2005年12月27日

今の母親 ちょっとヘン


f8682008.JPG 数々ある教育ブログのなかに、『THE義務教育・保護者が感じる「今の学校ちょっとヘン」』というのがある。学校教育を中心とした、教育への関心の高い保護者のブログである。ランキングでも、常に上位を占め、皆さんの関心も高いようである。

 今日のわたしのタイトルは、それをもじったものである。だからと言って、決して冗談半分とは、受け取らないでほしい。こうした方が、より多くの方に読んでいただけるのではないかと思ったからで、他意はない。

 また、そんなに大仰なものでもない。ちょっと、標題のように思ったことがあったという程度のことである。文字通り、『ちょっと』なのである。


 そう思った理由は、2つある。

 一つは、わたしのホームページに寄せられた声にあった。

 その方は、海外の日本語補修校の先生である。クリスマス会を保護者主催で開催したところ、その羽目のはずし方がひどかったとのこと。「ちょっとやり過ぎでは。」と批判したら、猛烈な反発を受けたというのである。また、10ドルの商品券が、子どもたちへのプレゼントとして贈られたという。

 その文面からは、今の母親の、.ぅ戰鵐塙イ、⊆分の楽しみ中心の傾向が読み取れた。また、わたしは国内公立小学校の経験しかないが、かつて、アメリカ、及び、オーストラリア国籍の子弟が通学していたことがある。彼らの方がよほど、子育てに堅実で、まじめに取り組んでいるという印象を受けた。


 もう一つの出来事に移ろう。これは長くなるが、お付き合いいただきたい。

 わたしは今、初任者指導に携わっている。ときどき、初任者の学級で、初任者に見せるための授業も行う。
冬休みに入る直前、久しぶりに授業を行った。5年生国語の物語教材、『わらぐつの中の神様』(杉みき子作)の最終である。

 その前にお断りだが、わたしは、子ども主体の学習を標榜しているものである。真剣に学習に取り組んでいる限り、子どもの思い、疑問は常に大事にする。その裏返しだが、わたしからの発問は極力控えようとする。まったくしないわけではないが、するときは、わたしの引っ張ろうとする意志が働くわけだから、どこか無理があると考える。そして、子供同士の話し合いで、学習が深まるように期待するのである。
もちろん、ただ期待するだけで、何もしないわけではない。
 子どもの発言の意味を考えたり、子どもの話し合いを秩序付けたり、話し合いの焦点を明確化したり、どの子を指名したら話し合いが深まるか考えたり、そういうことを行う。

 初発の感想の授業は数時間前のことであり、担任である初任者が行ったのだが、一人の子がおもしろいことを言った。
「このお話の作者である杉みき子さんは、ちょっとずるいと思う。だって、登場する人はみんな女の人ばかりでしょ。男はさ、お父さんは、とまり番で帰ってこないし、おじいさんは、お風呂で長湯でしょ。なんで、男の人だけいないようにしたのだろう。」
 『これはおもしろい。最後の、主題をつかむ授業までとっておきたい。』そう思った。何人かの子がこれに対し、意見をいいたそうにしていたが、幸い、担任は、それを取り上げなかった。

 話はまたまた変わるが、果たして、どうだろう。多くの先生は、『何くだらないことを言っているのだ。』として、無視してしまうのではなかろうか。そして、『おばあさんは、孫のマサエに、何を願っているのでしょう。』などと、発問するのではなかろうか。

 おっ。いけない。ここでは、このくらいにしておく。だんだん標題のテーマから外れそうだ。
ただし、わたしの授業は、1ヶ月以内に、わたしの、『小学校初任者のホームページ』授業改善編に掲載することをお約束しよう。


 さて、この単元のまとめである本時は、上記、学習問題(課題)から入った。そして、『マサエに話そうとしているのは、おじいさんとのなれそめの話だから、おじいさんがいたのでは、おばあさんは話しにくい。』『まして、心を込めて作った物には神様がいると言ったのは、おじいさんだし、おじいさんはおばあさんに神様のように大切にするって言ったし、そんなこと、おじいさんのいる前で言ったら、おじいさんだってはずかしがっちゃう。』

 そうして、おばあさんが孫のマサエに言いたかったことはということがテーマになったとき、もう一人の子が、こう言ったのだ。
「お母さんだっていなくていい。お母さんはこのお話のテーマに関係がない。だから、おとうさんや、おじいさんと同じように、買い物に行ったことにしてしまえばいいのに。」

 わたしはこのとき、『しめしめ。これで、お母さんのマサエに対する気持ち、マサエにどういう子になってほしいと願っているかも学習できるぞ。』そう、思ったのだった。

 しかし、しかしである。「お母さんはいなくてもいい。」を支持する発言が相次いだ。
 とても、お母さんのわが娘への願いとか、期待とかへは迫れそうもなくなってしまった。
 せいぜい、娘への思いといったことで、一人の子が、
「お母さんを買い物に行かすことはない。おばあさんの話で、マサエの表情がどう変わるかを、お母さんは見たかったのだと思う。」

 わたしはここで、お母さんのわが娘への願いに迫りたいという気持ちは捨てた。『いいではないか。おばあさんの孫へ寄せる思いには充分迫れたのだから。』そう思った。

 
 あとで、初任者と話し合った。

 「驚いたな。わたし、担任時代、この話の授業は何回もしたが、『お母さんがいなくていい。』という発言は、初めてだよ。しかも、そうは思わないという発言は、『変化を見たい。』という発言以外、まったくなかったね。」

 「むかしは、どんな発言があったのですか。」

 「そうだな。お母さんがマサエに寄せる思いは、『ものを大切にする子になってほしい。』『見た目で判断しない子になってほしい。』『おばあちゃんのように、心を込めて物を作るようになってほしい。』一番すごいのは、『やさしい心をもって、おじいさんのようないい人と結婚してほしい。』などというのがあったな。でも、みんな、おばあさんはもちろんだが、お母さんの存在も大事にしていたよ。
 今の親子関係って淡白になってしまっているのかな。」

 「そうですね。母親は、けっこう勤めに出ていますし、子どもは子どもで、塾や習い事でかなり忙しいのですね。ですから、親子でも、心を通わせるようにして話し合う時間は、あまりないみたいです。」

 「そうか。そうすると、『おばあさんの話で、マサエの表情がどう変わるかを見たかった。』というのも、今の親子関係を表しているのかな。」なんか、さめた関係のような気がする。」

 やはり、日ごろの家族関係が、物語の読み取りに反映してしまうのだ。

 それはそうだと思う。子どもに限らずだが、自分たちの生活実感のないところで、理想の家族関係について思いをめぐらせろと言っても、それは無理な話なのだろう。

 わたしは、親子が接触する時間が問題なのではないと思う。たとえ時間は短くても、一緒にいる時間はあるのだから、その時を大切にしていれば、親子の温かな心の通い合いは、自然に生まれると思うのだが。
もっとも、これは、父親とて同じこと。


 いかがだろうか。

 日ごろ、楽しく和気藹々として、みんな仲良く明るく過ごしている学級だけに、また、高学年にしては珍しいくらい、よく発表する学級だけに、少し考え込んでしまった。

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rve83253 at 23:37│Comments(14)TrackBack(0)保護者 

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この記事へのコメント

1. Posted by hirarin   2005年12月28日 04:15
保護者の立場で読ませていただきました。
出勤していくときは、3人の子どもたちはまだ布団の中、帰宅したらすぐにお風呂で就寝・・・こんな平日の過ごし方で親としてはホントに最悪のかかわり方しか持っていません。
せめて風呂の時間だけでもかかわりを大切にしようと日々心がけています。ですが、子どもたちにとってはどのような父親像が構築されているか・・・・謎です。
こんな親が増えているってことでしょうね。
2. Posted by うさなまけ   2005年12月28日 09:35
この間「わらぐつの中の神様」を学習したばかりなので,思わず読みふけってしました。
「女ばかり登場してずるい」とか
「お母さんがいなくていい」とか
こんな発言は,全くありませんでした。すごい。本当に驚きです。
子どもたちの実態によっても読み取り方が違うんでしょうね。
子どもたちの読み取り方で,授業がどんどん展開していく国語の授業はおもしろくて,個人的には好きですけど,教師側からの発問がとても難しいです。
まだまだ若輩者です・・・
3. Posted by Hideki   2005年12月28日 12:41
そうですね。ご指摘のように、2〜30年前とは、母親・父親のあり方は大きく変わってきていますし、「親」としてだけではなく「個」としての考え方も変化してきていると思います。
仕事柄お母さんの声を聞くことが多いのですが、30代のお母さんから「今の自分は子どもの奴隷」という声が挙がったりします。また、もうちょい上の年代のお母さんからは、娘と衣服や趣味を共有する「友達親子」という姿も出てきます。
古い歌にある、「母さんが夜なべをして…」「おふくろさん…空を見上げりゃ空にある」というような、「お袋さん」のようなお母さん像は、もう無いと思います。
4. Posted by Hideki   2005年12月28日 12:53
でも、この変化は、けして否定されるものではないと思う。「親」としての存在は当然重要ですが、一方で「個」としての存在も同じくらい重要だと思いますから。これは、2者択一の2元論で語られるものじゃないですよね。
いっぽうで、極端な話「個」を殺してでも母親であることを求められた時代とは、やはり違ってきてるのは事実です。
確かにに虐待やネグレクトなどの親として問題な存在もありますが、大半の親は子どもに対して愛情をもっています。ただ、その関わり方はもっと「ドライ」で、昔と違うのでしょうね。ご指摘のように、希薄になってる部分も確かにあるかもしれないです。改めて肝に命ずるようにしていきます。
個人的な話をすれば、私は母親とずっとケンカしてきましたので、とくに子どもの頃は母が大ッ嫌いでした。小学校高学年の頃は「母なんかいないほうが良い」と言いまくってました。
5. Posted by Hideki   2005年12月28日 13:01
ただネットで検索した限りで、原文を読みきれてないからいい加減なことはいえませんが、
「お母さんだっていなくていい。お母さんはこのお話のテーマに関係がない」
この子の指摘は、ある意味でもっともな気もします。
語り手の主役はおばあさん。聞き手がマサエ。お母さんは、おばあさんの昔話を一緒に聞かせてもらおうとしただけ。お母さんは、このドラマに関してだけでいえば、ほんのちょい役(脇役)です。
お母さんがいらない=母親とのつながりが希薄、とToshiさんが感じたのって、どんな感じだったんでしょうか?
6. Posted by toshi   2005年12月29日 07:49
hirarin先生。コメント、ありがとうございます。
 わたし、記事にも書きましたが、たとえふれ合う時間は短くても、その時間を大切にする気持ちさえあれば、大丈夫と思います。
 自分の経験から言っているに過ぎないのですが、わたしも、働き盛りは子どもの寝顔しか見られない時期がありました。歳をとり、こちらが早く帰れるようになると、子どもは成長し、今度はわたしが寝てから帰って来るようになりました。皮肉なものです。
 でも、おかげさまで、現在、娘二人、及び、娘の旦那ともども、良好な関係を保てていると思います。
7. Posted by toshi   2005年12月29日 08:04
うさなまけ先生。コメントありがとうございます。
 子ども主体の学習も、いろいろジレンマがあります。その一つですが、できる子の発言しか拾わないと、できる子しか発言しなくなっちゃいます。
 だからと言って、みんな拾おうとすると、主題の読み取りなど、学習の深まりが望めなくなることもあります。
 わたしはどちらかと言えば、全員を活躍させようと取り組んできたのですが、その辺りの兼ね合いはいつも悩みでした。
 これからもよろしくお願いします。
8. Posted by toshi   2005年12月29日 09:19
Hidekiさん。いつもお世話になります。ありがとうございます。
 わたし、この授業で、直感的に感じたのは、『あれ、これまでと、母親とのかかわりについて、子どもの言うことが違ってきているな。』ということでした。同じ話をとり上げているのに、この変化は何だろうといった感じでした。
 特に、最後に記述した、「お母さんを買い物に行かすことはない。おばあさんの話で、マサエの表情がどう変わるかを、お母さんは見たかったのだと思う。」という発言について、わたしは複雑な感慨をもちました。いろいろ考えたのですが、この子は、『お母さんが我が子を、客観的な観察対象としている姿』をイメージしているのだなと思いました。
 
9. Posted by toshi   2005年12月29日 09:20
次、これだけなら、子ども、学級の個性というのがあるから何とも言えないが、ちょうど、海外日本語補修校の先生からの投稿がありました。さらには、自分自身の経験もあり、記事にしたような想いになりました。
 付け足せば、今の母子関係って、楽しい関係ではあると思うのですが、『子どもをしつけよう』とか、『豊かな人間性を培おう』とかいうような観点は抜けていないだろうか。そんな思いをかねてよりもっていたのです。
 すみませんでした。『希薄』という点に関してはそんなイメージでした。
 
10. Posted by toshi   2005年12月29日 09:28
このお話についてですが、お母さんは確かに脇役ではあるけれど、ほんのちょい役でもないように思います。ちょっと紹介しますと、
〆能蕕両賁未任蓮∧貎討僕蠅蹐Δ箸垢襯泪汽┐了僂描かれます。◆悗母さんは、このおばあさんの昔話をあらかじめ知っていたのだろうか。』というのは、けっこう子どもは問題とします。結論は『知っていた。』となります。その根拠は、おばあさんは、自分たちの昔話としてではなく、どこかよその人の話として話し始めるのですが、話し終わったあと、実はおばあさん達のことでしたと明かす上で、お母さんは重要な役目を果たしています。
11. Posted by toshi   2005年12月29日 09:45
わたしも、Hidekiさんと同様で、20日号にも書いたのですが、《『むかしはよかった。』などと言う気はない。科学技術が進歩し、豊かに生活できるようになった今の方が、基本的にはいいに決まっている。》と思います。
 でも、楽しようとすればいくらも楽ができる時代なので、その分、自覚や努力は必要としていると思うのです。
 それと、ごめんなさい。『希薄』のイメージの追加です。今は、感情的な親子の対立はあるでしょうが、しつけとか価値観とかで、親子が対立し合うことは、親の方から避けている傾向はないでしょうか。
 もう一つ、父親についても書きたいのですが、またの機会にさせていただきます。
12. Posted by Hideki   2005年12月29日 16:04
お話の内容に合っているかどうか分からないのですが、2つのことを考えさせられました。
少なくとも、今は昔と比べて「個の充足」が重視されているのは間違いないです。勿論「自己責任」の上で。ただ、これはいわゆる「自己チュー」と紙一重なんですよね。
だから、個の充足が図られれば図られるほど、「他者への思いやり」もより一層みにつける必要があると思うんです。
極端な話、個よりも共が重視された時代は、そんな思いやりを個々人が持たなくても、半ば強制的に他者のために動かされたわけです。
ところが、個の比重が高くなった今、個々人が他人への思いやりを心の底から思わない限り、「自己中心発想」に陥りがちだと思うんです。
個を重視する時代だからこそ、他者を思いやる教育を重視すべきなんですよね
13. Posted by Hideki   2005年12月29日 16:18
もうひとつは、子どもの価値観への接し方。ご指摘のとおり「対立」は以前より少なくなっていると思う。今は子どもの価値観を「理解」し「許容」する傾向が高い。
極端にいえば、昔は親の価値観を子どもに押し付ける場合が多かったのではないでしょうか?だから、そこに対立が生まれたんだと思う。
今は子どもも「個」として尊重し、その価値観に一定の理解と許容をするようになっています。
ただ、これも紙一重なところがあって、深く考えないまま「許容」してしまうと「放任」になってしまう。
「許容」という言葉を隠れ蓑にした、「価値観の放任」にならないよう、気をつけていきたいと思います。

ただ、個人的には「しつけ」という言葉は嫌いですね。そこには、子どものことを無視して無理やり型にはめこむ印象がある。それは思考停止の元です。
本当に子どもが納得するだけの、説得力・論理の組み立てが大人に要求されてると思う。
14. Posted by toshi   2005年12月29日 16:38
ありがとうございます。百パーセント、おっしゃる通りです。わたしも、まったくそういう意味で、他者を思いやる教育を大切にしてきました。
 そして、これは、話して聞かせれば身につくというものでは、まったくありませんから、自分自ら、それに気づくようにするにはという視点をいつも大切にして、教育実践に取り組んだつもりです。
 そして、個を重視する時代のことだけれど、まだまだです。享楽的な個の追求ではなく、まじめに個を見つめる、自己探求の心と言いますか、そして、社会もそうした意味での個の実現を尊重する、そんな社会になってほしいと思います。

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