2007年02月22日

両性のこと(2) 『男らしさ』『女らしさ』4

5cee849a.JPG 先に、わたしは、当ブログ『人権教育(9)両性の違いは?』の『コメント7番』において、『子どもの内面からにじみ出る『男らしさ』『女らしさ』は、『原始女性は太陽だった。』のときからあったのだと思う。』と述べた。

 その後、どうしてもこの記述に補足したい思いでいた。そこで、今日は、そのことにふれたい。


 一つ、論を進める前に確認しておきたいのだが、この問題は、長い間の男性優位社会という側面で語られることが一つと、もう一つ、性による役割分担の固定という側面で語られることが一つと、以上、二つの側面で語られることが多いのではないか。 そして、それは、双方をひとくくりにして、あってはならない古い考え方が、今も横行しているというように語られていることが多くないか。


 もちろん、『男らしさ』『女らしさ』を強調することが、人権的な意味で、問題性を抱えているという、そういう側面があることは認める。しかし、認めたうえで、もう一つ、角度を変えて見てみたいのだ。


 話は急に変わるが、

 わたしは、運転免許を23歳のときにとった。もうかれこれ、40年の運転歴になる。

 その、免許をとるため、自動車学校に通っていたときのことである。女性も数多く通っていた。

 仮免試験を受ける段階があるわけだが、それに落ちてばかりいる女性がいた。それを見て、わたしの指導教官が言った。
「あの娘(こ)は、力がなくて、ハンドルが切れないのだよ。それで、すぐ脱輪してしまう。かわいそうだな。もっと力をつけないとな。」

 そう。このころの車は、パワーステアリング装備がなかったのではないか。あるいは、あったとしても、今ほどその技術が進んでいなかったのではないか。ハンドルを切る動作に力が必要だった。


 ちょっと話が脱線するが、今の若い人は、たとえ運転免許を持っている人でも、『チョークボタン』を知らない人が多いのではないか。冬の寒いとき、エンジンのかかりにくさを防ぐため、混合気を一時的に濃くする装置である。走行して暖まってきたのに戻すのを忘れると、確かエンストしたのではなかったかな。

 その後、これが自動化されると、それは、『自動チョーク』と呼ばれたが、やがて、『自動チョーク』の車ばかりになると、この言葉は死語になってしまった。そうして、その存在が人々から忘れ去られることになる。

 これと同じで、『大型車の運転は女性には無理』という常識もなくなった。今、そんなことを思う人はいない。これはなぜか。ひとえに、科学技術の進歩による。


 また、話を変える。

 哺乳瓶、粉ミルクが開発される以前、男性による子育ては、基本的には、無理な部分がどうしてもあった。

 確か壺井栄さんの小説にあったと思う。

 お母さんは、お乳が出ない。そこで、息子が隣村まで行って、ヤギのお乳をもらってきて、それで赤ちゃんを育てるという、そういうお話だ。何という名のお話だったかな。

 ことほどさように、哺乳瓶、粉ミルクが開発される以前は、苦労したのである。この時代、女性にしか子育てのできない部分があったのだ。


 つまり、科学技術が発展する以前、性による役割分担固定は、人類の必然だったのである。そうでないと、生き延びることができなかった。


 ここで、断っておきたいのは、男性優位社会まで、人類の必然だったという気はない。男性優位でないと人類は生き延びることができなかったなどという気はさらさらない。つまり、両者は、はっきり区別して論ずるべきなのである。


 もう一つ、確認の意味でふれる。

 先の当ブログのコメントに、わたしは、『原始、女性は太陽だった。』の時代にふれた。

この時代も、性による役割分担は固定していた。それは明白だろう。そして、固定したままで、女性は太陽だったのである。


 さて、ここで、『男らしさ』『女らしさ』の話題に戻る。

 どうだろう。前述の通り、『男らしさ』『女らしさ』は、その双方をごっちゃにして論じられていないか。そこに、この概念のとらえが複雑で、観念的で、ときには、感情的になっているのを感じる。


 整理すると、こうならないか。

 男性優位社会から論じられる、『男らしさ』『女らしさ』論は確かにある。そして、これは、現代においては、否定されなければならない。『教えよう。しつけよう。』とする部分だ。

 しかし、両性の役割固定から来る、『男らしさ』『女らしさ』の概念。これは本能に近い部分であって、子どものころからその内面にじみ出る、『男らしさ』『女らしさ』は、これは、認め、尊重されなければならない。


 ああ。誤解されそうだ。

 科学技術の進歩によって、両性は、役割固定から開放された。しかし、その歴史は、たかだか、ここ数十年のことである。

 それに対し、両性の役割固定は、人類の誕生以前、動物の時代からあったもので、これは、数千万年というような、そんな単位で語られるものである。

 一説では、進化は、三十万年単位だという。

 とすれば、子どもの内面からにじみ出る『男らしさ』『女らしさ』は、これからもずっとあり続けるだろう。両性が役割固定から解放されたとしても、そんなに簡単に消え去るものではない。
 
 
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 やがて、科学技術の進歩は、女性を、出産からも開放するでしょう。そうなると、完全に、両性は、役割固定から解放されますね。
 しかし、その後も、子どもの内面からにじみ出る、『男らしさ』『女らしさ』は、あり続けるでしょう。

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rve83253 at 04:02│Comments(6)TrackBack(0)自己啓発 | 人権教育

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この記事へのコメント

1. Posted by きゃる   2007年02月22日 20:55
「子どもを産む点で、女は、男である自分より優れている。」
なんて、若い頃考えていました。
優劣で比較するなってばかげていると、最近考えるようになったのですが、…。
男女には、ある視点で比較すると違いがあるのははっきりしています。
問題は、「ある視点」のみを「男」「女」と呼ぶのでなく、
資質や性格等をひっくるめた人間全体像として「男」「女」と呼ぶところです。
だと、思います。
2. Posted by toshi   2007年02月23日 01:52
きゃるさん
 何となく、おっしゃることが分かるような気がします。
 本記事は、『男らしさ』『女らしさ』を、男性優位社会の産物としてのみ見る見方があるようなので、それに対しての見方として、書いたつもりです。
 おっしゃるように、どちらがすぐれているかという問題ではないですね。
3. Posted by きゃる   2007年02月24日 06:54
「男性優位社会の産物として」でなはい、
本来の「男らしさ・女らしさ」もあるという考えにを、
否定します。
(と、言いたかったのですが、かなり遠まわしで
分かりにくかったようです。すみません。)

「子どもらしさ」「日本人らしさ」「教職員らしさ」
「らしさ」はいろいろなものに付けられますが
「男」と「女」つけるべきではない、と考えます。
「男」には、全体(あるいは女性)と比較して「男」であるがゆえに
求める理想とか、美とか、「よさ」とかがあるのでしょうか。
ハンドルを切るのに必要な力を持っていることが
男性の「よさ」?
子どもを産んで、母乳を与えることが女性の「よさ」?
「らしさ」がつくことで、
ある、一面での役割分担なのに、
資質や能力まできめつけられたような気がするのは、
私の「偏見」でしょうか。
4. Posted by toshi   2007年02月24日 10:54
きゃるさん
 うううん。こまった。前にも言ったように、いろいろな考えがあっていいと思います。
 でも、わたしの記事に対する部分は、わたしにも言わせてくださいね。
 わたしは別に、『男』として、男の理想とか、美とか、よさを書いたつもりはないのです。そういう立場を超えて、客観視して書いたつもりなのですが、理解してもらえるかなあ。
 母乳とか、ハンドルは、かつて、性による役割分担が必然だったということ、それが科学技術の発展によって、克服されて今があるということ。それが言いたくて、例示したに過ぎません。それを、「よさ」と結び付けてはいないつもりですがね。
 科学技術の発展は、自然界における進化と同じように考えています。これは必然です。本記事において、恩恵とは考えていません。(ごめんなさい。きゃるさんは、そんなことおっしゃってはいないですね。)『進化』した今、性による役割固定は、認めるのがおかしいと思っているのです。
 でも、そうですか。『男らしさ』『女らしさ』はいけませんか。進化のレベルで、考えているのだけれどなあ。
 そして、教育現場にいる者としては、子どもの内面からにじみ出るそれは、尊重していかなければいけないと言っているのです。
5. Posted by きゃる   2007年02月24日 16:30
否定する意見を書いてしまい、申し訳ございません。
失礼にもかかわらず、お返事をいただき、恐縮しております。
おそらく、このブログの訪問者のなかでは私の考えが突飛だと、
うすうす感じながらも、書かせてもらいました。
「否定します」なんてえらそうなこと書いてしまいましたが、
toshi先生のご意見も尊重し、
今後もコメントしていきますので
よろしくお願いします。
6. Posted by toshi   2007年02月26日 00:31
きゃるさん
 とんでもないです。お詫びいただく必要などないです。こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。

1.男女に違いがあることは、はっきり認識しながらも、それは違いであって、優劣ではないこと。
 以前、『間違いは正さなければいけないが、違いは尊重しなければいけない。』と書いたことがあるのですが、まさに、男女もそれだと思うのです。

2.次に、男女とはいうが、けっして、その、両性だけではないということ。『男』『女』とくくってしまうと、それこそ、間違いが起きる可能性があること。

3.そう考えると、やはり、最終的には、一人ひとりの子どもを、しっかりみて(見て、観て、視て、看て、診て)いくことだと思いました。

 今回、このシリーズ(人権教育の8・9・10も含む。)を通し、そのようなことを確認させていただきました。また、学ばせていただきました。ありがとうございました。

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