2006年06月02日

父を語る(1)4

bdd2da8f.jpg  今日は、ごめんなさい。まったく私的な話に終始する。よろしければ、ご覧ください。
 
 父は7年前、84歳で亡くなった。
 昭和50年、校長として退職。その後は、校長時代やっていたことの延長で、会員200人余の『○△あるこう会』を主宰し、がんばっていた。そういう意味では、『現職(?)』として惜しまれながらの死だった。


 わたしはすでに、このブログにおいて、父のことを3回ほど記事にしている。

   二極化現象を考える
   平和教育(1) 朝会の話
   体罰はダメ(1)

 そのなかで、『体罰はダメ(1)』の
『わたし自身も、よく親に殴られた。ある時期は、殴られながら育ったと言ってもいいくらいだ。』
の記事が、特に気になっている。

 確かに、子ども時代、よく体罰を食らったせいもあるだろう。わたしはずっと父がこわい存在だった。
 父をこわいと感じなくなったのは、父が晩年、体が不自由になり、介護を必要とするようになってからかもしれない。

 よく父と風呂に入ったのを思い出す。介護を必要とするようになったころは、体重は40kgをきり、やせ衰えた姿は哀れを誘った。
 
 父は小学校教員だったし、戦後の社会科をしょって立つような存在だったから、『今、ぼけないうちに、聞けるだけ聞いておこう。』という気になった。

 
 10代後半からは、よく父に反発し、逆らうことが多かった。我が子に対しきびしいだけで、あまり親の愛を肌で感じることがなかった。
 
 だから、意識的に父を遠ざけていたふしもあり、そんなわけで、同業でありながら、努めて仕事の話はしないようにしていた。

 
 その、『親の愛を肌で感じることが少なかった』点についてだが、たとえば、こんなことがあった。

 教員になることを目指すようになったのは、24歳から。小さいときから、『学校の先生になれ。』と言われて育ち、それを当然のこととしていたわたしだったが、反発したせいだろう。高校くらいからは、『先生にだけはなるまい。』と思うようになった。

 そのせいで、教員とは無縁の大学に進学したし、会社にも1年間だが、勤務した。しかし、いろいろな事情があり、自分本来の仕事と思うようになった教員を目指すことにした。反発しっぱなしでは、自分が損すると思った。

 「今日、お父さんは、学校にいるの。」
「おお。一日、いるけれど、なんだい。」
「うん。ちょっと、話したいことがあるんだ。」
「なんだい。家で話せばいいじゃないか。」
「うん。でも、なんだか、家では話しにくい気がして。・・・。今日も、営業周りだから、会社の車で乗りつけるよ。」
「そうか。それなら、おいでよ。」

 そうして、父の学校の校長室で、
「会社に勤めてまだ数ヶ月だが、自分の一生の仕事は、小学校教員だと強く思うようになった。いろいろ迷惑をかけてきたし、これからも、かけると思うけれど、ごめんなさい。」

 父は、ふだんと変わらぬ表情で、
「一度やると決めた仕事を、そんなに簡単に投げ出してしまっていいのか。」
と言った。やはり、怒られているとしか感じられなかった。

 しかし、その数日後、父から聞かされたのは、
「toshi。何も卒業した大学で、2年間教職課程をとる勉強をしなくても、○△大学なら、1年間で、小学校教員免許をもらえるのだそうだ。」
「ええっ。ほんとう。」
ちゃんと調べてくれたのだった。

 数年後のことである。父の友達、やはり教員だったのだが、その方から、聞いた。
「toshiちゃんは、お父さんの学校の校長室で話したのだってなあ。先生になりたいって。・・・。でも、例によって、顔はぶすっとしたままだっただろう。
Toshiちゃんのお父さんは、愛敬がないよな。いつも、そんなふうだ。もっとうれしければ、にこにこすればいいのにな。
 でもな、お父さんくらい、子どものことを思い、愛情いっぱいの人はいないよ。・・・。あのときも、かわいい息子に、先生になりたいと言われ、わたしに話すときは、実に、うれしそうだった。・・・。     
 それで、教職課程もとっていない息子だが、どうしたら教員免許がとれるかって聞かれたのだよ。」

 
 同業のせいだろう。それからというものは、たとえブスッとしていても、父の愛を感じることができるようにはなった。

 
 さて、ここで、読者の方はいぶかるかもしれない。というのは、この話に、母がまったく登場してこないからだ。

 実は、母は、この4年まえ、わたしが20歳のとき、47歳で亡くなった。それまで、父と直接話すことは少なく、ほとんど母を通しての会話だったから、母の死は、父との関係をかなりギクシャクしたものにした。

 母のことは、また、折を見て、記事にさせていただきたい。


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rve83253 at 22:54│Comments(6)TrackBack(0)むかし | エッセイ

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この記事へのコメント

1. Posted by 大山虎竜   2006年06月03日 09:23
toshi校長先生のブログは、とっても暖かいですね。
涙が溢れる時が何度もあります。
教育は最終的には人で決まると思っています。
叶わない夢ですが、toshi校長先生と一緒に仕事をしたかったです。実際にはお会いしたことがないのに、そんな気持ちになれるって、本当にブログは不思議ですね。
高3の息子が「学校の先生になろうかな」とつぶやいていました。
泣き虫教頭こと大山虎竜は、目がウルウル状態でした。
万歩計、私も付けてみよと思ったことがありました。同じ事をtoshi校長先生が実践されていると分かってさらに、親近感が湧いて来ました。
ランキング応援しています。
頑張ってくださいね。
2. Posted by toshi   2006年06月04日 11:55
大山虎竜さん
 おほめに預かり、ありがとうございます。大変光栄なお言葉もいただきました。
 うちの娘は、どちらも、教員にはなりませんでした。『教員は、生きがいがあっていいぞう。』とは言いましたが、今は、教員になるのも大変な時代ですので、あまり強くは言いませんでした。
 お子さんが、教員を目指すようになるといいですね。
3. Posted by くるみ   2006年06月07日 09:03
 両親が先生と言う友人が2人います。彼女たち曰く、「自分の両親ほど教師という職業を一生懸命にする自信がない」と言っていたのを思い出しました。
 男性よりも深く心の奥底に沈める傾向がある女性だからこそ、その偉大さに敬意を抱き、それは、畏敬の念につながったのではないかと想うこの頃です。
 彼女達は、私が辛かったとき、寄り添い励ましてくれた有難い存在でした。優しさを強さを兼ね備えた素晴らしい女性達です。
 toshi先生のお嬢さん達と重なるように感じます。
4. Posted by aoirora33   2006年06月07日 12:45
私の父は教員ではありませんでしたが、私に、教員になってはどうか、とすすめたことがありました。でも、当時は他になりたいものがあったこともあって、断ってしまって今に至っています。

でも、考えてみれば不思議で、「女の子が勉強なんてできたって何の役にもたたない」と言っていた父が、娘に教師になることをすすめるなんて、、、って。
父なりに、大学進学した娘の将来を考えて、教員になることをすすめてくれたんだろうな、と今頃になって気付いている訳で、、、。

toshiさんのお父様のお話を伺って、父と自分とのこと、いろいろ思い出しています。次に帰省した時には、何を話そうかな、、なんて考えながら。

素敵なお話を聞かせて頂いた気持ちです。ありがとうございます。

5. Posted by toshi   2006年06月08日 00:29
くるみさん
 わたしも、両親が、ともに教員でした。
 自信がないと言ったら、わたしも同じでしたね。でも、やはり、生きがいを感じる仕事ではないかと思っていました。
 おっしゃるように、わたしの娘は2人とも、教員にはなりませんでした。とても、くるみさんのお友達のようなわけにはいかないでしょうが、でも、娘の結婚式での親への感謝の言葉では、そのようなことを言ってくれました。ジーンとしてしまいました。
 わたしは逆に、くるみさんに対して、くるみさんのお友達同様のイメージを思い浮かべています。
6. Posted by toshi   2006年06月08日 00:35
aoisora33さん
 自分が齢を重ねて初めて分かる親の気持ちっていうのがありますね。
 いまだにありますよ。
 『孝行したいときに親はなし』のわたしで、せめてこのブログで、ほんのちょっと、罪滅ぼしができればと思っています。
 aoisora33さん。帰省されたら、うんとお父さんとお話をされることでしょう。お父さんは、きっと喜ばれると思います。

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