2007年01月25日

課題と過大4

9ff7a94e.JPG ある年、我が校は、国語の研究発表会を行った。わたしは、そのとき、5年生担任。壺井栄さんの石うすの歌をとり上げた。

 授業終了後、二人、見知らぬ教員が、まだ子どもがいるうちに、わたしのところへ来て、言わずにはいられないといった感じで言ってくれた。

「toshi先生。よかったですよ。もう、感動しました。子どもが育っていますね。石うすを回せなくなったおばあさんの心情を語った子など、実に奥の深い読み取りをしていました。」
「そういう子が大勢いましたね。子ども同士の話し合いで価値を深め合うことができている授業で、いい勉強をさせていただきました。」

 この二人の教員の話は、子どもたちも聞いていた。聞きながら、うれしそうにしていたっけ。

 上記、おばあさんの心情に迫る発言をした子の発言内容は、残念ながら、記録が残っていなくて忘れてしまった。しかし、その発言していたときの様子は、今もよく覚えている。

 ゆっくりゆっくり、一語一語をかみしめるように、話した。声は小さかったが、よく聞こえていた。ときどき胸をつまらせ、声が出なくなることもあった。級友の何人かは、『Aさん。大丈夫かな。最後まで話せるかな。』といった感じで、心配そうに見つめていた。そのうち、感極まって、涙声になってしまった。話し終えたとき、思わずうなづいている子が何人もいた。

 その後の、研究討議でも、おほめいただく言葉が多かった。研究授業で、こんなに、ほめられることはめったにない。たいがいは、反省の方が多い。それがふつうだ。わたしは、感動の極にいたと言っていい。


 
 ところが、ところがだ。数日後、匿名の手紙が届いた。

 題がついていた。『課題と過大』。

 文面は皮肉に満ちていた。

1. 子どもが作る学習課題。子どもは自分が思ったことなら、何を言ってもいい。そういうことのようだが、おお風呂敷を広げ過ぎていた。子どもの発言も活発なようにみえて、実は這い回っていた。話があっちへ行ったりこっちへ行ったりした。
2. もっと、教師が仕切らないと、目標達成もまどろっこしくなるのは必然だ。
3. 発言できなかった子は、学習に参加していたのかどうか分からない。お客さんになっていた子もいたのではないか。ボオッとしている子もいた。

 そんな趣旨だった。

 わたしは怒りの感情がわき上がってきた。匿名はないではないか。これでは、反論のしようもない。

 『這い回っていた。』と言われれば、それは、一時そういうときも確かにあった。でも、話し合いが停滞しているとして、すぐわたしが出てしまえば、それは子どもが作る授業という雰囲気をこわしてしまう。『ああ。少し、授業がかったるくなっているな。』と思うようになって、『この点はどう。』『さっき、Bさんの言ったことと関連するかな。』などと言って出るようにするのだ。出方はいろいろあるだろう。臨機応変だ。

 『目標達成がまどろっこしい。』と言ったって、こっちは、それがいけないこととは思っていない。『子どもが自らの力で目標達成するのだから、すばらしいではないか。』と反論したいところだ。

 『ボオッとしている子』と言ったって、こんなのは、主観の問題。冒頭の、『感動した。』と言ってくれた方々は、絶対そのようには思っていないだろう。

 この匿名の先生は、研究討議に参加していた。そのことは文面から分かった。それなら、なぜ、その研究討議の場で、それを言わなかったのだろう。卑怯ではないか。


 授業の評価というのはむずかしい。何をよしとするかについては、ほんとうにいろいろな考え方がある。特に国語研究会は、その傾向があるようだった。


にほんブログ村 教育ブログへ

 匿名は卑怯だと言いながら、このブログは、匿名ですね。すみません。
 でも、卑怯なことだけはしたくないと思っていますから、どうぞ、よろしくお願いします。

 初任者や、初任者のクラスのことを書いていることが多いものですから、彼らに迷惑をかけたくないという思いで、匿名にしています。ご理解ください。

 では、今日も、1クリック、お願いできますか。

人気blog ランキングへ
 
 こちらも、どうぞ、よろしく。

rve83253 at 01:54│Comments(10)TrackBack(0)指導観 | 国語科指導

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by hirarin   2007年01月25日 04:01
匿名のその手紙。全く頭に来ますね。
匿名と言うことから考えて、「ただの嫌がらせ」でしょうね。素晴らしい授業を見てしまった「ねたみ」とでも言うのでしょうか。

私は、まだそんな匿名の手紙をもらったことはありませんね。だってそれだけ多数の方が見に来られたような研究会で授業をしたことがないですから。
協議会はいつも、全員発言してもらっていました。

そう言えば、昨年から多くの研究会におじゃまさせていただいていますが、「協議会で必ず発言する」は実行しています。
よく「しゃべりすぎ」と言われます。以前はよく「後悔」していましたが、最近は言葉を選びつつ、「いいことが言えたかな」とも思えるようになってきました。「話すこと」で自分の実践と理論に責任が持てます。これからも様々な授業から勉強していきたいと思います。
2. Posted by くるみ   2007年01月25日 09:17
匿名であるがために向き合えない悔しさ、苦しさ・・・ただ、ブログは、匿名であるけれど、向き合える点が違うと考えました。

toshi先生の授業=学びの主役は児童

学校での学びは、同じ年のフラットな関係から
生まれる学び合い、支え合い、高め合いという
自律的なものであって欲しいと願っています。
先生という他者への他律的な学びであって欲しくない。

人として
目上の方を敬う、労わる
年下の方に心を配る

社会人として
立場の上下を重んじる

このような部分である意味、他律的な関係も大切です。

自律と他律
両輪がうまく回ってこそ成熟した社会を担う大人
が育つのだと思っています。

自分の言いたいこと、思ったことを言う
仲間の言いたいこと、思ったことを聞く

両者を融合させて考えを深め、想いを確かめ、
みんなで未来へ向かう。

今回のtoshi先生の授業からそんな光を見出しました。



3. Posted by task_force_japan   2007年01月25日 19:18
toshi先生の授業こそが「ゆとり教育」そのものでしょう。
4. Posted by Hideki   2007年01月25日 21:03
匿名・記名はちょっとおいときます。匿名でしか自分の意見をいえない弱さと、そんな弱い意見を拾うことの意義もあるとは思いますので。

課題かどうかというのはあくまでもその人の主観です。ただ、その「指摘」が大切だと思うのです。その指摘事項を、きちんと認識しているか。それを分析・整理・評価しているか。

その匿名の指摘事項は、すでにToshiさんも認識して、しかも分析評価していらっしゃる。もちろん、それを再検証することも大切ですが、その上でも「問題ない」と判断したんだから、その指摘事項はもうここまで、ということなんだと思うのです。

勿論、その先の「本意」を深堀するためにも、匿名じゃなく記名で意見表明してもらったほうが、絶対にいいのですけどね。

ただ、それが指摘じゃなく、誹謗・攻撃になっているのだったら、もう問題外。相手にすることすら時間が惜しい、ということなんだと思うのです。
5. Posted by toshi   2007年01月26日 04:57
hirarinさん
 以前は、研究会等、出やすかったのです。25年くらい前ですが、我が校は、全国小学校社会科研究協議会(全小社)の会場校となりました。そのときは、全国から1200名くらいの参観者をお迎えしました。
 最近は、ほんとうに少なくなりました。不審者騒動とか、学級を空けての出張への批判とかにより、教育を取り巻く環境が大きく異なってきたのです。
 『研究会では必ず発言する』。すばらしいですね。やはりこの気持ちが大切と思います。おっしゃるように、発言は、それだけ責任を伴いますし、自他の実践力の向上につながると思います。
6. Posted by toshi   2007年01月26日 05:07
くるみさん
 おっしゃる通りと思います。現状は、教員による他律的な指導、それに伴い、受身にならざるを得ない子どもの学びがたくさんありますね。教育再生会議もこの点を問題としてくださるなら、提言に大賛成するのですがね。
 《人として目上の方を敬う、労わる、年下の方に心を配る。社会人として立場の上下を重んじる。》
の教育も、自律的な学びは可能と思います。
 人としてのよさ、すばらしさの面を引き出す指導と言ったらいいでしょうか。
 他律を全否定する気持ちはまったくありませんが、それは、緊急なとき、つまり待てないとき、歩調を全校でそろえなければならないときなど、限定されるべきというのが、わたしの考えです。
7. Posted by toshi   2007年01月26日 05:11
task_force_japanさん
 貴ブログを覗かせていただきました。お互いに連携し合いましょう。学ばせてください。
8. Posted by toshi   2007年01月26日 05:28
Hidekiさん
 おっしゃる通りですね。匿名かどうかが、第一義的に重要というわけではないですね。このブログの世界も、同様と思います。と言うのは、この世界でも、誹謗、中傷のたぐいは、ないわけではないですものね。
 匿名かどうかが重要なのではなく、そのなかで、いかに信頼関係、学び合う関係を築くことができるかなのだと思いました。
9. Posted by つぼみ   2007年01月29日 20:10
この記事を拝読して、考えていました。
 わたしは、専門が国語なのですが、やはり、そうした思い(目標達成に関して)にとらわれることがないとはいえないからです。
 toshi先生の授業ではあてはまらないのですが、子どもたちが活発な意見を交換していても明らかと思える読みの誤りを感じることもありました(著名な研究校でも)。学力にいろいろな考えがある昨今、やはり特に国語では、そこを意識していないと危険だと感じているのです。
 でもやはり、子どもたちが言葉をつなげて、思いを通わせて、作品に対峙してほしいですね。そういう学習集団にしたいと、もちろん、心掛けております。
 匿名でしか言えない人の貧しさを感じつつ、今も教師主導を望む人たちは「学び合い」をそういう気持ちで見ているのだろうな、と、さびしい気持ちになることがあります。
10. Posted by toshi   2007年01月30日 21:21
つぼみさん
 《子どもたちが活発な意見を交換していても明らかと思える読みの誤りを感じることもありました(著名な研究校でも)。》
 明らかと思える読みの誤りは、子ども同士の話し合いによって、克服されることが理想ですね。そうならない場合は、担任が出ることも必要でしょう。
 ただ気をつけなければいけないことは、『正しく主題をとらえたうえで、なお自分の思いはそれとは違うと言うとき、『この子は、正しく読み取っていない。』と判断してしまうことがないかということだと思います。
 それから、間違った読み取りは、読みを深める契機となることが、けっこうあるのですね。
 いずれにしても、間違った読みが、そのままやり過ごされることは、あってはならないですね。
 

コメントする

名前
URL
 
  絵文字