2006年09月21日

ショッキングな新聞報道を目にして(2)4

656e0ee7.JPG 先の記事で、小学生の校内暴力多発化の報道をとり上げ、それは『家庭の教育力の低下』が主な原因であると述べた。

 しかし、誤解されないために申し上げるが、わたしは、『家庭の責任だから、学校としてはどうしようもない。家庭にがんばってもらわなければ、ますます事態は深刻化するばかりだ。』とは思っていない。つまり、全責任を家庭におっかぶせ、ほおかむりをするつもりはまったくない。

 いや。責任とすら思っていない。


 こういうことだ。

 わたしはこのことを、どなたかのブログのコメントに書いたような気がする。


 ある養蜂家がいた。ミツバチがミツを集める最適な時期を求め、南から北まで全国を駆け巡った。
 確かにミツバチはよく働いた。全国どこでも、ハチにとって最適なシーズンだったからだ。

 ある日、この養蜂家は考えた。常夏の国へ移住すれば、ミツバチは一年中ミツをしっかり集めるのではないか。そうすれば、あちらこちら移住する必要はなくなる。

 ところが、いざそれを実行すると、結論はまったく逆となった。

 確かに最初は、よく働いたのだそうだ。ところが、一年中心地よい気候の地域では、ハチはいつでも不自由なくミツが集められることを知る。そうなると、あくせく働く必要がないから、ハチは、ミツを集めなくなってしまった。養蜂家は大損をしてしまったそうである。

 つまり、『人間に限らず、生物は楽できる環境なら、楽をしようとする。』のである。

 逆に、気候の大変動が起こり、地球環境が大きく変わり、現状のままでは生きながらえることができなくなったとき、生物は地球環境に合わせて自己を変革させ、生き延びようとする。それが進化なのだそうだ。



 成熟化社会と言われる。

 これは、人々の意識、生き方が成熟したという意味ではない。『物に恵まれ、満ち足りて、あとはもう、枯れるのを待つだけ。』そんな意味なのだそうだ。

 つまり物質に恵まれ、楽しようと思えば、いくらも楽ができる社会では、人間は楽をしてしまうのだ。

 家族は力を合わせなくても、物質的な意味では、生きていくことができるようになった。その結果、意思の疎通が図れなくなり、また、図る必要もなくなり、自己中心性を強めてしまった。

 そして、地域、学校も、同様となってしまったのではないか。

 つまりこれは、『責任』とかいう問題ではなく、世の変遷に伴う必然として、生まれたのではないか。


 わたしは、先に、心の二極化構造と書いた。

 こういう時代でも、いや、こういう時代だからこそ、人生に生きがいを求め、真の幸せは何かを考え、他と協調しようとし、がんばる人々が大勢いる。これこそ、未来を明るく展望できる要素だと思う。


 これについては、先の記事に対するjunkoさんのコメントに、ヒントがあると思った。

『今、やるべきことは、前世代から価値観を受け継いでこなかった家族に対し、社会みんなでフォローして、改めて価値観を共有していけばいいと思うのです。』

 わたしの先の記事でも、同様のことを書かせてもらったと思う。

 この保護者は、『みんなからつるし上げられる。』そう思って、(臨時の学級懇談会に)来たようだ。だから、最初は、食ってかかるような言動だった。しかし、「みんな同じよ。」「反省することばかりよ。」「至らないもの同士、力を合わせていきましょうよ。」「一人で悩んじゃだめよ。」そんな声ばかり。最後、その保護者は涙を流し、「うちの子が、皆さんのお子さんにご迷惑ばかりかけているのに、〜。」

ということなのではないか。

 『二極』は、疎遠になったり対立し合ったりするのではなく、理解し合えるよう、包み込むようにして、価値観の共有に向かって努力する必要がある。

 そして、わたしたち教員は、その努力をするとともに、未来を担う子どもたちを、大事に育んでいく責務を負っていると考えるものである。


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 とりあえず、小学生による校内暴力事件の増加を、人々の心の問題としてとらえてみました。ですから、またまた、とりあえずですが、受験体制とか、強制反復訓練学習などとは切り離して考えてみました。
 しかし、ほったらかしの子育ても、子どもを追い込む子育ても、親の自己中心性から生まれたと考えれば、それらは、深くかかわってくるものと考えられます。

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rve83253 at 05:45│Comments(0)TrackBack(0)自己啓発 | 教育風土

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