2006年01月12日

二極化現象を考える 5

  今年の成人式も、あちらこちらで、荒れたようだ。今の若者の、大人になりきれない一面を見て、やりきれない思いになった。しかも、それが毎年繰り返されるのは、いかんともしがたいのだろうか。
 
 しかし、それはほんの一部なのだ。大部分の成人は、はらはらする思いで、それを見ていたに違いない。


 話はまったく変わるが、わたしの父は、7年前に亡くなった。84歳だった。
その半年前くらいから、体がめっきり弱くなり、家族の介護を必要とするようになった。が、あるとき、どうにも都合がつかなくなり、ショートステイに入ってもらうことにした。

 入所前は、少し嫌がった父だったが、入所して、すっかり気持ちが変わったようだ。父の言葉でそれを書くと、こうなる。
「いやあ。こういう場所だから、年配の人ばかりが働いているのだろうと思ったら、とんでもなかった。若い人が大部分だ。その人たちが実に気持ちのよい言葉をかけてくれる。『どうしましたか。』『大丈夫ですよ。』『よかったですね。』うれしいことがあると、ともに喜んでくれる。
 こういうところなら、また、来てもいいなあ。」

 ここはわたしも面会に訪れたから、そうした若者の姿は、わたしも見ていた。なんともさわやかで、笑顔を絶やさず、それがまた、自然体なのであった。少なくとも、マニュアルで言わされているという感じはまったくない。


 ここだけではない。わたしの最終勤務校は、地域の特養老人ホームと交流していたが、ここでも同じことが言えた。

 父はその若い人たちの仕事、看護等の姿に感動し、しかし、申し訳ないという気持ちもあってか、若い人たちに言ったようだ。
「あなたたちみたいな若者が、こんな年寄り相手に、こういう仕事をしても、何にも楽しいことはないだろうに。どうしてこういう仕事をやろうと思ったの。」

 その答えはいろいろだったが、こんな感じだったようだ。
「ええ。実はわたしの亡父も、生前、家族で介護したのです。その父の喜ぶ姿、満足げな表情、それらを見て、『ああ、福祉の仕事って生きがいのある仕事だな。こういう仕事について、お年寄りのお世話をしたいなあ。』と思うようになったのです。」
「これからの高齢化社会にとっては、福祉関係の仕事はますます重要になってくると思います。わたしも、いずれ高齢になるのですから、自分ごとと考えてお世話させていただいています。」


 どうだろう。こうした若者の姿もいっぱいあるのだ。
 それなのに、成人式で騒ぐ者とか、不可解な犯罪者ばかりがニュースになる。どうしてこういううるおいのある人生を送っている若者を報道しないのだろう。報道だけ見ていると、日本は大変ひどい国になってしまったような印象を受けるではないか。


 さて、ほんとうに言いたいことは、こういうことではない。論を一歩進める。

 今の日本は、いろんな面で二極化が進んでいるように思えてならない。

 ここまで述べてきた若者論も、二極化の一つの表れと見ることができよう。子どもの学力、しかり。親の子育てもしかりだ。

 あら。これらは互いに連鎖しているのではないか。まず、子育ての二極化かな。それが学力の二極化を招き、ついには若者像の二極化となる。

 そう。そう。もう一つ言いたいのは、人権意識の二極化だ。どの人とも仲良く理解し合い、連携を深め、差別しないで共生していこうとする人たちと、簡単にきれたり、人を殺したり、虐待したり、心を踏みにじったりする人たちとがある。

 これは、先のわたしの論で言わせてもらえれば、『桐』氏のブログにあった『サボりたくなる脳』、および、大山教頭先生のブログの『二極分化を憂う』と、深くかかわる。成熟社会では、物質的には満ち足りているから、脳は楽できる。楽できると感じたとたんに、脳はサボりだすのである。
 それを防ぐには、脳を活性化させるよう、自ら努力して生きなければならない。

 二極化現象は、脳をサボらせてしまっている人たちと、脳を活性化させようとして努力している人たちとに分かれている現象だろう。

 かつて、大部分は本能の支配する世界だった。でも、今、人間は本能の域を脱してしまったのである。それだけに一人ひとりの意識、自覚が問われることになる。

 そして、ここにこそ、現代における『教育』の、最大の意義を見出すことができる。もはや、かっこつけ、建前は、むなしいだけだ。豊かな心を育む教育、それは、時代の要請ともいえる。急務である。


追記

 こういう時代に望まれる、教職員の資質は何か。
その一例を、『小学校初任者のホームページ・生活科の成長単元』で述べている。お時間が許せば、ぜひ、ご覧いただきたい。


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rve83253 at 22:54│Comments(7)TrackBack(1)エッセイ | 教育風土

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1. 刹那の時代  [ ☆自閉症児マリオくん☆ ]   2006年01月13日 04:17
またまた最近みつけた、お気に入りのブログ「教育の窓・ある退職校長の想い」 http://blog.livedoor.jp/rve83253/ 元校長先生で、今は初任者の指導をしておられる方なんですが、いろいろと教えむ??編| 

この記事へのコメント

1. Posted by Hideki   2006年01月13日 01:44
豊かな心を育む教育が急務だということ、ご指摘のとおりに思います。

ただ、つまんないことですが「心の教育」というと、激しくアレルギー反応を起す方が結構多く見受けられますので、ちょい具体的に「自分で考える力」「他人を思いやる力」を伸ばす、としたほうが、良いようにも思います。

このことで、いろいろと思うことがありますが、長くなりますんで、ひとまずここまでで。
2. Posted by Hideki   2006年01月13日 04:18
いろいろと思ったことを、トラックバックにてまとめました。ちょっととりとめがなくなっちゃいましたが(汗
3. Posted by hirarin   2006年01月13日 06:05
確かに二極化は進んでいるように思えます。
新聞(一般紙)はそれほどでもないのですが、テレビでは視聴率を稼ぐべく「ハプニングがある成人式を取材せよ」みたいな姿勢が思いっきり見えましたよね。

20歳の若者だけではなく、今の小学生でも二極化が進んでいるような気がしてなりません。
学力で「正規分布はまだいいが、二極化は危険だ」と聞いたこともあります。
子どもたちの未来を考えさせ、向上するように心がけているところです。
4. Posted by toshi   2006年01月14日 04:56
Hidekiさん。コメント、およびTBありがとうございました。
 
 『心の教育』ということについて、おっしゃることはよく分かりますが、少々迷っています。と言いますのは、自分で考える力、他人を思いやる力と、くくれないように思うからです。
 
 たとえば、先日の人権教育の、
《同じクラスのお友達の国なのだから、自分の国の次によく知って、お互いに仲良くすること。》
についてですが、これは、実際は、『自分の国の次に好きになって』をねらいとしていましたし、もっと言えば、『愛して』をねらいとしてもいいように思うのです。

 でも、これも、そのようにしたら、物議をかもすでしょうね。でも、そうした記事も、これから、書いてみようと思っています。

 そのときまた、ご意見をお寄せください。
 
5. Posted by toshi   2006年01月14日 05:27
hirarin先生。
 今の小学生の二極化というのは、決して学力のことだけを言っているのではないのでしょう。基本的生活習慣など、生活そのものを言っているのではないでしょうか。
 ただ、わたしは、こわいこととは思っていないのです。
 やはり相互に、思いやりの心を持ち、理解し合えるような、そして、協力し合えるような、そんな学級経営を期待します。そうであれば大丈夫と思うのです。
6. Posted by 七星 来人   2006年01月15日 13:51
二極化は元々は「様々な個性」としてとらえられていたような気がします。それがだんだんと「相容れない」ものになった形が『二極化』と呼ばれるのでは無いでしょうか。
そう考えると、この二極化の両端の家庭・児童が同じ学校で生活するときに「分かり合える」かどうかが問題になりますね。
でも、両極になれば主義主張の根本が違いますから難しいのではないかと思えています。
7. Posted by toshi   2006年01月16日 00:36
七星 来人 先生。
 コメント、ありがとうございました。おっしゃること、よくわかります。
 今、どの学級にも、二極双方の子どもがいるのではないでしょうか。それらが、どう融和していくか、分かり合っていくか、いいテーマを与えていただいたと思います。
 今度、記事にしたいと思います。よろしくお願いします。

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