2006年08月15日

追  憶(2) 母の育児日記3

d98ef83f.JPG 今日は、終戦(敗戦)記念日。小泉首相は、やはり、靖国神社へ行くのかな。

 わたしは、昨日の約束通り、亡き母がつけていた、わたしの育児日記(育児メモかな。)を掲載しよう。

 昭和20年、母は27歳。

 その母の日記を、現在61歳のわたしが、感謝の思いとともに、掲載する。何とも不思議な思いだ。


 掲載する前に、いくつかお断りしたい。

1. わたしは、このブログでは、toshiと名乗っているが、ご承知のように、戦争中は、敵国の言葉ということで、英語が禁じられていた。ローマ字とは言え、アルファベットを使うのは、何とも時代の雰囲気を壊しそうなので、この日記に関する部分だけ、「とし」を使用させていただきたい。

2. もう一つ。ふだんイニシャルを使うとき、A、B、Cを使用しているが、ここでは、「い」「ろ」「は」とさせていただきたい。読みにくいかな。すみません。

3. 日記本文だけでは、わかりにくいと思われる部分が多いので、必要に応じ、わたしの説明を付ける。それは、(  )を使って書き加えたい。




 昭和20年2月12日   お宮参り。「い」神宮と「ろ」神社に参詣す。お母さん(母方の祖母のこと。歩いて2〜300mのところに住んでいた。)におぶさって、帽子で顔がうずまってしまう。

 17日   お母さんが一生懸命あやすと笑ふ。顔を動かすと、眼をその方へ向けていく所を見ると、見えるらしい。

 22日   今日は一日中雪降り寒いせいか、朝から夕までぐづってゐた。

 25日   朝早くから空襲あり。「は」へ(母の実家、祖母のところ。)行き、母の防空壕へ入れて貰う。今日も晝前から雪が降り続く。

(暖房も思うようにはできなかったのではないかな。わたしの少年時代も、しもやけ、あかぎれなどは、ひどいものがあった。)

 27日   外を通ってゐる「に」さんが(助産婦さん。当時は、お産婆さんと言った。)泣声を聞きつけ入ってこられる。随分肥ったとびっくりしてゐられた。お乳の吐くわけを尋ねると、「ほ」(医師)さんに見て貰った方がよい。殊によると脚気のお乳なのかも知らないとの事であった。せいぜいビタミンB(ビタミンだけは、アルファベットで書かれていた。これだけは使用が認められていたのだろうか。)を飲もうと思ふ。

 3月3日   今だに吐気のあるやうな様子をし、時々もどす。「ほ」医に診察して貰ったら、甲状腺と脚気とあるさうな。ビタミンAとBを必要とするとの事で、Bの注射をして貰ふ。

 19日   9日より敵は夜襲をし始め、ここも近き中に空襲されさうなので(大空襲のことだろう。小さな空襲なら、それまで何度もあった。)、思ひ切って「へ」(父の実家のあるところ。)へ疎開する事に決めた。午後4時半頃着く。

(20kmくらいの距離。父は学童疎開の宿舎から駆けつけた。このときが父とわたしとの初対面だったと思う。叔父(父の弟)と2人でリヤカーを引き、タンス、ふとん、食器類を運んだ。それだけしか家財はなかった。このときすでに、近隣の大都市は、大空襲の被害にあっていて、数万人という死者があった。)

 22日   「へ」へ来たら少しも泣かず、よくしたもので非常に温和しいから、おぢいさん(もちろん父方の父)も驚いてゐられた。

 25日   疎開してから野菜を沢山食べるせいか、だんだん吐気もとまり元気もよい。

 31日   「と」(居住地)へ荷物整理の為行く。お母さんの所で一泊。「ち」さん宅に寄る。「り」「ぬ」「る」さんに抱かれて大騒ぎ。「る」さんが抱いたらよく似合った。

 4月7日   「お」(父の学童疎開先)へお姑さんと行く。「わ」先生に、発育が大変よいと云われた。

 30日   夜もよく寝り、夜2時頃一度起きるだけ。それもお乳を飲ませるとすぐ寝てしまふ。晝間眼を開いていても、獨りで泣かずに寝てゐる。本当に子持ちのようでない。だいたい3時間位間を置いて授乳。夕方一しきりぐづるだけ。湯揚り後体重を計る。一貫三百匁。

(メートル法に換算すると、4875g。ちなみに現在の乳児の平均をインターネットで調べてみた。同時期で6000g。『発育がよい。』と言われても、これだけしかなかった。)

 5月5日   初節句。雛を飾り、お柏をつくり、凧を揚げて祝ふ。食べ始めの膳を作り、おこわをなめさせる。皿に石を入れ、歯が丈夫になるおまじないださうな。

(お姑さんがよく世話をやいていたと、これは、伯母の話。)

 10月22日   お風呂に入って、「ポチャポチャやりな。」といふと、わかってかわからないでか、ポチャポチャやり出した。

 11月2日   お膳につかまって立たうとする。歯が二本生え始めた。

 8日   お膳につかまって立ち、腹這ひになって、向ふの火鉢まで手をのばす。

 15日   つかまって立ち、いくらか横に歩く。両手を持って歩かせやうとするとつる下り、両足一緒に出す。

 12月7日   ダッダッとかアバァアバァとか、わけのわからないことを云ってゐる。籠の中でおもちゃを持ち、暖かい所でよく遊ぶ。笛を吹いたり吸ったりするので、一寸間を置いてはなる。玩具は小さい輪、ひも、ものさし、杓子等の様なものを好む。

 15日   よその人に対して、人みしりをし始めた。一寸はにかんだやうで私の膝にすりよってくる。ややしばらくして馴れ、食事等をあらし始める。籠の中で一人で体をゆすり、籠を動かして喜んでゐる。

昭和21年1月1日   お正月を迎へ、二歳に(もちろん数え年。)なった。今日は衣をかへて服姿とする。何だか生いきなオチョビさんといったかっこうだ。おもちを小さくちぎっては食べさせた。

 2月3日   お晝お客さんがいらっしゃった。食事の間、一言も声を立てずじっとにらむやうに見つめてゐる。指ばかり口へ入れるので、左の親指に布を巻きつけた。すると、さも困ったやうに悲しさうに泣く。つい口へ持って行っては変な顔をして泣く。

 21日   手を離してしばらくは立つやうになった。大きな口をあけ、アーと云って手を上げ、尻餅をつくかっこうは面白い。頭をあちらに曲げこちらに曲げしてはバアーバアーと云って愛嬌たっぷりだ。

 3月5日   椅子に座らせて写真を撮る。「わ」さんが写真屋さんの横で手を叩き、レンズを見させやうとする。「とし」ちゃんが椅子から落ちないやうに番をする。助手がなかなか大変だ。撮らうとすると下を向く。よし、この時と思うと、玩具を口へくはへる。いくらか笑ってじっとした所をパチリ。もう一枚。写真屋さん。「坊や。胸を張って。」横を向いてしまった。やっとすました所を撮った。どんなに撮れたかしら。楽しみだ。

(わたしの乳幼児だったころの写真は、このときのものしかない。当時は、カメラのある家など、ほとんどなかったのではないか。)

15日。   今日は種痘の日。南分校で村中やった。子供が大きな声で泣く。「とし」ちゃん。三つ目のをやらうとする時、手を引き込めやうとする。一寸泣きさうな顔をしただけ。

4月17日   机の角の所で遊んでゐる。お父ちゃんが火鉢の所で、「おいで。」と手を出した。手へ渡るのには遠すぎる。這っていくには近すぎる。そこで手を離すと一歩出し、急いでお父ちゃんの肩につかまった。お父ちゃん。「歩いた。歩いた。」と大喜び。


 

 日記はまだまだ続くが、このくらいにさせてください。

 これについての考察記事は、明日掲載したい。


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 考察記事へ続く。

rve83253 at 05:52│Comments(4)TrackBack(0)むかし | エッセイ

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この記事へのコメント

1. Posted by Hideki   2006年08月15日 19:09
こんにちは。小泉さん、とうとう行ってしまいましたね。。。全く無責任にもほどがある、なぁ

と、それはさておき

育児日記、淡々としていながらもとても客観的で、しかも簡潔に様子を描かれていますね。それでいて、その背景にある、母親の愛情のまなざしというか、「思い」がいっぱいつまっているように思います。

しかも、ホントにその時々の様子が目に浮かぶようで、とても表現力が豊かな方だったように感じます。

つづきを楽しみにしております
2. Posted by rusie   2006年08月15日 21:36
今日のタイトルを見て,どきっとしてしまいました。実は昨日うちの娘たちが,私の書いていた育児日記を読んでいろんなことを話していたからです。本棚に立ててあったのをたまたま見つけたのですが,3人でとっても楽しそうに見て笑っていました。私も忘れていた小さかったときのことがいろいろ書いてあり,いろんなことを思い出したのでした。
先生のお母様の育児日記は戦中,戦後という時代の中ですが,深い愛情が感じられるものですね。
私の育児日記も,やがて私がこの世を去っても,子どもたちの元に残るのでしょうか。
子どもたちはやがて母になり,またわが子を思い,何かを書き記すのでしょう。
いつの時代も母親のわが子に対する気持ちは同じだと思います。
いつもいろいろ考えさせていただき,ありがとうございます。
3. Posted by toshi   2006年08月16日 15:06
Hidekiさん。
 ありがとうございます。
 こういうものがあるということ、母の生前はまったく知らされていませんでしたから、ほんとうに驚いたのです。
 父も知らなかったようでした。学童疎開の引率、それから、戦争末期には、教員にも赤紙が届くようになり、父は出征もしたのです。そんな関係もあり、知らなかったのでしょう。
 この日記をもとに、父にけっこう質問したものでした。今日は、そのことも記事に盛り込みたいと思います。
 どうぞ、よろしく。
4. Posted by toshi   2006年08月16日 15:25
rusieさん
 どうも、どうも、それは楽しいひとときでしたね。そういうことも、夏休みだからこそと言えるかもしれませんね。
 きっと、お嬢さんたち、お母さんの育児日記を通して、育児の苦労とか喜びとかを知るのでしょう。

 わたしの場合も、戦争中の苦労話は、子どものころ聞かなかったわけではないのですが、やはり、この育児日記にまさる物はなかったように思います。
自分のことが書かれている育児日記を読む感動。すごいものがありました。もう母親はこの世にいなかったからかもしれません。「孝行したいときに親はなし。」とはよく言ったもの。
 その分、父親には少しは、孝行できたかな。
 そんな思いもしています。

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