2006年04月09日

いじめの問題(3)

6ff1b3b7.JPG 今日は、学校が努力し、克服すべき、いじめにかかわる問題について、述べてみたいと思う。

 3月31日の、『いじめの問題(1)』のコメント15番で、Hidekiさんが、いじめの起きる原因として、
    ・自分と異なる存在を認めること
    ・相手の気持ちを慮ること
    ・自分の気持ちをただ押し付けることをしないこと
以上の3つができないためであるとおっしゃっている。

 わたしもまったく同感である。

 そこで、今日は、1番目の点について、日ごろ感じることを述べてみたい。

 これは、これまでもふれてきた、

 ・自分らしさを捨ててまで、まわりに合わせようとしてしまう状況
 ・受身になることにならされ、積極的に思いを表明することをためらう、あるいは、できなくなる状況
が、あげられる。

 そして、それを助長するはたらきが学校にあることも認めざるを得ない。

 いつも引き合いに出す、元養護学校長が、次のようなことをよく言っていた。

 「違い(ちがい)と間違い(まちがい)は、違うよ。間違いは正さなければいけないけれど、違いは尊重しなければいけない。ところが、けっこう、教員は、違いをただしてしまうのだよね。」

 いえ。これは、教員だけではないかもしれない。世の大人みんなが心すべきことかもしれない。そうでないと、画一化につながるし、Hidekiさんのおっしゃる、『自分と異なる存在を認めること』が、できなくなってしまう。

 たとえば、
 明るく積極的な人は、暗く消極的な人を許せない。
 きちんとしている人は、だらしない人を許せない。
 軽く、その場が楽しければいいとする生き方をしている人は、まじめな人を許せない。
ということがないか。
 
そして、それが、世の大人の、『違いをただしてしまう』姿により、助長される。

 そういうことが、学校を舞台にして、行われているのではないか。たぶん、これは、無意識に行っていることが多いと思う。

 上記、3つの例は象徴的なものとしてあげた。

 性格が暗いことは、いけないことだろうか。
 消極的なことは、いけないことだろうか。

 これは、その人の性格。まさに、一つの個性であり、そのまま認められなければいけない。

 これ、わたしは、一大反省を込めて書いている。かつて、我が娘に対し、友達が少ないことを悪かのようにして対応してしまったからだ。


 だらしないのは、いけないことのように見える。

 しかし、これも、『絶対的な悪』ではない。ケースバイケース。だから、人に迷惑をかけるとか、美的環境を必要とされるところで美的環境をこわしてしまうとか、必要最低限でただしていけばいいと思う。

 次、まじめなことは、誰が見てもいいことだ。これを否定する人は誰もいないだろう。
 しかし、子ども、あるいは、若者のなかでは、これを、からかいの材料としたり、軽蔑したりする風潮があるようだ。


 まず、教員自身が、『ちがい』と『まちがい』の違いをしっかり認識することが大切だろう。

 ノートではいいことを書いているのに、なかなか意見として言わない子に、発言を強制していることはないか。『言いたくなる。』『言いたくない。』という思いは尊重されなければならない。
 「どう。○○ちゃん。今、『分かった。』というような顔をしたね。言えるかな。言えたら言ってごらん。」
くらいがいいだろう。

 声の小さい子に、『もっと大きな声で。』と言っていることはないか。そうではなく、教員である自分がその子のそばに寄っていき、聞いてあげたらいいと思う。そして、教員が、『今の○○ちゃんの意見はね。〜。』というように、通訳してやればいい。
 そして、声が大きくなったときに、すかさず、
「おっ。もう、先生、そばにいく必要がなくなったな。今の声、みんな聞こえたでしょう。自信がついたのかな。よかったよ。」
と言ってやる。
 
 その場の発言の流れにまったくのらないことを唐突に言う子はいないだろうか。こういう子は、自分の頭のなかで、どんどんひらめくことがあって、一人だけ思考がめぐりめぐってしまうのだ。そうした発言があったとき、友達は、『何言っているの。』『変なこと言っているよ。』などという反応を見せるだろう。
 教員までもが、『場違いな発言』などと言うのではなく、
「ああ。いいことを言ってくれたね。それはきっとあとで話題にできると思うから、そのときまでとっておこう。黒板のこっちの方に書いておくね。」
というように対応してやりたい。

 だらしない子に対し、教員が、『まあ、なんていう子でしょう。もっときちんとしなさい。』と言ったとする。すると、子ども同士もそうした目でその子を見るようになるだろう。
 教員が、黙って拾ってあげればいいではないか。
『今度は自分で拾おうね。』
『おっ。ありがとうが言えたね。』
『あっ。お隣の○○ちゃん、ありがとう。拾ってあげたんだ。』
『すごい。自分で拾えたね。』
『うわあ。今日はまったく何も落ちていないよ。自分で気をつけていたのだね。』
 
 これは、甘やかしているのとは違う。甘やかしは、ただ拾ってあげるだけで、何も言いはしない。

 そして、『先生が拾うのが当たり前。』のようになったり、『まったくずうずうしい態度が見える。』ようになったりするときは、それこそ叱ればいいのではないか。それも、だらしないことを叱るのではなく、その態度を叱るのである。


 わたしは思う。低学年で、こういうように担任が振舞えば、『いじめ』などは起きないだろうと。

どの子も、『あるがまま』が受け入れられる。安心して自分が出せる。

 さらに思う。担任がこのように振舞えば、子ども自らが、自分自身の心で、担任が望ましいとする方向へ、自分を変容させていく。

 そして、学級集団も、温かな雰囲気に包まれる。何でも早くてきぱきこなす子が、遅い子をじっと待ってあげられるようになる。あるいは、さりげなく、手助けしてあげられるようになる。

 わたしはよく言うのだが、跳び箱7段跳べる子が、4段の子をバカにするのではなく、『先生。すごいよ。○○ちゃん、5段跳べるようになったよ。ほめてやってね。』

 こういう学級づくりを目指したい。


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rve83253 at 22:18│Comments(19)TrackBack(1)学級経営 | いじめ

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1. 「違い」と「間違い」の違い  [ 青空のもと、今日も元気に! ]   2006年04月10日 09:16
時々お邪魔させてもらっているtoshiさんのブログのこの記事を読ませていただいて、これまでうまく自分の中で整理できなかった一つの思いを整理するためのヒントを、いただいた気がしています。自分も、ハンディを持つ子どもの親の一人として思うこと、、、子どもの持って...kumamaさん よかった。まずはほっとしました。担任の先生の理解ある態度が印象に残りました。『楽しかった』という言葉、何よりもうれしいですね。 でも、ほんとうの意味で大丈夫というまでには、不登校期間と同じくらい時間がかかるのだとも言います。それまでは紆余曲折があるだろうと思います。 お母さんとお子さんが、学校教育に信頼をおける日が、いつの日か、くることを願っています。 

この記事へのコメント

1. Posted by aoisora33   2006年04月10日 09:10
こんにちは
時々お邪魔させていただいては、勉強させていただいていますが、こちらにコメントを残すのは、はじめてです。
「違い」と「間違い」が違う、というお話、とても胸に響くものがありました。勝手ながら、自分のほうの今日の日記のテーマにさせていただきました。よいお話をありがとうございました。ご迷惑でなければ、また伺わせてください。
2. Posted by Hideki   2006年04月10日 09:45
「違いは認め、間違いは正す」…う〜ん、さすがですね。これはなかなかすごい言葉です。
とくに、消極的、暗い、声が小さい、だらしない、といった表面的な部分は、「ダメなこと」として真正面から否定しがちです…。
積極的、明るく、声も大きく、きちんとした子に、できればあって欲しいという、大人の価値観のあらわれなんですが、それをクラスの皆の前で短絡的にそう仕向けてしまうと、「暗い子」の否定…全否定につながっちゃうわけなんですね。う〜ん、勉強になります。
声が小さいのをダメとしかる、消極的なのを注意する、…こういう表面的な指導・心の教育って、楽だしやりやすいんですよね。
でも、それは間違った「心の教育」なんだと思う。お話を聞いていて、そう実感しました。
3. Posted by lunar_cat   2006年04月11日 00:34
toshi先生。はじめまして。
しばらく前から読ませていただいていますが,初めてコメントさせていただきます。
小学校の教員をしています。
今年は諸事情でクラス担任をはなれ,寂しい思いをしています。
担任の振る舞いや目線が,クラスの子どもたちの振る舞いや目線につながるということ。本当にその通りだと思います。
担任でないのはサビシイですが,その代わりたくさんの子どもたちと関わることができます。toshi先生のこの言葉を忘れずに,授業を進めていこうと思いました。
4. Posted by toshi   2006年04月11日 03:58
aoisora33さん
 コメント、ありがとうございました。ご迷惑でなかったらなんて、とんでもない。どんどんくださいね。よろしくお願いします。
 aoisora33さんのブログも少し読ませていただきました。『親からの情報は、先入観か。』これ、aoisoraさんの思いに、全面的に共感します。
 これも近いうちに記事にさせていただきたいと思いました。
 相互リンク、お願いしていいですか。わたしの記事をTBしていただいたことにも感謝しています。
5. Posted by toshi   2006年04月11日 04:04
Hidekiさん
 『世界に一つだけの花』の歌。『みんな違ってみんないい』『教室はまちがうところだ』の詩。
 それらに共感する大人が大部分だと思うけれど、無意識な世界だけに、教室で、あるいは、家庭で、画一化をやってしまっているのだと思うのです。
 わたし自身も、そうであるだけに、そうならないよう、努力しています。
6. Posted by toshi   2006年04月11日 04:12
lunar_catさん
 コメント、ありがとうございます。これから末永く、よろしくお願いします。
 そう。『学級担任を離れ、さびしい思いをしているが、その分、大勢の子どもとふれあえる。』こういう感覚って大事だと思います。『さびしい一辺倒』ではね。
 日本中に、わたしのような仕事、
初任者指導教員をなさっている方も大勢いると思うのですが、わたしのような退職者は少なく、ほとんどは現職教員だと思います。lunar_catさん同様に、新たな生きがいをもって仕事をしていただけたらと思います。
7. Posted by aoisora33   2006年04月11日 07:32
ご訪問ありがとうございました。リンク、できればお願いしたいと思っていましたので、とても嬉しいです。よろしくお願いします。
8. Posted by 卯月   2006年04月12日 20:31
>まじめなことは、誰が見てもいいことだ。これを否定する人は誰もいないだろう。
言葉尻を捉えるようで、申し訳ないんですけど、わたしは「まじめなことは必ずしもいいことではない」と思っています。
自分が真面目であるという自負があると、他者に対して攻撃的になってしまうことがあると思うのです。
自分に対して、あるいは自分の周りの人に対して「誠実であること」
これがわたしは大切なことだと思っています。
「真面目」であることの定義が、toshiさんとわたしでは、ずれているのかもしれないのですが…
ここには書ききれないので、記事にしてみました。
トラバさせてくださいね。
9. Posted by kumama   2006年04月12日 23:11
卯月さんへ
 いま、学校や教育委員会や、その他もろもろとの戦いでちょっと疲れているので、考えがなかなかまとまりません。だから、わたしの意見が的外れだったら許してくださいね。
 わたしは「まじめ」って『いいこと』だと思います。「誠実」も『いいこと』だと思います。それ以外にも『いいこと』はたくさんあると思います。
 それは、一人ひとりが心の中に持っている『正義』だと思います。
心の中にある『正義』はみんな違っているものだと思います。だから、わたしの思っている「誠実」と、卯月さんの考えている「誠実」は違っているものかもしれません。
10. Posted by kumama   2006年04月12日 23:20
 『大切なのは、自分の中の正義と、世の中の正義との折り合いをつけること』
 まだわたしが青春真っ只中、自分の中で正しいと思っていることが認められなくて悩んでいるときにこの言葉に出会いました。それ以来、いつも心の中で自分自身に言い聞かせています。
 「まじめ」が自分の正義なら、それでいいと思います。ほかの人には、違う正義があってそれを認め、うまくやるために折り合いをつけることができれば、他者に対して攻撃的になる事は無いと思います。
11. Posted by kumama   2006年04月12日 23:37
自身の中の正義を押し通そうとすれば、それはどんな正義でも、相手にとっては攻撃的と見えることもあると思うのです。
 『折り合いをつける』それは自身にも言えることで、『こう有りたい自分』と『そうでない自分』との折り合いをつけること。
 『折り合い』ってあいまいな言葉で嫌う人もいるかもしれません。
でも案外大切なことだと思うんです。
          
12. Posted by toshi   2006年04月13日 05:15
卯月さん 
 卯月さんがご指摘の点については、わたしは、思うところがあり、ただ一点をのぞけば、そんなに問題意識が違うとは思いません。
 もう一度、記事全体をお読みいただければと思います。
『明るく積極的』『きちんとしている』このこと自体はいいことだ。しかし、それが他者を許せない、認めないとなったときが問題だと指摘しているのです。
 だから、まじめさも同じです。『まじめなこと』自体はいいことだ。しかし、それが他者を許せない、認めないとなったときは、やはり問題なのです。
 卯月さんも、まじめな人即他者を攻撃する人とは思われていないでしょう。まして、まじめさを『間違い』とは、思われていないでしょう。
 だったら、わたしと同じです。
 
13. Posted by toshi   2006年04月13日 05:27
まじめなこと自体と、そういう人が起こすかもしれないマイナス的要因とは峻別して、とらえないとおかしなことになる可能性があります。
 まじめなこと自体を問題としてしまうと、さらに言えば、そこに価値をおかないと、学級経営上は、まずいことになりそうです。つまり、まじめさを批判したり、評価しなかったりしてしまうからです。この一点は、もしかしたら、卯月さんとわたしと違う点かもしれないなと思いました。
まして、わたしは、この記事では、まじめな子がまじめなゆえに、いじめの対象になりかねない点を指摘しているのです。
 また、『間違い』と『違い』は違うということを述べています。
 卯月さんの記事を読ませていただきましたが、まじめな人が、まじめでない人を許せないというのであれば、それはやはり問題なのです。
 わたしが言いたいのは、自分と違う他者を認められないという傾向を、『いじめの問題』の面から、問題としているのです。
 どんなタイプの人であれ、自分と違うタイプを許せない、まして、それをいじめの対象にしてしまうのは、批判されなければなりません。
14. Posted by toshi   2006年04月13日 05:57
kumamaさん
 
 まず、今、お疲れとのこと。うまくことが運んでいないのかなと、ちょっと心配になりました。お子さんのため、がんばってくださいね。
 
 さて、わたしは、どんなタイプの人も、自分と違うタイプの人の『あるがまま』を認められて、そのままで仲良くできる人間関係を、学級経営上追い求めているのであって、その前提で、議論し合うことは大切だと思っています。
 今の日本は、なかなかそうならない傾向があるのでむずかしいのですが、折り合いを付けることとは少し違う点もありそうだなと思います。 議論しあった結果、ここはとことん主張すべきと思えば、主張すればいいし、折り合いを付けていいと思えば、付ければいいし、・・・、そんな感じです。
 ただ、わたしは、いじめの問題として書いたのですから、議論云々は、また、違う視点でいつか記事にしたいと思います。
15. Posted by kumama   2006年04月13日 15:35
toshiさんへ
いつもご心配ありがとうございます。
少しずつですが、いい方向へ進みつつありますのでご安心ください。
 ただ、根本的な解決をする為に元担任と話し合っているのですが、あまりの平行線で、ちょっと・・・「まじめなことは必ずしもいいことではない」とその担任も主張し、そのためにいじめが助長されてしまったことを決して認めないのでついむきになりました。もちろんほかの要因もたくさんあるのですが。
子供も少しづつ学校に行き始めました。「たのしかった」という言葉が出る日もあり、今年の担任の先生の配慮のすばらしさにただ感謝するばかりです。子供の心の回復力を信じたいと思います。
そのためにも、あと少し、頑張ろうと思います。
16. Posted by toshi   2006年04月13日 21:38
kumamaさん
 よかった。まずはほっとしました。担任の先生の理解ある態度が印象に残りました。『楽しかった』という言葉、何よりもうれしいですね。
 でも、ほんとうの意味で大丈夫というまでには、不登校期間と同じくらい時間がかかるのだとも言います。それまでは紆余曲折があるだろうと思います。
 お母さんとお子さんが、学校教育に信頼をおける日が、いつの日か、くることを願っています。
 
17. Posted by くるみ   2006年06月17日 22:57
 お教えいただいた本記事、コメント、じっくりと拝読しました。有難うございました。とても参考になりました。
 そして、お詫びを。詩の記事への私のコメントは不適切であったこと。論点ずれていましたね。申し訳ありませんでした。
 正直、私の中で、今の社会、教育行政、学校、先生、保護者、子どもの関係がしっかり整理しきれていません。そのことに気づきました。幸い、夫・自分・子どもの関係だけはすっきりしているので、今日一日家族と過ごして落ち着きました。→続く
 
18. Posted by くるみ   2006年06月17日 22:59
→続き(詩の方へのコメントの方がよかったかも?)
 国語を学ぶ目的について考えました。
 1つ目は、言葉の発信者が意図することを正確に理解できる受け手になることと、また受け手がわかるような言葉を使える発信者になること=理論的な思考を育む?
 2つ目は、詩のように、言葉そのものを味わい、楽しみ、感じて、それをみんなで共有することで、相手の気もちを推し量る想像力や思いやりを養うこと=豊かな心を育む?
 ただ、この2つ、しっかり分かれるものではなく、同時進行、また、混合で学んでゆくものなのでしょうね。
 正しいかどうかわかりませんが、日本語を学ぶことについての考えを深めるきっかけとなりました。
 いつも有難うございます。
19. Posted by toshi   2006年06月18日 09:55
くるみさん
 不適切などと、気になさらないでください。
 それより、学校というか、何かあったのでしょうか。そうでなければよいのですが。

 国語を学ぶ目的というのは、もう、おっしゃるとおりと思いました。ただ、最近は、発信者側の問題も多々あるように思います。
 訳の分からない文にならないよう、気をつけています。
 お互いに分かり合えるということは、大切ですね。人生に潤いを感じます。

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