2006年05月16日

体罰はダメ(3)

  まずは、これまで書いてきた体罰シリーズを、リンクさせます。まだ、お読みでない方は、まず、それをご覧ください。

  体罰はダメ(1)
  体罰はダメ(2)


 『体罰はダメ。学校教育において、それを行うことは許されません。それは何より、子どもの人権を無視しており、人間性豊かな心を育むこととはまったく一致しません。』

 最初にそれを聞いたときは、どんな思いだったのだろう。

 確かにこのころは、体罰の教育にジレンマを感じていた。

すでに述べたように、『殴らないと言うことを聞かない状況になる。』は、明白になっていた。
子どもとは言え、人を殴ることは、気持ちのよいものではない。
このころは、『子どもが主体的に学ぶ指導法』の研究を推し進めていて、それと体罰とは矛盾することがはっきり感じられた。体罰は子どもを萎縮させるし、恐怖心も抱かせることから、子どもが生き生きと主体的に学ぶ姿からは、どんどん遠ざかっていくのだ。
上記、萎縮とか、恐怖心は、殴られた子にとどまらない。体罰を見ている子どもだって、そんな思いになる。

 多分、そのくらいの気持ちはもっていた。だから、上記、教育委員会の指導は、全面的に納得できた。そして、その後、さらに、学習指導法の研究を進めるにつれ、

おそらく、日本中の学校が、『主体的に学ぶ』『豊かな人間性を育む』『一人一人を大切にした指導』『個に応じた指導』『基礎・基本の定着を図る指導』などとうたい、それを、学校教育目標として、あるいは、研究のねらいとして、日々、指導に取り組んでいるだろう。
これらはすべて、子どもの人権を大事にして、初めて成り立つ。『子どもとは未熟なものだ。だから、大人が教え導くのだ。』という考えではなく、『子どもはありとあらゆる可能性をもった存在だ。だから、大人は伸びようとする子どもの心を大切に扱い、背後から支えていくのだ。』という考え方に立つ。
ということがはっきりとらえられるようになった。


 頭のなかではそういうことだ。すっきり理解することができた。

 しかし、わたしたちは、日々実践している。頭のなかでの理解だけではどうしようもない部分がある。

 当初、体罰をやめての教育はきつかった。自分に指導力がないことを実感させられた。体罰は、麻薬のようなものだったのではないかとも思った。

 それは、麻薬の切れた状態に近かっただろう。野放図(?)になる子どもたちに直面することになる。さあ、そこで、きちっと子どもをしんから伸ばすことができるか。

 子どもに反抗されたこともある。不信の念をはっきり口に出されたこともある。

 わたしは、5年生は7回担任しているが、6年生は6回。つまり、一回だけもち上がらなかったことがある。それがまさにそういうジレンマのときだった。

 例示はすでにホームページに書いたことがあるので、それをリンクさせる。

 この前者と後者では、子どもを見る目がまったく違っていることに気づく。
『子どもの伸びようとする心を支える。』と書いたが、まさにその点で、まったく違った価値観(児童観・指導観)をもつようになったことに気づく。

 そして、真に子どもの心を育む教育、つまり、体罰など必要としない教育がいかに大切か、それを学ぶことができたのである。それは、子どもの内面に寄り添う努力を、積み重ねていくしかなかった。

 これができるようになったと実感できたときは、ほんとうに子どもの前で涙が出たのを覚えている。

 たとえば、こんな実感があった。

 それまで、子どもに気配りすることと、子どもを甘やかすこととを混同していた。両者は同じことと思っていた。だから、子どもに人気のある先生を見ると、即『あの先生は子どもを甘やかしているのだ。』と思っていた。

 しかし、この両者は違うのだ。前者は、必ずしなければいけないこと。後者は、基本的には、(例外はあるが。)してはいけないこととなる。

 学級での子どもの表情は、明らかに違ってきた。
『楽しくて仕方がない。』『夢中になれる。』
 甘ったるい声を出す子どもを見て、『ああ。こんな子どもの姿は、これまで見たこともなかったなあ。』そんな思いを抱くこともあった。

 何より、子ども同士のけんかが減った。

 楽しさの中身も変わったように思った。子ども同士の言動のなかに、気配り、思いやり、思慮深さを感じるようになった。それは、これまで、このブログでも、さんざん述べてきた通りだ。

 真に、充実した学級経営が可能になった。

 最後に、自分の教員生活35年を振り返った記事もすでに掲載した。直接体罰にふれてはいないが、まだお読みでない方は、それもご覧いただけたら、ありがたい。


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    (4)へ続く。

rve83253 at 04:49│Comments(4)TrackBack(0)教育観 | 自己啓発

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この記事へのコメント

1. Posted by kei   2006年05月18日 22:12
子どもにどれだけ気を配ることができ、言葉をかけていくことができるかということに、教師の力が問われているような気持ちがします。
toshi先生のおっしゃるようにそれは甘やかすこととは違います。いけないことをした時はその行為に対して厳しくしかりますし。
ポーズじゃなくて本気で子ども一人一人と向き合っていきたいなと思います。
 追伸
アマゾンでS先生の「子どもに惚れる」「命育む学校」の二冊が届き夢中で読みました3月にお会いしたtohsi先生の姿と思わず重ねてしまいました。お人柄もつながっているのですね。
2. Posted by 森島   2006年05月19日 04:28
体罰をされ、恨みが消えなかったので、ずっと反対でした。しかし、小中学生の塾の講師をした時に、やる気のない子が授業を妨害するのです。塾でも体罰禁止でしたので、しませんでした。しかし、そのような時は、本当に殴りたくなりました。自分の指導力の無さにも悩みました。そういう経験がありましたので、体罰を恨んでいましたのに「体罰も必要」と考えるに至り、戸塚ヨットスクールの校長の話しに耳を傾けておりました。体罰の可能性を求めていたのです。しかし、先生のお話しを読み、体罰によらない指導を知り、先生が教育の可能性を追求をされたことに、感動しました。「体罰がなければ、教育は無理だろう」と思っていました。しかし、体罰が無くても、いえ、頼らないからこそ、教育ができるのかも知れないと思いました。
3. Posted by toshi   2006年05月20日 06:46
keiさん
 むかし、ある大学教授が、小学校教員の子どもへの言葉かけについて、拒絶、叱責、受容、賞賛など、10項目以上に分類、分析しました。同じ学校でも、教員によってその差がものすごくあることを、研究論文としてまとめられたものを読んだことがあります。
 授業記録もついていましたから、『ああ。こんなことで、こんな冷たく対応する教員もいるのか。』と思ったこともありました。
 教員の言葉かけが、子どもの学習意欲、態度に強く影響することを認識せざるを得なかったです。
 
 
4. Posted by toshi   2006年05月20日 07:34
森島さん

 率直なご意見、ありがとうございました。
 わたしは、経験上、大変なエネルギーはいるでしょうが、罰のない教育は可能と思います。
 思いますが、現実に、今、わたしが指導している初任者のなかにも、森島さんがおっしゃっている授業妨害に悩まされている例があります。わたしも協力できる日は協力しながら、ともに、何とかがんばっています。
 妨害されている子やその保護者の不満、妨害している子のそうせざるをえない事情と、その子の保護者の心情。
 いろいろ考えると、初任者にはきつい日々ですが、今、学校の全教職員の連携もできつつあるし、担任への精神的な支えとなってくれる保護者もいるし、多くの子は、やさしく思いやりのある子なので、何とか改善の方向に行くものと信じ、取り組んでいます。
 でも、これ、多くの学校で直面している事態だと思います。

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