2006年08月16日

追  憶(3)3

8cbc4b79.JPG 昨日、掲載した、わたしが乳児だったときの母の育児日記。母の死後、母の物を整理していて見つけた。

 父もこの日記の存在を知らなかったようで、見つけると、驚きとともに、じっと読みふけっていた。


 そのとき、わたしが感じたことは、次のようなことだったと思う。

1. ありがたい、感謝の思いで、いっぱいだ。涙なしでは読めない。深い愛を感じた。(妹2人は、自分たちのもあるのではないかと探したが、残念。それはなかった。)

2. 粗末な紙だ。めくることもできない感じ。だから、注意しながら、そおっとめくっていった。戦争中だったから、こんな物しかなかったのだろう。

3. 生前、こういう物があることを、なぜ言ってくれなかったのだろう。

4. 戦争中はただでさえ大変なときだったのに、よく書けたな。

5. 一番知りたい、8月15日近辺が空白なのは残念だ。5月から10月へ一気にとんでしまっている。


 一番知りたかったのは、5番だった。それで父に質問した。

 以下は、父の話で、わたしが感じたことだが、


 それまで、学校の教員に、赤紙が届くことはないとされていた。次代を担う子どもの育成は、軍国主義の立場からも、重視されていたのだろう。
 
 しかし、戦争も末期になると、そうも言っていられなくなったようだ。
昭和20年5月。そんな父に赤紙が届く。本土決戦要員としての召集令状ということは、父も感じていた。

 学童疎開先から、実家に戻る。そして、あわただしく出征となる。
 母は、わたしをおんぶし、最寄りの駅まで見送りに行った。そのときの両親の心境はどんなだったか。

 「それは、もう、生きて帰れるなどとは思っていなかった。駅のホームで、小さな小さなtoshiの手を握り、『ああ。せっかく授かった我が子だったが、いったい何日この子と過ごせたのだ。』と思うと、不憫でならなかった。」

 4年生だったかな。国語の教科書に載っている『一つの花』に似ていると思った。こういうことが、当時は日本中にあったわけだ。

 そして、ちょうど、本土決戦の予定場所へ移動させられている途中、列車から降ろされて、玉音放送を聞くことになる。
 戦争は終わった。そのまま部隊へ引き返した。

 
 家へ戻れたのは10月だった。

 なるほど。5月から10月。日記の空白期間と一致する。


 以下は、わたしの想像だが、

 母がつけていたわたしの育児日記に、わたしは明るさを感じるのだ。
 つらいこともいっぱいあっただろうに、文章からは、そのつらさをみじんも感じない。
 また、わたしが生まれたとき、『お国のために、役立つ人に。』ということで、男子誕生を喜んだと言った母だった。
 
 そういう母だったが、やはり、自分の夫への召集令状は、ショックだったに違いない。日記をつける気力も失せてしまったのではないか。
 この日記の空白期間は、それを示しているように思えてならない。


 それに対し、10月、父が帰ってきてからは、母の筆致は、明るさを増しているように思える。

 そうか。これは、父の復員だけでなく、日本が平和になったことも関係あるかもしれないな。

 以上のようなことを思った。

 また同時に、多くの兵は戦死したわけだし、復員兵も、『岸壁の母』に見られるように、何年も何年も帰ってこられなかった方が多い。そのことも思った。


 話は変わるが、わたしは、この母の日記を、自分の勤務した学校の、学校だよりに、数回にわたり掲載した。

 この日記を掲載するとき、必ず付記した言葉がある。

「〜。平和な時代であっても、子育てはそれなりに大変なもの。
しかし、それが戦時中ともなると、筆舌に尽くせぬ苦労があったことでしょう。空襲、脚気のお乳、注射でとる栄養、疎開など。それらの言葉から、苦労のほどがしのばれます。
 出産の最中に、空襲警報が鳴ったなどという話も聞いたことがあります。
 
 そんな時代なのに、わたしの母の日記は、暗さがみじんもないのですね。我が母ながら、すごいなと思いました。
 でも、こうしたことは、当時、日本中で見られたことなのですね。」


にほんブログ村 教育ブログへ

 今日で、一応、戦争にまつわる、むかし話シリーズは終わります。
 お読みいただき、ありがとうございました。
 今日も、1クリックお願いできれば、うれしく思います。

人気blog ランキングへ
 
 こちらも、1クリックお願いできますか。



rve83253 at 23:19│Comments(4)TrackBack(0)むかし | エッセイ

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by ピーチ   2006年08月18日 22:28
育児日記の掲載、ありがとうございました。
お父様のいない間の日記が空白になっているのは、少し分かるような気がしてしまいました。
私も育児日記にはつい、あまりマイナスな事や暗い話は避けてしまいます。でも今と比較にならないくらい大変だった時代でも、明るい育児日記をつけていたお母様はきっととても強い方だったのですね。
そしてそんな大変な時でも、toshiさんがいることで幸せを感じられていたのだと思います。
2. Posted by toshi   2006年08月19日 10:35
ピーチさんも、育児日記をつけていらっしゃるのですね。一つ、わたし、勉強になったことがあります。
 なるほど。マイナス的なことや暗い話は避けてしまうということ。
 それはそうですね。将来、お子さんも見るわけですから、また、思い出はほのかでほほえましいものにとなるよう、たぶんこれは無意識にしていることだと思いますが、そういう傾向になるのは、分かる気がします。
 わたしの母の育児日記に空白期間があったというのは、そういう意味も含めて、書けなくなってしまったのかなと、今、あらためて、思うようになりました。ありがとうございました。
3. Posted by なるほど♪ママ   2006年08月26日 13:44
> そんな時代なのに、わたしの母の日記は、暗さがみじんもないのですね。我が母ながら、すごいなと思いました。

とても、感動して読ませていただきました。
そして、お母様の、育児日記を読み、アンネの日記が思い浮かびました…。
どんな、過酷な状況にも、前向きに、人間としての心を持ち続けた彼女の姿勢と、重なるものを感じました。

戦争当時の、身近な人の日記は、次の世代へと伝えられる、とても貴重なものであると思います。とても、貴重なお話を知る事が出来、ありがとうございました。

それから、遅ればせながら、お妹さんの、ご冥福を心より、お祈り申し上げます。
4. Posted by toshi   2006年08月26日 23:56
なるほど♪ママさん
 ありがとうございます。
 母の日記のようなことは、当時の日本においては、どこでもふつうに見られたことだろうと思うと、ほんとうに胸が痛みます。
 わたしが物心ついてからも、戦後の貧しかった日本、アメリカを中心とした連合軍に占領されていた日本の記憶はありますので、いつかはそれも記事にしたいと思っています。
 どうぞ、末永くよろしくお願いします。
 

コメントする

名前
URL
 
  絵文字