2006年10月02日

学習問題とは(3) プログラムの必要性4

996fa479.JPG 今日は、社会科から離れてみる。1年生の特別活動である。

 1学期末。夏休み前。お楽しみ会の計画をたてる時間のことである。

 いろいろな係がいるということで、必要な係を出し合っていた。
 司会。ゲーム。歌。・・・。
 いろいろ出たが、プログラム係が誰からも出てこない。どうしてだろう。幼稚園や保育園のとき、そういう経験はなかったのかな。そう思った。
 
 とうとう子どもから出てこなかったので、わたしからは何も言わず、学級会は終わった。

 さて、お楽しみ会はどうなったか。

 初めは順調だった。司会の子も、そうでない子も、順番に文句もなく、進行した。『ああ。これなら、案外プログラムなしでもうまくいくのかな。』そんな思いにもなった。・・・。ところが、やっぱり。

 最後近くなって、やっと、もめだした。司会の子が言う。
「次は、○△グループの、紙芝居です。」
「違うよ。△○グループの歌だよ。」
「違うもん。△△グループの手品だもん。」
自分のグループの出番だと言い出す子もいた。

けっこう言い合ったあげく、・・・、Aちゃんだ。
「司会のBちゃんの言う通りだよ。ぼく、ちゃんと書いてあるもん。」
メモ帳をそばの子たちに見せながら言う。それで、みんな納得せざるを得なくなった。

ほぼそれと同時に、Cちゃん。
「何だっていいよ。早くやろうよ。」
の声がだめ押しとなり、それで、お楽しみ会に戻ることができた。その後はまたスムーズに進み、無事終了した。


 話はとんで、次は、2学期末。またまたお楽しみ会の計画段階だ。

 係を決めているとき、Dちゃんが言った。
「先生。1学期もお楽しみ会をやったでしょう。でも、あのときのお楽しみ会は変なことがあったよ。」
 
 内心、しめしめと思いながら、
「そうかい。何が変だったのよ。」
「だってさあ、次は何をやるかで、言い合いになったでしょう。紙芝居だって言う人もいたし、歌だって言う人もいたから、けんかみたいになったじゃん。」
「そうだよ。誰も書かなかったから、いけなかったのだよ。」
「ええっ。Aちゃんが書いていたじゃん。」
「でも、Aちゃんしか書いてなかったじゃん。」
「そうだよ。みんなが書いておけばいいんだよ。」

 あら、あら。せっかくいい意見が出て、プログラム係の必要性に気づくかなと思ったのだが、またまた、プログラムは出ないままになった。
 そして、決めた出し物の順番を、みんなが書くことになった。

 さて、このときもお楽しみ会の本番で、やはりもめたのだ。
 おもしろいもので、みんなが書いたことが、かえってあだになった。抜かして書いてしまった子がいたり、順番を間違えて書いた子がいたりしたのだ。
「先生。誰か書く人を決めて、その人に書いてもらえばよかったね。」
それで、わたしは答えた。
「そうだね。じゃあ、3学期のお楽しみ会は、そうしよう。」

 もう大丈夫。いよいよプログラム係の必要性に気づくなと思った。

 
 そして迎えた3学期の計画づくり。

「誰か順番を書く人を決めないといけない。」
それで、順番係という係が加わった。その子は、自分のノートに、書こうとした。
 そうしたら、Eちゃんが言う。
「Fちゃん。だめだよ。ノートじゃあ。また、間違えちゃうかもしれないでしょう。大きな紙に書きなよ。そして貼っておけばいいのだよ。」
「それなら、プログラムみたいだね。」

 『なんだい。知っているのではないか。知っているのなら、早く言えよ。』
そう言いたくなったが、その言葉はぐっと飲み込んで、
「そうか。プログラムがあればいいのだ。なるほどね。」
 
 プログラムなる言葉。また、その知識は持っていたのだった。しかし、生きてはたらく知識とまではなっていないのだろう。我々はこういうのを、『半知の状態』という。

 そうして、順番係は、プログラム係に名称変更。
 
 ていねいに縁取りする子まで現れて、きれいなプログラムができあがった。

 わたしは、
「おっ。いいのができたな。よし。こんな立派なプログラムができたのだから、もう、順番でもめることはなさそうだな。」
と言うと、
「うん。いいことは、まだあるよ。前のをやっているときから、次はぼくたちの番だって分かる。」
「けんかしなくて済むから、安心。」

 ところが、敵(?)もさるもの。

「toshi先生。プログラムができたから、司会はいらないじゃん。プログラムを見れば、分かるもの。」
さあ、またまたもめ出す。
「それは、いるよ。『次は、○△です。』っていう子がいなかったら、始められないもん。」
「始められるよ。プログラム見れば。」
「でも、それじゃあ、そろって出られない。」

 結局、司会はいるということになった。


 先生から言われたプログラムではない。自分たちで試行錯誤し、自分たちで気づき、必要性を実感して決めたプログラムだ。子どもたちは、もうその必要性、有用性を忘れないだろう。

 初め、子どもたちは問題の存在すら気づいていなかった。この段階で、指導者が、『プログラムの必要性』を話して聞かせていたら、子どもたちは知識としては身につくかもしれないが、上記の半知の状態にとどまっただろう。

 その後、1学期のお楽しみ会の最中に、問題が発生した。そして、問題解決を図ることになる。でも、一筋縄ではいかなかった。その経験が、実感的な問題解決につながったのではないか。

 この問題解決の経験は他にも転移し、どんどん自分たちで難問を解決していけるようになるだろう。生きる力を育てる教育だ。


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 問題解決をおし進める際は、教える側の待ちの姿勢が大切になりますね。だからこそ、問題の存在に気づき、解決しようとするエネルギーを養うことになります。

 待つとしても、傍観とは違いますね。子ども自らが気づくようにするためには、どうしたらよいか。指導者はそれを一生懸命考え、取り組んでいます。

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   (4)へ続く。

rve83253 at 03:06│Comments(2)TrackBack(0)指導観 | 特別活動指導

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この記事へのコメント

1. Posted by くるみ   2006年10月03日 09:06
学校で待ってもらうことで、子ども同士で高めあえるんですね。なるほど、集団を待つという意味がよくわかったように感じました。息子は、幸い待ってもらえる先生に出会っています。有り難い事とブログを拝読して改めて感じました。

一方、家庭だと子どもが少ない分、注がれるエネルギーが大きい分、正にも負にも影響ががいかに大きいかを思いました。

待つ=自主性を育てる
傍観=自主性に任せる(育っていないのに)
ということが実感としてわかってきました。

そして、どう待てばよいのか、親としての行動と心のあり方もほんのちょっぴりですが、できるようになってきたと思います(失敗ばかりですが)。

toshi先生、いつも有難うございます。これからも引き続き宜しくお願いします。

2. Posted by toshi   2006年10月04日 05:45
くるみさん
 こちらこそ、いつもありがとうございます。
 『待つ』ということについてですが、家庭だとなかなかうまくいきませんでした。
 というのは、学級だとだいたい30名以上いますから、待つとすぐ、期待していることをやっている子がいるのですね。そうすると、ほめることができます。
 しかし、家庭だと、うちの場合、2人の娘だけですから、待っても待ってもなかなかということが多々あるわけです。
 それと、我が子であるが故の感情も入り混じりますから、後悔の念に襲われることが多かったです。
 まあ、努力はしたつもりなのですが、うまくいった思い出の方が少ないようです。

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