2007年03月19日

PSJ渋谷研究所Xさんに触発されて4

84da249b.JPG 先の、『パワフル算数!』の記事に対してPSJ渋谷研究所Xさんが、大変すてきな記事をTBしてくださった。感謝している。
 今日は、そのことにかかわり、コメントしたくなったこと、勉強になったことを中心に記事をまとめてみたい。


1.《発展的に学ぶというのはこういうことだろうと思う。必ずしも発展的教材を用意するということではないはずだ。》

 おっしゃる通りだ。発展というのは、一般的には、『学習内容の発展』でしかとらえられていない。しかし、それだけではないはずだ。
 子ども主体の学習が行われていれば、必然的に学びは発展する。いわば、『思考力』の発展である。それこそ大事にしていきたいものだ。

 本記事『パワフル算数』の最後に書いた、子どもの発言、
「1mのものさしがあったでしょう。長いものを測るのには、それを使ったほうが楽だったでしょう。それと同じで、2m34cmって言った方が、計算が楽になる。」
は、まさに、思考力の発展、しかも、既習内容を完全に理解して、『生きて働く知識』として身につけていることが感じられる。
 この子のイメージとしては、2mと言ったとき、頭の中には、1mのものさしがある。それを、2回使って測る姿もあるのではないか。34cmといったときは、おそらく、30cmのものさしがあるだろう。それと、楽な計算の仕方とを結び付けている。測る姿と計算が、一体となっているのである。

 正しい意味の『発展』とは、教える側が用意する教材を超えて、子ども自らが、創り上げていくものと言っていいのではないか。


2.《結局、ぼくらは「学ぼうとする主体を育てる」しかないのではないか。

 まさにその通り、わたしたち教える側は、教え込むのではない。教え込もうとしたって、教わる側が、学ぶ姿勢を持っていないのでは、その子にとっては、無駄な時間でしかない。『自ら学ぼうとする子ども』を育てることが、わたしたちの仕事であるはずだ。
 
 国は今、『教えられた知識量』を問うことにきゅうきゅうとしている。そして、学校現場でも、たぶんに、教え込み、また、形だけ自ら学んでいるかのように見えるやり方が横行しているのではないか。
 それが、教育の危機を生み出す原因のすべてとは言わないが、無関係ではあるまい。

 よくこうした授業を、『名人芸』という人がいる。そういう言い方は、『コアカリキュラム』の時代からあった。
 しかし、そうではない。初任者がやっているのである。もちろん、初任者だから、未熟だ。記事にもした通り、『あっちでわー、こっちでわー』全体として何を学んでいるか分からないというときもある。
 しかし、昨年度、わたしが担当した初任者の今年度を見ると、もうそれは見事に克服されている。彼らの課題は、『もっと子どもの学びを深めるには、どう支援したらよいか。』なのである。

 『名人芸』と言えば、わたしには、『○マス計算』の推奨者の授業の方がよほど、名人芸と思われる。昨日もテレビでやっていた。
 悪いが、わたしは、画像から、北○鮮を連想してしまった。あれで、人間性豊かな人間の育成が図れるとすれば、その方がよほど名人芸だ・・・と思う。


3.《こうやって考える力を磨くこと、異なるレベルの理解をぶつけ合って次のステップ(どの考え方が理に適っているか=合理的かを判断する)へ進む体験を重ねた子どもたちは、自分には理解できないあやふやな「ロジックもどきの言説」に盲目的に頼ろうとすることはしないに違いない。少なくとも、そのように育つために有効な体験だろうと思える。》

 まず一点。『異なるレベルの理解をぶつけ合う。』ことについて。

 よく、初任者に限らずだが、『学級には、よく理解できる子もいれば、なかなか理解ができない子もいます。どのレベルに合わせて授業はしたらいいですか。』という質問を受ける。そのつど、わたしは、『どのレベルにも合わせなければいけませんよ。』と答える。相手は驚いた顔をされるが、本『パワフル算数』が、その答えとなろう。
 ただ課題はある。この学級、「理解の遅い子をばかにする雰囲気」はないが、「相手をやっつけようとする雰囲気」は感じることがあるのだ。やはり、『自分とは違う考えであっても、その考え方を分かろうとする態度』は養っていきたい。


 もう一点。『自分には理解できないあやふやな「ロジックもどきの言説」に盲目的に頼ろうとすることはしない。』について。

 わたしは、この箇所を読んだとき、むかしの、サリン事件を思い出した。有名大学に入る力は持っていても、判断力がまるで育っていないということを、当時ものすごく感じた。

 わたしはここで、あることにひらめいた。と言うのは、これまで、
『思考力を養えば、判断力は身につく。思考力と判断力は一体だ。
 生きるうえでの自己決定を迫られることは多いわけだが、豊かな思考力を育むことは、自己にとって、家族にとって、市民にとって、もっと言えば、日本にとって、人間にとって、自分はどう行動したらよいかを決める上で、適切と思える判断力が身につくのだ。』そう思っていた。
 
 しかし、人が悪事をなすとき、『思考力を養っても、完全犯罪を目指す方向で、その思考力を使うこともあるのではないか。』と言われたら、反論するものを持ち合わせていなかった。そのため、これまで、上記、思考力、判断力一体論を主張する気になれなかった。

 それについて、このPSJ渋谷研究所Xさんの記事がヒントをくださった。
『初等算数であっても、そこで科学あるいはロジカルであろうとすることを学ぶ姿勢は成長を促すに違いない。』『自然科学は道徳やしつけの根拠になりはしないとぼくは思う。しかし、それは、科学やロジックという「方法論」がぼくらの道徳や倫理(あるいは道徳観、倫理観)に対して何の働きも持ち得ないということではない。』

 なるほど。子どもの、『科学的であろう。ロジカルな態度を身につけよう。』という姿勢を養うことは、けっして、道徳や倫理と無関係ではないのだ。
 完全犯罪を目指す方向で思考力を使うことはあるだろうけれど、それは、真の思考力なのではなく、自分自身の生活や生き方とは無縁な世界で、知識のみ身につけた者がなす業なのではないか。そう思えるようになった。

 なお、このことは、今、断定はしない。これからも考えてみようと思う。


4.『世界は玉石混淆だ。どれほど手を尽くしても間違いは残る(自分も、他者も)。すべてをあらかじめ理解しておくことはできない。世界は中途半端なのだ。世界のすべてを善意に基づくと考えることも、逆に悪意に基づくと考えることも正しくはないように。そして、歴史は繰り返す。人類はある日突然飛躍的に賢くなったりはしない。しかし、こうしたことは必ずしも「世界は(あるいは人類は)でき損ない」であることを意味しないだろう。これは多様性のひとつの側面でもあるのだから。』

 これはほんとうにそう思う。
 ブログに限らないが、あまりに、こうだ、ああだという決め付けの論調が多いように思われる。しかし、ほんとうは断定できる価値観は少ないはずだ。
 人間は多様性を尊重しなければいけない。せいぜい、『よりまし』という態度で、議論に参加したいものだ。『パワフル算数』の授業も、そういう態度の形成を目指している。

 どの解き方も正解である。解き方は多様である。言えることは、便利な解き方はどれか、楽な解き方はどれか、応用のきく解き方はどれかくらいのものではないか。

と述べ、
 しかし、公立学校の教育論となれば、話は別である。教え込みか、自ら学ぶ姿勢を養う教育かは、これは、譲れない。だって、これまでさんざん述べてきたように、これは、民主主義教育の根幹にかかわるのだもの。

 ドイツが、言論の自由を認める国家でありながら、ナチス擁護論は認めないのと似ている。


5.『パワフル算数の子どもたちが、同じような体験を積み重ねて行けることを願わないではいられない。実際にはそれは困難だろう。すばらしい教師とだけつきあって生きていくことはできない。』

 そう。おっしゃるように、人が多様であるように、教員も多様だ。現実の子どもたちは、義務教育だけでも、多くの教員から多様性を学ぶことになるのは必然だ。

 でも、でもだ。こうして、全精力を傾けて、価値あるものを追い求めた経験は、記憶に残る。記憶に残れば、すてきな思い出になる。そして、すてきな思い出は、『生き抜くバネ』になる。
 だから、PSJ渋谷研究所Xさんがおっしゃるように、『〜。中途半端を中途半端なままで受け入れることができるようになるかもしれない。そこにも意味があると理解できるだけの下地ができるかもしれない。』でも、とりあえずよしとしようではないか。


6.最後に、PSJ渋谷研究所Xさんがふれていないことを一つ。

 よく、一般の有識者から、こういう声が寄せられる。
「子どものうちから、思考力育成などと言っているから、議論ばかりで何も身につかない子どもができてしまうのだ。子どものころは、徹底的に、基礎・基本を叩き込めばよい。思考力はある程度、知識が身についてからでよいのだ。」
「知識もなく、いきなり思考力と言ったって、思考するもとがないのだから、ナンセンス。」
これは、案外、一般受けのする論調のようである。どこかの都知事も、そういうことを言っていた。(あっ。いけない。都知事は一人しかいないか。)

 この、パワフル算数の授業は、その常識に真っ向から切り込むものである。
 一体人間は、いくつまでは叩き込まれ、いくつからは思考力などという、そんな器用な存在か。叩き込まれた経験しかない者は、叩き込まれることしか知らないで育つから、受身の姿勢ばかり育ち、あとで思考力と言ったって無理なのだ。主体的な思考力、判断力などとは無縁な人格のまま、大人になってしまう。

 知識がいい加減であっても、思考力は養えますよ。思考力を発揮するなかで、知識がよりしっかりしたものになっていくのです。また、間違った知識にたどり着くような思考であっても、その思考の姿に感動してしまうことだってあるのです(小柴氏のお孫さんの話)。もちろん間違ったままでいいと言っているのではないですよ。試行錯誤が大切と言っているのです。

 『豊かな思考力が、生きて働く知識を身につけさせ、生きて働く知識が、さらなる思考力を養うことになるのです。両者は車の両輪ですよ。ともに育んでいくのです。』


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 今回、思いもかけないご意見をいただき、ほんとうに感謝しています。一般市民の方だと思いますが、『必ずしも、発展的教材を用意することではあるまい。』など、まるで、現場の教員であるかのような論調もいただき、すごいと敬服しています。今日は、つたない記事ですが、どうぞ、よろしくお願いします。

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rve83253 at 03:13│Comments(8)TrackBack(0)教育観 | 自己啓発

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この記事へのコメント

1. Posted by yoko   2007年03月19日 14:13
頷いたり、感嘆したり、反省したりしながら記事を読ませていただきました。

4番の《世界は中途半端なのだ。・・・あまりに、こうだ、ああだという決め付けの論調が多いように思われる。しかし、ほんとうは断定できる価値観は少ないはずだ。》
5番の《中途半端を中途半端なままで受け入れることができるようになるかもしれない。そこにも意味がある…》
まさに、常々私自身の心の内にある考え方だなぁと共感しました。

そして、『パワフル算数』のように普通の教科の授業の中に《自分とは違う考えであっても、その考え方を分かろうとする態度》を養っていける事に感嘆しました。toshi先生のブログに出会うまで、「算数の授業は、算数を勉強するもの」そんな考えしか私にはありませんでしたから。(続く)
2. Posted by yoko   2007年03月19日 14:14
(続き)
最後に、《知識がいい加減であっても、思考力は養えますよ。思考力を発揮するなかで、知識がよりしっかりしたものになっていくのです。・・・試行錯誤が大切》《豊かな思考力が、生きて働く知識を身につけさせ、生きて働く知識が、さらなる思考力を養うことになるのです。両者は車の両輪ですよ。ともに育んでいくのです。》
そうですね。反省です。勉強に限らず、普段の生活の中においても、まどろっこしくてついつい子供に正解を言ってしまっている自分に反省です。『試行錯誤』させなければだめですね。(自分もそうですが)そうする事で知識や経験が、血となり肉となる。ひいては人間に深みがでる。出すぎず、引っ込みすぎず、的確な誘導?ができるように親として勉強ですね。
(続く)
3. Posted by yoko   2007年03月19日 14:16
(長くなってしまいましたm(__)m)

子供に対する教育のみならず、ここに書かれている事は、大人にもあてはまるものだなぁという思いでいます。
いつも、そんな気持ちにさせて下さるtoshi先生に感謝です。
4. Posted by 亀@渋研x   2007年03月19日 17:42
弊サイトの記事をご紹介いただくのみならず、さらに掘り下げていただきありがとうございます。肯定的に話題にしていただいたばかりか、つたない抽象的な話に現場に立脚した具体性を与えていただいたことを感謝しています。
お察しのように私は教育関係者ではありません(二児の父でライターです)。でも、こちらの記事はとても示唆に富んでいるので愛読しています(^^;;
今日は、新しい記事を拝読して「伝えるとはどういうことか」「教える技術とはなにか」ということを考えさせられています(自分のこととしても、先生方のこととしても)。
しかし、簡単には書けそうにありませんので、書き上がりましたらまたトラックバックさせていただこうと思います。
これからも具体的な実践とそれにまつわるあれこれのお話を期待しております。
お邪魔致しました。
5. Posted by toshi   2007年03月20日 06:42
亀@渋研xさん
亀@渋研xさんのブログからは、とても刺激を受けました。触発されたのです。一つ進化させていただきました。そんな思いがしています。こちらこそ、お礼を言わなければなりません。ありがとうございました。
 具体的な実践については、これからも、折々に記事にさせていただきますが、わたしのホームページにも、数々掲載しています。もうお読みでしたら、ごめんなさい。本欄のわたしの名前のところをクリックしていただければ出ます。授業改善編です。
 また、姉妹ブログの、『小学校初任者のブログ』にも楽しくお読みいただけるのではないかと思う記事があります。
http://blog.livedoor.jp/rve83252/archives/2006-05.html#20060514 
5月14日『42円になったよ』の記事です。よろしければ、ご覧ください。これももうお読みでしたらごめんなさいね。
 また、そうでなくても、お時間のあるときご覧いただければと思います。
 今後とも、どうぞ、よろしくお願いします。
6. Posted by toshi   2007年03月20日 06:57
yokoさん
 お返事のコメントが逆になり、ごめんなさい。
 政治問題にしても、経済問題にしても、人間のやることですから、これが絶対正しいというのは、あまりないような気がしています。
 平和問題にしてもそうですね。こうすれば絶対安全、絶対平和と信じたいのですが、それとて、相手があることですから、『よりまし』という考え方で選択するしかないと思います。
 記事をまとめたあと、またひらめいたことがあったのです。
 記事の授業にしても、まだ今は、『相手をやっつけようとする雰囲気』はあるのですが、この段階にとどまっていると、たとえ学習内容的には価値ある学習ができたとしても、心の耕しという意味では、まずいのですね。
7. Posted by toshi   2007年03月20日 07:05
ここはやはり、記事にもしたように、(自分とは違っていても)相手の思い、考え方に共感したり理解したりしようとする(同意するという意味ではありません。)態度の形成をねらわないといけないでしょう。
 そうなって初めて、記事に書いた、『思考力=豊かな人間性に裏打ちされた判断力』となるのだと思いました。
 まだ、荒っぽい論理です。今後、しっかり考えていこうと思います。
 そして、yokoさんがおっしゃるように、この点に関しては、大人も勉強でしょうね。大人も子どももないと思いました。
8. Posted by MROK   2008年11月25日 01:00
OK

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