2006年01月08日

心の教育(5) 自主性を育む5

e0ce2dfd.JPG  いつも担任が子どもに指示し、その通りやらせていたのでは、子どもの自主性は育たない。思考力、判断力も養われない。学習にしても同じで、いつも、教師が発問し、子どもがそれに答える学習をしていたのでは、知識・技能としての基礎・基本は身についたとしても、発展応用力、自己教育力は育たない。

 わたしは、例外はあるものの、基本的には、子どものやりたいようにやらせ、それをあとから、意味づけたり価値づけたり関連づけたりすることに意を注いだ。その多くは、子どもをほめたり、子どものすばらしい行動に感動の言葉を贈ったりすることだった。

 しかし、こういう教育だと、問題点は次のようなことだ。
『子どもは自主的に判断して行動したのだが、その行動は、大人の常識から見ると不都合極まりない。』

 こんなことがあった。2年生担任だったときのことだ。
 ふつう、交通安全教室は、校庭に線を引いて道路に見立てたり、教材用の信号機を置いたりして行うものだが、この学校は、そばに交通関係の教習所があったので、そこで実施していた。ただし、毎年行うが、半数の学年での実施であり、子どもたちは隔年で学ぶことになっていた。

 さて、いよいよ出発というときになって、わたしの学級だけ極端に集合の人数が少ない。いつも大体早めに集まるのにどうしたことかと、子どもたちの行動をあやぶんだ。

 集合場所にいた自分の学級の子は、5・6人だったかな。その子たちに聞くと、
「みんな一度は、校庭に出たのだけれど、Aちゃんが、『建物の中に入るのだから、上履きがいるのではないの。』と言ったら、みんなも、『そうだね。』と言って、昇降口まで戻っちゃったの。」
とのことだった。

 いやあ。こまった。
 いったん子どもが集まった後、今度は上履きを戻しに行かせなければならないから、これで出発は10分近く遅れるだろう。
 第一、 わたしは、『上履きがいる。』などとは、一言も言っていないではないか。
でも、こうなった以上、わたしにも落ち度はある。持ち物は、一応事前の学習としてしおりを使い、それと筆記用具がいることは言っておいたが、他は特にふれなかった。

 
 しかし、これは、わたしの流儀から言って叱ることではない。

 その日の終わりの会で、わたしはそのことに、ふれないわけにはいかなかった。
「今日の教習所への出発では、失敗しちゃったね。でも、あれは、先生がいけなかったな。ちゃんと、『建物の中には入るけれど、上履きはいらないよ。』って言っておけばよかった。出発が遅れちゃってごめんね。
 
 Aちゃんが、『建物の中へ入るのだから、上履きがいる。』って思ったのは、この場合は正しくなかったわけだが、でも、そうした判断を自分でしたっていうことは、すばらしかった。
 
 それとね。先生、もう二つ感心したことがあるよ。その一つは、多くの子が上履きを持って集まったとき、先生は、『上履きはいらないのだよ。せっかく持ってきたのだけれど、もとへ戻しなさい。』って言ったよね。でも、そのとき、一人もAちゃんに文句を言わなかったな。これもすばらしかった。先生は思ったのだけれど、みんな、『自分で判断したのだから、Aちゃんに文句を言うことではない。』って思ったのではないかな。
 その証拠に、これは二つ目の感心したことだけれど、『Aちゃんはああ言ったけれど、上履きはいらないよ。』って判断した子だって、いたわけだものな。
 
 とにかく、全員が自分で判断して行動したっていうことは、すばらしかった。そして、持ち物のことを言い足りなかった先生がいけなかったのだから、ごめんなさいね。
 ただこれからは気をつけよう。ふつう、大人が入る建物は、下履きのまま入るところばかりだよね。」

 
 Aちゃんでは、もう一つ。何ともはや、言いようもない微笑ましいことがあった。
 
 朝会で校長先生から賞状をいただいたときだ。校長先生が、賞状を読み上げ、『おめでとう。』と言って渡したとき、受け取りながら、大きな声でゆっくりと、『どうも、ありがとうございます。』と言ったのだ。

 ふつうは言わないものね。もちろんそんな指導はしていない。でも、何ともほほえましく、けっきょくわたしは、そのことにはふれずじまいだった。


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   (6)へ続く。


rve83253 at 22:37│Comments(8)TrackBack(1)学級経営 | 児童観

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1. マニュアル  [ 童話のはなし ]   2006年01月09日 13:50
昨今、マニュアルどおりの人間が増えたといわれています。 よく、言われるのがファー

この記事へのコメント

1. Posted by こだま   2006年01月09日 08:43
おはようございます!
今日のお話を読んで、道徳教育のことを考えさせられました。
道徳という授業の中では、指導者側によほど熱いものがあふれていないと、その嘘くささを子どもたちはすぐに読み取ってしまって、子どもたちの意見は、先生に受けのいいその場を取り繕った優等生的な、型にはまったある種の「制限された表現」になりやすいと思います。
だけど、今日のお話のように、日々の日常生活を通してのささやかな心の触れ合いの中にこそ、「真の道徳教育」の可能性の萌芽を強く感じます。
2. Posted by まき菱   2006年01月09日 10:01
はじめまして。お邪魔いたします。

 生徒さんが賞状をいただくときに「ありがとうございます」と言ったお話を読んで、昔からの素朴な疑問が蘇りました。

 なぜ「ありがとう」を言わないことが普通なのでしょうか?

 確かに、大人の日常でも、余程目上の方から賜ったような場合は礼の省略が行われることがあります。また、式典の中で行われる場合も、音声言語は使わずに立礼の使い分けで対応しますよね。
 一方、「ありがとうございます」と言わなければならない場面も多くあります。

 子どもにも説明したいので、ご説明いただけませんでしょうか?
3. Posted by Hideki   2006年01月09日 12:48
さすがですね

ひょっとしたら、という「気づき」
こうなのではないか?、という「イマジネーション」

受け身でばかりいると、これができなくなると思う。それは、子どもに限らず、大人だってそうです。情報が多すぎる現代では、気をつけてないとずっとそのままになっちゃうと思う。

子どものうちから、それを身につけておくことって、実はどんな学習よりも重要な気すらします。

♯遅ればせながら、リンクはらせてもらっても良いでしょうか?(というか、張っちゃいましたが…もし、まずければご指摘ください)
4. Posted by piano   2006年01月09日 13:44
初めまして
自主性をはぐくむというのは結構、難しいですね。
TBさせていただきます。
5. Posted by toshi   2006年01月09日 17:43
こだま先生。いつもありがとうございます。

《道徳という授業の中では、指導者側によほど熱いものがあふれていないと、その嘘くささを子どもたちはすぐに読み取ってしまって、子どもたちの意見は、先生に受けのいいその場を取り繕った優等生的な、型にはまったある種の「制限された表現」になりやすいと思います。》

 道徳に限らず、これ、ほんとうに多いと思います。形だけといった感じです。 ですから、発言の立派さと、行動のひどさのギャップに悩む先生は多いですね。話して聞かせたから、指導は成立とする先生も多いと思います。

 これでは、心の教育ならぬ、おざなり教育となってしまいます。 
6. Posted by toshi   2006年01月09日 18:09
まき菱さん、コメント、ありがとうございます。
 ううーん。こまってしまいました。記事本文でも、こまったニュアンスは書いたつもりなのですが、〜。

,爐しからの習慣であること。
△爐しは、儀式として授与していたこと。
5啓阿任蓮¬枸蕕諒が重みがあり、口に出すと、軽い感じになってしまうこと。

 いや、まったく想像で書きました。どなたか、分かる方がいらっしゃいましたら、教えてください。
7. Posted by toshi   2006年01月09日 18:16
Hidekiさん。いつもありがとうございます。
 日本は、まだまだ、形だけの教育がさかんです。これからも、『主体的に考える力』を養うことをモットーに、初任者指導をしていこうと思います。
 これは、初任者も主体的に実践する力が必要ですね。

 リンク、光栄です。ありがとうございます。わたしもはらせていただきました。
8. Posted by toshi   2006年01月09日 20:57
piano先生。コメント、および、TBありがとうございました。
 先生の記事をさっそく読ませていただきました。職員室へ来る子どもたち。実は、わたしの娘ですが、おもしろい話があったのです。いずれ、載せてみますね。
 今後ともよろしくお願いします。

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