2006年04月14日

障害者への差別3

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 『違い』と『間違い』の記事について、aoisoraさんよりコメントとTBをいただいた。また、わたしの記事をとり上げ、それに関連したかたちで、ご自分のブログにも記事にしてくださったので大変ありがたかった。

 さて、その記事を読ませていただいて、わたしも感じるところがあったので、今日はそれについてふれさせていただきたい。

 aoisoraさんのおっしゃるには、
 「我が子には障害があるのだが、障害があること自体は、『個性』であり、『違い』である。しかし、社会的に問題を起こしたとき、保護者が、『うちの子には障害があるので、ご理解を。』と訴えてまわるのは、『間違い』ではないか。」とおっしゃっている。(もしおっしゃりたいことと、ニュアンスの違いでもあれば、ご容赦をお願いしたい。その意味でも、リンクさせていただいたので、aoisoraさんの記事をお読みいただけたらと思う。)

 お子さんに障害があるお立場で、こういうふうにおっしゃる、そのお気持ちを察するに、なんとも言いようがなくなるのだが、わたしは、『訴える保護者』を間違いとは思いたくないのだ。

 と言うのは、先に述べた人権意識の二極化とも関係あるが、現状、障害者への無理解、差別は、厳然とあるのだ(この記事自体は、障害者への差別を述べたものではない)。わたしも過去の自分を思うとき、反省が多々あるのだが、それは何とかして脱したい。

 
 わたしが勤務した学校でも、以下のようなことがあった。

 知的障害のある子ども(高学年)が、放課後、街で、赤ちゃんのいるベビーカーに手をかけ、それを激しくゆすったことがあった。ベビーカーのお母さんがちょっと目を離したすきだった。そのお母さんはパニックになってしまった。

 初めは、『何てひどいことをするの。』と、怒り心頭で、その子に、わめくようにいろいろ言ったみたいだ。しかし、障害のあるお子さんということが分かると、開き直った。『障害のある子を野放しにしていいのか。』という論理になった。そして、学校へ抗議の電話が入った。すぐ、担任が現場に駆けつけ詫びる。学校は家庭に連絡を取り、母親も急いで現場へ行った。

 学校も、保護者も、いくらお詫びをしても、許してもらえなかった。

 「何するか分からない障害の子が、一人で街をぶらぶらしているというのは、問題じゃないですか。学校も家庭もどうして、野放しにするのですか。危ないことをする子なら、家や学校から一歩も外で出られないようにしてもらわなければ、わたしたちは安心して町を歩けないではないですか。」

 『ちょっとそれは言い過ぎでしょう。』と思っても、その場では何も言えなかった。

 そう。学校も家庭も、してはいけない行動について、厳格に指導はしていた。成長し、体格も大きくなり、行動範囲も広がる。その都度、必要があるときに、また予想されるあらゆる事態に応じて、してはいけないことを指導してきたつもりだ。
言って聞かせるときは、厳しい表情で叱る。何度も何度も言って聞かせる。

 しかし、赤ちゃんのいるベビーカーをゆするとは。これは想定外だった。
たぶんその子の思いは、『あらあ。赤ちゃん、かわいいねえ。』の表現だったと思うのだ。

 でも、それは許される行動ではない。小学生とはいえ、見知らぬ大きな子どもが現れて、わが子のベビーカーをいきなりゆすられたのではたまったものではない。その思いは分かる。

 でも、でもだ。その行動をきびしく叱ることにとどめていただきたい。『家の中に閉じ込めろ。外出させるなら必ず保護者が付き添え。』では、・・・、やはり、差別である。

 その差別がある以上、どうだろう。保護者が訴えるのは、『間違い』とは言えないのではないか。

 学校も訴えたい。・・・・・・。もっとも上記の事例のときは、それが言えなかった。ごめんなさい。

 なお、先日、『障害者への差別』をテーマとした授業を、わたし、5年生の初任者のクラスで行った。我が、『小学校初任者のホームページ』にその様子を掲載したので、よろしかったらご覧いただき、ご批判、ご叱正賜りたい。


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(2)へ続く。


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この記事へのコメント

1. Posted by Hideki   2006年04月14日 07:41
ひとは、わが身への危険に対して、本能的に警戒するから、この赤ちゃんのお母さんの気持ちも行動も、ある意味で当然だと思う。

だけど、

行動・行為は間違いとして正す必要はあっても、つまり行為は否定したとしても、その人そのものを否定しちゃいけないと思う。人格を否定しちゃいけないと思う。

これは、先般Toshiさんからご紹介いただいた、「命育む学校 子どもに惚れる Part2」島本恭介/著の中でも触れられていましたが、無知が偏見をよび、偏見が差別をよぶ…まさにこの言葉のとおりに思うのです

2. Posted by まき菱   2006年04月14日 09:29
うちの子も障害があり、一人で通学できるように指導しているところです。
この場合、本人が自分の安全を確保できるかどうかは勿論ですが、他人に迷惑をかけないことも大切なことだと思うわけです。
また、保護者として、自分の子の安全は気にするのに、他人への迷惑行為には「障害があるのでご理解下さい」と言ってすませることも、いけないことだと思うのです。

障害者への偏見の中には、「障害者=責任のとれない人」というものがあるのではないでしょうか。本来、本人がとるべき責任がとれない。だから、責任のとれる保護者についていてもらいたい。それはもっともっともなことだと思います。あながち「偏見」でもないでしょう。

障害があろうと無かろうと、いけないことはいけないのです。それを許してもらおうというのも「差別」です。
そして、障害のある子どもを社会化させていくのは、保護者と学校の仕事であると考えます。
3. Posted by にしこ   2006年04月14日 17:32
この記事にコメントをさせて頂こうと思いましたが、思いの他長くなってしまったので、私のブログに書かせて頂きました。
トラックバックがうまくいかず、二回もトラックバックしてしまいました。
すみません。
恐れ入りますが、一つ削除をお願い致します。
4. Posted by にしこ   2006年04月14日 18:03
ホームページの道徳の様子も読ませて頂きました。
こういう授業が実際行われていると知り、何だか嬉しくなってしまいました。

差し支えなければ、この授業の様子を印刷させて頂けないでしょうか?
是非、息子の担任の先生にお見せしたいなと思うのです。
もしご都合が悪いようでしたら、おっしゃって下さい。
(図々しいお願いですみません)
5. Posted by toshi   2006年04月15日 07:00
Hidekiさん
 ほんとうにこの事例は、人格の否定だと思います。やった事実のみを問題とし、指導、叱責するというのは、学級経営でも鉄則です。
 ほめるにしても叱るにしても、それは言えます。
 『違い』と『間違い』。こういう面でも、よく考えてほしいですよね。
6. Posted by toshi   2006年04月15日 07:11
まき菱さん
 おっしゃることはよく分かるし、一点をのぞき、その通りと思います。
 思いますが、障害者への厳然とした差別があるのも事実。ともに生きる社会を大事にしたい。
 一点というのは、『外出のとき、必ず保護者が付き添う。』ことが必要という部分です。障害の内容、社会化への努力など、それらとのかかわりのなかで、お互いに理解し合う社会になってほしいと思うのです。
 なお考えてみます。
7. Posted by toshi   2006年04月15日 07:21
 にしこさん

 ありがとうございます。わたしのホームページもごらんいただいたようで、感謝します。
 印刷される件、了解です。これも、ありがたく思います。
 ただ、わたしがリンクさせていただいている部分については、ちょっとお待ちください。了解をとれるかどうか、先方にうかがってみます。

 にしこさんの記事も拝見させていただきました。感銘を受けました。それはにしこさんの記事へコメントさせていただこうと思いました。
8. Posted by にしこ   2006年04月15日 09:15
印刷の件、快くご了承下さってありがとうございます。
リンクの部分についても伺って下さるということで、本当に感謝します。
リンクされていた感想文も出来れば印刷したいと思っていたのでありがたいですが、ご無理はなさらないで下さい。
実は、あの感想文を涙を流しながら読みました。
ホームページの様な学習や感想文の内容が障害者の理解に繋がる肥やしになると私は信じています。
9. Posted by aoisora33   2006年04月15日 09:28
こういった差別がある限り、保護者が「障害にご理解を」と訴えることを間違いとは思いたくない、という想い。こんな風に考えてくださっている方がいらっしゃることを知って、心強さを頂いたように感じています。
保護者の方にとっては、本当にお辛い経験だったと思います。でも、この場合「赤ちゃんが危ない!」という行為をしてしまったことについて、保護者の立場からは、詫びることしかできないと思います。たとえ許していただけなくても、差別的な発言をされたとしても。
ただ、このケースでは、保護者の方一人で相手の方に対応したのではなく、先生も一緒に対応してくださったこと、子どもとその保護者の方の立場に寄り添ってくださったということが、とてもありがたいことだと思いました。
10. Posted by toshi   2006年04月15日 10:19
にしこさん
 にしこさんから学ばせていただいたことがあります。
 わたしの授業のなかで、子どもの発言として、『障害者のことを障害者と言ってはいけない。』というのがありました。そのときのわたしの思いは、『そんなことを言っても、他に適当な言葉がなければ無理だよな。』というもので、特にとり上げない、つまり、無視する形となってしまいました。
 あのHPの記事でも無視してしまっています。
 しかし、にしこさんのコメントを読ませていただいて思いました。にしこさんは、ご自分のブログでは、『障害』と書かずに、『障がい』と書かれますよね。
 そこから学ばせていただきたいと思いました。ありがとうございました。
11. Posted by toshi   2006年04月15日 10:29
aoisoraさん
 実は、少なくとも、aoisoraさんの論調に対立することを書いたわけですので、どう受け取られるか、不安な点もありました。上記コメントを読ませていただき、ほっとすると同時に、感謝しました。ありがとうございました。
 TBもさせていただこうとしたのですが、うまいかず、コメントもしないままで、申し訳ありませんでした。
 
12. Posted by toshi   2006年04月15日 10:30
もう一つ。今日、これから、aoisoraさんの記事に係わるかたちで、『親からの情報は、先入観か。』について、共感の思いを書こうと思っていました。
 ところが、aoisoraさんは、その後、ものすごく学校の先生に対し理解ある記事を書かれていますね。驚くと同時に感謝しました。
 それで、わたし、自分の書こうとしていた内容について、ちょっとどうしようかと思ったのですが、『まあ、いいや。保護者の思い以外にも言いたいことはあったな。』ということでやはり書かせていただくことにしました。
 夕方くらいになってしまうかもしれませんが、お読みいただけたらありがたく思います。
13. Posted by まき菱   2006年04月15日 10:33
誤解があったようですので、補足します。

>一点というのは、『外出のとき、必ず保護者が付き添う。』ことが必要という部分です。

私、こうは言っていないんですね(^^;)。

「本人が責任をとれないなら、責任のとれる保護者に付き添っていてもらいたい」という気持ちは理解できる、と書いたつもりでした。
実際に、障害のある息子を一人で行動できるように育てようと、母も努力しております。
障害者の単独行動を否定しているのではないのです。(続く)
14. Posted by まき菱   2006年04月15日 10:34
(続き)
では、誤解や偏見を緩和するためにどうするか。それは障害者が決して危険ではないということを理解していただくために、本人に一般社会での振舞い方を指導していくことが大事なのではないかと思っているのです。
もちろん、何かあったときに「障害があるので」と開き直るのは、お互いの為に良くないと思います。
障害者といえ、社会の構成員としてありたいのなら、権利だけを主張するわけにはいきません。その上で、社会に参加していきたいと思うのです。
15. Posted by にしこ   2006年04月16日 15:17
私のブログにコメントを下さりありがとうございました。
ご依頼の件も了解致しました。

私個人の意見ですが『障害』を害だとは思っていないので、敢えて『障がい』や『障碍(しょうがい)』という文字を使っています。
ただ、当事者(障がい者ご本人、そのご家族)の中には、出来る限りその『障がい』という言葉は使わずに、障害の名前で言いたいという方もいらっしゃるかもしれません。
そうなると、その方に合わせた言い方が必要になってきます。
しかし、それでは障害の名前に詳しくない方は大変ですよね。
だから、私は『障害』や『障害者』という言葉(文字)はあっても良いと思っています。
何故なら、その言葉(文字)を使うこと自体は『差別』ではないからです。
問題なのは『障害』や『障害者』という言葉が差別的に使われた時です。(続く)
16. Posted by にしこ   2006年04月16日 15:17
だから、
>授業のなかで、子どもの発言として、『障害者のことを障害者と言ってはいけない。』
と指導して下さる事は、非常に前向きな事と感じています。
こういう事から『差別的』にこの言葉が使われる事が少なくなっていくのだと思います。
17. Posted by NANA   2006年04月16日 20:22
>その行動をきびしく叱ることにとどめていただきたい

その後の発言があるから『とどめていただきたい』となるのですが、言葉尻ですが、これは、学校・親の立場では『叱っていただいてありがとうございます』ですね。

叱っていただいた。危険な行動をとめていただいた。おかげで、ミスはニアミス。取り返しの付かない事態は避けられました。
このように地域の方々の目があってくれればこその子どもたちの社会の中での学びがあります。どうか、今後ともよろしくお願いいたします。

が、私の意見?かな?
18. Posted by NANA   2006年04月16日 20:38
で、その後の発言
>危ないことをする子なら、家や学校から一歩も外で出られないようにしてもらわなければ、わたしたちは安心して町を歩けないではないですか。

これはやはり偏見が混ざっている。差別発言でしょう。
してしまった事を免罪符を使用して、なかった事にしてもらいたい話ではないと思います。
このような経験を繰り返して物事を覚えて行く子どもの育ちを『この子ども』については認めてくれていないのです。
今回危ない真似をしてしまった障害のあるこの子どもは『ずっと危ないまま』だと、この方は認識してらっしゃるのではないでしょうか?もしかしたら『もっと危なくなる』と認識されての事かもしれません。

今回の事も含めてこの子どもが覚えて行く過程というものを否定されています。
障害の子どもは物事を覚える事ができないと思ってらっしゃるのではないでしょうか?
これは、知らないからなせる業。偏見でしょう。
19. Posted by NANA   2006年04月16日 20:48
私の考えは皆さんの意見と反してしまうかもしれませんが、私はこの無理解・偏見からの脱却は、このベビーカーのお母さんにとっても、幸をなすものと思います。
どんな子どもでも親が一生ついて回るわけにはいかないのです。このベビーカーの子どもがどういった子どもであったとしても、このお母さんだっていずれ我が子とは別々の時を過ごす事になるのです。自分の目の届かないところで自分の子が何をしてくるのか?
危ない事であったり、いけない事であった場合、そこにいる人が止めて叱ってくれるだろう。と・・・
社会というものを信頼できなければ、子どもを社会の中に出す事は?とても苦しい事でしょう。

『止めて叱っていただいて、本当にありがたい』そして、『双方にとって』それで良いではないか?と、私は思います。
20. Posted by toshi   2006年04月16日 20:54
まき菱さん

 何ともこまりました。書かれた通りに引用させていただけば、よかったですね。すみませんでした。
 
 ただ、一口に障害者と言っても、障害のそれぞれは、全員違うでしょうから、社会的なマナーは、きっちり押さえるとしても、それでも、あの記事のようになってしまうとき、ほんとうにむずかしいよなと思うのです。
21. Posted by toshi   2006年04月16日 20:57
にしこさん
 
 おっしゃること、よくわかりました。ありがとうございました。
 いろいろ気になる言葉があります。一つ一つ勉強していきたいと思います。
 今後ともよろしくお願いします。
22. Posted by NANA   2006年04月16日 21:03
どんな子どもでも、どんな人でも『大丈夫』なんて保証は何処にもないのです。

何事についても責任の所在を確認していては、自分に責任のかからない事については手を出さない社会になってしまいます。人々の全員がそれでは?かえって自分たちこそが暮らしにくい事になってしまいます。
学校は何をしている?!
親はどんなしつけをしているんだ?!
何事につけてもこれで通されては、子どもなど産む事ができず、生まれた子どもたちも育つ事ができず・・・。暗さばかりが循環してしまう。

互いに育ちあおう!育てあおう!といった、風潮が・・・
自然と沸いてくる社会関係の中に暮らしたい。と願うのは?贅沢な事なのだろうか?

いろいろな事がぐるぐると頭の中で・・・。取り留めなくなってしまいました。毎度失礼いたしました。
23. Posted by toshi   2006年04月16日 21:09
NANAさん。
 ほんとう。おっしゃる通りです。地域社会が子どもを育むということについて、その場に居合わせた方々が指導してくださるということは、ほんとうにありがたいことだと思います。
 即時即場的な指導ができますものね。そういう意味では、このお母さんのパニックになった状態というのは、その子どもにとって、驚くことでしたでしょうし、その子の育ちの上では、よかった面もあったのです。そういう意味で、『叱っていただいてありがとうございます。』ですね。
 
24. Posted by Hideki   2006年04月18日 09:24
『うちの子には障害があるので、ご理解を。』という親御さんの多くは、障害があるから許してくれということを言いたいわけじゃないのだと思う。

間違った行為には、それを導く理由・背景があるはずです。例えば、知らなかった(無知)、何の気なしに(無理解)、意図してやった(悪意)…等。

当然、やった行為そのものは責められ、責任をとるものとして、問題はその原因への対処の仕方なんです。

障害という「わけのわからないもの」への恐れが、「過剰な警戒」「過剰な対処」を生む。そうならないための懇願が、「障害への理解」を訴える親の大半の気持ちなんだと思う。

それなのに、その行為をすべからく「免罪符化」しようとしてるとみなしてしまうのは、私は間違いだと思うのです。
25. Posted by toshi   2006年04月19日 00:05
Hidekiさん

 『そうだ。その通りだ。』という感じ。すばらしいコメントをいただきました。
 数多くのコメントをいただきながらも、もやもやした思いだったのですが、Hidekiさんのコメントで、霧が晴れた気がしました。
 障害のある子を持つ保護者の皆さんのコメントから、こだわりのようなものが感じられたのですが、わたし同様の思いをされているのではないかなと思います。
 そして、広く市民の皆さんに読んでいただきたいコメントだなとも思いました。
 ありがとうございました。 
26. Posted by にしこ   2006年04月19日 13:34
Hidekiさんがおっしゃる
>『うちの子には障害があるので、ご理解を。』という親御さんの多くは、障害があるから許してくれということを言いたいわけじゃない

というのは私も分かります。

また、NANAさんがおっしゃる
>互いに育ちあおう!育てあおう!といった、風潮が・・・
>自然と沸いてくる社会関係の中に暮らしたい。と願う

気持ちは私にもあります。

でも
>障害という「わけのわからないもの」への恐れが、「過剰な警戒」「過剰な対処」を生む。そうならないため

にはどうしたら良いのか正直分かりません。
差別や偏見を生まない為の理解はどうしたらしてもらえるのでしょう?
27. Posted by にしこ   2006年04月19日 13:38
息子が入学する少し前ですが、私はご近所の方に「(学校に入った後に)何年先か分からないけど、息子が登校班に入って、そのうち1人で学校に行けるようにしたいと思っている」とお話しました。
それを聞いたご近所の方は「でも、何か遭った時に一緒にいる子が責任を感じてしまうのではないか?」とおっしゃいました。

また、学校に入ってからしばらくして「家の近くに住む人を誘って帰りましょう」となったのですが、先生が気を利かせてうちの近所に住むお子さんと下校するようにして下さいました。
しかし、そのすぐ後にそのお子さんの保護者の方(先程の方とは違う方)から一緒に下校する事を拒否されました。

私はすぐに息子を一人で登下校させるつもりもなく、私も一緒に付いているつもりでしたが、それでもこの様に言われてしまったのです。
28. Posted by にしこ   2006年04月19日 13:39
もちろん、私はその方達がおっしゃる事は分かります。
特に、この事はご自分のお子さんの危険が絡む事ですし、保護者の方が慎重になるのはごもっともだと思いますから、「過剰な対処」ではないのかもしれません。
差別や偏見から生まれるものではないのかもしれません。

でも、そういう経験から、特に大人の方から理解してもらうという事はとても難しいと感じてしまったのも事実です。
だから、どうしたら「わけのわからないものへの恐れ」「過剰な警戒」「過剰な対処」をなくせるのか分からないのです。
29. Posted by kumama   2006年04月19日 22:49
   「障碍者への差別」
この記事を読んでから、わたしは、何度もコメントを書いては消し、書いては消し、いろいろなことを考えてきました。にしこさんのブログにもお邪魔して、コメントを残そうと思いましたが、うまく考えがまとまらなかったのです。障碍を持ったお子さんを持つ親御さんの気持ちを理解しているかということにに自信が持てず、ただ、皆さんのコメントを読ませていただいていました。

 障碍のあることを「免罪符化」しないために、あえて言わないと考えられるお気持ちはわかりますが、同時に、とても悲しかったのです。それは、わたしたちの障碍への無知、無理解がそうさせているからだと思うからです。それでも、『うちの子には障碍があるので、ご理解を。』と言っていただきたいとわたしは思います。わたしたちに、障碍のことを理解するきっかけを与えて欲しいのです。

30. Posted by kumama   2006年04月19日 23:05
東京新聞の夕刊に昨年に続けてこの4月から、堀切和雅さんという方がミトコンドリア病の響ちゃんというお嬢さんのことを連載されています。わたしが、「障碍」という字を使うのも、堀切さんが「響の障碍を害だとは思わないからあえてこの字を使う」と仰るお気持ちが解るので、それ以来この文字を使っています。
堀切さんは、連載の中での響ちゃんの役割を「きっかけ」のようなものと仰り、「もっと重い事例の存在にも、自然な関心を持ってくれればうれしい。この社会に病者・障碍者が多数いることが、いつも意識にある方が健全な判断ができると思う。」と書かれています。本当に、そのとおりだと思うのです。
31. Posted by kumama   2006年04月19日 23:29
わたしの「きっかけ」は、ボランティア仲間のお母様でした。その方にはダウン症のお子さんMちゃんがいらっしゃいます。そのご縁で、障碍のあるお子さんのクラスに、読み聞かせに入って今年で4年目になります。 そこでいろいろなことを学ばせていただきました。残念ながら、ほかのクラスとは違う反応に疑問を持ってやめてしまった仲間もいます。
 それでも続けているお母さまの中にMちゃんの交流級で一緒のかたもいて、子供同士で起きるトラブルについても自然に話し合えたり、協力し合える雰囲気ができたりもしています。それは、ほんのわずかですが地域の方々にも広がっています。
32. Posted by kumama   2006年04月19日 23:51
わたしはわたしの周りの、ほんのわずかな障碍のあるお子さんのことを知っているに過ぎず、こんなことを偉そうに言う資格は無いのだろうと思います。
それでも皆さんのコメントから学ばせていただいたことをまた新たな「きっかけ」にしていきたいと思います。

 
33. Posted by NANA   2006年04月20日 11:46
kumamaさんと似た気持ちに、わたしもよくなります。
『当事者と周囲は、全く同じにはなれない。』
でも私、この頃、それで良いのではないだろうか?とも考えるようになって来ました。当事者同士も周囲同士も全く同じにはなれないのですから、当事者と周囲も同じになる事はありえないですし、どちらかが必要以上に無理をして合わせようとしてうまく行く話でもない。からです。
でも、違うからこそ考える事ができる。のだと言ったような・・・。違う事ってすごく素敵なことなのではないか?のような・・・。だからこそ前向きになれるかもしれない。
と、考えるようになって来ました。
全部わかるのは無理だからこそ、わかりたいって思うものなのかもしれないな。と・・・。
34. Posted by NANA   2006年04月20日 11:59
にしこさんのTBの記事。私も読ませていただきました。当事者だったら?として考えたら、今の周囲の状態で、にしこさんのやり方はとても賢いやり方ではないか?と、感じました。
でも、そんな賢いやり方を持ってしても、今回のコメントのような事があるのだな。と・・・。
トラブル時のにしこさんのやり方についてはさほど悲しさは感じませんでしたが、集団登下校の話については、ちょっと悲しかった。

周囲の人達は、なぜ?わからないものに対して、そこまで警戒するのだろう?わからないのだったら?わかりたいと思うのが先に来るのが自然ではないのか?(きっとこの考えに私の主観が大きいのでしょう)
35. Posted by NANA   2006年04月20日 12:18
当事者の気持ちの全部をわかることができないから、差し出がましいのではないか?と遠慮して、理解を訴える事を、当事者たちに任せてしまっていては、私はこれを広めるのは難しいだろうと思います。
本人たちは、声大きく、周囲にわかりやすく説明するのが難しい場合が多だろうし、家族はまずそんな本人たちを守って育てていこうとするのが自然で、あたりまえの心理だと思います。
だから、周囲の側の人達が、違っても、全部わからなくても、一緒に考えたいって、積極的に関わろうとしたり、こうやって発信して行ったりして、そうやってやりあいながら、自分にも新しい発見や喜びがあったりするんじゃないのかな。って・・・
そんな風に考えています。
36. Posted by NANA   2006年04月20日 12:26
(全然うまく書けていないので、申し訳ないのですが・・・)

toshi先生は、そんな周囲の人の中の一人だと思うし、kumamaさんもそうだと思うし、きっと他にもたくさん、私みたいにうまく表現できないけど一緒に歩みたいと思っている人はいっぱいいるはずだと信じています。
そんな人達との接点が、もっとたくさん増えるといいなぁと、思っています。
37. Posted by にしこ   2006年04月20日 15:21
kumamaさん、NANAさん、ありがとうございます。
前々から感じていましたが、toshi先生はじめ、このブログにいらっしゃる方はご自分のお子さんがそうでなくても、障がいのある子どもに対してとても理解のある方が多いと感じていました。
だから、今回私は集団登下校に関する事を書かせて頂きました。
38. Posted by にしこ   2006年04月20日 15:22
私はどちらかと言うと、息子の障がいを他の人に対して話す方だと思います。
ご近所の方も知っている方は多いです。
(昨日の話の中で書いたお二人も、もちろん息子に障がいがある事を知っています)
学校の保護者懇談会でも同じクラス(交流するクラス)の方には、懇談会で息子の事について話しています。
それはかなり精神力を必要とします。
話をした人全員がその人なりにでも理解して下さるかどうかが分からないからです。
それでも私は息子について話続けるつもりです。
それは、kumamaさんのおっしゃる「きっかけ」になれば良いと思っているからです。
39. Posted by にしこ   2006年04月20日 15:23
ただ、人によって受け取り方は様々です。toshi先生やkumamaさん、NANAさんの様に良い方に受け取って下さる方なら積極的に話します。
しかし、中にはそうでない方もいらっしゃいますし、toshi先生が記事に書かれたような事も、私が書いたような事も起こります。私は、そういう事が起こった時に「でも…」と切り返す事は出来ません。

この記事の中にあったベビーカーのお母さんの様に、他の人から私や息子が『差別』を言われても、私はそれに反論は出来ません。
登下校の件でも何も言えませんでした。
その時点で私自身十分傷付いているから、それ以上傷付きたくないのです。
だから、私は一緒に登下校する事を拒否されても、黙って受け入れるしかないし、息子がトラブルを起した時に平謝りだとしても謝って、誠意ある態度を示して許して頂くしかないと思う訳なのです。
40. Posted by にしこ   2006年04月20日 15:24
でも、上手く納得して頂く方法があるならば、是非それを実践したい気持ちはあります。
私はベビーカーのお母さんの様に『差別』を言われた時に、「それは違う」という事は『間違い』だとは思っていません。
しかし、私にとっては「人にどう伝えたか」ではなく、「その人にどう伝わったか」が大事なのです。
「その人にどう伝わったか」で随分変わります。
障がいや障がい者に対して良く受け取られるる可能性もあれば、悪く受け取られる可能性もあるでしょう。
私は「悪く受け取られる可能性」を考えて、問題になりそうな時や問題になってしまった時は敢えて反論はしないのです。
では、「良く受け取られる」にはどうお話したらよいのでしょう?
41. Posted by にしこ   2006年04月20日 15:24
私が書いている事は、もしかしたらtoshi先生やkumamaさんやNANAさん、その他の方々を悲しませたり傷付けているかもしれませんね。
それは申し訳なく思います。
でも、私が知りたいのは、間違いではない事を『間違いではないと上手く納得して頂く方法や伝え方』、その答えなのです。
42. Posted by NANA   2006年04月20日 20:08
私はにしこさんのおっしゃる事に悲しかったのではありませんし、傷ついてもいません。

>「人にどう伝えたか」ではなく、「その人にどう伝わったか」が大事なのです。

よくわかります。おっしゃる通りと思います。そう!そこが大切ですよね。私もそう思います。

43. Posted by NANA   2006年04月20日 20:09
>「良く受け取られる」にはどうお話したらよいのでしょう?
>間違いではない事を『間違いではないと上手く納得して頂く方法や伝え方』、その答えなのです。

こんなに切実に問いかけてらっしゃるのに、とても残念な返答?になってしまいますが・・・。
これは、常に人対人の事なので・・・。
私は、この『答え』となる定義は、ない。のではないか?
と思います。
どんな伝え方をしても、伝わらない時もあるし、何も発信しなくても、伝わる事もある。すべてケースバイケース。
ではないか?と・・・。?

だからこそ、当事者だけではなく、周囲の人の中から、人対人の間に入る第三者的な存在の人たちが、遠慮してはいけないのではないか?
と、考えているのです。
44. Posted by NANA   2006年04月20日 20:48
私は時々、当事者の方々が『卓越した人々』に見える事があります。尊敬を超えて、私には到底わかりえることのできない手に入らない力を身につけた人達。そして、当事者同士ならその力を身につけるまでの苦楽を・・・。『私には無理な』分かり合う。ができる。
『仙人』たち。に見える事があります。
でも、本当はみんな『仙人』ではなく、良心も邪心も持っている人であり、人の子であり親たちのはずです。
第三者に「きっかけ」を作っていくエネルギーは莫大で、それ以上の摩擦に耐えられなくなったときには壊れてしまいそうになることだってあるはずです。
でも、もしも可能なら、その摩擦にも相手がいて、相手も良心も邪心も持っている人で、摩擦に対してエネルギーを注いでいる。と、考えてみて下さい。
みんながみんな、他人の子は他人と思っているわけではないはずです。
45. Posted by NANA   2006年04月20日 20:57
当事者たちだけではなくて、学校も福祉団体も行政も地域も友人も・・・。全部巻き込んで、頼れそうなところは何でも頼って・・・。
みんなでやっていかなくては、この にしこさんの『答え』は、見つからないと思います。
でも、一度に全部は無理でも、みんなの小さな伝え合いやつながり合いが、循環して、きっといつか『答え』が出てくるはずだと。それだけの力を子どもたちは持っていると、思います。
一緒に頑張りたいと思っている人達を、どうか頼って見てください。
46. Posted by NANA   2006年04月20日 21:01
長々と書いた挙句に・・・
結局こんな答えで・・・。

なんか、恥ずかしいです。
とんちんかんだったりして、お気を悪くさせたり、疲れさせてしまったり・・・。だったらゴメンナサイね。


それと、toshi先生の、記事の

>我が、『小学校初任者のホームページ』にその様子を掲載したので、よろしかったらご覧いただき、ご批判、ご叱正賜りたい。

全然違う話になってしまった。先生・皆さん、毎度スイマセン。
47. Posted by Hideki   2006年04月20日 23:23
にしこさんの仰ること、まさしくその通りだな、と感じます。

相手に伝わらなければ、意味がない

この指摘、本当にそうですね。

一方で、
「どうしたら、わけのわからないものへの恐れ・過剰な警戒・過剰な対処をなくせるのか」
という点について、言うは易しの側面が多分にはあるのですが、それでも「わけのわからない」を無くすことしかないように思っています。

無知が偏見を呼び、偏見が差別を呼ぶ、
一番の原因は「無知」なんだと思う。

障害のある人、障害のある子が、あたりまえのように周りにいて、ずっと一緒に生活しつづける、そこから徐々に理解が深まっていくように感じてます。

48. Posted by Hideki   2006年04月20日 23:24
だから、障害のある人・障害のある子を、社会から隔離するというのは、実は一番やっちゃいけないことなんだ。

そのためには、媒介・仲介という意味で、親が動くしかないのが実情ですね。それも、自然な形で。媚びず、恐れず、悪びれず。「こんな子なんですよ」と普段から話をしていく。訴えていく、というとはちょっと違うかもしれない。

そのために、親が社会、近所とまず自然と仲良くなる、ということは、カリンがやってきたことでした。

ただ、学校という場についていえば、そこに対しての学校側・先生の理解と協力が欠かすことができないと思っています。

このこと、もう少し、思い・考えをまとめて、近々に記事にしたいと思ってます。
49. Posted by Hideki   2006年04月20日 23:39
あぁ、一点だけ、追加で

一気に全員に理解してもらう、というのは理想ですが、現実にはそうはいきませんよね。

でも、中にはNANAさんやKUMAMAさんのように理解を示してくれる親や、TOSHIさんのような先生がいらっしゃるのです。

まずは、それでヨシとする。あくまでも「まずは」

なかなか理解してくれない人、理解したようなそぶりを見せても本音は違う人…それは、それで仕方がない。いつかは分かってくれる時がくる。

少しづつ、少しづつ、広げていくしかない、ですよ。

だから、障害児の親も、無理せず、休みつつ、やっていきましょうよ

ある意味で、即効性を求めるのではなく、未来での理解に向けての「種まき」と思うほうが良いのかもしれない。

ただ、カギになる関係者というのは存在します。学校はその代表。そこは重点的に話をしていく必要はあると思う
50. Posted by にしこ   2006年04月21日 11:35
>私は、この『答え』となる定義は、ない。のではないか?

私も薄々はそう思っていました。
でも、私は悲しんでいませんし、がっかりもしていません。
それは、地域社会の中にもNANAさんやkumamaさんのように親身になって下さる方がいる事を知ったからです。それは、本当に心救われることなのです。
NANAさんが書いて下さった事は気を悪くする事も、疲れる事もなく、逆に嬉しかったくらいです。
51. Posted by にしこ   2006年04月21日 11:37
私はNANAさんのおっしゃるような『卓越した人』でも『仙人』でもなく、嫉妬・落胆・憎悪という心を持った人です。色々あって摩擦に強くなっているとは思いますが、摩擦があれば削れてしまう心もあります。
でも、環境は違う他の人もそうである事を忘れないようにしていきます。
>違っても、全部わからなくても、一緒に考えたいって、積極的に関わろうとしたり、こうやって発信して行ったり
そういう姿勢を私自身も持っていきたいと思います。
そして
>即効性を求めるのではなく、未来での理解に向けての「種まき」
をしていきたいと思います。
52. Posted by にしこ   2006年04月21日 11:38
ただ、コメントの中にも書きましたが、当事者が常に前に出て「種まき」をするのは本当に精神力がいります。
ですから、特に教育現場では当事者以外の先生方にも、当事者の保護者とその他の保護者の間に立って頂きたいというのが私の本音です。
例えば、懇談会などでも折に触れて、保護者のご理解を頂くお話を先生方からして頂きたい気持ちもあります。
(もちろん、先生にお任せするのではなく、私達もお話していかないといけません)
また、4月19日に私が書いた下校を拒否された件ですが、もし先に、相手の保護者の方に、お子さんと息子が一緒に帰る事を考えていると伝えて、そこでその保護者の方が拒否していたら、私はその事を知る由もなかったでしょう。
53. Posted by にしこ   2006年04月21日 11:39
そのようにして、出来れば、学校の先生も私達当事者とその他の保護者の間に立って頂きたいのです。
私は学校の子ども達に理解してもらうのはもちろんだと思っていますが、保護者の理解あっての「子どもの理解」だと考えています。
しかし、当事者だけでは保護者に訴えるのには限界があるのが実情です。
ただ、この記事に関しては、被害を受けた側と起した側という立場上、被害を受けたベビーカーのお母さんに訴えられなかったtoshi先生のお気持ちは分かります。
だから、この場合は、何とか許して頂く方法を一緒に考えて下さり、その後に保護者の方と心の痛みを分かち合って下されば、それで良いのではないかと思っています。
「保護者と心の痛みを分かち合って下さる先生がいらっしゃる」と思うだけで、保護者は心が軽くなりますので。
54. Posted by にしこ   2006年04月21日 11:40
何だか、今回は自分の気持ちばかりを押し付けているようにも感じ、こんな事を書いても良いのかと思いながら書いている状態です。
toshi先生、ご気分を悪くされていたら、誠に申し訳ないです。
どうぞ、お許し下さい。
55. Posted by toshi   2006年04月22日 05:54
にしこさん、NANAさん、Hidekiさん、kumamaさん

 永らくコメントを入れず、申し訳ありませんでした。
 この記事へ数々のコメントをいただき、『障がい』『障がい者』への理解、『障がいがあることへの思い』が深まり、相互理解が進んでいることは間違いないと思います。
 また、教育に携わるものの使命も、痛いほど感じました。
 今、180人を超える方が、この記事やコメントを読んでくださっています。
 そのことも、理解を深める一つと位置づくのであれば、ほんとうにうれしく、ありがたく思います。
 にしこさんのおっしゃる、多分おっしゃっていると思うのですが、『肩がこらずに、疲れずに、相互理解を進める方法』その一つの具体的実践例を、わたし、知っていることがありますので、それを、今日、記事にしたいと思います。やはり、広い意味で(ボランティア等も含めてということです。)教育機関に携わる者の使命は大きいように思います。

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