2006年02月21日

その子らしさを大切に(2) 学習編4

12b3feaa.JPG 昨日の続きである

 『一人でいることを恐怖する心理について』今日は、主に学習面からとらえてみたいと思う。

 まず、2月14日号、保護者の皆さんへ(1)に、我が娘の小1時代のことを書いたが、そのなかの次の言葉を思い出してほしい。
「それ、気付いたの。A(娘の名)だけかい。お友達に言ったの。」
「うううん。言わない。だって、なんか変なことを言うなって思われそうだったから。」

 この『変なこと言うなって思われそう。』が、まき菱さんの問題提起とかかわるのではないか。
 この背景には、次のような意識があると思われる。
先生の質問にないことを自ら言うのは変なこと。
何がお勉強に関係あるかは分からないが、自分の思ったことは、お勉強には関係なさそう。
友達と違うことを言ったら、変なことと思われそう。
ここは、やはり先生の質問を待って、それに答えるのが無難。
つまり、これは、『何でも言い合える学級』となっていないことを示す。

 これは、一問一答式授業に多く見られる事象ではないか。一問一答なら、確かに質問と違ったことを言うと、違和感は免れない。まして、『先生。言いたい。言いたい。言わせて。』などと子どもが言うことはないだろう。
 まあ、本人の性格もあるだろうが、それ以上に、どういう雰囲気が学級を支配しているかが問われなければならない。
 
 こんな話がある。我がクラスの子が、小学校を卒業し、中学に入学してすぐのことである。授業中に、「あっ。言いたい。言いたい。」
と言って手を上げたそうである。そうしたら、先生はじめ、級友から、奇異の目で見られたそうだ。
「何だい。先生は何にも質問していないではないか。何、手を上げているのだ。」
『バカみたい。』とは言わなかったものの、そういう雰囲気だったとのこと。

 授業観そのものが違うのだ。わたしはその子に言った。
「先生に質問したらどうだ。『先生が質問したことの答えしか言っちゃあいけないのですか。』って。」

 その子はそういうことは言わなかったようだが、ここに、画一化の姿が現れていないだろうか。

 
 正答は一つだが、考えは多様である。小さいときから、考える教育を受けている子は、多様性に慣れているのではないか。

 ただ、それでも、浮くケースは出てくる。

 意見が対立して、Aではないか。いやBだとやり合っているとき、一人だけ、Aと決め付け、その結論の先を言ってしまうことがある。こういうケースは、多くの子どもは、何を言っているのか理解できず、「何、変なことを言っているの。」となりがちだ。
 
 こういうときは、担任のフォローが必要である。
「分かった。いいこと言ってくれたね。でも、みんながびっくりしてしまったように、今、話し合っていることとは違うから、黒板のこっちの方に書いておくね。きっと、次の時間ぐらいに話し合えるのではないかと思うよ。」
などと言うことが大切だろう。

 わたしがこれまで書いてきた授業などは、すべて、子ども一人一人の個性をしっかりと受け止めている。どの子も安心して、自分の思いを発表できるので、実に深い思考を働かせた発表もする。

 2月19日に記事にした初任者が言っていた。
「子どもたちの発表する内容がすごいのです。わたしも、一生懸命教材研究し、考えるのですが、『はあ、子どもの言うことの方が深いなあ。』と思うことが何回もあったので、いやになっちゃったのです。」
「いやになることはないじゃないか。それは、先生が育てた子どもたちなのだよ。自信をもてよ。それにな、わたしが授業したってそういうことはしょっちゅう起きるのだ。
 わたしはいやにならないよ。大人1人が考えることより、35人の子どもの誰か一人が(もちろん、この一人は、固定された一人ではない。)考えることの方がすごいと言うのは、子ども主体の学習を推し進める限り、きわめてふつうにあることだと思うよ。『子どもから学ぶ』ということのほんとうの意味はこれなのだよ。」
 
 個性を認めるということは、こういうことなのである。教え込みでは、先生が絶対だ。先生より深い考えなどということは起きようがない。

 なお、これまでのわたしの論調で、ご理解いただけると思うが、こうした個を生かす教育、子ども主体の学習、考え合う学習は、一斉授業のなかでこそ、大いなる成果を発揮する。それは、多様な考えが出されることにより、それらが刺激となって、自分の思いを深めたり、自分の考えの妥当性を主張しようとしたり、あるときは、友達の意見に納得したり、そういうことが可能だからである。

 
 ここで、習熟度別授業、少人数指導にもふれなければならない。今、国の施策でもあり、全国でもてはやされているからである。

 これらは、扱い方に注意を要する。一番言われるのは、優越感、劣等感を醸成してしまう恐れ、次には、教員主導の教え込みを連想してしまう。

 真に、子どもの心を耕すことを忘れなければ、それはそれ。それなりの効果を疑うものではない。

 また、最後に、昨日の記事のコメントにあった、NANAさんの質問に答えたいが、これは、明日以降に譲らせていただく。お待ちください。


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rve83253 at 23:31│Comments(11)TrackBack(0)指導観 | 児童観

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この記事へのコメント

1. Posted by 奈々氏   2006年02月22日 00:07
 一人ひとりの個性を認めるのは大切だと思います。ただ,そこを見取るのが非常に難しいと思います。日々の生活の中,学習中の様子,生活日記の中,学習ノートの感想,そこかしこにその子らしさが出ているはずなのですが,なかなか十分に思いをすくい取ることができずに苦労しています。
 習熟度別の授業については私も思っていることがあるので,自分のブログで記事にしたいと思います。
2. Posted by Hideki   2006年02月22日 09:13
ご指摘の点と少しズレるかもしれませんが

近所にフィリピンの人が住んでいるのですが、たまに「ドキ」っとすることを、ズバっというようなんです。だけど、当の本人はそれがそんな思いを相手にさせているという意識は全く無い。

良く聞く言葉「空気を読む」

ひょっとしたら日本人に色濃くあるものかもしれません。そして、それは「血」とかの問題以前に、こういう「集団の場」で、培われてきた点が多いようにも感じます。

相手の気持ちを慮ることは大切ですが、相手の顔色をうかがってばかりになっちゃいけない

殊更空気を読めない自閉症児を授かった分、このあたりの物差しをもう一度思い直したく感じてます
3. Posted by Y   2006年02月22日 10:09
 書き方が悪くて混乱させてしまったようで、すみません。「その子らしさを大切に」というのは私も同感なんですよ。ただ、学校で先生がそれをやりきれないと思います。

 なんか「大事だと思う事を何もかも学校で」やろうとして、それはそれで保護者には歓迎されることでしょうけど、それだと先生の本来の仕事が疎かになり、親は子供のことが見えにくくなるように思います。

 学校にいる時間というのは限られた時間ですので、その間のお作法がいろいろあると思います。お嬢さんの『変なこと言うなって思われそう。』だから言わなかったというのと、不思議だと思った事を親に話すというのはまったくもって正しい行動だと思います。
4. Posted by 国語講師A   2006年02月22日 14:35
学校と塾とでは状況がちがうかもしれませんが、生徒の行き過ぎた積極性をうまくいなして、やる気を失わせないようにする配慮は必要だと思います。

「いなす」というのはあまりよくない言い方かもしれませんが、積極的すぎる生徒はうまくすればムードメーカーにもなってくれます。授業内に緩急をつけたいときには重要な存在です。かといって放置しておくと授業進行に支障が出ますので、うまくコントロールしなくてはいけませんけれど。

教室の空気を読むことは、教える側にも求められる感覚だと思います。それを子どもにだけ押しつける授業が、生徒にとって魅力的なものとは思えません。

学校の先生からすると、「受験実績だけを考えている塾屋の戯言」と思われるかもしれませんが。
5. Posted by まき菱   2006年02月22日 20:22
Y先生の仰ることも、よくわかります。
私も正直なところ学校の拘束時間は長すぎると思っております。もっと家庭に教育させろ!と。
でも、「学校はああいうところだけれど、それだけでもないんだよ」と言える家庭はなかなか無いかもしれません。親が学校と同じ視線で子どもに接してしまうと、良いことばかりではないでしょうね。
6. Posted by toshi   2006年02月23日 00:24
奈々氏先生
 あのう、わたし、ここはすごく大切なことだと思うのですが、『何もかも』と思ったら、あれも足りない、これも足りないという意識になってしまいます。
 そうではなくて、ベストを尽くすという気持ち、やれる範囲で最善を尽くすという感じでいいのではないでしょうか。
 苦労などと思わず、『あっ。あれが発見できた。』『ああ。あの子にもあんな一面があるのか。へえ。すごい。』など、楽しむ心境で、個を見取ることが、教える側の精神衛生上もいいのではないかと思うのですが、いかがでしょう。
7. Posted by toshi   2006年02月23日 00:32
Hidekiさん
 外国籍の人とふれあうには、空気以上に、常識が違うので、こちらも、特別な配慮を持ってお付き合いしないといけないのではないでしょうか。
 給食などでも、宗教的理由で、あるものが食べられないなどということは、格別な配慮で臨みます。
 ただ、Hidekiさんのおっしゃるようなことについては、わたしを含め、日本人はほんとうに無知ですよね。これからの国際化にあたっては大事な点だと思います。
 今回の滋賀県の事件に関係して、義務教育ブログのワタナベさんが、日本人としてイギリスに滞在した時の経験を、いい記事にまとめられていると思いました。

 『空気を読む』これも、個性を阻害する要因なのですね。
8. Posted by toshi   2006年02月23日 00:36
Y先生
 おっしゃること、よく分かりました。
 ただ、思うことは、今日、記事にまとめさせていただきました。
 ただ一つ。『先生本来の仕事がおろそかに』なるのではなくて、『先生本来の仕事がとても楽しく充実した思いでやれるようになる。』と、わたしは思っています。
 保護者との連携については、おっしゃること、よく分かります。そういう部分もあるという意味で、近日中に記事にしたいと思います。
9. Posted by toshi   2006年02月23日 00:44
国語講師A先生
 どうも理解力不足。よく分からないのは、申し訳ないです。
 授業観の違いというものがあるのでしょうか。
 子どもが授業の主人公のはずですから、授業進行に支障を来たすというのは、授業中に物を投げるとか、勝手なおしゃべりをするとか、そういうことに限ります。少なくとも学習に真剣、まじめに立ち向かっている限り、子どもは何を言ってもいいのです。あとは、教える側の対応の仕方の問題でしょう。
 どうでしょう。合致してますでしょうか。
 その後の、『教室の空気を読む〜。』も、よく理解できないのです。すみません。
10. Posted by toshi   2006年02月23日 00:48
まき菱さん
 おっしゃることは非常によく分かります。わたしも子育て中、そう思うことがよくありました。もちろん理念としてであり、実際にそうされたら、とても対応はできないのですけれど。
 でも、後半でおっしゃっているように、実際問題としては、家庭崩壊の子どもがどのクラスにも少なからずいて、その二極化が学校現場の悩みとなっています。
 今日的には、個性も、そういう側面でとらえなければならないところがあるようです。
11. Posted by 奈々氏   2006年02月25日 20:36
優しいお言葉ありがとうございます。なんだか教育現場も成果を挙げないといけないという風潮が蔓延しつつあるのか,プレッシャーを感じてしまう今日この頃です。少人数学級と習熟度別授業について,今から記事にしたいと思います。

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