2006年04月02日

子ども一人一人の基礎・基本(1)

e3874411.JPG  前回、3月31日に、いじめの問題をとり上げ、それを重大問題にしてしまう状況として、『心を育むのは、学校がやることではない。』という、教員の論調があることをとり上げた。

 しかし、わたしは、学校もそれをやらないと、学校からいじめはなくならないという趣旨の記事を書いた。

 また、コメントの1番で、kumamaさんが、次のように書かれた。

 「〜。子供の学校が、先生が、まさにそれ(画一化に沿わない子を排除しようとする心を養ってしまう。)でした。道徳の時間『いろんな意見があっても良いんだよ。それを認めることが大切だよ。』って先生は言うけれど、話し合いのときに皆と違う意見を言うと、「お前は、場の空気を読んで発言しろ。」って怒られるんだ。と子供は不満を口にしていました。そんな雰囲気が子供たちにも、保護者にも伝わり、いじめが始まりました。〜。」

 そこで、今日は、『学校は、授業を中心とし、それに生活指導もしている場なので、その両面から、どう子どもの心を育むか。』を述べたいと思う。直接的には、いじめ問題から距離を置くが、わたし自身は、この問題が頭からはなれないまま、記述することになる。


 今日は、授業を中心に述べることにしたい。

 生活指導等は、一つ、前回31日のブログで、わたしのホームページにリンクさせたなかで、ふれたことにしたい。『コンパス事件』と、『悲しい涙が』である。
 二つ目としては、後日書くことにしている、『うそ、ごまかしがあっても、ばれなければいい。』と言う心情をどう打ち破っていくかについてである。


 話はとぶが、国は、学習指導要領で、『学校の使命』を、次のように記述する。

 『学校の教育活動を進めるに当たっては,各学校において,児童に生きる力をはぐくむことを目指し,創意工夫を生かし特色ある教育活動を展開する中で,自ら学び自ら考える力の育成を図るとともに,基礎的・基本的な内容の確実な定着を図り,個性を生かす教育の充実に努めなければならない。』

 ここで特にわたしが言いたいのは、国は、『児童の生きる力、創意工夫、学校の特色ある教育活動、個性を生かす教育』と言いながら、他方では、『基礎的・基本的な内容の確実な定着』とも言う。

 この両論併記は、戦後、約十年ごとの指導要領改訂がありながらも、ほぼ一貫して続いていると言える。

 わたしはこの両論は決して矛盾し合うものではないと思うが、世の大人の多くは、矛盾し合うものととらえ、そして、どちらに比重をおくかの対立が絶えない。

 そして、『基礎的・基本的な内容』のとらえとして一般的なものは、『日本国民として生きていく上で、最低限必要とされる学力』となるのではないか。

 この考えの延長線上には、『○年生として身につかなければならない学力』という学力観があり、教え込みの指導観があり、ひいては、無意味な学力の競争という事態にまで及ぶことになろう。『確実な定着』という文言が、その考えに拍車をかける。

 そうではないとわたしはとらえる。
基礎・基本は、子どもの外にあるのではなくて、子どもの内にある。
今、現在を生きるその子にとって、今必要な基礎・基本は何かと考える。


 例として、わたしは、いつもとり上げている、元養護学校長の先生、このブログでも、サイドバー右上の『本の紹介』であげた『命育む学校 子どもに惚れる』の著者の、若き日の授業にふれたいと思う。

 もう申し上げたかな。昭和50年代はわたしの30代だが、この先生とは11年間、ずっと同じ学校に勤務し、公的にも私的にもお世話になった先生である。

 その先生の道徳の授業である。

 学年は4年生だったかな。勝海舟だったと思うが、その少年時代の逸話である。(ちょっとこの辺りは記憶が定かではない。)


 この話に簡単にふれる。

 少年はあるとき、本屋で、ほしくてたまらない本を見つける。ところが有り金全部はたいても買えない値段である。本屋と交渉してもらちがあかず、少年は、働いてお金をためて買うことを決意する。
 ようやくお金ができて、『さあ、買おう。』と本屋に行ったら、『その本は昨日、あるお金持ちが買っていった。』と言われる。
 少年の落胆は並大抵ではなかった。しかし、その買った人を訪ねる。そして、その本を譲ってもらえないかと交渉するが、そのお金持ちは、『わたしもほしかったのだから、譲るわけにはいかない。』と突っぱねる。
 そこで、少年は、そのお金持ちの家に通い、本をすべて写させてもらうことにした。
 何ヶ月かたち、その本を写し終えたところで、礼を言って立ち去ろうとすると、そのお金持ちが言う。
「あなたの熱心さには負けた。この本はあなたのような人が持ってこそ、値打ちが出る。どうぞ、差し上げましょう。」

 この話は、もっと細かくいろいろ劇的な要素もあり、感動する話なのだが、授業で子どもにとらえてほしい道徳的価値は、『不撓不屈(ふとうふくつ)』である。本時のねらいもそうなっている。

 もうこの先生のクラスは、かつてこのブログでふれたが、大部分の子が意見を持ち、意欲的に発言する。

 そして、話し合い学習のなかで、『おお。いいな。大部分の子は、本時のねらいに迫る発言をしている。』と思えたころ、一人の子が発言する。

 「ぼくは、この少年は勇気があると思う。だって、こんなまっくらで遠い夜道を、毎日、一人で通ったのでしょう。ぼくだったら、おばけがでてくるんじゃないかと思って、こわくなってしまう。とても一人じゃ通えない。無理。」

 この子は、『まっくらな遠い夜道』『こわい』を特に強調して発言した。

 後の研究会では、この発言をどうみるかで、議論沸騰した。

この子は本時のねらいに到達したとは到底いえない。だから、基礎・基本は身につかなかったと考える。それなのに、担任はそれでよしとばかり、その子の発言をほめて授業を終えたが、それでよかったのか。あの発言の子に対しても、不撓不屈をしっかり押さえるべきではなかったか。
多くの子が不撓不屈に迫る発言をしていたとき、言い換えれば、ねらいを達成したと思えたときの、この子の発言である。この子は、このお話を、『勇気』としてとらえたのだ。その状況について、『この子は大切な価値をとらえた。』と担任が満足できるのであれば、その子にとっての本時のねらいは、『勇気』だったとしてもよいのではないか。

 表題の『一人一人の基礎・基本』。それから文章中の、『基礎・基本は子どもの内にある。』とは、こういうことだ。

 
 さて、冒頭の話題に戻ろう。

 十把一絡げでない指導、一人ひとりの思いを大切にした指導、さらに、『とらえ』も多様性をもってよしとする指導、こういう姿勢を教員がもつこと。これは子どもが安心して意見を言い合え、誰もが認めてもらえることになる。それこそが、子どもをやる気にさせ、子どもを真に伸ばし、ひいては、子ども同士でも、互いの思いを尊重し合い、子どもの内面から、協調し合おうとする心情がほとばしり出ることになると考える。

 それに対し、上記議論の,領場に立つと、『こんなことも分からないのか。』『この子はばかなことを言っただけで、本時のねらいは身につかなかった。』『だから、こういう子にはちゃんと教え込まなきゃ。』となるのではないか。

 ごめんなさい。いじめについては特にふれなかったが、言わんとするところをご理解いただけたら幸いである。


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   (2)へ続く。

rve83253 at 20:29│Comments(8)TrackBack(0)教育観 | 児童観

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この記事へのコメント

1. Posted by 漢字は苦手   2006年04月03日 00:59
先生いつも素敵なお話ありがとうございます。
基礎基本という時に、一人一人の先生で解釈が違うのですね。
国語の授業で話し合う時に、いろいろな意見が出てくることが大切なのであり、そういったお互いの違いを知ることこそが学習なのですよね。
違いを認め尊重する。
この教材からはこういうことを学ぶというように決めてかかっては、子どもの可能性を潰しかねないですね。
基礎基本とは、そのような学習から得られるー正確に伝えることのできる文章力、話す力などの具体的なものと思います。
違いを認め尊重するという姿勢を持てば、どの教科でも心を育むことはできると思います。
2. Posted by Hideki   2006年04月03日 01:07
なんかこだまさんが最近口すっぱく主張していることに通じるものを感じます。
こちらが用意した答え・答え方に合ってるかどうか?だけを問うのでは、結局は「マニュアル思考」「平均点志向」を生むだけです。
そういう人材は、20世紀には重宝されたかもしれませんが、これからの時代に求められる像とはちがう。
私は、ご指摘の「基礎的・基本的な内容」とは、「上が望むことそのまま・そのもの」とは限らないと思うのですよ。
むしろこの言葉は「基礎的・基本的な能力」と置き換えたほうがしっくりくる。
3. Posted by Hideki   2006年04月03日 01:13
これからの人材にもとめたいのは、「自らの頭で考える能力」です。
あくまでも私見ですが、それは
・筋道立てて考えることができる(論理力)
・自分の実体感でもって考えることができる(リアリティ)
・他人が思いつかないことを思いつく(着想力)
この3つです。
意外とこの中で、2番目のリアリティが疎かになりがちなんです。机上ではキレイな言葉で語っても、現実では全く反対のことをする。
言葉だけは立派。
それじゃ、ダメなんです
私は、この『まっくらな遠い夜道』『こわい』をイメージした少年のリアリティある発想は、とても大切なことだと思う。他人の話を、自分の感覚に置き換えて、実体感に即して考えられる。これって、大事な能力だと思うのです。
表面上の「形」「答え」ではなく、その狙いとするものを、今一度大人もよくよく考える必要があると感じました。
4. Posted by 卯月   2006年04月03日 19:18
こんばんは。とても久しぶりにコメントを書かせていただきます。
目標を定めること・狙いを持つことは、授業をする際にはとても大切なことだと思います。
でもそれに縛られすぎてしまって大切なことを見失ってしまう危険性があることをわたしたち教員は意識しておかなければならないと、わたしは思っています。
こちらが予測し得なかったことが、子どもから出てきたとき、それをどう返していくのか…その切り返しが当事者の子どもだけでなく、周りの子どもに与える影響は大きいと思うのです。
教員って生真面目な方が多く「〜〜でなければならない」という意識が強い方が多いんじゃないでしょうかねぇ。
生真面目なのは決して悪いことではないんですが、「融通がきかない」という欠点であることも自覚すべきではないかと思います。
5. Posted by 卯月   2006年04月03日 19:18
目標としたことと違うかもしれないけれど、子ども自身から出てきた豊かな発想を拾い上げたり、広げたりすることも、時として必要な気がします。
「伝えたかったことはまた次回に回そう」くらいの余裕があってもいいと思うんですけど…ただそれが許されないくらい、時間に追われている現実もあるのですが…。
6. Posted by toshi   2006年04月04日 00:17
漢字は苦手さま
 この対立は、昭和30年代からある対立だと思います。学力観、ゆとり教育かつめ込みかも、今に始まった事ではないのです。教員が、『違いを認め尊重する』その態度が大切です。
 記事に書いた、元養護学校長は、『間違いは正さなければいけないが、違いは尊重しなければいけない。この両者をごっちゃにし、違いを正してしまっている教員が多いのではないか。』とおっしゃっています。
7. Posted by toshi   2006年04月04日 00:23
Hidekiさま
 いつもすっきりと整理して、要点をつかんでくださるので、とてもうれしくなります。Hidekiさんの整理してくださった内容をいつも熟読玩味しているのです。
 実は、記事でうっかり書くのを忘れたのですが、『まっくらで遠い夜道』『こわい』のあとは、それこそ、不撓不屈をとらえた子が続けます。
「これはほんとうに暗いのだよ。だって江戸時代でしょう。電気なんかないんだよ。ほんとうにまっくらなんだよ。だから、おばけが出るってほんとうに思っただろう。」
 できる子ができない子をバカにするのではなく、ちゃんとフォローしている。こういう子どもらしさあふれた発言、どの子もいきる授業を見聞きするのは、実に楽しいものです。
8. Posted by toshi   2006年04月04日 00:29
卯月先生
 おっしゃる通りです。卯月先生のコメントで思い出しましたが、囲碁の格言に、『定石は、覚えて忘れろ。』と言うのがあります。
 卯月先生のおっしゃるように、ねらいは定め、内容を吟味することは大切。ただやみくもで出たとこ勝負でいい訳はないのですよね。でも、それに縛られたら、子どもの心は死んでしまうでしょう。
 『伝えたかったことは次回に回そう』これでまた記事を書きたくなりました。ありがとうございます。

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