2007年01月18日

温故知新(7) 父の実践から その33

6e3ef233.JPG

 本記事は、下記、温故知新シリーズのなかの、我が父の実践記録の続きとなっています。
 まだ、お読みでなかったら、そちらからご覧ください。

   温故知新(5) 父の実践から
   温故知新(6) 父の実践 その2




ヘ 第六週

(16)交通整理をする。
 校庭で大いに愉快にやっているとき、一人とび出して線路の上に仁王立ちになった。「どうしたの。」と聞くと、交通巡査だと言う。終わって教室に入ってからそのことを話すと、交通巡査についていろいろな経験を話し出した。この機会に交通整理を学ばせようと考えた。
 
翌日は講堂で始めた。少したって、中央に路線を交叉させた。ここに交叉点があることによって、交通整理の必要を感じさせようと思ったところ、狭い見通しのきく所なので、そこで衝突することは絶対になかった。
 やむを得ずそこに腰掛けをおいたら、すぐに交通巡査になりたい子が出てきた。そこで、どの電車も乗客も立ち止まって注目させ、進め、止まれの信号について話し合った。色による信号、巡査の手振りによる信号を考えた。本物を見ようということで、すぐにやめて、Hの交叉点を見学に行った。帰ってきて、その絵を描いた。丸に赤・青・黄の色をぬった信号板も作った。
 翌日、運動場であまり広くない位置に駅を作って電車ごっこをした。交差点を作って交通整理をした。交通巡査をやりたがる子はたくさんある。

(17)切符を作る。
 ずっと以前から、切符のことはよく話題に出ていた。が、あるときは知らん顔をし、あるときはみんながもう少しうまくなったら作ろうね、と言ったりして引き延ばしていた。ちょうどそのときに駅にするセットができたので、その枠を組み立てて机を置き、駅のしかまえをしたので、みんな大喜び、そして、切符を作ろうということになった。
 翌日はさみとクレヨンを用意させた。ものさしを使うことは無理なので、こちらで二粍と六粍の短形に線を引いた図画紙を与え、それを切らせて、美しく色どって切符を作った。八円と書かせた。二百枚ばかり作ると、どの子にも四枚ほどわけられた。運転手・車掌は乗客が降りるときに切符をもらうことと決めた。
 そして、従来よりいっそう実感のある電車ごっこができた。切符をわたさずに行ってしまった者があると言って、ざわついているところもあった。なぜ切符がなければ電車に乗れないのかを話し合った。お金を作って切符を買えばいいじゃないか、と言うので、翌日はお金を作ることにした。

(18)お金を作る。
 お金は何円のが必要かを研究した。そして、十円を作る。五円と一円三枚でもいい。十円だと二円おつりだ、という算数をして、十円、五円、一円を手分けして作った。お金は乗客の役につく人に、駅員には切符と、おつりになる一円とをやることになった。お金で切符を買って乗車するという現実に近いやり方になったので、一人の例外もなく喜んで熱中するようになった。

ト 第七週

(19)切符の始末をする。
 電車ごっこをした後で、その始末の仕方を研究した。どの電車に一番大勢乗ったか。どの駅が一番よく売れたか、それらはどうすれば分かるかを調べる。
 何回も失敗した後に、ようやく、初めの枚数を数えやすい数にしておくと、わりあい楽に数えられる。運転手や車掌の切符の枚数を数えたり、駅員の売り上げを数えたりすればよい、と分かった。

(20)サービスの仕方
 いちばん切符をたくさん集めた電車は、乗客が多かった。乗客が多かったというのは、電車のやり方がよかったからである。乗せたり降ろしたり走らせるときなどに、運転手と車掌は心を合わせてよくサービスすれば、人は大勢利用してくれるものだということがよく分かったようだ。乗客はサービスのよくない電車には、乗らないことにしようと言う子もあった。

(21)お道具の出し入れ
 こうなると、電車ごっこにもたくさんの道具がいるようになる。駅をしつらえる枠や看板や机、切符、お金などから、保線夫の白墨、交通整理の台や信号板等々たくさんになってきた。そこで毎回、教室ですっかり配役して、それぞれの係は道具をわけたり用意したりし、終わっての後かたづけも丁寧にするような指導も深められた。

チ 第八週

(22)変化ある場所を利用する。
 もう予定した活動も一通りすんだ。最近はまったくけんかする子もなく、切符の買い方も、電車の乗降も無理なくできるようになった。たまにルールを守らないなどの子がいても、互いに注意したり、こうやるんだよ、と教えてやったりして、先生の手をかりないでも大半の解決はできるようになった。
 もう目の届かないところへやっても完全だと認めたので、屋上へ上がった。そこで電車ごっこを始めた。いつの間にかいなくなった組がやってきて、電車で教室まで行って来たと言う。翌日は教室と屋上が駅になった。階段や廊下の曲がり角も駅になった。廊下を歩く指導をこの際みっちりやろうと試みたのである。
 
 長いきれいになった廊下に白墨で線を引いてはきたなくなる。どうしよう。線を引かなくても右側をうまく歩けばいいかな。駅だけ書いて線路なしでやろう。こうして、ついに全校廊下を使わせた。
 駈ける子があったら大変、騒がしい組があったら困る。他の学級の勉強のじゃまにならないようにと十分気をつけることにした。それでも初日は三人の先生から尻をもってこられた。三日目にはほとんどなくなった。交通道徳は電車のなかより、道路より、まず廊下からであると思うが、今までそれがなかなかうまくいかなかったことであった。

(23)電車に乗っておつかいに行くとしよう。
 「先生。久しくままごとしないわね。」という子がだんだん増加してきた。「電車ごっことどちらがいい。」と聞けば、すぐに、「電車ごっこ。」と言う子は大部分であるが、平行してままごともたまにはやった方がいいかな、と思った。両方やりたいね、と水を向けると、いつもよく問題を解決するIが、「電車に乗ってままごとやりに行けばいいね。」と言う。Jが、「それじゃあ、店屋を作ってよ。そいで、電車に乗って買いに行けば。」と、名案が出る。

 三学期になったら、お客様ごっこをやらせようと予定していたわたしは、お客様ごっこに電車ごっこを併用すればよいなと思った。その小手調べにやってみようと思い、校庭の片隅に、できるだけ遠くにはなして、家庭グループを三軒作った。その近くに駅を作る。駅から家へ道をつける。駅前道路で交通整理と仕組んだが、これは、子どもがあまりに散ってしまうので、交通量が少なすぎて交通巡査があきてしまった。ままごとの組は久しぶりだがよかった。


3. 終末

 だいたいこの辺で、電車ごっこを終わることにした。三学期にはお客様ごっこにして、この電車ごっこをおおいに活用することに決めた。


4. 評価と反省

イ 評価

 私は毎日の電車ごっこが終わるたびに、よく問題を解決した子、よい態度をとった子を記帳した。この電車ごっこの成果についても考えさせられる主なものを総括すると、

(1) けんかはなかなか絶えないものだとつくづく感じた。ほんの些細なことで瞬間的にやってしまう子も二、三ある。同じようなけんかの仲裁、けんかをしないようにする工夫を何十回繰り返したことか。

(2) 運転手になるのはいやだという子には、人に文句を言われるのがいやだが、実はやりたいのだという子と、まったくやる気がない子とある。前者は解決ついたが、後者の場合は、人の先頭に立つのはいやだ、人の尻にくっついていれば満足だというのである。こういう子に自主性をもたせることは、とてもむずかしいことだ。

(3) 右側通行というのは、困難なことだ。右と左とをすっかり覚え込んだが、それと右側を歩く行動とは一致しない。初めのうちは、こっちが右だ、違うそれは左だということがあったが、それはいく日もたたずに解決したが、すっかり分かっているはずなのに、左を歩いてしまう。無意識でも右が歩けるというところまで修練しなければ、これは解決できないだろう。この子たちは左を歩くという習性はもっていなかっただろうのにこうであるから、大人の右側通行の困難さを偲ぶことができる。

(4) 興味ある活動には、ともかくよく熱中する。ほおっておいてもどんどんやろうとする。けれども、興味のない子に興味を持たせようとするのは実に困難なことだ。この期間の終わりまで、あまり興味を持たなかった子が残ったのは淋しい。

(5) 電車ごっこによって、乗り物の名やはたらきを理解させるというような目標は、あまりうまく達せられない。ところが、紐で拘束されるために、友達と仲良く行動しなければ成り立たないというわけで、人間関係の態度を養うという指導のチャンスはほとんど十二分に得られる。
     かようなことから、一般に、ごっこの単元活動は、知的な理解を主とする単元にはもっとも不向きなように思う。この問題を解決することによって何と何を覚えさせようということは、ほとんど能率的に効果的にうまくいきそうもない。ところが、問題を解決することによって、こういう生活態度を養い、こんな場合の生活処理の技能をつけようというには、低学年ではこれほどよい単元活動はないと思った。しつけが悪い場合、児童が粗雑な場合などには、できるだけ、ごっこの活動を多くしたらよいのではないか。

    だから、社会科の単元は低学年では、理解事項を少なくし、態度・技能を多く目指し、高学年では、理解・技能が主となるよう仕組むべきではないかと思った。

ロ 反省

 教室で、ひらがなを何回教えても、かみくだいてやっても、どうもうまく覚えられない。この子には、記憶力が全然ないのかなと思われるような子がある。そういう子が、電車ごっことなると、前日のこともくわしく知っており、機微をうがった行動をすることがある。そういう子が、わりあいよく問題を解決することもある。
 時に三人ばかり、教室での成績は中以下とみられる子が、「先生。こうすればいいよ。」と、それこそ、鮮やかに、ずばりと解決してくれるのには驚嘆する。その反対に、国語や算数はすばらしくよくできる子が、ごっこになるとさっぱり振るわないで、凡々の行動しかとれない。「どうすればよかったのかな。」と反省を求めても、「どうしようかね。」と思考を促しても、さっぱり反省してくれないのである。こういうのは、一、二の特例ではなくて、ざらに出会ったことであった。

 そこで私は、電車ごっこには劣等生はないものだということを、この活動を通してもっとも強く感じた。教室で振るわない子でも、ごっことなるときわめて自主的に振る舞うことができるのだ。この子たちが、国語や算数にもこれだけの興味をもちえたら、必ずや相当の成績を上げるであろう。してみると、劣等というのは、能力のすべてがそうだという問題ではなくて、この活動に興味や発達が適しているかどうかという問題であると思われる。

 さらにつきつめていくと、記憶能力と人生の生活問題解決能力とは相当に違うもので、違う場で養われるものだと気づく。そして、記憶することが苦手な子でも、相当の解決能力をもっているものだと信じたい。

 私はさらに人生を幸福に迎えさせるためには、いずれを重んずべきかを云々したいのである。両々相まってという観念の遊戯から脱出して、真に現実の土台に磐石の建設を図りたいものである。私たちが日々接している学級社会の暮らし方をよくし、能率のよい勉強ができるような態度を養い、人生を幸福にすることに貢献する子は、前者に多いのではないかと述べて、この記録の結びとする。


にほんブログ村 教育ブログへ

 我が父の実践記録は今回で終了です。ご愛読、ありがとうございました。次回は、わたしの考察を掲載します。どうぞ、よろしく。
 ところで、『記憶能力と生活問題解決能力とは、違うもので、違う場で養われる』ということについては、わたしもかつて記事にしたことがあります。下記にリンクしましたので、どうぞ、お読みでなかったら、ご覧ください。

 2月13日  思考と知識と

 それでは、今日も、1クリック、お願いできますか。


人気blog ランキングへ
 
 こちらも、どうぞ、よろしく。

    温故知新(8)へ続く。

rve83253 at 23:34│Comments(2)TrackBack(0)社会科指導 | 教育観

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by きゃる   2007年01月19日 18:50
生活問題解決能力…今で言う「生きる力」のことでしょう。
教育再生会議 「第1次最終案」に
「ゆとり教育の見直し」に向けて授業時数を増やす案があるそうですが、
豊かな人間性や社会性をはぐくむための時間増であってほしいですね。
ペーパーテストの平均点が上がったところで、
美しい心がなければ 「美しい国、日本。」 はつくれないと思います。
2. Posted by toshi   2007年01月19日 23:41
きゃるさん
 おっしゃる通り、今なら、「生きる力」ですね。かつて、こういう実践があったことを通し、これからの教育のあり方を考えていきたいと思います。
 『学力とは何ぞや。』これを考えることも大切ですね。今は、ペーパーテストの点数という考えが主流になりつつありますが、これでは、日本の将来は暗いといえそうですね。少なくとも、現代の心の荒廃を救う学力観でありたいと思います。
 今後ともよろしくお願いします。

コメントする

名前
URL
 
  絵文字