2007年03月14日

記念の授業(3) 道徳 その24

1eac9e11.JPG 『子ども同士が話し合うなかで、子どもが子どもの言葉で価値ある概念に到達する。』そうすることができなかったと述べた。

 それは残念だったが、それはそれ、本記事では、終末の場面がどう展開したかを、述べてみたい。


「実はね。このわたしも、このおばあさんほどではないが、小学校生活の忘れられない思い出があります。50年ほど前になりますがね。
わたしの学校で、マラソンのリレー、つまり駅伝のようなものですね。そういうのが行われていました。

 わたしは走るのは、遅い方なのです。しかも、そのときは、風邪をひいていて、熱も少しありました。だから、『いやだなあ。走りたくないなあ。』と思っていたのです。でも、リレーだから、走らないわけにはいきません。やっぱり、2人の子にぬかれてしまいました。『ああ。みんなになんて言われるかな。』そういういやな気持ちでいたのです。

 そうしたら、Cという友達が、
「toshi。風邪ひいているのにがんばったじゃん。速かったよ。」
と言ってくれました。それは、それは、涙が出るほどうれしくなっちゃってねえ。だって、ぬかれて、ふつうなら、いやなことを言われてもふしぎじゃないところでしょう。そういうときに、そう言ってもらえて、・・・、だからね。忘れることができないのです。」

 そうしたら、子どもたち。
「すごいね。toshi先生。友達の名前まで覚えているのだ。」
「励ましてくれたからでしょう。覚えているのは。」


 さて、ここからは、A学級、B学級と、具体的な事例を交え、分けて書いてみようと思う。
 
 まずは、A学級。

「その、わたしの話と同じようなことが、このクラスでもあったよね。」
「ええっ。」
「ほんとう?」
「うん。あったよ。だって、最近、このクラスのみんなは、お友達同士、とってもやさしくなっているよ。そういう思いやりのある言葉をよく聞く。」

「じゃあ、言うね。・・・。言う前に、これは、Dちゃんのことなのだけれど、Dちゃんにとっては、あまりいい話じゃないから、言う前にあやまっちゃうね。ごめんね。・・・。Dちゃんは、体の調子があまりよくないというか、そういうことで、学校へ来るのがどうしても遅くなっちゃうでしょう。・・・。最近は、早くなっているよね。それは、みんなが、Dちゃんにやさしいからだと思う。・・・。これは、前、遅くなっちゃったある日、Dちゃんがうれしくなっちゃうような一言をかけてやった子がいるじゃん。」

 そうしたら、Eちゃんである。
「ああ。分かった。それはね、Fちゃんだよ。Fちゃんがね。『Dちゃん。大丈夫? 今日は早いじゃん。』て、言ったの。」
「おお。すごい。覚えていた子がいるか。もう、何ヶ月も前のことだぞ。・・・。それは、もう、感動ものだな。すごいよ。」
 また、また、いっせいに拍手がわき起こる。

ところが、楽しい。かんじんの、言われたDちゃんは覚えていないというのだ。Dちゃんは覚えていなくて、関係のないEちゃんが覚えている。もう、みんな大笑いだ。でも、温かな雰囲気に包まれ、ジーンとくる瞬間だった。

「ねえ。すごいでしょう。わたしの子ども時代と同じようなエピソードだと思わない。」
「分かった。友達に何かいやなことを言われないかなと思っているときに、逆に、励ましてくれたんだ。」
「そうだね。うれしくなっちゃうようなことを言ってくれた。」
「そうだ。そうだと、50年たってもちゃんと覚えている。このお話のおばあさんが、60年たっても覚えているようにね。・・・。そうすると、Dちゃんもね。覚えていないということだが、今日、こうして、話題にしたからね。これからはずっと覚えていてくれるのではないかな。・・・。そのくらい価値あることなのだ。」

 どの子もうれしそうだった。幸せそうな笑顔、決意を感じる緊張した顔、そんな顔に満ち溢れていた。


 次は、B学級。

 このクラスは大変だった。初任の担任が、やさしく子どもに接し、ほとんどしかることはなかった。また、ほめるということもあまりなかった。確かに子どもとはよく遊んでいたが、だんだん自己統制のきかなくなった子どもは、授業中でも、奇声を発したり、立ち歩いたりするようになった。
 一番荒れた時期は、勝手に教室をとび出す。わけもなく友達に暴力を振るう。長身の担任は、その子を、抱きかかえ、校長室に連れて行くなどということもあった。その子は、そうして抱きかかえられているとき、意外にもにこにこして、うれしそうだった。4年生だが、幼児語がとび出すこともあった。


 その担任と、以下のようなやり取りをしたことがある。

「もっと、子どもをほめなければだめだよ。授業中立ち歩く子なのだから、席に座っているだけでもほめる。」
「4年生なのに、・・・、ですか。そんなの当たり前のことだと思うけれど。」
「そりゃあ、ふつうの4年生の場合は、当たり前でいい。でも、Gちゃんは、明らかに、先生の愛情を求めている。それは抱っこしてほしい。声をかけてほしい。ぼくの方を向いてほしい。そういうことだ。だから、それに応えないと、もっともっと荒れてしまうぞ。」
「でも、Gちゃんにだけ、そんなことをしたら、逆に、わたしに声をかけてほしくて、席を立ち歩く子がふえてしまうのではないですか。」
「そんなことはない。・・・。ないよ。・・・。じゃあ、立ち歩く子がふえるかどうか、ためしにでもいい。やってみたらどうだ。」

 たしかに、もう一人だけ、立ち歩く子が出た。Hちゃんだ。この子は、幼児語こそ出なかったが、ミニGちゃんという感じで、回数こそ少ないが、似た行動を示すようになった。しかし、それだけだったのは幸いだった。

 他の子は、彼ら、Gちゃん、Hちゃんに対し、だめな行動に対しては、『だめでしょう。そんなことしちゃあ。』『やめなさいよ。』毅然としてそういうものの、そういうとき以外は、きわめて友好的だった。だから、いつも級友とともにいることができた。


 担任は、その後、見事に自己改革を遂げた。今では、特別に、Gちゃん、Hちゃんをほめる必要がないくらい、2人は、落ち着きを見せるようになった。奇声を発しない。暴力も振るわない。席を立ち歩くことも、・・・、いや、これは、たまにあるな。しかし、学級は見事に立ち直った。もともと、友達へのやさしさはあったわけだから、今はもう、それに満ちあふれている。

 担任は言う。
「学級経営のよしあしを決めるのは、やはり担任なのですね。子どもではないということがよく分かりました。来年は、何年生を受け持つか分かりませんが、4月からもう、がんばってみます。」


 ここでは、それを語るのが趣旨ではないので、このくらいにしておこう。道徳に戻る。

 上記、わたしの小学校時代の回顧談をしたあと、
「このクラスだってね。友達同士のかかわりがすごく豊かじゃないか。ほんとうに、みんな楽しそうに学級生活を送っている。・・・。だからね。3週間くらい前だったかな。この中の、ある子から、すばらしい言葉がとび出したことがあるよ。

「なあに。」「だあれ。」期待に満ちた顔、顔、顔。

「担任のI先生が、何かでみんなのことをほめていたときだ。『そう。ぼくたちは、4月のころと比べると、すっごく成長した。』そう言った子がいたじゃないか。」
「ああ。わかった。Gちゃんだ。」
「そう。そうだよ。Gちゃんがそう言ったでしょう。だから、思わずうれしくなって、わたしは、後ろから、言ったじゃないか。」
「・・・。」
「『うん。認める。』ってね。ふだんは黙って授業を見ているだけだけれど、あのときは、思わず叫んじゃった。」
「そう。そうだったね。」
 多くの子がうれしそうに、うなずく。

「みんなはね。どの子ともなかよくできる。だめなときはだめと言いながらも、なかよしだ。だから、このおばあさんが、Cちゃん、Dちゃんをなつかしがるように、みんな、60年たってもこのクラスをなつかしがるに違いない。そして、苦しいとき、こまったとき、その思い出が、生き抜くバネになるような、そんな思い出をたくさん今作っている。そう思えるのだ。それがすごくうれしい。」


 さあ、また、両クラス共通の学習の流れに移る。

「最後にね。聞きたい。もうすぐ、5年生だ。どんな5年生になりたいと思いますか。」

「もう高学年なのだから、けじめを大切にする。」
「いい思い出をたくさん作る。」
「60年たっても忘れないような思い出だよ。」
「そう。生き抜くバネになるような思い出。」
「お母さんもね。このクラスは、いいクラスって言ってくれているの。だから、ずっとこのままでいたいのだけれどね。それは無理だから、新しい友達をたくさん作る。」
「下級生にもやさしくして、いろいろなことをやってあげて、喜ばれる5年生になりたい。」
「もう、2分の1成人式も終わったから、半分大人だからね。もっともっといろんなことが分かるように、がんばる。」


 授業が終わったあと、A学級のDチャンがわたしのところに来た。
「toshi先生。ありがとうございました。わたし、そのことを思い出せなかったけれど、でも、ほんとうにいいクラスだなって、思いました。」
「そうか。それはよかった。きっとね。もうこれからは忘れないと思うよ。それとね。あまりいいことではないのに、名前まで出しちゃって、ごめんね。」
「うううん。そんなことない。みんな、やさしいのが、とってもうれしいから。」

 この子は、ちょっとわけがあって、保健室登校、不登校にもなりかねない子だ。でも、もう、大丈夫だろう。


 最後にふれておきたいことがある。

 前記事での反省の反映なのだが、やはり、終末段階は、わたしがかなりでてしまう結果となった。
 でも、それは、

○ 道徳では、『最後は、教員の説話などをとり入れ、子どもたちが感動や学習のねらいに浸ったまま終わるのが望ましい。』とされていること。
○ わたしは、担任ではないのだから、たまにしか授業をしない。子どもが、十分心的に受け入れると判断できるときは、大いに語るべきではないか。

でも、これはむずかしい。反省と、両様、相まっている。指導者がこれでは、初任者は迷ってしまいますね。すみません。


 にほんブログ村 教育ブログへ

 わたしは道徳が専門ではないので、これ以上は分からない。どなたか、ご指導いただけたら幸いです。

 先にも書いたように、校長時代は、卒業期を控えた今ごろ、卒業生との記念の授業として行っていたものです。次回は、6年生の授業の様子に、少しふれたいと思います。発達段階の違いが読み取れるのではないかと思います。

 それでは、今日も、一クリック、お願いできますか。


人気blog ランキングへ
 
 こちらも、どうぞ、よろしく。

   (4)へ続く。


rve83253 at 06:12│Comments(0)TrackBack(0)道徳指導 | 学級経営

トラックバックURL

コメントする

名前
URL
 
  絵文字