2006年01月18日

阪神淡路大震災から11年3

f46c3872.JPG  昨日は、阪神淡路大震災から11年たった1月17日だった。

 先月、映画『三丁目の夕日 ALWAYS』を見た感想中心の記事を掲載した。そのなかで、『むかしは、温かな人情があり、見知らぬもの同士が心を通わせることのできる時代であった。』と書いた。そして、さらに、『しかし、むかしがよかったとは思わない。それは貧しさゆえだし、そうしないと生きてはいけなかったからであり、今の方がいいに決まっている。』ということも述べた。
 
 また、1月12日には、若い人たちが福祉関係の仕事で、いきがいをもって、いきいきと働いている姿も紹介したが、それと同様のことが、11年前の阪神淡路大震災の折にあったのだ。映画の時代が貧しさゆえなら、この大震災のときは、ライフラインがストップしたゆえと言えるだろうか。人々は心を寄せ合い、復興に努力した。


 わたしの養母は神戸出身なのだが、このとき、祖母と伯母が神戸市東灘区にいて被災した。それで、わたしは、養母、妻とともに、震災直後の神戸へ救援に駆けつけた。

 その体験をまとめたものがあるので、今、その記録から、人々が心を寄せ合っていた姿をピックアップしてみよう。

 なお、この記録は、地震から4・5日後の21、22日のことである。


阪神・淡路大震災 見聞記

(前略)
 電車の中はにぎやかだ。けっこう大声でしゃべっているから分かるのだが、見知らぬもの同士が話し込んでいる。やはり、地震のことが話題の中心だ。
若い人が、老人やリュックを背負った人に席を譲っている姿も、何度も目にした。

 『だんだん屋根の青いシートがふえているね。』と母に話したら、隣のおじさんが声をかけてきた。
「こんなものではないぞ。これからもっともっとひどくなる。」
そのおじさんは、三宮から来て帰るところだと言う。
「今はまだ電車の不通区間が長いから、わたしの家の辺りは、20kmくらい歩かないと買い物ができない。子どものいるうちは、子どもだけ残すのは余震等で心配だから、どうしても家族そろってでかけることになる。」 
とのこと。
(中略)
 (電車はまだ途中までしか通っていない。そのため、10km以上歩くことになった。6kmくらい歩いたところで、)A市役所に着いた。休憩する。
市役所前は、車や荷物や人で、ごった返していた。広場は、テレビの車、緊急救援物資の札をつけた車、それに、水の入ったタンク、救援物資の山でうまっている。
 ボランティアの若い人たちが二列に並び、救援物資を市役所の中へリレー式で運び込んでいた。その向こうでは救援物資を品目別に袋詰めしている。これも若い人たち。なかに外国人も混ざって働いていた。
 市役所の中へ入った。市役所職員より、ボランティアの方が圧倒的に多い。その方たちが黙々と仕事をしているのを見ると、ジーンとしてくる。ありがたいなと思う。
(中略)
 いよいよ母の実家に近づいたので、路地に入った。こんなに大変な事態なのに、後片付けをしている人たちの表情は明るい。子どもも屈託がない。まるで日曜日の大工仕事のような気分で片づけをしている。近所のもの同士で、今後のことを相談し合っている人たちもいる。
 垂れ下がった電線、傾いた電柱をよけながら歩いた。
 ニコニコして走ってきた女性が、電力会社の人に話しかけている。
「まだ、今日は、電気は無理でしょうね。」
「ああ、ちょっとねえ。今日っていうわけにはいかないねえ」
「そうですか。しょうがないわね。」
 その会話が自然で、わたしたちのまちかと錯覚するような明るさである。
(中略)
 伯母の明るい振る舞いも、無理してそうしていることが分かる。
「もう、わたし、限界なのよ。体も精神状態もずたずた。疲れ切ってしまったわ。」
(中略)
 いくら待っても車はまったく動かない。けっきょくあきらめて、わたしと妻とで、(給水所まで)歩いていくことにした。徒歩約700m。途中、手押し車の妻がそれを電柱にぶつけ、ポリバケツをひっくり返してしまった。すぐその場を歩いていた若い人が拾ってくれた。
「どこまで行くのですか。持ちましょう。」
「ありがとう。でも、いいですよ。向こうの阪急の、さらにもっとずっと向こうだから。」
「大丈夫ですよ。」
『でも、』と言いかけたら、『じゃあ、ここで待っているよ。言ってやりなよ。』の声。なんと連れがいたのだ。驚くほどの好意だ。彼らだって、どこからか歩いてきたのだろう。まだ先は遠いだろうに。お礼を言って、やっとの思いで辞退した。
(中略)
 水運びのさいちゅう、若い女性3人に、
「その水はどこでもらえるのですか。」
と聞かれた。しかし、なれない土地で、説明がむずかしい。ちょうど通りかかったおじさんに、その説明をゆだねた。
 それにしても、よく道を聞かれた。
「B駅へ行くには、この道でいいのですか。」
こういう質問にはすぐ答えられる。来るとき、何回も地図を見たから、この辺の地理はだいたい頭に入っていた。
 『よく質問される。』と伯母に言ったら、
「そうなの。情報が全然入らないのよ。わたしたちだって、どこに給水所があるか、初めは知らなかったんだもの。黙っていたら、生活できないの。どんどん聞かないと。」
(中略)
 食事をしながら、わたしは今日一番感銘を受けたことを話題にした。
「こんな目に遭いながら、神戸の人はみんな明るくて親切ですね。びっくりしています。」
「そうなの。神戸の人って、こんなにいい人ばかりだったかなと思うくらいよ。ほんとうにやさしい。わずかな食べ物でも分け合うし、きちんと並んで何時間でも待っているしね。
こういうことがあると、はっきり人間の本性が出てくるわ。気持ちのいい人はほんとうにさわやかな表情をしている。でも、その反対もあるわ。いやらしい根性をむき出しにしてね。」
困難な事態に直面すると、心の余裕がなくなってしまうのだろう。
「みんなで協力し合っているわ。こういうときは、一人じゃ何もできない。それをみんな肌で感じているから、協力し合えるのね。」

 伯母はその具体例として、地震当日の様子を話してくれた。
 地震が起きたとき、祖母と伯母は、膨大な家財の山に押しつぶされた。真っ暗な中、伯母はやっとの思いで這い出し、祖母のところに転がり込んだ。家財の山をどけてやり、一緒に外へ出た。
一帯は避難命令が出て、中へは入れないことになった。
「C小学校に避難してください。」
そういう指示があった。
 
 夕方になって、市内に住む叔母が車で駆けつけた。祖母はその車の中で夜を明かすことになる。伯母は校庭で、見知らぬ十数人と焚き火を囲んで過ごした。
 みんないい人ばかりだった。その中の一人が、十数個、おにぎりを作って持ってきてくれた。それをみんなで分け合って食べた。この日の食事はもう一つ。誰かが赤ん坊の食べ物をくれた。それもみんなで食べた。でも、空腹は耐えがたかった。
 水をボランティアが持ってきてくれた。それをビニル袋に入れてもらう。ほんのわずかの水が大変な貴重品だった。うれしくてうれしくて涙が出た。この日は一晩中、校庭で語りつくして夜を明かしたという。
 地震の翌朝、祖母は、これも見知らぬ人からもらった牛乳を飲んだのだそうだ。伯母は何も口に入れることができなかった。
(中略)
 わたしも協力や助け合いの場面を何度も見た。一番驚いたのは、次の例。
 ものすごい渋滞の中、オートバイが転倒し車に接触。傷がついた。しかし、車の運転手は、『いいよ。気にするな。』という態度で手を振った。その後、なんとその運転手は車から降りて、オートバイを起こす手助けをしてやったのだ。
(後略)
阪神淡路大震災見聞記 終わり


 現代でも、物質豊かな生活ができない事態になると、人々は協力し合うし、やさしい心になる。連携し合うようになる。

 だからと言って、地震がもう一度起こればいいと思う人はいない。ちょうど、『むかしはよかった。』と思わないのと同じだ。

 物質豊かで便利な生活が送れる時代がいいに決まっている。
問題は、そういう時代であればあるほど、人々は、心豊かに生きる力を、努力によって身につけなければいけないのだ。地震が起きないと、連携し合えないというのでは情けないではないか。

 二極化解消の鍵もこの辺にあるだろう。そして、その鍵を、『教育』が担っているのも誰もが認める『事実(!?)』だと思う。


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rve83253 at 22:27│Comments(0)TrackBack(0)災害 | むかし

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