2006年05月21日

体罰はダメ(4)3

4402f384.jpg  わたしはこれまで、体罰と罰とを区別せずに論述してきた。これまでは、双方は一体と思い、特に区別しなかった。しかし、Hidekiさんとのコメントのやりとりを通し、わたしは、学校教育においては、体罰以前に、罰そのものを認めない立場だということが明確になった。

 さて、戸塚ヨットスクールの報道をめぐって、わたしの論述はちょっと矛盾していると、とられかねない面が出てきたと思った。

 と言うのは、今でも、一定の保護者から、戸塚ヨットスクールの教育方針について、支持、信頼の声が寄せられているらしいことである。

 ご承知のように、わたしは、4月28日の『学校、第三の民主化』で、保護者、市民主権の学校論を展開した。それなら、指示する保護者がいる以上、そういう学校でも認めなければならないという論が成立する。

 これまで自分の気持ちのなかでは、『いくら民主主義国家で言論の自由があるとは言え、ドイツでは、ナチを支持する言論は認めていない。』を、合理化の根拠としていた。

 しかし、ここへきて、教育論的に、戸塚ヨットスクールの教育方針を否定できると感じるようになった。

 と言うのは、戸塚校長の次のようなコメントが、ニュース報道で流れたからである。

 「今、当校では、かつてのような体罰は行っていません。そうすると、一つ、ジレンマがあるのですよ。早く家へ返せるようにしたい、親御さんのもとへお返ししたいという願いが、かないにくくなったのです。
 これまではだいたい3か月で、家へ返せていました。しかし、体罰なしとされると、どうしても時間がかかる。今はだいたい1年くらいかかってしまうでしょうか。」

 体罰の教育をやっていた者が、体罰なしとなると、丘の上の河童同様になる。なお、いわゆる『問題の行動の多い子』たちだったとすれば、大変な苦労があるだろうと思われる。

 わたしも小学校のなかで、そういう思いは何回もした。だから、苦労のほどはよく分かるつもりだ。
いや。もっと大変な苦労だろうとは思う。

 しかし、たとえそうであっても、真に子どもの心を育む指導に切り替えてほしい。思いやり、気配り、賞賛など、そういう教育的な営みに切り替えてほしい。

 それで、1年かかったっていいではないか。もっとかかってもいいではないか。『早くうちへ返せるように』は、美談のように聞こえるが、そこにはやはり無理があるのではないか。無理があれば、それはやがてしっぺ返しが来るのではないか。

ここは、真に心を育む教育を、じっくりと時間をかけてやるべきではないか。

 切にそう思う。

 学校は、そういうことを入校希望者の保護者によく説明すべきだ。教育の責任を自覚し、民主主義社会を担う人材の育成に努めるべきである。


 にほんブログ村 教育ブログへ

 いつもお世話になります。今日も1クリックをよろしくお願いします。

人気blog ランキングへ
 
 こちらも、お願いできますか。



rve83253 at 16:48│Comments(9)TrackBack(0)教育観 | 自己啓発

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by Hideki   2006年05月22日 14:23
いろいろとありたがとうございました

私もいろいろと考えさせられました。体罰は大人社会でやったら、「傷害事件」になります。そうならないまでも、パワーハラスメントとして訴えられるでしょう。

大人にはダメなのに、何故子どもにはOKなのか?大人と子どもでは違うというのは分かるが、大人に対してダメな理由を考えると、子どもにもやっちゃいけないはずなんです。

ただ、罰そのもは大人社会に歴然と存在します。罰金、懲罰、罰則。信賞必罰という言葉もある。褒美と罰、「褒め」と「叱り」は表裏の存在だと思ってたのです。

2. Posted by Hideki   2006年05月22日 14:23
ただ、とくに小さな子どもへの教育的な見地として、罰が良くないか?となれば、教育者ではない私にはこれ以上は分からないです。Toshiさんの仰ることが正しいのかなと素直に思います。

何にしても、「罰を与える」というのは、手っ取り早く、安直に陥りがちなのは確かだと思う。とくに体罰に頼った教育が有無をいわせない分だけ速いのは確かで、それをやめたら時間がかかるのは当たり前。

でも、形の上だけ抑え込んでも、何ら解決に結びつかないのですよね。
3. Posted by lunar_cat   2006年05月23日 00:45
toshi先生,Hidekiさん,こんばんは。

>でも、形の上だけ抑え込んでも、何ら解決に結びつかないのですよね。

 本当にその通りだと思います。(Hidekiさんのコメントには,いつも感服しています)

 厳しい先生が担任になると,子どもたちは,いちおう落ち着きます。ところが先生が替わると,その反動もあってか,子どもたちははじけます。すると,後の先生に対し「指導力がない」という見方がされることが多々ありますが,本当にそうでしょうか? そういう例は,本当にたくさんあります。

 厳しい指導によって一時的に押さえられた子どもたちの表面が,押さえがなくなって反動も含めて大きくはじけているだけだろう。というのが私の見方です。
 ここでいう厳しい指導とは,体罰を含む罰や,罰を与えられるかもしれないと子どもたちが受け取る指導のことを指します。 
4. Posted by lunar_cat   2006年05月23日 00:49
(つづきです)

「罰が与えられるのがイヤだから○○する」という人間と,「この場面では○○すべきだから○○する」という人間のどちらがいいか?

 そう考えたときに,罰に頼る教育は主体的な人間を育てないと思います。

 とはいうものの,なかなか難しいです。

 自分のブログでも,いつか記事を書きたいなと思いました。
5. Posted by toshi   2006年05月23日 01:11
Hidekiさん

 こちらこそ、ありがとうございました。体罰と罰について、いろいろと考えさせていただきました。 
 『大人に対してやってはいけないことは、子どもに対してもやってはいけない。』ということについては、わたしは、これが言える幅をできるだけ広げて考えています。
 やはり子どもだって人権は尊重させるべきだということから、そう考えます。
 今教育を受けている立場ではあるけれど、そう考えるあまり、大人社会では、そんなばかげたことはしていないのに、相手が子どもだと平気でやるということはないようにというのが、わたしの気持ちです。
 いいヒントを与えていただきました。これも、記事にさせていただきたいと思います。いつもほんとうにありがとうございます。
6. Posted by toshi   2006年05月23日 01:28
罰については、大人社会は、これはあっていいと思います。
 「鉄は熱いうちに打て」の反対で、もう、教育の力で、どうにでも更生させられるという段階を過ぎているので、ルール化してよいと思うからです。

 そう。Hidekiさんのおっしゃるように、形の上だけ抑え込んでも、心を育むという意味では、むなしくなりますよね。
7. Posted by toshi   2006年05月23日 01:45
lunar_catさん

 もう、lunar_catさんのご意見に全面的に賛成です。わたしもおっしゃるような事例は、たくさんみてきました。
 4月11日に掲載した、『原個性と実践個性』(2)の2つの事例が、まさにそれなのです。もっとも、幼稚園を引き合いに出した事例は、きびしい指導ということは分かっていますが、罰まであったかどうかは確認できていません。
 lunar_catさん。記事にされたら、ぜひTBしてくださいね。 
8. Posted by POOHママ   2006年05月23日 19:53
お久しぶりです。

体罰は悪であることはわかっていました。
が、「罰も」までは、考えていませんでした。
なるほどなー、と
考えさせられました。
そして、
実際、「罰も」いけないことが
なんとなくわかってきました。

責任を取るとか、
罪をつぐなう とかいいますけど、
これって罰とはまったく違うものですよね。
単に罰を受けても、
何にも解決しません。
罰を受けることへの恐怖心や、
罪の意識がなければ、
罰は再発防止の効果をなしませんから。

悪いことを戒めるのではなく、
当たり前のことをほめてあげられるのが
教育なのでしょうね。
(と書きつつ、悩んでいます)
9. Posted by toshi   2006年05月24日 03:54
POOHママさん

 小学校段階においては、問題の行動に対して叱責はあるにしても、
 それに対する子どもの言動のなかに、素直、正直、反省、後悔。そうしたものがあれば、その言動に対しては、ほめてやりたい。
 叱責をどう受け取るか、子どもの表情も含めて、そんなことを考えていますので、それで、罰は、よくない。
 ほめることができなくなります。
 このように子どもの心を鍛えるチャンスなのに、罰は、それを、なくしてしまうと思うのです。

コメントする

名前
URL
 
  絵文字