2007年03月12日

記念の授業(2) 道徳 その14

e7e70308.JPG 3月5日に、道徳の自作教材文を掲載した。そして、先週の水、金曜日、この教材文を使って、初任者の2クラスで、わたしが授業を行った。今日はその様子を記載したい。

 そのまえに、まだこの教材文をお読みでなかったら、それをまずご覧ください。

     記念の授業(1)


 本授業のねらいは、『おばあさんの小学校時代のなつかしい思い出が、大人になってからも強く生きようとする力になっていたことが分かり、そのような心の豊かさにあこがれる心情を養う。』である。
 この点、前回、記事にしたとき、『ねらいは愛校心』と申し上げた点について、お詫びして訂正したい。『敬虔』とする。


 また、2クラスで行った授業であるが、両クラスとも、似た流れで学習が展開した。

 そこで、ここでは双方の流れを合体させ、あたかも一クラスの流れであるかのように記述させていただきたい。
 ただし、最後の場面(次回になってしまいます。)だけは、両クラスで現実にあった具体的な事例をとり上げているので、双方とも記述させていただきたい。

 
 最初、わたしから、子どもたちになげかけた。

 「みんなで楽しく勉強したり、力を合わせたりしてきたこの学級も、あと10日ほどで、編成替えになってしまうのだね。そのような今、何を大切にしたいかを聞いてみたい。」

 発言では、友達、友情、家族、生き物、命(たましい)、思いやり、思い出などがでた。ここでは単語の発言が多く、やや観念的というか、うわっつらだけの発表になってしまったような気がする。

 単語でなかったものは、
「一生懸命がんばっている習い事なので、さらに上手になりたいから、大切と思っている。」
「このクラスがとても楽しかった。だから、このクラスにいられたことがとてもよかったと思っている。それで、このクラスが大切。」
「友達がたくさんできたし、仲良くすることができたから、友達の思い出。」
くらいだったか。

 「はい。それではね。今から、一つのお話をみんなに配ります。このお話には、一人のおばあさんが登場します。そのおばあさんも大切にしてきたものがあるのです。何を大切にしたかを考えながら、読んでくださいね。」
 そう言って、教材文を配布した。
 読みのめあてを提示してから、お話を読むようにさせたい。そういう思いだ。

 配布しようとすると、子どもから声がかかった。
「あれ。いつもの道徳の本ではないのだね。」
「そう。今日のお話は、プリントにしたよ。なぜかと言うとね。これは、実際にわたしが体験したことをお話にしたものだからです。
だからね。このお話に出てくる『わたし』は、(指で自分を指し示しながら、)このわたしなのです。」
「ええっ。ほんとう。」
「じゃあ、お話を書いたのは、toshi先生ですか。」
「はい。お話を書いたのも、この、わたしです。」
 子どもたちは感心したように笑う。いっぺんに興味をもったように感じられた。


 わたしが全文を読む。食い入るように文面を見つめる子どもたち。読み終わると、いっせいに拍手が起きた。ふだん、それほど拍手などする学級ではないだけに、子どもたちの温かな気持ちが伝わってきた。

 「さあ。それでは、おばあさんが大切にしてきたものは何か、1分くらいたったら聞くから、もう少し考えてね。」
すぐ指名してしまうと、なかなか発言できない子が出そうなので、しばらく考える時間をとった。

 そして、指名。
「人を大切にしている。」
「つけたしで、仲良しだったCちゃん、Dちゃんや先生の思い出を大切にしている。」
「学校って言ってもいいのではないの。今は、A小学校って言う。」
「思い出。卒業しないで転校してしまったでしょう。しかも、遠いブラジルへ行くことになったからね。日本での楽しかった学校の思い出が忘れられなくなった。」
「ブラジルへ行ったから、日本の思い出って言ってもいいんじゃない。」
「それらはみんな一緒になっている。日本と、A小学校と、Cちゃん、Dちゃんは、みんな一緒で一つのなつかしい思い出になっている。」
「おばあさんは、その思い出を忘れないようにしようと思っている。」
「苦しいときにこそ思い出す、思い出だと思う。」

 わたしはここで、『苦しいときにこそ』と板書し、先の『楽しい思い出』『なつかしい思い出』を、チョークで指しながら、
「そうか。苦しいときにこそ、楽しかった日本のA小学校のことが、思い出となって、忘れられなくなっていくのだな。」
と言った。

「そう。思い出がね。苦しいとき、このおばあちゃんを支えてくれたの。」
「日本にいたとき、Cちゃん、Dちゃんと仲良しだったでしょう。だから、忘れられなくてね。Cちゃん、Dちゃんもがんばっているだろうから、わたしもがんばろうって思ったと思う。」
「ううん。ちょっと違うのだけれど、Cちゃん、Dちゃんは、日本にいるから、別に苦しくないでしょう。でも、おばあさんにしてみれば、Cちゃん、Dちゃんが励ましてくれているとは思ったと思う。苦しいときに。」
「最後の方に、A小学校の思い出が、苦しいとき、『生き抜くバネ』になったって書いてあるでしょう。だから、思い出がなければ、生きてはいかれなかったかもしれないからね。大切な思い出だったと思う。」
「思い出が命っていう感じ。」

 ここで、わたしは、冒頭の子どもの発言の板書『命(たましい)』と、思い出とを、矢印で結んだ。最初の観念的な言葉がだんだん意味を持つようになる。また、『生き抜くバネ』も、色チョークを使って板書した。

 そして、「『生き抜くバネ』って、どういうことだろうね。」と、なげかけた。
「おばあさんを支える力っていうこと。」
「賛成で、おばあさんを思い出が支えてくれる。思い出があるから、苦しくても、がんばれる。」
「やがて楽になるときもあるだろうから、それまでがんばろうという気持ちになったのではないかと思う。」
「思い出が慰めてくれる。」

 「わかった。でも、苦しかったのは、この息子さんが生まれるころまでだったのだな。それからは、まあ、くらしは落ち着いてきたって書いてある。少しは楽になったということだ。ところで、それからも、おばあさんは、思い出を大切にしたのかな。」

「大切にした。とっても苦しくて、つらかったでしょう。朝早くから子どもが働くのだから、苦しかった。その苦しさは、息子さんが生まれてからも、忘れられない。」
「もう、今のぼくたちの歳のときは、ブラジルにいたのだから、苦しい。なかよしの友達を忘れられなかったと思う。」
「苦しかったから、生活が楽になっても、日本のことが忘れられない。」
「CちゃんやDちゃんに会いたいなあって、ずっと思っていたと思う。」
「60年後にやっと会えると思って、日本に来たのだね。」
「ずっと日本に行って友達に会いたいと思っていたから、日本の思い出は忘れなかったのだと思う。」
「でも、日本に60年ぶりに帰ったら、町はまったく変わっちゃって、道もわからなくなったでしょう。」(『道はなくなっちゃったのだよ。』の声あり。)「そう。なくなっちゃったでしょう。それに、CちゃんやDちゃんにも会えなかったからね。がっかりしたと思う。」

 これは、学習を深める契機となる発言だ。ふつうは、担任が発問して、子どもがそれに答える形で、授業は深まっていくのだろう。しかし、これでは、子どもは受身でしかない。
 この子の発言は、わたしの発問に答えたものではない。友達の思いを聞きながら、自分の思ったことを言葉にしている。
 このような発言も認めること。それが、子どもの手によって、学習を深めることを可能にする。

 ただし、最後の、『がっかりしてしまう。』というのは、『そうではない。』と物議をかもす。
「がっかりはしていないよ。最後は、『満足した表情で帰った。』って書いてある。」
「toshi先生。ほんとうにおばあさんは、満足そうだったのですか。」

 これはすごい。わたしが書いたお話ということで、わたしに質問が来た。
 授業後、分かる。この子は、せっかく60年ぶりに日本に帰ってきたのに、『町はまったく変わってしまっている。』『なかよしの友達にも会えなかった。』『学校名も変わってしまっている。』ということから、『がっかりしてブラジルに帰ったに違いない。』と思ったようだ。
ところが、『満足そうに』と書いてあるから、筆者であるわたしに疑問をなげかけたのだった。そうしてみると、学習を深める契機となった上記『がっかり』発言も、読みが浅いのではなくて、信じられない思いが深かったのかもしれない。

 わたしは、『うん。満足そうだったよ。』と、文章よりは、ややぼかしたかたちで答えた。
「そうだよ。だって、写真を見ているとき、息子さんが、おばあさんに、『写真であっても、こうしてなつかしい先生や友達に会えたのだから、ほんとうによかったね。』って言っているでしょう。よかったって思っているのだからね。それと、おばあさんは、目にうっすら涙がにじんでいたのだからね。満足したのではないかな。」
「ぼくも満足したと思う。迷ったけれど、学校に来ることはできたし、だいたい60年もたっているのだから、友達に会えるとは思っていなかったと思う。だけど、写真も見られたしね。よかったという思いだったと思う。」
「それに、toshi先生の手をにぎって、何度も、『ありがとうございます。』って言っているでしょう。だから、やっぱり満足した。」


 わたしはこのとき、もう少し学習を深めたかった。それは何だろう。分かっていたはずなのに、思い出せない。
 示範授業なのになさけなかった。

 今なら分かる。

 『それこそ、おばあさんにとっては、ただ単になつかしいだけの思い出なのではない。もう、A小学校を訪ねずにはいられないくらいの、自分にとっては、それこそ、命を支えてくれたくらいの思い出であって、学校生活における先生や友達との生活は、そのくらいの重要性を持っているのだ。
そして今、まさに、ぼくたち、わたしたちも、それくらい、大切な、価値ある生活を、学校で、教室で、日々、送っているのだ。』
 それを子どもの言葉で押さえたかった。しかし、それができなかったのは残念でならない。

 上記に、次の4行のようなやり取りがある。
「最後の方に、A小学校の思い出が、苦しいときに、『生き抜くバネ』になったって書いてあるでしょう。だから、思い出がなければ、生きてはいかれなかったかもしれないからね。大切な思い出だったのだなと思う。」
「思い出が命っていう感じ。」

 せっかくここまで子どもたちは発言していたのだ。だから、ちょっと、わたしが、『そうか。思い出が命に匹敵するのか。思い出ってただなつかしいだけではないのだね。わかった。じゃあ、どういう気持ちで、おばあさんは、A小学校へ60年ぶりに来たのだろうね。』くらい言えば、子どもは、そこまで自力でたどり着いたかもしれない。


 それでは、この記録もだいぶ長くなった。終末部分は、次回、掲載することにさせてください。


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 これまでも、道徳などの授業の様子を、このブログに掲載したいなと思うことはありました。しかし、教材文は、著作権の問題があり、転載できません。教材文が分からなければ、授業の様子だけ書かれても、理解困難になってしまいますよね。それで、掲載しにくい部分がありました。
 しかし、この点、今回は自作ですから、まず、問題はありません。

 そこで、このブログをお読みの先生方へ。

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   (3)へ続く。


rve83253 at 02:45│Comments(2)TrackBack(0)授業 | 道徳指導

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この記事へのコメント

1. Posted by 梶浦   2007年03月12日 10:59
授業はこびの適切な先生は、
「言葉受け=子どもの発言や表情の汲みあげ」
「言葉がけ=汲み上げた子どもの言葉や姿に対する言葉がけ」
「言葉分け=子どもの発言や、その流れについても見取りと評価」が上手いと感じます。子どもとの対話関係で、「子ども発の学び」を学習のねらいに招待していくという感じでしょうか。授業ビデオを見返すと、拾える発言が後から見つかることも多いですね。オンタイムで、子どもの発言と授業はこびをモニタリングしている先生方の頭脳は凄いなぁ、といつも感心してしまいます<m(__)m>。
2. Posted by toshi   2007年03月12日 22:16
梶浦さん
 《子どもとの対話関係で、「子ども発の学び」を学習のねらいに招待していく》
 いやあ。参りました。いい言葉ですねえ。ほんとうにそうですね。学ばせていただきました。
 『子どもとの対話関係』『子ども発の学び』『学習のねらいへの招待』どれも皆、大切な言葉です。
 あらためて思いました。子ども発の学びがあったのに、学習のねらいへ招待することができませんでした。
 次号に書きますが、『教師発』になってしまったなあと思います。
 いくつになっても反省です。

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