2006年04月11日

『原個性』と『実践個性』(1)4

3a6adab1.JPG  少なくとも、この言葉は、認知されている言葉ではないだろう。したがって、『  』付きでつかう。

 まずは定義づけから。

 いじめの問題に関係して、『友達一人ひとりのあるがまま』を認め受け入れた上での、仲良し集団であることが大切と述べた。
少なくとも、自分らしさを殺し、無理に友達に合わせての仲良し集団は見せかけのものだし、たとえいじめという事態にならないとしても、画一化の弊害がにじみ出ている。

 学級を真の仲良し集団にするのは、担任の、『あるがまま』を認め実践する営みが大切ということも述べた。
 
 ただここで誤解されそうなのだが、『あるがまま』を受け入れるということは、ずっと、『あるがまま』でいていいと言っているのではない。まして、子どもに変容を願うこととはまったく矛盾しない。


 新年度、新しい学級を担任すると、多く経験するのだが、むき出しの子どもの姿、何も育てられてないといった感じの学級集団に出っくわす。もちろん前担任は、何もしていないわけはなく、行儀作法などはしつけられているのだが、ただただ、心が鍛えられていないなといった感じなのだ。

 元気で威勢のいい子は、大声を張り上げ、やりたいようにやっている感じだ。そして、担任の目の行き届かないところでは、蹴り合いやプロレスまがいのことをやっている。
 それに対し、おとなしい子はただひたすらおとなしく、そういう子のなかには、能面のように、表情がまったくない子もいる。
 休み時間はともかくとして、授業中は、ほとんど女の子の声が聞こえないなどということもある。

 そういう場合でも、わたしはまずは、あるがままの子どもの姿を受け入れた。それが出発点だと思った。少なくとも、『もっと静かにしなさい。』逆に、『もっと大きな声で話しなさい。』などということは必要最低限にとどめる。
これを、わたしにとっての子ども、学級の、『原個性』と呼ぶことにした。
 
 『原個性』は、とにかく受け入れる。

 だけれども、これが学級のいいところだ。35人、40人と子どもがいれば、誰かが、心の豊かさを示すような行動をとるものだ。努めてそれを見つけるようにする。
最初は、黙ってごみを拾ったとか、友達の持ち物が落ちたのを拾ってあげた程度のことでよい。
 それを学級児童全体がいる場でとり上げ、うんとほめるようにする。そうして、その輪を広げようとする。

 これまでそうした営みの具体例は、いっぱい述べてきたので省略するが、一人ひとりの自己改革の動きが、学級集団の盛り上がりをもたらす。元気いっぱいで、わめくような大声を出し、学級に君臨するかのような振る舞いがなくなると、内気でおとなしい一方だった子が元気づき、自己主張するようになる。これは、まったく同時進行である。個の変容の集積が、学級の盛り上がりをもたらす。

 これは担任が仕切っている姿ではない。子ども一人ひとりが自ら内面より自分自身を鍛えた結果として変容していくのである。わたしはこれを、『実践個性』と呼ぶ。

 子どもらしさ、子どものあるがままを大切にしながら、自らをよくしようとする力に期待し、その変容しようとする力を支援するのである。

 そのなかには、おもしろい事例もある。一見マイナスと見える変容もあるのだ。それまで、指導する側の圧力が強かった場合に起きる。こういう子は、4月当初はちゃんとしている。模範生のようである。
しかし、どうしようもない心の葛藤が始まる。

 今日はこのくらい。続きはまた明日。


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    (2)へ続く。


rve83253 at 23:40│Comments(4)TrackBack(0)指導観 | 学級経営

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この記事へのコメント

1. Posted by Hideki   2006年04月12日 09:16
今回のお話、ものすごく深く、しかも難しい問題をはらんでいるように思います。

Toshiさんの指導の仕方は、見ようによっては、

「今度の先生は全く子どもを甘やかしてしまう」

「だから、子どもがわがままになった」

「前は、きちんと躾けてくれたのに、今度の先生はダメだ」

そう、とらえる人も少なくないと思うのです。でも、実は違うんですよね。

「躾け」は、無理やり強要して押し付けるものじゃないと思う。いや、そうやっても躾けは身につくかもしれないが、それと引き換えに、かけがえのない大事なものを失くしてしまう。

活き活きとした子どもの姿、のびのびとした表情、それはわがままと実は紙一重なんだけど、全然ちがうもの。

今回のToshiさんのお話は、親も先生も、本当に深く考えないといけないと思う。とくに親は。
2. Posted by toshi   2006年04月13日 04:42
Hidekiさん
 一見マイナスが、ほんとうのマイナスのように受け止められてしまうかもしれないという点、確かにあり得ますよね。でも、わたしの場合、子ども本来のよさを引き出すというか、認めるというか、そういう点の働きかけをものすごくしていたので、保護者はそれを理解してくれていたように思います。
 見守るのと、何もしないのとは明らかに違いますので、初任者にはその点をしっかり把握するよう働きかけています。
 その上で言えることですが、子どもの生き生きとした姿、のびのびとした表情は、家庭でも見られるようになりますので、その辺が保護者が理解してくれるかどうかの境目のような気がします。
3. Posted by こだま   2006年04月13日 13:54
toshi先生、こんにちは!

とりあえず表面上だけきちんとしておいたら後は知らないという教育が多い中、こうした取り組みは本当に素晴らしいことです。このような視点で子どもたちを見ることができる先生方が増えるといいのですが…。だけど、回りからの評価を気にすると、できない方法ですね。本当に子どものことを思っているかどうかが分かれ目のようです。ユング分析心理学の河合隼雄先生の取り組みとの共通点も感じました。
4. Posted by toshi   2006年04月13日 21:09
こだまさん。
 こだま先生の記事からも感じることですが、何が大切かは、子どもが全身で表現しているように思います。たとえ、机に向かってテストを解いているときであっても、解いたときの喜びというか満足というか、そういう表現は、顔の表情だけではないですよね。『全身の表情』というと変ですが、そういう感じのときがあるのではないでしょうか。
 わたしたちはそれを喜びとし、励みとし、がんばれるのだと思います。
 あと一つ。こだま先生はお若いから、分からない感覚だと思いますが、わたしのような年になると、若さを保つ特効薬のような感じもあります。若さを子どもや初任者から、いただいているという感じです。

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