 
 もっとも、冷静なご意見をぜひお願いしたい。感情的にならず、建設的で、前向きな意見表明であってほしい。そうでないと、この制度は、発展、充実しないだろう。



 最後に、こういう時代だからこそ、言えること。

 かつて記事にしたことがあるのだが、管理職の降格人事もスタートさせなければならないだろう。今は、とり入れたところがあったとしても、あくまで本人の希望降格だ。

 今のシステムの必然として、そういう問題も起きてくると思われる。

 そして、早く、いろいろなシステムを正しく機能させて、『校長が、不合理、不条理な学校運営をしたら、学校は傾く。その場合、子どもが最大の被害者だ。』ということが市民の常識となるようにしたい。

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 管理職の降格制度についての意見は、すでに、教員査定の問題(3)の末尾に、記事にしたことがあります。
 
  それでは、今日も、1クリックをぜひお願いできればと思います。

  (4)へ続く。


rve83253 at 14:55|PermalinkComments(5)TrackBack(0)PTA | 教育制度・政策

2007年09月22日

教員として、3

09ea09dd.JPG また、いじめによる自殺事件が報道されている。残念でならない。

 いじめ撲滅については、すでに記事にしているので、それをご覧いただきたい。

    本ブログの目次『いじめ』は、8番目の項目、『教育の問題』にあります。

 ここでは、ちょこっとだが、まず、マスコミ報道にあらわれた学校の姿勢について、あまり語られない面から、わたしの感じ方を書いてみたい。


 事件が起きるたびに、当該校の校長などが、見解を発表する。

 ところが、残念なことに、多くの場合、自分の学校で悲しむべき事件が起きているにもかかわらず、実に淡々と話しているということだ。そうした画面を見るたびに、違和感を覚える。自分ごととしてのとらえが薄いように思えてならない。


 かつて、幼稚園の先生だったかなあ。

 園の責任ではないのに、肉親の情を感じるような対応だったのを見たことがある。そうなってしまうのが当然ではないかと思ったものだった。



 さて、話は変わるが、

 わたしは、学級担任だったときに、仲間内の飲み会で、次のようなことを言った。


 教え子とのふれ合いについて、話題にしていたときだ。

「わたしのクラスの子が成長して、もし、刑務所に入るようなことがあったら、わたしは教員を辞めるよ。」
「ええっ。それはすごいな。なにもそこまで、責任を感じることはないだろう。」
「そうだよ。学級担任というのは、toshiさんだけではない。また、中学・高校とあるのだし。それに、子どもは、学校以外にも、さまざまな影響を受けて育っていくのだからなあ。」
「いや。そうした気持ちも、もちろん、ある。・・・。でも、そういう事態になれば、自信をなくしてしまうだろうし、それまで子どもにいろいろ言ってきたことがむなしくなってしまうだろうし、気持ち的に続けられなくなってしまうと思うのだよ。」

 そうしたら、その場にいた一人の教員Aさんが、いたく感激してくれて、

「toshiさんはすごいよ。ふつうはそこまで思わない。・・・。でも、分かる気がするな。我々教員は、ふだん子どもの前で立派なことを言っているものなあ。振り返れば、『自分はいったいどうなのだ。』って、思ってしまうこともあるよ。」



 それから、10年以上たった。

 わたしも、Aさんも、校長になっていた。


 ある、数百人集まる研修会があった。A校長は、その主催者側として、開会の挨拶を行った。

 そのなかで、

「〜。もう、10年以上も前のことです。わたしは、ある先生の言葉に大変感動したことがあるのです。
 その先生は、『もし、自分のクラスの中から、将来、罪を犯すものが出たら、〜、』
わたしたちは、日ごろこういう気持ちをもっているだろうか。ある意味、そこまで責任を感じるすごさ、そんなものを感じました。〜。」

 わたしは、思わず下を向いてしまった。会終了後、A校長に、お礼を言いながら、
「A校長さん、わたしの言葉をちゃんと覚えていてくれたのだね。ありがたかったよ。」



 ところで、またまた、話は変わるが、ブログを始めて1年半が経過した。12月でまる2年になる。

 初期のころいただいたコメントに、

「教員の本務は、授業でしょう。子どもの心を育むなどということまでは、とてもやり切れないと思います。あれこれ追いすぎると、けっきょく、虻蜂取らず。何もしなかったのと同じということになってしまうのではないでしょうか。」
というのがあった。

 ものすごく覚えている。


 そうか。そういう考えの教員もいるのか。


 『教員の本務は授業。』そこまでは賛成だ。

 でも、この方は、たぶん、知識・技能のみを学力と思っているのだろうな。

 ああ。でも、学力の一つとされる『興味・関心』は心の問題だし、そこまで、本務ととらえないと、授業だってうまくはいかないのではなかろうか。いや、学級内の子どもの人間関係を豊かにすることだって、授業成功の鍵だよね。
 けっきょく、子どもを丸抱えでとらえようとしないと、授業だってうまくはいかない。そう思った。

 その後、学校におけるいじめ自殺が大々的にマスコミ等でとり上げられるようになって、こうしたコメントは影をひそめたように思う。

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 先日、高校の学習指導要領をリンクしましたね。

 あのなかにも、心を育む内容が、ふんだんに盛り込まれていたと思います。

 ところが、現状は、???


 こんなところにも、いじめにつながる要因があるのではないでしょうか。今の教育の最大の課題と言えそうです。

 それでは、今日も、恒例の1クリックのお願いです。よろしくお願いします。

rve83253 at 12:39|PermalinkComments(5)TrackBack(0)エッセイ | むかし

2007年09月20日

PTAと学校(2)3

a63635b3.JPG PTAと学校との関係について、拙ブログを通して、メールをいただくことがある。
 そのメールをとり上げての記事は、すでに一回書かせていただいた。

      PTAと学校(1)



 今日は、本シリーズの2回目。

『校長の目が、子どもではなく、地域・PTAの方を向いてしまっているということはないか。』
というご指摘について、考えてみたい。


 この方のメールによれば、

 どうも、学校評議員制度がとり入れられてから、校長の目の方向がおかしくなったのだそうだ。

 それまでは、子どもの方を向いていた。学校も秩序だっていた。しかし、この制度がとり入れられてからというもの、だんだん、校長の目は、地域・PTAの方を向くようになり、子どもがなおざりにされる傾向になったという。



 どうしてそうなってしまったのだろう。

 わたしは、学校評議員制度を評価している。
 地域住民主権の象徴として、地域・保護者・学校の三者が一体となり、子どもを育むというように、積極的にとらえていたから、いささか、驚いた。


 ここで、これまで、学校評議員制についてふれたことのある記事をリンクさせていただきたい。

     平成18年9月28日  定見(4) 学校評議員制度
     平成18年11月4日  学校評議員制は機能しているか。
     平成17年12月8日  学校民営化?(1)


 わたしは、このメールの内容について、いろいろ考えをめぐらせてみた。そうすると、自分の経験で、やや心当たりのあることが思い出された。


 わたしの経験では、

 このPTA会長は、誰も、立候補、推薦者がいないなかで、『それなら、自分がやる。』と、自ら会長職をかってでた方だった。
 その方が、スクールゾーン対策協議会のとき、PTA校外委員会の皆さんから強く反対されたにもかかわらず、自説を主張し通したことがあった。強引だったし、叱りつけるような調子もあったため、会議に参加していた方々は、ややしらけムードになった。

 そのときのことを思い浮かべたのである。

 このPTA会長は、学校の教育活動そのものに対して、いちゃもん(?)をつけることはなかったが、もしそうであって、校長が説明責任をうまく果たせないのであれば、メールをくださった方の学校と同じようになってしまったのではないか。

 そう思ったのである。


 つまり、一方に自説を押し通そうとする方がいて、もう一方に、弱気で流されることが多い校長がいたときに、お説のようになってしまう可能性が生まれる。


 もう一歩、論を進めよう。


 この場合、校長の目が、しっかり子どもの方を向いていないことは確かなようだ。


 前述の通り、本来学校評議員会は、子どもを育むことを目的として話し合われるべきなのに、子どもと離れたところでの議論が活発になってしまうのではないか。

 発言力があり、ボスのように振舞う人がいて、その人の発言の方向に議論が引きづられてしまう。
 校長もその方向に引きづられる。そして、それ以外のことはなおざりにされる傾向になってしまう。

 そういうことではないか。



 どうしたらいいのだろう。

 それは、まず、校長以下、学校が、学校経営方針をしっかりもち、それがどう実践に生かされているか、どういう現状にあるかを把握し、説明責任を果たすことができなければなるまい。

 地域・PTAの方々が関心をもっていることにはしっかり応えなければいけないが、それに引きづられてしまうのはよくないだろう。



 この方のメールによれば、『学校評議員制がないときの方がよかった。』とおっしゃっているようにも受け取れる。

 現象的に見れば、そういうケースもありうるのだろう。

 しかし、学校評議員制が生まれたから、悪くなったのではないはずだ。『学校評議員制がスタートしたにもかかわらず、悪くなった。』と考えるべきだろう。

 本質的なところで考えれば、地域・保護者・学校が一体となって、協力し合い、子どものために、力を合わせることはいいことに決まっている。

 その基本線は押さえた上で、問題があるなら、その問題を克服するよう、お互いに努力すべきであろう。

 校長の力量が問われるのである。


 ちょっと、メールの趣旨から離れてしまうかもしれないが、こういうことも考えられるのではないか。

 地域・PTAにまとまりがなく、『ああでもない。こうでもない。』と、いたずらに議論を繰り返してばかりいることはないか。また、話があっちこっちへとび、会議に参加した方は、それぞれが自分の都合のいいように、話し合いの結果を受け止めているといったこともありそうだ。

 そういう場合は、やはり、校長が会議のとりまとめ役、進行役などをかってでるようにしなければならないだろう。『そんなことまで、校長がしなければいけないのか。』と言いたくなる校長もいるかもしれないが、ここは、そうしないと、けっきょく、学校が、困難をかかえてしまうことになる。

 まとまりのない結果は、学校経営にはねかえっていくからだ。 
 

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 今日の記事はちょっと具体的に書けない部分が多すぎて、やや、精神論に傾いてしまったかな。
 申し訳ありません。

 それでも、1クリックいただければ、大変ありがたく思います。どうぞ、よろしくお願いします。

   (3)へ続く。


rve83253 at 05:25|PermalinkComments(6)TrackBack(0)PTA | 教育風土

2007年09月18日

ベニシジミかな?(2) 総合的な学習の時間とは、(2)4

739db3fc.JPG 本日の記事は、先の『ベニシジミかな?』の続きなので、ご覧でなかったら、そちらからどうぞ。

    ベニシジミかな? 

 同記事に、くるみさんよりコメントをいただいた。それを読ませていただいて、大事なことを落としていたことに気づいた。

 同コメントには、『〜。子どものつぶやきに耳を傾けて学び合いにつなげるとは、こういうことなのですね。正誤という2分化された価値観だけでない、その先の広がりがあるということを改めて感じました。』とあった。

 大変ありがたいコメントで、わたしの言い足りなかったことを、端的に言葉にしてくださった思いがした。感謝している。

 そう。正誤だけを学習の目的とすると、Bちゃんは少しかわいそうなことになってしまう。Bちゃんの、『ベニシジミ』は間違いだったからだ。でも、そういう正誤を乗り越えて、『調べ学習成立の殊勲者』という栄誉をBちゃんに与えたい。そういう観点を大事にしたいということだった。


 しかし、そうなると、もう一つ、言い足りないことがあることに気づいた。

 それは、本来、小学校3年生の理科の時間に、ベニシジミだとか、ヒメアカタテハなど、そんなチョウの名前を教える必要はないということだ。それでは深入りとなってしまう。


 それならなぜ調べるか。

 それは、総合的な学習の時間の性格に関連する。


 そもそも、総合的な学習の時間とは、どのような学習をする時間なのか。

 一つはすでに述べた。

    総合的な学習の時間とは、


 ここでは、国が例示している福祉にかかわって、わたしが見せていただいた実践をとり上げた。複数教科にまたがって、横断的、総合的に学ぶ学習の例だった。


 総合的な学習の時間は、もう一つ、『各教科等の総合化』と言われる内容がある。

 これは、教科等の学習内容には含まれないが、その発展として、子どもの発達段階、興味・関心に応じ、成立する学習と言えよう。


 今回のチョウの学習も、以下のように、総合的な学習の時間を活用することによって、成立するのである。

      
1.『わたしがチョウの写真を撮影した。』→『そこへ、4・5人の子どもが寄ってきた。』→『一人の子、Bちゃんが、チョウの名前を口にした。』→『わたしも知らないチョウの名前を子どもが口にしたことについて、わたしが感動した。』→『担任が、チョウの写真を見せながら、こうしたいきさつを学級の子全員に話した。』→『学級の子ども全員に、『Bちゃんが言ったチョウの名前は、正しいかな。よし、調べてみよう。』というような、意欲が生まれた。』
 こうしてチョウの名前を調べる学習が成立した。

2.ベニシジミであれ、ヒメアカタテハであれ、それを覚えることが大切なのではない。
 チョウに興味・関心をもった子どもたちなら、その名前を知ることによって、本来の3年生理科の学習内容の理解が容易となると考えるのである。
 この場合の学習内容は、『身近な昆虫や植物を探したり育てたりして,成長の過程や体のつくりを調べ,それらの成長のきまりや体のつくり及び昆虫と植物とのかかわりについての考えをもつようにする。』である。

3.この学級の場合、
 理科としての、『秋の草花や虫の観察』から学習が始まり、途中、総合的な学習の時間としての、『チョウの名前の調べ学習』が入り、そして、再度理科に戻り、昆虫の身体のつくりへと、学習がすすむことになる。

4.このように、教科等の学習に、総合的な学習の時間がはさまるのは、あらゆる教科学習で可能である。
 いや、子どもの興味・関心に即してとり上げるのであるから、むしろ、積極的に、総合化を図っていきたいものである。
 学び方・生き方の学習にも大きくかかわるのだから。

 以上、くるみさんからいただいたコメント、『その先の広がり〜』から、そのようなことを考えさせてもらった。
 


 なお、戦後、民主主義教育の花形として登場した、コアカリキュラムとは、似て非なる側面をもつ。

 各教科等の横断的、総合的な学習という意味では似ているのだが、

 コアカリキュラムは、子どもの生活中心で、生活のなかに生まれた学習問題を学習の中核にすえるし、ともすれば、教科の枠をなくしていきたいという方向性をもっているのであるから、その点では、現在の総合的な学習の時間とは、かなりその性格を異にするものである。

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 ゆとり教育の花形として登場したのが、この、総合的な学習の時間でした。それが、学力低下論に押され、時間減とされるのは、いかにも残念です。

 でも、教科等の学習であっても、子どもの興味・関心は大切にしていかなければなりません。子どもが主人公の学習こそが、真に子どもを育んでいくのですから。

  それでは、今日も、1クリックを、よろしくお願いします。


rve83253 at 23:32|PermalinkComments(2)TrackBack(0)指導観 | 総合的な学習の時間の指導

2007年09月16日

いわゆる受験教育をめぐって3

 あれこれ言う前に、まず、現状の高校学習指導要領総則をお読みいただきたい。
 いかに、すばらしいことが書かれているか。そして、今の日本における高校教育の現状といかに乖離しているか、一目瞭然と思われる。
 

1 各学校においては,〜,生徒の人間として調和のとれた育成を目指し,地域や学校の実態,〜,生徒の心身の発達段階及び特性等を十分考慮して,〜。生徒に生きる力をはぐくむことを目指し,創意工夫を生かし特色ある教育活動を展開する中で,自ら学び自ら考える力の育成を図るとともに,基礎的・基本的な内容の確実な定着を図り,個性を生かす教育の充実に努めなければならない。

2 〜道徳教育は,生徒が自己探求と自己実現に努め、国家・社会の一員としての自覚に基づき行為しうる発達段階にあることを考慮し人間としての在り方生き方に関する教育を〜。
道徳教育は,〜,人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生かし,豊かな心をもち,個性豊かな文化の創造と民主的な社会及び国家の発展に努め,進んで平和的な国際社会に貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成する,〜。
〜道徳的実践力を高めるとともに,自律の精神や社会連帯の精神及び義務を果たし責任を重んずる態度や人権を尊重し差別のないよりよい社会を実現しようとする態度を養う〜。

3 〜体育・健康に関する指導は,〜。特に,体力の向上及び心身の健康の保持増進に関する指導については,「体育」及び「保健」の時間はもとより,特別活動などにおいてもそれぞれの特質に応じて適切に行うよう努めることとする。〜,家庭や地域社会との連携を図りながら,日常生活において適切な体育・健康に関する活動の実践を促し,生涯を通じて健康・安全で活力ある生活を送るための基礎が培われるよう配慮しなければならない。

4 〜,地域や学校の実態等に応じて,就業やボランティアにかかわる体験的な学習の指導を適切に行うようにし,勤労の尊さや創造することの喜びを体得させ,望ましい勤労観,職業観の育成や社会奉仕の精神の涵養に資するものとする。

と立派なことが書かれているのだ。


 なお、参考までに、高校学習指導要領の全文は、下記にリンクしました。

  高校学習指導要領


 どうだろう。

 未履修問題、大学合格者水増し問題など、現状の高校教育は病んでいる側面があるが、そこまでいかなくても、多くの高校における教育は、受験の現状に押し流され、上記学習指導要領の精神から逸脱していないだろうか。

 
 話は変わるが、わたしが参加させていただいている、『日本ブログ村』が、サブカテゴリー設置にあたり、広く意見を募っていたことがあった。

 そのとき、

 「『受験教育』は教育ではないのではないか。教育とは別なカテゴリーとして設置した方がいい。」
という意見があった。


 そうなのだ。

 これは、一種の技術で、上記、学習指導要領の総則から言っても、まったく教育とは無縁のものと言えよう。


 具体的に指摘しよう。

○現状で、『(各学校の)特色ある教育活動』が、どれだけできるというのか。『うちの学校は受験への取り組ませ方に、特色があります。』では、笑い話ではないか。

○『個性の尊重』が大切というが、受験教育体制下で、どれだけ可能か。受験体制は、学習内容の画一化をもたらしていると言えないか。

○『人間としての調和のとれた育成』を、受験体制が阻んでいるのではないか。

○『自己探求と自己実現に努め、』とあるが、空疎に響く。
 かつてわたしもそうだったが、『受験さえなければ、あれができる。これができる。』そのようなむなしさを覚えながら、仕方なく受験に取り組んだのだった。

○『道徳性の涵養』が、いかにむなしく響くか。これは、現在の日本社会をみれば、一目瞭然だ。

 
 まだ、『教育』をゆがめる側面がある。

 それは今、噴出している、『学力低下論』だ。

 学力とは何ぞや。

 上記学習指導要領に書かれたすべてが学力である。

 したがって、『調和のとれた人間性』『個性尊重の精神』『国家・社会の一員としての自覚』『人間としての在り方・生き方を身につけること』『自ら学び自ら考える力』『自己探求したり自己実現を図る力』『人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念』『平和的な国際社会に貢献し未来を拓く力』〜。

 ああ。もう、列挙するのはやめよう。まだまだ続くが、これらは皆学力なのだ。

 けっして、『基礎的・基本的な内容の確実な定着』だけを意味しているのではない。

 『学力低下論』が、真の学力を背景としてなされているのであれば、わたしは、真剣に耳を傾けなければならないと思う。

 しかし、今、言われている『学力低下論』は、受験に絡んで、多分に知識のみを追い求めてなされている。しかも、それが、今の日本社会に大きな影響力をもってなされていることに、強い憂慮の念を抱くものである。

 
 本来、小、中、高とも、それぞれ、その年代にしかできない教育があるはずだ。

 たとえば、

 高校ならば、高校生としての基礎・基本を大切に学ばせながらも、物語を読んだり、友達同士、意見交換をしたりしながら、人生を考えるとか、

 生活弱者の思いやその生活実態を学びながら、奉仕活動の大切さを感じ取り、自らそれを実践しようとする気概を養うとか、

 本来なら、そういう教育こそ大切にしていくべきなのではないか。


 学習指導要領の精神を生かす教育は、これ以外にも、多様にあるだろう。それでこそ、各校の特色ある教育活動が可能になる。



 受験教育を排除するためにはどうしたらいいか。

 簡単なことだ。

 現状の反対。つまり、入学をやさしくし、卒業を厳格にすればいい。

 それが、広い意味の学力保障につながる。

 一人ひとりが、『今』の学校生活を充実させることにつながる。


 最後に、わたしは、6年担任だったとき、ある中学校の入試問題に愕然としたことがある。

 公害問題が、社会問題として、深刻だったときだ。小学校でも、公害が学習内容に盛り込まれた。

 その入試問題は、公害病と、それが起きている地域名と、それがどこにあるかを示す日本地図とをあげて、それらを結びつける問題だった。たったそれだけ。

 これだけで、公害についての知識を問うているのだった。

 公害がなぜ起きるのか。
 どういう深刻な問題があるのか。
 どう克服しなければいけないのか。

 そうしたことこそが大切なのに、それらは不問に付されていた。

 教育にとって一番大切なことは何か。それを不問に付すのが受験問題か。こうしたなかで、どういう人間性が形成されていくのか。

 それを象徴的に示している受験問題のように思えた。


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 これは、公教育に携わるものとしてあってはならないことで、わたしも責任を感じ自戒の念を深めていますが、小学校においても、学力検査不正問題が発生ました。しかも、教育委員会主導のようです。愕然としました。

 
 これまでも、折々に、受験については、記事にしてきました。代表的なもの一つをリンクします。お時間があれば、ご覧いただければ幸いです。

 2月19日 教育再生会議の提言に思う。(4)教育の地方分権を
 後半の『4.について』の部分です。


 それでは、今日も、上の2つのバナーの、1クリックをよろしくお願いします。






rve83253 at 22:30|PermalinkComments(4)TrackBack(0)教育観 | 教育風土

2007年09月15日

売り家と唐様で書く三代目3

21e569d6.JPG 前記事の最後に、『いやあ。ある意味、日本は危機だね。』と書いた。

 今日は、その、『ある意味』について、書いてみたい。


 今日の標題は、江戸時代の川柳である。

 初代は、何もないところから一念発起して事業を起こし、一財産を築く。二代は、初代の苦労を知っているし、その感化を受けて育つから、その事業を継続、維持することができる。
 ところが、問題の三代目。もはや初代の労苦は知らず、恵まれた環境のなかで、おぼっちゃんとして、ちやほやされながら育つ。そのため、事業を維持発展させる力がないどころか、身代を食いつぶし、みずからを破産へと導く。
 しかし、趣味的な教養は身につけているので、『売り家』と書く文字は、見事な唐様である。

 なにやら、意味深長ではないか。


 どうだろう。

 この川柳は、今の日本に見事に当てはまりはしないか。

 戦後、焼土と化した日本。何もなくなった。戦後初代は、そんななかから事業を起こし、高度成長へと導く。二代目は、初代の苦労を知っているから、そこそこがんばり、高度成長を維持発展させる。そして、今はまさに三代目の時代へと移行しつつある。もう、三代目は、戦後のどん底経済の時代は知らず、高度成長期に産声を上げ、豊かな日本のなかで育ってきた。

 さあ。これからの日本はどうなるか。


 ここで、三代目世代の読者の方も大勢いらっしゃると思うので、言い訳を一つ。

 『唐様で書く三代目』というのは、実際、三代目世代の中でも少数なのであろう。大部分は常識人として、健全な人生を送っている。また、逆に、二代目世代の中にだって、この川柳の三代目同然の人はいるだろう。

 問題は、どういう育てられ方をしてきたか。どういう教育を受けてきたかということだ。

 たとえば、

    平成17年12月13日   心の教育(2)の事例
    平成18年7月27日    『充実した学習を』にいただいたコメント34番
    平成19年8月17日    『姪から届いたメール(2)』にいただいたコメント1番

のような事例だ。

 『心の教育(2)』は、中学受験期直前、学校を休ませた親の事例
 『充実した学習を』は、会社員の方が、一部の若い社員についての思いだと思うが、それを書いたコメント。
 『姪から届いたメール(2)』は、大手進学塾で働く一流大学生。これも一部だとは思うが、そういう者へ感じた思いを書かれたコメント。 


 さて、今回の国のトップの驚くべき退陣騒動も、これに並ぶ事例となるだろう。彼の少年期を知っている方がテレビで言っていたが、
「素直ないい少年でしたが、まあ、大事に、大事に育てられていたのですね。そこいらのガキ大将たちと、無邪気に遊ぶといった感じでなかったのは確かです。」


 先ほど、こうした三代目は少数だろうと書いた。
 確かに少数だと思うのだが、問題は、この少数が、国の政治だけでなく、多くの分野でトップを占めている可能性が高いということだ。『日本の危機』としたのも、まさしくこの点なのである。

 
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 今度の総裁選も、なんと、2代目と3代目の争いとなりましたね。

 でも、本日の記事に当てはまるかどうか、それは、わたしには、分からないことです。そうでないことを祈るのみですね。

 次回は、本日の記事に深くかかわると思われる、『受験教育』の問題をとり上げたいと思います。

 それでは、今日も、1クリックを、よろしくお願いします。


rve83253 at 07:39|PermalinkComments(2)TrackBack(0)エッセイ | 保護者

2007年09月14日

あまりに不器用な、〜。3

943083d0.JPG 今回の、国のトップの退陣には、国民みんなが驚愕しただろう。所信表明演説をして、これからの施策への決意を述べ、野党の代表質問を受ける直前の退陣など、あっていいことではない。


 今回の事態について、数人の政治家の論調に、共感するものがあった。

「子どもが総理大臣をやっていたら、こういうこともあるかなと思います。そういう次元ですね。」
「朝、起きて、『ああ。今日はテストだ。それなのに、何も勉強していない。学校へ行きたくないなあ。』そう思って学校を休んじゃった。そんな子どものレベルだと思います。」
「おぼっちゃんの無責任内閣です。」


 わたしは、以前、領収書大臣、ばんそうこう大臣のことを、記事にしたことがあった。

    8月17日  姪から届いたメール(2)の後半です。

 あの時感じたのと同じことを、今回も感じた。

 人間関係調整力のなさ。

 いや。さらに付けたしたくなった。それは、生き方の不器用さ、あまりの不器用さだ。

 そう言えば、2回前の記事、『PTAと学校(1)』でも、いただいたメールを紹介したのだが、そのなかに、『PTAへの対応が不器用だとみなされてしまう校長』というのがあったっけ。
 また、先の『姪から届いたメール(2)』にいただいたコメントでは、『電話も満足にとれない一流大学生』のことが書かれていた。

 これらは、すべて、軌を一にしていると言えよう。


 先の政治家のコメントをもう一度見てみよう。ある意味、子どもレベルなのだ。

 知識のみ肥大化した、せまい意味の学力優秀生の、なれの果て、・・・、そう思う。


 いや。こんな言い方をしたら、子どもに失礼だよね。わたしがふれ合っている子どもの方が、はるかに、器用に生きていますよ。


 問題は、こういうのが、国のトップにいたということ。


 今朝のテレビが言っている。

「自民党は、次の総裁選の話題で活気づいているが、これでいいのか。あんなやめ方をしたトップを一年前に選出しておいて、それへの反省はないのか。国民へのお詫びもない。
 これでは、また、同じようなトップを選んでしまうおそれがある。(日本がこれからどうなってしまうか心配だ。)」
「お詫びはまだある。今は、国会の開会中だ。それなのに、こんな事態になり、長い政治空白を生んでしまう。それへのお詫びだってあるだろう。」

 (  )は、わたしの思いを付け足したもの。

 いやあ。ある意味、日本は危機だね。


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 決断力のなさも言えますね。やめ方も含め、多くの事態が、遅れを招いてしまいました。

 怒ってばかりもいられません。これらは、教育の責任でもあるのです。


 それでは、今日は、1クリックをお願いしづらい気分ですが、でも、やっぱり、1クリックをお願いしていいですか。


rve83253 at 09:41|PermalinkComments(4)TrackBack(0)エッセイ | 教育風土

2007年09月12日

ベニシジミかな?4

  理科の時間に、初任のA先生と子どもたちと校舎の外に出た。秋の草花と虫の観察だ。

 

子どもたちが三々五々、散ったとき、わたしは、花壇できれいなチョウを見つけた。

 

ヒメアカタテハ1携帯を持参していたので、撮影欲が出た。

 

 

最初は、1メートルくらいの間隔で撮った。

だんだん近づける。50cmくらいになっただろうか。それでもチョウは逃げない。

最後は、10cmくらいだったかな。だんだん興奮する自分に気づく。今度は、手ぶれしないように、慎重に撮った。

 

 よく逃げないものだ。蜜がそんなにおいしかったのかな。

 

 

 子どもが寄ってきた。

toshi先生。何、撮っているの。」

「お花、撮ってるの。」

 

ヒメアカタテハ2 そうしたら、気づいたのだろう。急に静かになって、

「あっ。チョウチョウだ。」

ささやくように言い出した。

 

チョウは、やっと人間の存在に気づいたようだ。逃げ出した。

 

「ああ。逃げちゃった。」

toshi先生。写真撮れなくなっちゃって、ごめんなさい。」

「ああ。いいよ。・・・。いや。そんなことない。写真、いっぱい撮れたから、見せてやるよ。」

 

 そう言いながら、携帯画面を見せる。

「うわあ。きれい。」

「ほんとうだ。本物よりきれいだね。」

 

 そんな声に混ざって、

ベニシジミかな。」

 

ヒメアカタテハ3 びっくりした。チョウチョウの名前が、子どもから出てくるとは思わなかった。

 

 わたしは、こういうことは分からないので、

「あっ。そうなの。すごくくわしいね。・・・。よし。これ、印刷して、教室にはってもらえるように、A先生にたのむから、そうしたら、調べてね。」

 

 放課後、以上のいきさつをA先生に話した。そして、A先生は隣の席だが、送信する。

 

 さっそく、インターネットで調べた。

「大きさ的にはベニシジミかもしれないけれど、ちょっと模様は違いますね。」

 

 判断に迷った。

 

「よし。わたし、大学時代の友人で、チョウチョウの趣味がこうじて、チョウチョウ博士になったような人がいるから、メールで聞いてみるよ。」

 

ヒメアカタテハ4 すぐ返信が届いた。

 

『写真のチョウは、ヒメアカタテハといいます。タテハチョウ科のチョウで、亜熱帯から亜寒帯まで世界中に分布するたくましいチョウです。

 ベニシジミはもっと小型で、温帯アジアにしかいないチョウです。』

 

 ああ。やっぱり彼はくわしいな。このくらいのことは、朝飯前なのだろう。

 

 A先生に言う。

「子どもには、ヒメアカタテハの名は言わないで、『さあ、Bちゃんが言うように、ベニシジミかな。図書室で調べてみようよ。』と言いなさい。チョウにくわしいBちゃんをたてながら、Bちゃんのおかげで、チョウの調べ学習ができるのだと、子どもたちに感じさせることが大切だ。」

 

 

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  それにしても、携帯でこんなにシャープに撮れるとは、驚きました。大満足です。

 

 ただ、わたしは簡単に友人に聞いてしまったのに、子どもには、『調べようね。』と言うのは、なんかちょっと、気が引ける思いです。

 

 子どもたちへ。ごめんね。

 

 それでは、ちょっと、気が引けますが、よろしければ、今日も、1クリックを、よろしくお願いします。

 

 

 

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rve83253 at 23:14|PermalinkComments(2)TrackBack(0)理科指導 | 総合的な学習の時間の指導

2007年09月11日

PTAと学校(1)4

aab11d87.JPG ここのところ、読者の皆さんからメールをいただくが、そのなかに、PTAの立場から、学校の体質を問う声が少なからずある。

 わたしが在籍した学校のPTA活動について、また、それに対し、わたしがどう対応したかを何度か書いたので、それに関連したかたちでくださるのだと思う。

 
 そこで、ここに、わたしがこれまで、PTA活動に関連して記事にしたものをリンクしてみる。

    7月7日  子どもの安全を守る(3)通学路 地下道編
    4月16日 保護者の声に応えて
    6月30日 ひらかれたPTA


 さて、上記、いただいたメールだが、それらに共通しているのは、『学校不信』、それも、『校長不信』の念が強いことだ。



 わたしは思いたい。

 多くの学校はそのようなことはなく、大いなる成果を上げているのだと。

 しかし、その一方で、まだまだ隠蔽体質だったり、何かとPTA活動に干渉したりする校長もいるようだ。
 自分の思い通りに学校経営しないと気がすまないような校長、PTAなどへの対応が不器用だとみなされてしまう校長、校長の目が子どもより、地域・PTAの方に向いてしまっているのではないかと思われている校長、そのような例が挙げられていた。

 いずれにしても、PTAと学校との不協和音が聞こえてくるような内容だ。


 以上をふまえ、いただいたメールのなかから、強く印象に残ったものを、これから、数回にわたり記事にしていきたと思う。



 一回目は、『学校の本音としては、PTA活動など、ない方がいいと思っているということはありませんか。』というご質問に答えてみたい。


 どうも校長の対応を見ていると、いろいろな対応がめんどうくさそうだったり、PTA役員と会うのをいやがっていたり、そんな態度が感じられるというのだ。

 


 さあ、それでは、わたしの回答をどうぞ。



 この質問をいただくにあたり、まったく心当たりがないなどとは思いませんでした。わたしのまわりでも、ご指摘の点以外でも、学校の立場について一方的に理解を求めようとしたり、PTAに対し、何でも高飛車に出たりする校長はいました。

 基本的には、双方の信頼関係の構築が大事なのですが、そのためには、まずは校長が、PTAへ手を差し伸べないといけないのではないかと思いました。
 一方は仕事としての組織の『長』ですからね。

 ですから、PTAの方々に、マイナスイメージをもたれてしまうような対応をしたのでは、けっきょくは、学校も重荷を背負うことになりはしないかと、それを恐れます。


 ただし、そういう校長も含めて、たとえ本音の部分であっても『PTAなどない方がいい。』と思っている校長はほとんどいないと思います。

 PTAのない姿を想像すると、

 学校は、保護者にいろいろなことを連絡したり、お願いしたりしたくても、組織がないわけですから、保護者間の連携も取れず、負担はかなり大きなものになると想像されます。ある意味、PTAとしてまとまってくれていた方が、学校としては対応しやすい面もあるのではないでしょうか。


 しかし、そのようなことより、わたしが、本心思うのは、PTAって、『よりよい子育てをするために、お互いに情報交換したり、学び合ったり、まとまったりしていくもの。そういう意味で、なくてはならないもの。』と考えます。
 わたしの経験からしても、よくまとまり、連携のとれたPTAは、いきいきしていますし、連携もとりやすく、教職員ともよく意思の疎通が図れていますから、教育効果も上がるのですね。けっきょく、その成果は子どもに返っていくのだと思います。
だから、そういう意味で、PTAがない姿など、想像もできません。


 わたしは、ご指摘の校長の場合は、『こうであってはならない。』とか、『こうあるべきだ。』とか、いろいろ自分の思いが先行し過ぎ、校長の思う方向でないと、学校経営は立ち行かなくなると、本気で思っているのだと思います。
 学級担任だったとき、きっと教え込みをしていたのでしょう。『自分の思う方向でしか、うまくいくわけがない。』という信念をもっている場合もありそうです。
 また、PTAの言うことを受け入れていたら、PTAはどんどん要求をつり上げるなどと思っているかもしれません。

 むずかしいのは、不信感でいっぱいの場合は、現実にそういうこともありそうだということですね。悪循環ですね。


 わたしの場合は、これまでも折々に記事にさせていただきましたが、

○ PTAの要望はできるだけ前向きに受け止める。そして、できることは受け入れる。
○ できないことは、なぜできないかの説明をさせていただく。


 あくまで、PTAと学校は、対等の立場。わたしはそういう意識で、やってきました。一方は家庭教育、もう一方は学校教育を担当。車の両輪と同じです。

 対等ですから、子どもの主体的な学びを大事にするのと同様、PTAの主体的な活動も大事にしていきたいと思います。
 言うまでもなく、PTAは大人の集団ですから、こちらが意欲的な活動にしようなどとは思わなくても、当然いろいろやってくださっています。校長は、その、やってくださっていることをしっかり観察し、それへの感謝、お礼の言葉を言っていればいいのだと思います。

 その感謝、お礼。

 何に、どう感謝、お礼するかで、校長の方針が、PTAの皆さんに伝わっていくと考えます。

 教員についても、校長がこういう姿勢で臨めば、多くの教員は、PTAに対しても協力的になるはずです。

 わたしの学校の場合、PTAと教員との仲がよく、物事を前向きに受け止め、ときには、管理職を通さず決めてしまうので、
「おい。おい。そんな大事なことは、管理職にもあらかじめ伝えてくれよ。管理職が知らないままで話を進められると、あとのPTA対応で、『えっ。校長先生はご存じなかったのですか。』などと言われてしまうではないか。」
と、苦言を呈したこともあったくらいです。

 そんな感じでしたから、教員にしても、『PTAなどないほうがいい。』などと思うものはいなかったはずですよ。


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 今でも、当時のPTA役員さんとは、お付き合いいただいています。
「toshi校長先生は、わたしたちのやりたいようにやらせてくださいましたから、みんなとても楽しく活動ができたのです。」
 あれ。これ、以前の記事にも書いたかな。
 一部重複してしまいました。すみません。

 それでは、これも重複。毎度のお願いですが、上記バナーへの1クリックをよろしくお願いします。

(2)へ続く。


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2007年09月09日

『話す・聞く』そして、『思い描く』3

f9bd28b4.JPG 本日の記事は、5回前の記事の続きなので、もしお読みでなかったら、それをまずご覧いただければと思う。

     国語『話す・聞く』の指導(1)


 上記記事を書いたときは、正直言って、国語科指導のことしか頭になかった。日本の英語教育の実情については、考えてもいなかった。

 しかし、この次の記事『話す・聞く』の指導(2)』にお寄せいただいた、『ベアさんのコメント6番』を拝見し、
 『ああ。そうか。これは、何も、国語科教育だけの問題ではないな。英語にも共通して言えることなのだな。』
と思った。

 そう言えば、以前、姪から届いたメールにも、日本の英語教育に問題があるのではないかという指摘があった。

 
 このことに関連し、思い出したことがある。

 現職のとき、我が地域の小学校教育研究会で、ある方の講演をうかがった。

 それは、落語家の三遊亭圓窓師匠の講演である。テーマは、『話す・聞く・思い描く』。



 その要旨は、

 「今、『話す・聞く』力を養う教育が大切です。

 その重要性に、教育関係者も気づいたのでしょう。国語の教科書(教育出版)に、落語が載る時代となりました。うれしい限りです。

 今の人は、話の聞き方が下手ですね。

 それは、テレビをはじめ、映像文化の時代になってしまって、人々は、自分の頭で思い描く必要がなくなったからでしょう。
 これは、よくないですな。想像力をはたらかせる必要がなくなってしまいました。

 その点、落語はいいです。なにしろ、落語家の言葉としぐさ、表情、それに、小道具としての扇子と手拭い。それしかない。思い描くには最適だ。それに笑いもある。

 ぜひ、落語に親しんでもらって、皆さん、脳の活性化を図りましょう。」

 そして、講演の最後に、教科書に載っている、『ぞろぞろ』を演じてくださった。


 圓窓師匠。ごめんなさい。あまりにも簡単な紹介で。


 でも、読者の皆さん。

 あとは、師匠のホームページを見ていただいたり、本を買っていただいたりして、楽しんでいただければと思います。


    圓窓落語大百科事典


 さて、今、この講演を思い浮かべて思うこと。

 
 たとえば、日本の英語教育。英文和訳とか、英作文とか、今でも、そのような教育が中心なのかな。
 これももちろん大事だが、・・・、

 どうだろう。

 たとえば、“beautiful”とあったとき、『ああ。『美しい』だな。』と思うだけで、つまり日本語の単語を思い浮かべるだけで、その単語が出てくる場面の情景を思い描いているだろうか。

 自分の経験だけで論じるのは、はなはだ申し訳ないことだが、どうもその点、心もとないように思う。

 
 わたしは、かつて、自分の学校だよりの文を知人に英訳してもらったことがあった。そのとき、その英文を読んで、思わず感心したのは、・・・、

 わたしの、
『その子の言い方があまりにやさしく、微笑をたたえているので、うれしかったです。』の文を、

“Her smile and manner was very sweet, therefore I was very happy.”

 と訳してくれたことだ。

 そこでは、『言い方』『やさしい』『うれしい』という日本語について、わたしが思い浮かべたのとはまったく違う単語が使われていた。
 また、文の構成が大きく異なっていることについても、『すごい。』と思った。

 こういうのは、『思い描く』世界を経るなかで、言語感覚を磨き、獲得できる力なのではないかと思った。


 わたしは日本語に関しても、同じようなことを思った。

 上記、『国語『話す・聞く』の指導(1)』で書いたことに付け足すが、やはり、『思い描く世界』があってはじめて、自然体の話が可能になるのではないだろうか。


 以上、わたしの専門外のことだから、その論理の妥当性についてはまったく自信はないが、わたしの経験だけで、思ったことを書かせていただいた。

 
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 そうなのです。このわたしにしても、中一から大二まで、実に8年間、英語を学んだはずなのに、英会話となると、まるっきり自信がありませんでした。

 わたしの頭のなかには、英文和訳などの機械が入っているかのようでした。
 ですから、応用もきかなければ、言語感覚などとは、まったく無縁の世界にいたように思います。


 そして、若いうちは、人前で話すことなど、ほとんどできませんでした。

 会社を辞めた理由のなかには、それも少しはありました。正直に言うと、相手が子どもなら苦手意識ももたず、何とかなるのではないか。そんな思いももちました。今となっては恥ずかしい限りです。

 
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2007年09月07日

認めてもらいたい欲求4

9df3fae2.JPG 今日は、『ほめる量をそろえる努力』すなわち、『どの子も認め、ほめる』実践でも問題は生まれるのであり、それをどう克服したらよいかを述べるのであるが、そのまえに、ちょっとお断りしておきたいことがある。


 一つの例示から始める。

 わたしがかつて、教諭として勤務した学校で、学級経営の研究に取り組んだことがあった。

 あるとき、一人の教員が、次のような発言をした。

「人には認めてもらいたい欲求がある。特に子どもは、成長期にあるのだから、ほめて認めてやることは、学級経営のうえでも、はかり知れない効果をもたらす。
 とにかく、ほめる実践をしようではないか。
 とかく教員は、子どもが価値あることをやっても、それを当たり前にしか思わず、やり過ごしていることが多くないか。それでは、子どもの伸びようとする心をつんでしまう結果になると思う。」

 それに対し、別な教員が、こう言った。

「子どもをほめることなど、そんなに大切とは思わない。意味もない。だって、子どもにはほめられたいという本能にも似た欲求があるから、ほめればほめるほど、ほめられたくて、無理してしまう。本心からやる子を育てるには、ほめることより、やらなければいけないからやるというような自覚を持たせる方向で、努力した方がいい。」

 そうしたら、ふだんは温厚な校長がめずらしく色をなして、

「それは、皮相的な見方だ。『子どもをほめることに意味がない。』などということはない。学級経営上、よいことに決まっている。誰だって、人にほめられ、認めてもらったことにより伸びたという経験はもっているはずだ。
 ただ、『人間のやることに絶対はないので、無理させることもあるから、それには留意しましょうね。』というのなら分かる。
 しかし、留意点を絶対的な条件のように言ってしまうのは間違いだ。
 まずはやってみたらどうだ。そのうえで、先生が言うように、無理する実態が生まれたら、そのとき初めてそれへの対応を考えればよい。」

 校長の決め付けた言い方は、一方的に研究の路線を規定してしまうことになるからまずいと思ったが、言っていることは正論だと思った。


 そうなのだ。世の中の議論を見ていると、この、根本原則とそれへの留意点をごっちゃにし、ああだこうだと言っている場合がありはしないか。


 そういう意味では、本日とり上げる『問題点』は、あくまで留意点、あるいは、指導する側の配慮事項であることを、まず確認しておきたい。少なくとも、問題点があるから、ほめるのはよくないという話ではない。



 まず初めは、前回記事にした、『ええっ。ぼく(わたし)だって、宿題やったよう。先生、ほめてくれないの。ひいきしてらあ。』という、低学年の問題から。


 こういうのは、ほめられたい欲求が強いのだから、まずはその欲求を満たしてあげることから始めないと、うまくいかないだろう。何はともあれ、心を安定させてやることから始めたい。

 だから、まずは、
「ああ。そうか。Aちゃんもやってきたか。ごめん、ごめん。気がつかなかったよ。はい。よくやってきたね。えらいね。」
と、言ってやる。

 しかし、ほとんどの子は宿題をやってきているわけだ。それでも、Aちゃん以外はほめてほしいとは言わない。
 それが度重なってくると、学級内に、Aちゃんをほめることへの違和感が強まっていく。

「先生。おかしいよ。宿題なんかみんなやっているのだから、Aちゃんばっかりそんなにほめなくったっていいのではないの。」
「そうだよ。そんなの、おかしいよ。Bちゃんはふだん宿題をあまりやらないから、いつもやってくるといいなって思って、先生はほめているのでしょう。
 それなのに、Aちゃんはいつもやっているのだから、別にめずらしいことではないじゃん。」
 
「そうか。いつもやってくるAちゃんには、そのくらいのことでほめる必要はないか。なるほどな。ところで、Aちゃん。そう言われちゃったけれど、どうだい。もう、宿題をやったくらいのことではほめなくてもいいかい。」

 Aちゃんは、黙って、苦笑いしながらうなづく。
「そうか。分かった。じゃあ、Aちゃんには、もっと違ったいいことでほめてやろう。」

 これで一件落着だ。


 低学年の子は、ずけずけものを言う。しかし、そこに悪意はないから、かわいいし、素直に聞ける。言われたAちゃんもBちゃんも気にしている様子はない。素直に反省している。
 そう。そう。こうした学級の雰囲気が、Bちゃんにもいい影響を与え、なんと、宿題をほとんどやるようになったのだ。

 このあたり、小学生でも、中学年以上になると、こうはいかないだろう。『何もそこまで言わなくったっていいでしょう。』となってしまう。


 そう。高学年だと、こうなる。

 常々、みんな協力し合ったり、助け合ったりして、男女の仲もよく、なごやかに学級生活を送っているなと感じ、そのことを何度となくほめていた。そうしたら、
「先生。そのようなことでいちいちほめなくていいよ。ぼくたち、そんなこと当たり前のことと思っているし、そんなすごいことと思っていないから。」

 ああ。何とすばらしい子どもたちだ。子どもにあやまったことはいうまでもないが、上記のその言葉を、絶賛した。『ほめなくていいよ。』という言葉をほめるのだから、わたしも子どもも、大笑いだ。

 子どもが当たり前と思っていることでほめられるのは、バカにされたと思うのかもしれない。
 わたしは、『子どもは成長した。これからは、何をほめるか、よく吟味しなければいけないな。』と、緊張感を覚えた。
 


 次、本記事の冒頭の話のように、

 ほめられたいあまりに、やり過ぎる傾向が出てくることがある。無理をしてしまう。
 心が育っての結果としてやるのならいいのだが、本心はそれほどでもないのに、先生がほめてくれるからやるといった傾向だ。

 これは、でも、子どもの表情をしっかり見ていれば、かなりのところ分かるだろう。こういう子は、自分のやったことをひけらかす傾向もある。だって、ほめてもらわなければ気がすまないのだものね。

 だから、こういうときは、人知れず黙々とやっている子をその観点でほめるようにし、それをひけらかしている子に聞かせるようにする。それでかなり効果があるはずだ。

 もう一つ。こうなってしまうについては、指導する側にも問題がある。それは、

○ 終始やっていることのみとり上げて、ほめていること。どういう気持ちでやっているのかに無関心になってしまっていること。

○ そういう、ある意味、いやらしい態度が見えるようになったら、ほめる観点を変えなければいけない。前述の、『人知れず黙々と』は、その一例だ。



 最後に、現代という時代、ふえつつあることにふれる。

 それは、ほめられても、それを素直に喜べない子どもの存在だ。

 どうも、これは、根拠の薄い、一方的なわたしの思いなのだが、小さいときから叱られることばかりで、ほめられた経験が乏しい子に、多いのではないか。ほめられるとかえって心が落ち着かなくなってしまうように見える。
 これは経験が乏しいから、心が不安定になってしまうのだね。うれしくないわけはないと思うのだが、どうだろう。

 こういう子の場合、ほめられるとわざと反対のことをやることもある。
「おっ。ちゃんと席に座っていられるね。いいぞ。」
すると、すぐ、席を離れて、教室中を動き回るといった具合だ。

 わたしは、こういうとき、独り言を言うようにした。また、同じことをしている別な子をほめるようにもした。

「おれ、そんなこと、してないもん。」
「Cちゃんのことを言ったのではないよ。わたしの独り言だもん。」
などと言い返したりもした。
 
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 こういう実践をしていると、自分も挙手しているのに、
「先生。Dちゃんが手を上げているよ。Dちゃんを指してあげて。」
という子が現れます。『自分はいつも発表しているから、後でいい。』ということですね。

 つまり、子ども同士で、『えこひいき』をし始めるようになるのです。

 いや。これは、変な言い方ですね。子ども同士が、一人ひとり友達の個性を大事にし、相互評価力を高めるようになるのですね。こうなったらしめたもの。

 学級経営が楽しくて仕方ないというようになるでしょう。
 
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2007年09月05日

えこひいきではないですよ。4

23e4362f.JPG 今回、国語の授業としてではなく、学校生活のなかでの『話す・聞く』の指導を記事にしたところ、とてもありがたいコメントをいただいた。

 Jupiterさんからは、『一人一人の個人差に対応して、的確に評価をしていくということはあらゆる教育活動に通じる教師の姿勢だと思いました。』

 また、ベアさんからは、日本の英語教育の問題点を、『話す・聞く』の指導と関連付けてご指摘いただいた。

 

 ほんとうにその通りで、納得しながら読ませていただいたが、なお、補足したいことが思い浮かんだので、今日からしばらくは、上記両コメントをとり上げての記事とさせていただきたい。



 まず、今日は、前者について、

 ほんとうにおっしゃる通りで、一人ひとりの個人差に対応する指導は、何も、『話す・聞く』だけではなく、全教育活動を通して大事にしていかなければならないと思う。


 たとえば、

 宿題をやってきただけでほめていい子もいれば、宿題などではほめる必要はなく、意欲的に取り組んだ自由学習の質でほめる子もいる。



 だけれど、これには、重大な留意点がある。

 これは、あることに気を配らないと、子どもから『えこひいき』と言われかねない側面を持つ。

 だって、前述のように、『ある子には、宿題をやってきただけでほめるけれど、ほとんどの子に対しては、そのくらいのことでほめる必要はない。』と考えるわけだもの。

 低学年だと、多くの子がほめられたいと思っているから、
「ええっ。ぼく(わたし)だって、宿題やったよう。先生、ほめてくれないの。ひいきしてらあ。」
などということも起きる。

 

 この、子どもから、『えこひいき』と言われてしまうのは、教員にとって、かなりこわいことではないか。家へ帰れば、親に報告されてしまうおそれもある。
 子どもからそう言われないように、いつも気をつける教員もいそうだ。



 何をかくそう。実は、このわたしが、若いときそうだった。

 子どもからえこひいきと言われないよう、ものすごく気を遣っていた。ある子に、あることで叱れば、それと同じことをした子には、同じように叱らなければいけないと思っていた。

 これは、『ほめる質、叱る質をそろえよう。』としていたと言えよう。



 しかし、この努力は大変むなしい努力であることが、だんだん分かってきた。

 担任が質をそろえようとすればするほど、担任の思いを感じ取った子どもたちは、そのことにシビアになっていく。
 そして、ちょっとした『不公平』に対しても、それをついてくるようになる。


 もう一つ、あった。

 それは、ほめたり叱ったりする質をそろえようとすると、ほめることばかりの子、逆に、叱ることばかりの子ができてしまう。


 
 だいぶ長いあいだ、わたしは、そのジレンマに悩んだ。このことだけが要因とは言わないが、子どもから反抗されるようにもなってしまった。



 そして、修行時代を迎えることになる。先輩の教員のご指導もいただきながら、だんだん自分を変えていく努力をするようになった。



 心豊かな子どもを育む学級経営ができるようになると、それは実に簡単なことだった。

『これまで、なんでこんな簡単なことで悩んでいたのだろう。』
と、おかしくなってしまうくらいのことだった。


 ようするに、『公平』の観点を変えたのだ。



 ほめる質をそろえるのではなくて、ほめる量をそろえるように努力するようになった。

 量をそろえようとすると、当然一人ひとりほめる観点を変えなければならない。

 それこそ、宿題をやってきたくらいのことでもほめないと、他にほめることがないから、ほめる。(実際はそれほど極端ではありませんよ。ここでは、話を分かりやすくするために、あえてこう書かせていただきました。)

 
 この努力は楽しかった。

○一人ひとりの実態をしっかり把握しよう。
○一人ひとりに寄り添っていこう。
○その子の成長を促す方向でほめていこう。

 そういう意識が自然に芽生えた。


 また、子どもの側にすれば、どの子も、『先生は、ぼくを(わたしを)認めてくれている。受け止めてくれる。伸ばしてくれる。』

 そういう思いが生まれたようだ。したがって、『えこひいき』などという言葉は、ついぞ、聞かれなくなった。


 その結果、どの子も伸びることが実感できるようになった。明るく、ほほえましい思いになることがふえた。子どもたちには、『安心感』が生まれたようだった。

 
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 まあ、そうは言っても、ほんとうに量をそろえることはできません。わたしの勘では、3:1くらいの開きはあったと言っていいでしょう。
 でも、そのくらいの開きはあっても、問題が発生することはありませんでした。

 ただし、他のことでは、問題点もあったのですよ。次回は、『ほめる量をそろえようとする努力』の中で発生した問題点と、それをどう克服したかについて、述べてみたいと思います。

 ベアさん。もうちょっと待ってくださいね。申し訳ありません。
 
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『認めてもらいたい欲求』につづく。


rve83253 at 01:22|PermalinkComments(5)TrackBack(0)児童観 | 児童指導

2007年09月03日

総合的な学習の時間とは、(1)4

971cb006.JPG 中教審が、『主要教科(いやな言葉だと思う。)1割増、総合的な学習の時間の週1時間減』を提唱している。


 授業時数増は、覚悟していた。かつて記事にしたこともある。

 7月21日   定 見(5)の後半です。

 まったく時代の勢いというものはすごいものだ。これに異を唱えれば、教員としては生きていかれないかのようだ。

 しかし、怒りにも似た気持ちになるのは、『生きる力を育むことは、これからも大切にしたい。』と言いながら、総合的な学習の時間を1時間減としたこと。矛盾、きわまれり。


 ただ、今は、そのことについてはふれない。後刻に譲りたい。



 ここでは、総合的な学習の時間のあり方をさぐりたい。

 と言うのは、市民の方々は、『総合的な学習の時間って、なあに。』という思いがおありだと思うからだ。

 ご自分の子ども時代はなかった学習だから、あまり多くをご存じない方もいらっしゃるだろう。だとすると、それを述べなければ、わたしの『怒り』も理解していただけないと思うのだ。


 そこで、ここでは、わたしが見せていただいた授業のなかから、一つの学習を提示したい。それを通し、総合的な学習の時間がいかに大切な学習であるかをご理解いただければ幸いと思う。


 そのまえに、総合的な学習の時間とは、どういうねらいを持ち、どういう学習を期待しているのか、学習指導要領でうたわれていることにふれる。

 これについては、大変いいホームページを国は用意しているので、それにリンクさせていただく。

 わたしが特に強調したいのは、

○ ねらい、内容ともに、各学校が作成するものであること。したがって、教科書はない。
○ 国は、国際理解、情報、環境、福祉・健康などをあげているが、これは例示としてあげたに過ぎない。
○ 子どもの学ぶ意欲を高めるため、子どもの思い、学び、及び、体験を重視する。

 だから、わたしが標榜する、民主主義教育を代表するような学びであり、戦後父たちが実践した、『コアカリキュラム』にも似た要素を持つ学習なのである。



 それでは、一つの学習を例示させていただく。

 これは、わたしの校長時代、他校の授業を見せていただいたことがあったが、その実践である。6年生。そして、国の例示で言えば、福祉・健康に入る。


 子どもたちは、地域にある老人ホームのお年寄りと、数回ふれ合っている。本授業でとり上げたのは、3回目の訪問であった。

 その様子が、ビデオに撮影されており、授業の中でも数回写されたから、わたしたちよそから来た参観者にも、訪問したときのふれ合いの様子がよく分かった。さすが、3回目。子どもたちも、お年寄りも、緊張感などなく、なごやかな雰囲気がうかがえた。

 子どもたちの思い、疑問等にしたがって、学習がすすんでいく。子どもたちの学びは、実に豊かであった。お年寄りへ寄せる思いは温かく、次々に出るAちゃん、Bちゃんの思い、疑問などを、みんなで真剣に考え合っていった。



 そして、Cちゃんの思いが、とり上げられる。


 担任が言う。

「ところで、Cちゃん。Cちゃんがこまってしまって、わたしに言いにきたことがあったね。その場面を今、写してみようね。」

 画面は、

 一人のお年寄りが、ハーモニカを吹いている。それをみんなが聴いている。終わって拍手。・・・。それから、三々五々、お年寄りと子どもたちとの交歓風景にうつる。


 再び、担任の言葉。

「さあ。Cちゃん。このあと、わたしに言ってきたことを、今、みんなに、言ってくれるかな。」

「はい。このあと、あのう、ハーモニカを吹いたDおじいさんは、ぼくに、『最近、わたしは、かなりボケてしまってね。いろいろなことを忘れてしまうようになった。さっきやったことが思い出せない。言うこともおかしいと人から言われてしまうこともある。年はとりたくないなあと思うけれど、年をとるのは仕方ない。こまったものだね。・・・。

 でもね。子どものときからやっていた、このハーモニカだけは、今もちゃんとふけるのだよ。子どものときからやっているということは、すごい。ボケても、ちゃんと吹けるのだね。』と言ったのです。

 それで、ぼくがこまってしまったのは、Dおじいさんに、どう返事していいか分からなくなってしまってね。返事ができなくなってしまったの。」

 そう言えば、Cちゃんのとまどいの表情も、ちゃんとビデオに収まっていた。


 友達に言われる。

「どうして、返事ができなくなっちゃったの。」

「だってね。ハーモニカが、今も吹けるから、『よかったですね。』とも言えるけれど、そうすると、『ぼけた。』って言っていることをよかったと言っているように受け取られるとこまるし、
 だからと言って、『そんなことないですよ。大丈夫ですよ。』と言っても、ぼくは、Dおじいさんがボケているなどとは思っていなかったから、気休めのように受け取られてもこまるし、・・・、
 それで、返事ができなくなってしまったのだけれど、皆さんなら、こういうとき、なんて応えたと思いますか。」


 それで、学級の子みんなで、考え合う。その表情は真剣そのもの。Cちゃんに寄せる想いとも、Dおじいさんに寄せる想いとも感じられた。

「それは確かに、ぼくでもこまっちゃったと思うけれど、・・・、でも、ぼくたちが聴いても、ほんとうに、ハーモニカは上手で、ぼくがいくら練習してもふけないくらいだったからね。ぼくだったらそう言ったと思う。
『ほんとうにとても上手ですよ。ぼくでもあんなには吹けません。すごいですね。』そう言ったかもしれない。」

「うん。ぼくもそう思う。思ったことを思ったように言えばよかったのではないかな。『ハーモニカ、上手ですね。すごいですね。』って。
 それで、ボケたということについても、Cちゃんは、そう思わかなかったって言うのだから、『ボケていないですよ。大丈夫ですよ。』って、思ったように言えばよかったと思う。」

「でも、それは、やっぱり変なのではないかなあ。だって、Dおじいさんが、『自分はボケた。』って言っているのでしょう。それを、『ボケてない。』って言ったって、なぐさめにも何にもならないと思う。」

「こう言えばいいのではないかな。『おじいさんはボケたっておっしゃるけれど、ぼくには、そんなふうにはとても見えませんよ。お元気ではないですか。』そう言えば、励ましにはなると思う。」


 そのような話し合いを続けていった結果、

○ お年寄りとのふれ合いはもっと続けていかないと、ほんとうのお年寄りの気持ちは分からない。
○ ボケるってどういうことなのだろう。

そういう方向へ収斂していった。


 『子どもたちが主体的に、また、真剣に学習に取り組んでいったら、総合的な学習の時間での学びに、ハッピーエンドはない。国際理解、情報、環境、福祉・健康と、どれをとっても、人類にとっては、深刻で、解決不可能と言ってもいいくらいの永遠の課題ではないか。それだけに、価値ある学習が望まれるのである。』

 わたしは、ある著名な教育学者の、この言葉を思い出していた。


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 授業の、ほんの一断片しか書けませんでしたが、総合的な学習の時間について、ご理解いただけましたでしょうか。

 もとより、教科で教え込みをしておいて、総合だけは子どもの主体的な学びと言っても、それは無理というものでしょう。総合は、教科での学びを総合化するものとも言えるのですから、教科の指導のあり方こそ問われるというものです。

 今日はこのくらいにしておきましょう。これからの学校教育のあり方については、次回ふれたいと思います。

  それでは、今日も、1クリックをよろしくお願いします。

   (2)へ続く。

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2007年09月01日

『話す・聞く』の指導(2)3

9d56e981.JPG 我が地域の小学校では、学級朝の会で、日直さんの『朝のスピーチ』を行う学級が多いようだ。

 『学級のすべての子に、みんなの前でスピーチする機会を与えたい。』

 そういう願いをもったとしたら、朝の会は、格好の場になるだろう。

 しかし、現実には、『言わせっぱなし、』で、特に指導のないケースも見かける。また、たとえ、『ほめる。』などしたとしても、場当たり的で、一定の指導方針のもと、子どもを伸ばそうとする視点の足りないケースもあると思われる。

 これだと、せっかくのスピーチも、マンネリになってしまう。



 わたしは、初任者指導に携わって、こういう場面に何度か出っくわしたが、だからと言って、初めっからこのことに関して初任者を指導したわけではない。


 4月当初は、どうしても、他の場面の方が気になる。

 子どもへの接し方、子どもの把握の仕方、教科指導のあり方など、よきにつけあしきにつけ、もっと根源的な指導の方が中心となる。

 だから、ある程度たち、・・・、5月から6月ごろかな。学級が落ち着いて、子どもの把握ができたと思われるときを待って、この指導を始めるようにした。



 今日は、ある4年生の学級をとり上げて、指導の経過をたどることにする。このクラスでは、『昨日のできごと』というテーマで『スピーチ』が行われていた。



 最初に初任者に言ったのは、次のようなことだ。

「クラス全員が、一応スピーチはできるようだね。まったく話せないとか、何をしゃべったらいいか分からないとかいう子はいないようだ。

 でも、声が小さくて言っている中身が分からない子はいるね。
 それなのに、クラスの子たちは、別に何も気にしていないようだ。分からなくてもかまわないといった感じだ。先生も、そういうことに対し、特に声をかけてはいない。これだと、何のためにスピーチを行っているのかということになってしまうね。

 先生は、数回、『昨日のできごとだけではなくて、そのとき思ったことも話すといいよ。』と、声をかけたことがある。これはよかった。
 それで、けっこう思いを言う子はふえたが、今のところは、思いといっても、『楽しかったです。』『おもしろかったです。』『うれしかったです。』くらいのことを言っているだけだね。」


 そして、『Aちゃんには、〜。』『Bちゃんには、〜。』というように、一人ひとりほめる観点を示した。

 声の小さい子は、よく聞こえるように話したらほめる。
 思いの言えなかった子が、言えるようになったらほめる。
 ただ楽しかったとしか言わなかった子が、楽しかった様子まで目に浮かぶように話せるようになったらほめる。
などなど。 


 そうしたら、次の週、思わず苦笑いしてしまう場面に出っくわした。

 声が小さくて聞こえないとき、席についているみんなから、
「よく聞こえません。」
「もっと大きな声で話してください。」
の声が聞こえた。

 そして、初任者は、『小さな声のスピーチ』の子に向かって、
「もっと、みんなに聞こえるような大きな声で話そうね。」
などと言っている。

 確かに、聞こうとする意欲を養っているとは言えるが、これはよくない。

「大きな声で話すことを強制してしまうと、そのときは大きな声を出したとしても、スピーチすることに対し苦手意識をもたせてしまう可能性がある。

 声が小さいのは、みんなの前で話すことに、自信がなかったり、間違えたらどうしようと思ったり、勇気がなかったりしているわけだから、先生がその子のそばに行って聞き耳をたてるようにし、『今、〜ちゃんの声聞こえたかな。・・・。聞こえなかった。・・・。それなら、先生が言ってあげるね。』などと、通訳のようにしてやればいい。そして、心の障壁がなくなって、大きな声で話せたときに、ほめるようにしてやればいいのだ。」



 初任者はだんだん成長した。

 ただ、楽しかったとか、おもしろかっただけではなく、たとえば、
『昨日公園のシーソーで、Cちゃんと遊びました。Cちゃんがだんだん勢いをつけて、こうやった(身ぶり手ぶりつき)ので、わたしは少しこわくなりました。
 でも、なれてきたらなんともなくなり、そのうち楽しくなってきました。』
などと、楽しい様子まで話すような子が出てきた。

 これはもう、上記の観点で、担任は絶賛した。

 そう。一人ひとりほめられる観点は違う。声が大きいだけでほめられる子、話の中身でほめられる子など。いろいろあっていい。



 もう一つ、初任者の成長を感じたことがあった。

 声の小さかった子が、メモ書きを用意し、メモを見ながら大きな声で話したとき、それをほめてやったことだ。

「先生。よかったよ。『メモを見ないで言ってごらん。』とか、『今度はちゃんと言う内容を覚えてこようね。』などとは言わなかったね。
 逆に、メモを見ながらでも大きな声でみんなに話せたことをほめていたじゃないか。『もう先生が通訳してあげる必要がなくなったね。』とか言って。
 そのとき、あのDちゃんはとってもうれしそうだった。
 だから、今度やるときは、メモも見ないで、大きな声で話せる可能性がある。そうしたら、そのことをほめてやればいい。」



 このようにやっていると、担任がほめる言葉を通して、子どもたちは担任の思いを感じるようになる。

○一人ひとりほめていること。
○そのほめる内容は一人ひとり違っていること。
○そして、一人ひとりの伸びを具体的に指摘していること。

 すると、学級の子たちも、
「先生。今日の日直のEちゃんは、すごく長く話していたね。よくあんな長く話せるね。話す内容を覚えちゃったのかな。」
などと言うようになった。いわば友達同士の相互評価だ。その相互評価力も、担任はほめるようになった。

 もう、5・6月のころとは見違えるようになっていた。



 そのようなとき、わたしは初任者に次の観点を与えた。

「先生が長く話せることをほめているから、子どもたちは、すごく長く話すようになった。それに、まるで見ているかのように様子がよく分かるし、いきいきしているから、思わず笑ってしまうこともある。そういう意味ではとてもいい。

 でも、ただ長いだけで話がダラダラしてしまって、『もう話を切り上げたら。』って言いたくなる子もいるよね。・・・。さあ、そういう子には、どう指導したらよいかな。」

「そうですね。ただ長いだけではダメですね。ほとんどの子が長く話せるようになりましたから、これからは、もうその観点ではほめないようにします。
 要領よく、分かりやすく話す子がいますよね。Fちゃんとか、Gちゃんとか。・・・。そういう子を中心に、中身でほめるようにします。」

「そうだね。FちゃんやGちゃんは、メモ書きくらいは頭に入れているのではないかと思うよ。
 そのメモ書きには話す要点くらいが書いてある。それにしたがって、あとは話す内容を決めているのではないかな。

 そのようなことをふまえ、どのようにして要領よく話せるようになっているのか、聞いてみたらどうだろう。
 これはきっと、国語の、『話す・聞く』の学習につながると思うよ。」



 3学期(後期後半)になると、このクラスの子たちはすごいことをやりだした。

 テレビのまねなのだが、日直はスピーチの前に、大きな手作りのさいころを振る。これには、数字ではなくて、『昨日のできごと』『うっかりしたこと』『ほめられたこと』・・・などというように、話のテーマが書かれている。

 もっとも、『さいころを振らないで、話してもいいですか。』と言って、自分で決めたテーマで話してもいいことになっている。

 みんなで話し合って、こうすることにしたのだという。



 もう、教室の雰囲気はとてもいい。スピーチをする子、それを聞く子、みんななごやかだ。話す子の方をしっかり向いて、楽しそうな表情を浮かべながら聞いている。いつのころからか、話し終えると、拍手も自然に出るようになった。

 また、スピーチに対し、質問も出るようになった。『そう言えば、ぼくも似たようなことがあったよ。』などと、思いをつけたす子もでてきた。



 あるとき、学年主任が、職員室で、
「H先生のクラスの子は、みんな話が上手だね。よくあれだけしっかりと話せるね。」
とほめているのを聞いた。


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 前回の記事の、閉会式で話した子の担任も、きめの細かな指導をしていたに違いないと思います。

 また、『話す・聞く』の授業ではありませんが、今日のテーマに関連し、すでに記事にしたことがあります。ある先輩の、実に思い出深い授業です。リンクしますので、併せてご覧いただければと思います。

   10月15日  充実した学習を(2)


 さて、昨日の、『本の読み聞かせ』のことですが、『読む』のは大人、『聞く』のが子どもだから、子どもにとっては、『聞く』勉強のように見えます。
 でも、『読み聞かせ』のねらいで考えると、
 これは、『本に親しんでほしい。』『読書が好きになってほしい。』という思いでやるのですから、『読む』学習なのではないでしょうか。
 
 そう思いますが、なお、ご意見をお寄せいただければと思います。

 
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