2007年02月19日

教育再生会議の提言に思う。(4) 教育の地方分権を4

d58231e6.JPG わたしのブログに合わせてくれたわけではないだろうが、一昨日の朝日新聞朝刊一面は、『(教育再生会議提言の)教委見直し はや暗雲   再生会議「国関与」案 中教審から異論噴出』との見出しだった。

 中教審は、今、『突貫審議』とある。わたしのブログを読んでくださるわけではないだろうが、わたしも風雲急を告げる感じがしている。そこで、今日もこのシリーズを続けたい。


 新聞記事によれば、
『文科相が教委に是正の勧告や指示ができるよう、(教育再生会議が、)国の権限を強めるべきだとした点に、(中教審等の)批判が集中している。』のだそうだ。

 さらには、地方からの批判も記事にしている。
しかし、読ませていただくと、地方当局には、なぜこうなったのかの理解が、不足しているように見える。

 『いじめ自殺多発』に関し、学校のみならず、教育委員会の対応が、あまりにお粗末だったからではないか。いじめを認めるかどうかで二転三転したり、学校隠蔽体質と言われたりして、ずいぶん醜態をさらした。
 また、先に記事にしたことがあるが、『教育委員会には独自の施策がない。今や、国の出先機関に成り下がった。』などというテレビの批判もあった。
こうしたことに関して、まずは、自ら反省することが必要なのではないか。

 

 ところで、わたしは、教育再生会議が、以下のように提言している点は、全面的に評価する。

『現在、教育委員会は、必ずしも組織として十分に機能し、国民の期待に応えているとは言えません。その存在意義を原点に立ち返って見直すとともに、教育委員会の閉鎖性、形式主義、責任感のなさ、危機管理能力の不足、委員の高齢化、名誉職化といった弊害を取り除かなければなりません。』

『教育委員会は、地域の教育に対する責任と住民への説明責任を負う。このため、教育委員一人ひとりの活動状況や、人事案件を除き個別案件への賛成・反対の結果を公表するなど、教育委員会での議論や学校における問題の情報公開を徹底し、住民や議会による検証を受ける。また、教育委員会の活動状況を原則として毎年議会に報告する。』

 ただ、再生会議の提言自体は、分かりにくいのだ。『国の関与を求めている。』のかと思うと、『分権もおし進め、〜』とするなど、いったいどちらなのだと言いたくなる。


 わたしの主張は、明確だ。お金の面は除き、他は、すべて、地方分権をおし進める必要がある。
 教育委員会制度は堅持しなければいけない。
 そして、終戦直後戦後教育発足時の、本来の教育の姿に戻す必要がある。

 それは、
1. 教育委員公選制に戻す。
2. 名実ともに、教育委員会を、地方行政からも独立させる。
3. 国は、義務教育費については、現状どおり。学習内容については、地方の独自性を大切にし、大綱程度にとどめる。
4. 大学入試のシステムは、廃止する。希望者はできるだけ入学させ、卒業を厳しくする。
 以上だ。


1.については、教育再生会議はまったくふれていない。『教育委員会は、地域の教育に全責任を負う機関として、その役割を認識し、透明度を高め、説明責任を果たしつつ、住民や議会による検証を受ける。』と述べているだけだ。

 しかし、思う。上記のねらいを達成するには、公選制が一番よいのではないか。

 教育委員公選制は、敗戦直後は、行われていた。しかし、当時は、まだ国民になじみがなく、また、みんな日々の生活に追われていたのが実情で、投票率は大変低かった。そうしたなかでは、特定の団体の候補が当選しやすく、国から見た場合、教育はそういう勢力に牛耳られる傾向にあった。
 それを嫌った時の政府は、これを任命制に移行させた。

 だけれど、今はどうだろう。当時とはかなり違うのではないか。国民の教育への関心は大変高い。危機感すらもっている。
 候補者も、どのように子どもを育むかなど、熱く語りかけるのではないか。『人間性豊かな子どもを育みます。』『徹底反復訓練学習をとり入れ、入試学力を高めます。』『〜のようにして、いじめをなくします。』など、教育施策をめぐって論戦を戦わせれば、町は白熱するだろう。

 このようにした方が、いじめをなくす方策にしても、『いわゆる学力低下問題』をどうするかについても、教育委員会の諸施策は、豊かな展開が期待できる。少なくとも、教育再生会議が指摘する、『(教育委員会の)閉鎖性、形式主義、責任感のなさ、危機管理能力の不足、委員の高齢化、名誉職化』は防げるのではないか。


2.について、

 直接選挙にしてこそ、教育の地方行政からの独立も実質的に意味を持つ。現在は、建前は独立だけれど、首長の任命制だから、実質はどうだろう。地方行政に従属している側面はないだろうか。

 また、長い間の任命制により、我々教員も、それに慣らされてしまった。わたしのようなことを言う教員は少なくて、いや、いないかもしれない。そして、『教育長は、教育の専門家、つまり教員出身者が務めないとだめだよ。教育現場のことを知らない者がやっているのでは、教育はだめになってしまう。』などという論がまかり通っている。

 文民統制『シビリアンコントロール』は軍事に関する用語だが、このことは、教育にも言えるのではないか。わたしはそう思う。『文民』を、『その道の素人』と、わたしは理解したいのだ。


3.について、

 このようにして、地方の教育施策の独立性を強める。教育行政の責任は、当然住民に対し、直接的に負うことになる。

 そして、実はこれが一番大きな点だと思うのだが、子どもたちの学習内容も、地方が決定するものとする。

 現在も制度的にはそうなっているのだが、いや、実は、市民の方々は案外ご存じないのではないかと思うが、現在でも、教育課程(学習内容も含む。)は、学校が決めることになっている。現に、わたしたちは、『子どもの思い中心の学習』にすべく、実践力を高め、努力してきた。そして、当時の文部省の教科調査官も、学校の主体性を大いに認め、ほめ、励ましてくれた。


 しかし、一般的な傾向としてはどうか。教員自らが、教科書にあわせ、平準化を求めてきたきらいはないか。
 
 一例を述べる。
 全国指導主事会議なるものがあるらしい。
あるとき、我が地域の、ある指導主事がそれに出席した。そこは、ある米どころの都市だった。そこで社会科の授業を見ることになる。
我が地域の指導主事は、驚いた。米どころなのに、米作りの学習は、まったくそことは関係のない、他地域をとり上げて学習していた。

 そこで、現地の指導主事に質問をした。
「こんな米どころなのですから、自分たちの地域をとり上げて学習すればよいではないですか。資料も得やすいでしょう。それに、子どもたちは、より切実性をもって学習するのではないですか。」

 すると、そこの指導主事は、不思議そうな顔をして、
「そんなことをおっしゃいますが、教科書は、ここをとり上げていないのですよ。仕方ないではないですか。」
と言ったという。

 このようなことを聞くと唖然としてしまうが、いかに学校が作成するはずの教育課程が、形骸化しているかが分かる。


 もう一つ。戦後教育発足時、コアカリキュラム、つまり、子どもの生活中心の学習が強調され、実践されたことは、すでに温故知新シリーズで記事にしてきた。この、子どもの生活中心の学習は、地域、学校の独自性のある学習内容を認めてもらわないと、実践がむずかしいだろう。
 子どもが学校に魅力を感じ、力を合わせたり心を響き合わせたりすることに喜びを感じ、生活に即して知識・技能を身につけることに充実感を抱く。そんな学校生活でありたいと思うのだ。

 もとより、一担任の恣意的で独善的な授業を認めるものではない。それはあくまで、学校として、実践、研究するなかで、認められるものである。


4.について、

 今の大学入試のあり方が、諸悪の根源だと思う。だが、教育再生会議は、このことにほとんどふれていない。
 ただ一点。『3 教育システムの改革 (4)高等学校、特に大学院』のなかで、
(3)大学入試などの「入口」重視のみならず卒業認定などの「出口」重視への方向性
と述べているだけだ。

 この強固な受験体制が、3.で述べた学習内容の地方化を進める上で、大きな障害となっている。各地で学習内容が異なるのでは、入試に有利、不利といった現象が起きてしまうからだ。

 すなわち、受験のために、全国画一的な知識重視の学力観が横行する。こうした意味では、中央集権化を目指す国の方々の方針と、国民のニーズが完全に一致してしまっている。

 見よ。このブログにしても、教育ブログならぬ、受験ブログの繁栄ぶりを。


 そして、もう一つ、現在の入試体制には、どうしても言わなければならない点がある。

『人間性豊かな心をはぐくむ教育』『子どもの思い(生活)中心の学習』『豊かで深い思考力を養う教育』。これらによる成果も立派な学力なのだが、受験体制の下では、軽視される。

 これらがどれだけ、子どもの心をむしばんでいるか。それは、わたしがあらためて、稿を起こす必要もないくらいだ。今の日本社会が、それを証明してしまっている。
 わたし自身もかつてそれを経験した。教育の危機が叫ばれるが、それはここに主原因があると断言する。


 教育再生会議の方が、『塾廃止論』を唱えた。わたしは笑ってしまった。わたしも若いとき、そう思った時期があった。
 塾廃止は極論だが、この、受験体制にかかわって唱えられたのだろうか。もしそうだとすれば、大手進学塾に関する限り、受験体制の改革を行えば、わざわざ塾廃止などと言わなくても、自然に淘汰されていくと思う。

 そして、同会議の言う、『大学入試などの「入口」重視のみならず卒業認定などの「出口」重視への方向性』については、

 『入口』は軽くしてやるのだ。『出口』重視だけでよい。


 以前も記事にしたが、子どもの成長期においては、その時期、その時期において、その時期にふさわしい、その時期にしかできないことがあるはずだ。離乳期に始まり、歩行を開始する時期から、自我形成期、自己を客観視できる時期、自立すべきときなど、いろいろある。学校生活も、その時期にしかできないことを学ばせ、常にその時期を人間形成上の充実した時期にしてやりたい。

 
 同会議の方々は、この点を、どう考えているのだろう。


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 次回は、再生会議が提唱する、高校での奉仕活動の必須化にふれたいと思います。わたしは、奉仕活動体験の必要性は感じています。しかし、高校に義務付けるのは、・・・、どうかなと感じています。

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1. 教育に関する「年齢」の意味  [ 教師になり損ねた男の教育日記 ]   2007年02月22日 02:15
高校ってどうよ??シリーズと題して、教育システムを社会的に書いてみました。 大学のことも少しふれていますので、よかったら「高校ってどうよ???」シリーズをごらんになってください。。。

この記事へのコメント

1. Posted by Hideki   2007年02月21日 22:16
こんちは、骨太な内容ですね
でもご指摘のとおりに思います。

現状は、一面的・画一的・教条的な教育なんだと思う

中の上の人材を量産するには適していたのでしょうけどね

これからは多面性と深さのある人材が欲しい
考える力をもった人材が欲しい

今の教育は考える力を育むのではなく、知識を覚えているだけなんだから

あと、大学も門戸を開放し、広く人材を募り、その中から「成果」のある人を評する場所になるべきですね。
受験勉強から卒業して、ほどなくして、もう一度「本当の勉強」をしたいという人も絶対にいます。

何といっても従来の「狭き門」では、この少子化の時代では大学も成り立たないはずですから。入学することにステータスを与えるのではなく、卒業の仕方にステータスを与える仕組みにならなければいけないと思う。



2. Posted by 教師になり損ねた男くぼみち   2007年02月22日 02:11
5 いつも興味深いお話、ありがとうございます。
私も同感です。大学は入り口を軽くし、出口を重くするべきでしょう。全くその通りです。
私は過去のBlog記事(高校ってどうよシリーズ リンク張っておきました。)にも書いたのですが、戦後の終身雇用・年功序列システムを基本とした小学校までに至る社会再生産システムが時代とともにあわなくなってきたことを認識するべきなのでしょう。。。
それは、当然中央集権的なシステムから地方分権システムへの移行をも意味していると思います。
今日も興味深いお話、ありがとうございました。
3. Posted by toshi   2007年02月23日 02:30
Hidekiさん

《現状は、一面的・画一的・教条的な教育なんだと思う。》
 残念ながら、多くの実態としては、認めざるを得ないですね。
《中の上の人材を量産するには適していたのでしょうけどね。》
 皮肉なことに、こういうことをしてはいけないという意識を、多くの教員はもっていると思うのですが、結果的には、こういう教育をしてきてしまったということでしょうね。
 現状でも、打開の努力はできるのですが、風土的なものもあるのかもしれません。

 
4. Posted by toshi   2007年02月23日 02:37
《受験勉強から卒業して、ほどなくして、もう一度「本当の勉強」をしたいという人も絶対にいます。》
 Hidekiさんも、いつだったかおっしゃっていましたね。
 わたしも似たことがあります。受験数学の時代は、数学は苦手でした。でも、教員になってからは大好きになりました。受験数学のときは、解くのが苦しかったのですが、教員になってからは楽しくなったのです。
 受験地獄からの解放。それしかないですね。今の教育問題を打開する道は。
 
5. Posted by toshi   2007年02月23日 02:42
くぼみちさん
 TB、ありがとうございました。
《戦後の終身雇用・年功序列システムを基本とした小学校までに至る社会再生産システムが時代とともにあわなくなってきた〜。》
 おっしゃる通りと思います。
 わたしは、それとともに、ソビエトの崩壊の影響も大きいと思っています。
 『日本は、世界でもっとも成功した共産主義国』と、外国人が揶揄したこともありますね。そういう労働者主権の部分がかつてはあったのですね。このこともいずれ記事にしようと思っています。
 どうぞ、よろしくお願いします。

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