2006年03月26日

感動の卒業式とは?

6b90f30e.JPG 多くのブログを訪問していたら『卒業生には泣いてほしい』という記事を見つけた。

 微笑ましい。卒業式での子どもの涙は確かに感動だ。わたしも若いとき、そんな思いがあった。

 確かに、おたふく先生のブログにもあるように、式そのものの演出で盛り上げ、それで涙する子が多くなるということはあるだろう。

 わたしも、『中学校長に学ぶ』で、そうしたことに関係した記事を書いた。


 上記、『泣いてほしい』ブログのおたふく先生は、子どもが泣かないとしたらという前提で、次のような分析をしていらっしゃる。

[習回数が多すぎたせいで、感動が薄れた。

 これは確かに言える。我が地域の学校も、練習は確かに多い。学校五日制となり、練習の回数は減るかなと思いきや、どうも、そうはならないようだ。これも、『泣いてほしい』に関係あるかな。もっとも、もしそうなら、『練習が多いほど泣く』ということになりそう。
 また、今回のおたふく先生のブログを読ませていただいて、練習回数の多いのは、全国共通かなと思った。

 これについては、我が次女のなつかしい思い出話がある。確か、高校卒業のときだ。

「小学校は何であんなに練習するのだろう。中学校、高校と上になるにつれて、練習はあまりしなくなるよ。・・・。あんなに練習したら、次は何、その次は何ってみんな分かっているから、感動も何もなくなっちゃうのにね。」

 わたし、何て答えたのだろうなあ。多分、
「そりゃあ、小さい子ほど、経験がないのだから、作法、歌唱など、卒業式とはこういうものだということを学ぶ必要はあるだろう。そういうのがしっかりできて、初めて感動するのではないか。」
そんな答え方をしたのだと思う。

 でも、そう言ったわたしにしても(ああ。ごめんなさい。わたし、確かにそう言ったかどうかは、記憶が定かではないのに、〜。)、おたふく先生や我が次女の思い同様、確かに小学校はやり過ぎるという思いはあった。

 そこで、ささやかなハプニングではあるが、子どもが歌っているときの間奏の部分に、担任の、卒業生へ贈る言葉を入れたり、在校生の歌と卒業生の歌の間に、教職員全員で歌う歌を入れたりもした。

 まあ、よく泣く卒業式もあったし、まったく泣かない卒業式もあったし、これは、おたふく先生の学校と同様だ。

 ただ、おたふく先生の学校の、『ただ流すだけの練習が多い』は、無駄なように思う。あきるだろう。

呼びかけに、心が入りきれていない子どもたちがいた。

 先生が決めた短い言葉をただ言わされている感が強いとのこと。確かにそれでは、心が入りきらないだろう。わたしが担任のときやったのは、子どもの作文をもとに、できるだけ子どもの言葉をとり入れて、教員が作成した。だから、子どもは自分の言葉が入っていると、大変喜んだ。

9残垢琉娶と、卒業担任の意見の食い違いがあった。

 わたしは苦笑いだ。校長と言うと、古い形式にこだわる象徴のように思われている。確かにそういう校長は多いだろうとは思う。

 今年わたしは、来賓の立場で卒業式に参列したわけだが、そのせいで、地域の方々の声をなまで聞くことができた。

「もう、仰げば尊しを学校が歌わなくなって、何年くらい経つのだろうなあ。」
「ほんとうだ。今、学校は歌わないよねえ。」
「あの歌を卒業式で歌わなかったら、他に歌うときなんて、ないじゃないかなあ。」
わたしは、やはりただただ苦笑いだ。

 そうしたら、こちらへいきなりふられた。
「校長先生。何で歌わなくなっちゃったのだね。」
「そうですねえ。今、卒業式で歌ういい歌が、いっぱい生まれているのですよ。子どもの心をつかむような歌ですね。そうなると、仰げば尊しは、今の子どもにとっては、言葉がむずかしいのですね。」

 でも、わたしの担任時代、わたしのいた学校は、4校中、2校で歌っていたのだ。『卒業式の歌』という、全部歌うと、12分以上かかるような歌なのだが、その中に、仰げば尊しが入っていた。


 わたしは校長というものを次のように考える。校長は、常に実践にあたっている教員の、自由な学校教育観を認めるべきだ。少なくとも、卒業式をどう盛り上げるかということについては、口をはさむべきできはない。

もちろん指導はする。それは、いつか初任者に対する指導ということで述べたように、教員のやっていることを意味づけ価値づける意味で行う。

 そして、強権発動(とは言っても、説明責任、信頼関係は大事にする。)すべきは、)[Г砲佞譴襪海函聞餞、国歌はこれに含まれる)、⊃邑¬簑蝓↓C録免生時の対応など、会議など行っている余裕はなく、瞬間的に判断を迫られること、た融
 それくらいではないかと考える。しかし、そうは言っても、 ↓△蓮△錣燭靴旅残校代、一回も起こらなかった。


 さて、冒頭の、『子どもに泣いてもらう卒業式』の話題に戻す。

 冒頭に述べたように、式そのものをアイデア豊かに進行させることも必要だろう。

 しかし、それにも増して大事なこと。それは、おたふく先生の言葉を借りれば、次のようになる。

『みんなで何かをやった達成感や、何かに向かって一生懸命がんばる経験をたくさんやるんです。そして、その経験を自分の言葉で考えさせて、それを卒業式で表現させたいと思っています。』

 そう。つまり、ふだんが大切だということだ。毎日、毎日の学級経営が勝負なのだ。
わたしは、かつて、通信票は、『担任の作品』と書いた。
 卒業式も同じことが言える。それまでの、学級経営、学年経営が、卒業生、担任、学校と、まあ、言ってみれば『学校』なのだが、その共同作品と言えるのではないか。

 おたふく先生のこのブログの最後は、『よし!やるぞ。』
 いい。1年間の総合制作。がんばって。

 
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rve83253 at 22:02│Comments(4)TrackBack(0)学校経営 | 学校行事

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この記事へのコメント

1. Posted by おたふく   2006年03月26日 22:58
こんにちは!おたふくです。
私の記事をネタにしてくれるなんて、
とても光栄です!
私のやる気を酌んでくださり、
とてもうれしかったです。
総合制作、がんばります!
よかったらリンクさせてください。
2. Posted by toshi   2006年03月26日 23:57
おたふく先生
 さっそくのコメント、ありがとうございました。
 今、思い出したのですけれど、わたし、今年は来賓としての出席だったのですが、退職後1年間の成長を思い、感慨無量なものがありました。
 来賓席で、まぶたをおさえていたのです。ちょっとはずかしかった。
 このデザインが一緒ですね。末永くよろしくお願いします。
3. Posted by hirarin   2006年03月27日 03:27
確かに練習しすぎは以前ありましたね。我が校は全校参加と言うこともあるのですが全体練習は2回だけです。凄くシンプルです。
けど6年生は毎日のように練習していましたね。その活動を通して「実感」が湧くのかもしれません。
4. Posted by toshi   2006年03月28日 05:41
hirarin先生
 先生のブログにも書かせていただきましたが、全校参加というのは、うらやましい。きっと家族的雰囲気というか、心温まる卒業式なのでしょうね。

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