2006年08月06日

塾でつけた学力?(2) 学校再生!  4

d1ec17fc.JPG 昨日の記事では、塾であろうと何であろうと、いいものはいい。学ぶべきものからは学ぶという姿勢を書いたつもりだ。

 こだまさん、Hidekiさんから、さっそくコメントをいただいた。

 『哀しいことに、徹底反復学習のみに汲々としている小学校もあるようなので、〜。』

 我が地域にはそういう学校はほとんどないと思うのだが、全国的に見れば、どうもそのようで、これは、公立校に、ぜひともがんばってほしいところだ。

 やはり学力低下論と、それにあわてた国の姿勢が大きく影響しているだろうし、また、それにすぐ反応してしまう学校の姿勢も問われなければならないだろう。もっと自信を持ちたいものだ。


 そういう意味で、今日の記事が、公立校の教員に一つの励ましとなれば、うれしく思う。



 我が地域でも、『公立校でつける学力はたかがしれたもの。実は、それは、塾がつけた学力ではないか。』という声は、聞こえてきたことがある。ふり返れば、もう15年も前のことだ。

 わたしの勤務する学校の校長が、朝の打ち合わせで言った。

 「うちの学校ではそんな声は聞いたことがないのですけれどね。実に嘆かわしい話を、他校の校長から聞きました。
 そこの学校ではね、保護者が、言うのだそうです。そこは、どちらかと言えば山の手に属する学校なのですが、『学校は学力をつけてくれなくていい。』って言うのだそうです。一瞬奇異に感じたのですがね。こういうことだそうです。
 『学校は毎日が楽しく、けんかもいじめもなく、遊ばせてくれればいい。学力は塾がつけてくれるから。』ということなのだそうですよ。おかしな世の中になったものですね。
 
 わたしは、そこに、学校に対する信頼感のなさを感じ、いやな思いになったのですが、その校長には危機感がないのです。だから、言ってやりました。『そうか。何も期待されないなら、楽でいいなあ。』ってね。

 うちはそのようなことはないですね。保護者は、学校を信頼してくれているし、確かな学力をつけてくれていると、そんな話ばかりです。能力の高い子だけではなくて、どちらかと言えば低い子も、完全に生かしていますよね。
 教職員の皆さんに、改めて感謝の念がわきました。

そう。うちはね。学校パワー満開、教職員のパワー全開で行きましょう。」

 わたしはそのとき、初めて聞く話で、驚かされたものだ。その後、そういう声は、何回かは聞いた。


 さて、昨年度勤務した学校の一つは、塾に通う子が多い地域の学校だった。

 でも、この学校でも、上記のようなあきらめの声は聞かなかった。

 わたしのような初任者指導教員という立場の者にも、初任者の学級の保護者は、ときどき声をかけてくれた。

「toshi先生。いつもお世話になります。ありがとうございます。うちの子がね。『toshi先生の授業はすごいよ。みんな発表しちゃうんだもん。(この『みんな』は、子ども独特の表現で、そこまではいかない。多くの子がというのが正しい。)』て、にこにこしながら言うのです。
 担任のA先生も、細かいところまでよく一人一人の子どもをみてくださっていて、ほんとうにありがたいです。」

 そんな調子の話が多かった。

 あるとき、保護者がこんなことを言ってくれた。

「ここからは遠いのですけれど、うちと同じ学年のお子さんがいるお友達がいましてね。その友達が言うのです。『学力は塾がつけてくれるから、学校は遊ばせてくれればそれでいいわ。』ってね。」

・・・。あらら。まただ。そう思った。

「でも、わたし、言ってやったんです。
『わたしはそんなふうには思わないわ。塾と学校とではつけてくれる学力が違うのではないかしら。うちの子はね。塾で習ったことの確認が、学校ではできるのだよって言うし、塾は覚える勉強だけれど、学校は考える勉強なんだよねとも言うわ。だから、学校だって大切な学習の場よ。』って言ってやりました。」

「そうですか。それはありがとうございます。そう。ここの学校の先生は、がんばっていますよね。一人一人の子どもの考えやこだわりをほんとうに大切にして授業をしています。わたしもずいぶん勉強になっています。
 さっそく、今の話、先生方に伝えましょう。・・・。ああ。もっとも、お母さん、お母さんがもう話してくださっているでしょうね。」

「はい。この前、担任の先生には話しました。もう、うちの子がそんなことを言うなどということがうれしかったものですから。・・・。でも、toshi先生。そんな学校ばかりではないのですね。」

 わたしは少し言葉につまった。

 でも、ほんとうにうれしかった。担任には、保護者から聞いた話をもとに、わたしが感じたことを話した。


 それは以下のようなことだ。

 とかく、塾へ通う子が多いと、学校の教員は、
「塾が先行して教えてしまうものだから、そういう子たちがどんどん正解を発表してしまって、行っていない子は、置いてきぼりをくう。」
などと言うのではないか。

 授業のやりにくさを指摘するが、それはやはり正解を出して終わりというような、授業のまずさに起因するのではなかろうか。

 この学校はそういう授業とは無縁だ。(ああ。でも、『教員によっては、〜。』という面もあるな。)


1.塾で習ったことの確認が学校ではできる。

 これは、理科の実験のことなどを指しているのだそうだ。大手進学塾は、実験などしないのだね。

 こういう実験をすれば、こういう結果となると、教わるだけなのだろう。・・・。あれっ。どこかで、このこと、書いたね

 これは単なる知識・理解だけではない。実験観察の技能、どういう実験をすればいいのかなどの思考力は、学校が養っていることになる。

2.塾は覚える勉強、学校は考える勉強。

 考える勉強は楽しい。それは、問題を解決するだけではない。問題を設定する力、ねばり強く追求する力なども含まれる。

 何より、学校は、思いやり、やさしさを育む教育のなかで、学び合う学級集団づくりをやっている。ともに考え合い、議論し合いながら、価値を深め合うということをふんだんにやっている。

 学校は、学校でしか身につけさせることのできない学力を、しっかり身につけさせたいものである。そして、学校がつける力こそが、将来の、よりよく生きる力、学ぶ力を養っているのであり、そういう力に裏付けられた知識・技能こそが大切なのである。

 それらは、人間として生きる幸せをもたらす。自信を持って挑戦していきたい。四角い頭を丸くするのは学校なのである。


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rve83253 at 03:16│Comments(8)TrackBack(0)教育観 | 指導観

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この記事へのコメント

1. Posted by kei   2006年08月06日 10:40
toshi先生いつも読ませていただき、勇気をいただいています。保護者の方の声が嬉しいですね。私は、今6年生を担任しています。進学塾に通う子もたくさんいますが、授業で手を抜くという感じが全くしません。「塾では効率よく答えを出すことを教えてもらうけど、学校では考え抜くし、いつも自分の思いを書き残している。」と子どもが語ってくれます。理科の実験ものめりこんでいるし、話し合い活動でも仲間の考えとつなげながら、山場を作るような意見を出してくれます。総合も楽しくてたまらないそうです。机上での学びが実際に使って役立つと一層心が震えるのでしょうね。私は公立学校の一教員ですが、授業の中で子どもたちが豊かにつながりあっていく姿・高まりあっていく姿を見ると、勇気付けられます。この子達がきっと10年後20年後の未来を担っていくのだなあと心から思っているのです。子どもの事実から教えてもらった事です。
2. Posted by toshi   2006年08月06日 17:26
keiさん
 ごめんなさい。貴ブログを読ませていただくのはときどきなのですが、すばらしい実践をなさっています。もう、子どもからの信頼は抜群でしょうね。「ああ。子どもたちは幸せだろうな。」と読ませていただきながら、よく思っています。文字通りのHappy Lifeでしょう。
 コメントの具体的事例の一つ一つが胸にしみます。考え合う学習、仲間づくりの学級経営。問題追求力、塾にはない魅力をふんだんに感じていることでしょう。
 特に最後の2行がすばらしい。生涯学習力、生き抜く力、そういったものが、まさに、今、養われているのですね。


 
3. Posted by junko   2006年08月07日 16:50
いつも拝見しています。
受験の国語の回答法の一つとして、道徳観から外れると点数がもらえないという事実がありますよね。
でも、毎日のテレビからはそんな受験国語で推奨される道徳観からは外れてしまった人間達の様子が溢れています。今は本音の時代なのに、受験生達は過去問の演習の中で、現実から解離した道徳観上にしかない答えの出し方を、点数化されるという目的の中で、日々積み重ねているんですよね。学校がそういう目的からは外れたところにあるのだとすれば、今の道徳の授業や日々の学校生活の中で(本音を踏まえた道徳観を教えてあげて欲しいと真に願います。道徳の授業を参観するとき、多くの先生方の授業は、道徳に外れない対面の取り繕い方を学ぶワークショップに陥ってしまっています。本音を踏まえた道徳の授業を参観すると心を打たれます。そういう先生方の授業を地域の先生方みんなでシェアすればよいのに、と思うんですけど。


4. Posted by Hideki   2006年08月07日 22:26
いつだかTVで「命の授業」というドキュメンタリーをやっていました。滋賀かどこかの小学校の話。生き物の命を考えるということで豚をクラスで飼い始めたが、大きくなったブタをどうするか?で生徒がそして先生が一生懸命考えるというものでした。

頓珍漢なことをいうかもしれませんが、先生は「教える人」ということに、親も子もそして先生自身も囚われすぎている気がします。

実際の世の中の出来事の大半には答えがない。
つまり、先生にも答えが分からないことは一杯あるんですよね。
でも、先生は生きている時間が長い分、答えを出すためのいろいろな考えるすべを知っている。だから、生徒と一緒になって、一緒に考え、悩む。行き詰ったら、「こういう切り口でも見てみよう」という考える道筋を先生からもらって、さらに真剣に考える。

冒頭の命の授業は、そういう意味でも素晴らしい授業だったのではないか?と思うのです。
5. Posted by toshi   2006年08月08日 02:29
junkoさん
 道徳ですばらしい発表をしても、休み時間になると、自己中心的でわがまま勝手な行動をとるというのはよくあることで、ほんとうにむなしくなりますよね。
junkoさんのおっしゃること、よく分かります。
 本音の部分に教員が共感してやることだと思います。「気持ちは分かるよ。」ということですね。決して本音の部分で終わりということはないです。それこそ、『信頼』が問われる瞬間なんですね。
 よろしければ、本コメントのわたしの名前のところをクリックしてみてください。
 わたしのホームページですが、ちょっと本コメントに関わる記事を載せてありますので、未読でしたら、お読みいただければうれしく思います。
 最後の件ですけれど、ほんとうに、地域によっては、学校間の交流が少ないところもあり、気になっています。教育の成果がひびき合うようになってほしいですね。
6. Posted by toshi   2006年08月08日 02:46
Hidekiさん
 もうおっしゃることよく分かります。教員という言葉の性もあるのかなあと思いますが、
 けっきょくは、教えているのですが、その瞬間瞬間は、面倒をみすぎないことが肝要ですね。黙って見守り、子どもが主体的に考える時間を保障してやりたいものです。
 ところが、わたしもそうなのですが、やはり、『言いたくなる習性』の呪縛があります。

 あのテレビ、わたしも見ました。
 すばらしい実践でしたね。真剣に、そして心を揺さぶられるようにして、それぞれがそれぞれの思いを出し合い、問題解決を図ろうとしていました。
 あの番組でしたでしょうか。成長してから、小学校時代をふり返り、そのときの学習が、今の生き方に反映しているという話をしていたのは。
 もしそうなら、それはまさに生きる力、生涯学習力に関わる実践だったと言えますね。
7. Posted by moro   2006年08月15日 08:08
ふと立ち寄らせて頂きました。
とっても興味深かったので、一気に読ませて頂きました。

私は塾講師なのですが、答えや正解といった結論ばかりの塾の授業には反対です。受験をした後の5年後、10年後も成長し続ける力を与えて卒業させたいと願っています。ですが、現実の塾業界はそうではないことが多いですから、そこは塾も長い視点で生徒を見て大きく変わる必要があるでしょう。ですが一方で学校教育もtoshi先生の様に学校教育でできることをもっと考えて行動できる先生や知ったふりではなく本当に学ぶ先生が増えて欲しい、というのが大きな願いです。

その意味で、塾講師も教員も、もっと広い視野で生徒を本当に伸ばすにはどうしたら良いのか、お互いがお互いを刺激し合える、協力し合える関係作りができたらと感じています。
8. Posted by toshi   2006年08月15日 15:49
moroさん
 コメント、ありがとうございました。
 学校の教員にもっと奮起してほしいという思いがありますが、塾の先生から、こういうコメントをいただけると、明るい未来を感じ、うれしくなります。学校もいろいろ以上に、塾もいろいろなのですね。
 道草学習のこだま先生のブログからも、得るところが多く、学ばせてもらっています。
 moroさんは、学校の教員との接点もお持ちなのですね。すごいですね。
 教師塾なるものがあることは、報道等で知っていましたが、これからも、いろいろ教えてください。
 よろしくお願いします。

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