2007年04月01日

メールのやり取り(2)3

71c889b0.JPG 今日の記事は、いささか気がひける。

 前々号の往復書簡集(?)の続きなのだが、JPMさんからいただいた二通目のメールを掲載する。わたしの意見も掲載したいのだが、紙面(?)の関係で、今日は、これだけ。わたしの主張は、ほとんどないことになってしまった。いくらJPMさんのお許しをいただいているとはいえ、申し訳ありません。

 わたしの意見は、次回、掲載しますので、お許しください。


 まず、初めてご覧になる方のために、これまでの関連記事をリンクさせます。

    教育再生会議の提言に思う。(5) 奉仕活動必修化をめぐって

    メールのやり取り




 それでは、JPMさんのご意見をどうぞ。


 toshi先生。まずは、ご回答ありがとうございました。〜。

 やはり、学習者の内発的動機(=主体性、自発性)が鍵なのだと思います。これが醸成されぬまま社会奉仕活動をすることとなれば、百害あって一理なしだと思います。なぜならば、学習者がやらされているだけになってしまうからです。

 しかし、この自発性というのは、学習者が何かしら問題をもったり矛盾を感じたり必要性を認識したときに初めて生まれるものだと思うのですよね。だから、指導という形で一朝一夕に自発性が生まれるとは、ぼくには思えないのです。

 toshi先生の意見で、
《学級経営、児童指導だってそうではないか。係活動にしろ、委員会活動にしろ、縦割りの活動にしろ、『やりたいからやる』を超越して、やらせていただくことが、みんなの喜びとなり、そのみんなが喜んでくれることが自分の充実感、満足感、幸せ感になるという、そういうことを目標として成立するようになれば、すばらしい。》
とありました。

 確かにすばらしいと思いますし、これらの諸活動の目標、いや目的になるとすら思います。

 これらの諸活動は、自分たちの学校生活の中で、年間を通じて行われる活動です。
 そして、係や委員会といった組織のシステムや役割、必要性を子どもは把握しています。だから、子どもは自分の「役割」を充分に把握でき、その上で、「参加」することができます。これによって切実性も生まれるでしょうし、自分が何をすべきかを考え、判断することが可能になります。そのなかで、問題をもったり矛盾を感じたりすることで、徐々に主体性が醸成されていくでしょう。主体的な活動を繰り返すことが、『やりたいからやる』を超越していくことにもつながるかもしれません。

 どんな活動をするにしても、自分にとって切実性がなければ、そして、「役割」が把握され、積極的に「参加」しようとしなければ、自ら考えることができず、結局のところ空転してしまうのではないかと思うわけです。自ら考えること、これは教育において、人間形成において、重要な要素の一つでしょう。

 しかし、ここまで引っ張りましたが、「奉仕」という言葉は、辞書的な意味を引きますと、「1.つつしんでつかえること。2.献身的に国家・社会のためにつくすこと。3.商人が客のために安売りすること」です。
 特に、「献身」とは、「自己の利益を顧みないで力を尽くすこと」です。つまり、社会奉仕活動は、「自己の利益を顧みないで力を尽くすこと」となりましょうか。しかし、これが必修化されれば、成績のために一生懸命奉仕活動をやることもできます。

 もし成績をつけずに、「認定」するかしないかで評価するとしても、高校卒業のためにやることもあるでしょう。不純物(直接の自己の利益)が混ざる要素を、必修化はもっているわけですね。

 内発的動機がなければ、自己の利益のためにやっていると言われても仕方ないが、自己の利益のために尽くす行動は、奉仕活動ではない。では、内発的動機づけを行えばいいかといえば、授業の導入としていくら奉仕活動を奨励しても、必要性を説いても、動機をもつことは個人個人であり、それこそ内発的なものであるから、必ずしも動機をもつとは限らない。つまり、教育として行うには、限界があるのです。何でも教育でできると思いこむのは、傲慢だと思いませんか。できることとできないことをしっかりと区別することも大切だと思います。もし、内発的動機をもったと仮定して活動をすればいいというような割り切りをすれば、それは独善以外のなにものでもなく、教育論理としては破綻ですね。

 toshi先生の意見で、
《人間の心の弱さとして、そういうこと(見せつけ、酔いしれ)があるとした上で、そうした心には、共感の念を示してやり、その上で、『人知れず、自慢せず、こっそりとこつこつやっている子』の事例を取り上げ、その価値をうんとほめてやるようにします。》
とありましたが、取り上げ方が非常にむずかしいですよね。こつこつやる行動をほめるのではなく、その行動を起こしている思いをほめるのでもなく、何かに徹しながらも、自己陶酔から自分をもぎはなすことのできる強さをほめなければならないのですから。安易なほめ方をすると、逆にこつこつやることがえらいのかなと子どもは思ってしまうかもしれないですし。

 何かに徹することはむずかしい。しかし、徹したときの自己陶酔から距離をおくこともむずかしい。しかし、この態度(徹しつつ、自己陶酔を避ける態度)は奉仕の精神だと思います。これは、必修化して教え込めるほど、簡単な精神ではないと思います。それこそ、学校生活全体を通して(先ほどの諸活動などから)学び取っていくしかないかと思います。

脱線1.
 僕が小学校、中学校のとき、毎年夏休み中に学校の草取りをする日がありました。小学校のときはほとんど欠かさず出ていました。それこそ奉仕の精神からです。しかし、中学校は一度も出ませんでした。なぜならば、草取りにいくと、ボランティアをしたということで内申書に書いてもらえるからです。僕は、内申書のためにボランティアをするということに抵抗を感じたのです。いや、内申書に書く(≒評価する)ことで、もはやボランティアではないと思ったのです。奉仕は、評価されるためにやるわけではないのに、わざわざ評価することにしてしまえば、奉仕の精神を歪めることになると思うのです。現に、中学校3年生は、この草取りに9割近く参加していたらしいのですが、1.2年生は5割にも満たなかったと記憶しています。

脱線2.
 昨年の夏休みに、学芸員として博物館で実習していたときに、中学生が「3DAYS職場体験」ということで博物館に来ました。しかし、やらされている感たっぷりでした。目的意識はもっていなかったでしょうし、博物館が与える仕事も、お手伝い以上のものではなかったのです。しっかりとした「役割」が与えられて、その役割の中で自由に活動できるならば楽しさもあるでしょうが、あれでは、「労働」以外のなにものでもないと思えました。教科としての必修ではないが、必ずその中学生はやるという意味では強制だったこの事業。高校で必修化となっても、事前の時間と振り返りの時間が充分にとられなければ、無惨な結果は火を見るより明らかだと思わされるものでした。

 さて、かなり長くなりましたが、最後にもう一つ。僕は先ほど、奉仕の精神として、「物事に徹しつつも、自己陶酔から距離をおくこと」を考えました。このことは人間としてすばらしい態度ではないかと思うので、奉仕自体は否定しません。

 しかし、そもそも奉仕は、金科玉条のように崇められるものなのでしょうか。

 極端な例で言うと、こつこつゴミ拾いをやっている子は、諸々の環境問題を知って、まずは身近な環境をよくしようと思っていた。ある子は、諸々の環境問題を知って、勉強することで将来、環境問題を解決する技術を開発しようとした。思いは一緒でも、前者はゴミ拾い、後者は勉強という行動として現れる。前者は、人のためになる社会的活動(=奉仕)と評され、後者は、自分のための行動とされる。しかし、前者は環境問題を解決し得ないだろう。むしろ後者の方が環境問題を解決とまではいかないにしても、改善に結びつけられるかもしれない。

 環境学習では、よく「Think globally, act locally」(地球規模に考え、身近で行動する)と言われますが、身近でゴミ拾いをしても、地球規模の環境問題は絶対に解決しないのですよね。だから、環境問題を考えるという観点では、たとえゴミ拾いが奉仕活動として社会的に認められていて、容易にできる行動だとしても、技術的にとか、システム的なところから環境問題を根本的に解決しようとする姿勢の方が大切だと思うのです。先ほどの例で、後者の子がソーラーカーを作って石油問題、地球温暖化、大気汚染を解決しようと考えて勉強していたとします。そこには、ソーラーカーを作って石油問題、地球温暖化、大気汚染を解決しようと考えて勉強していたとします。そこには、ソーラーカーが実用化に成功すれば、お金持ちになれるという想いもあるかもしれません。お金持ちになるというのは、明らかに個人の利益を勘案しているため、奉仕ではないでしょう。しかし、それは不純だと言えるでしょうか。
いや、もっと言えば、お金持ちになるために、環境問題を解決するぞと意欲を燃やすことが、果たして不純と言い切れるでしょうか。

 僕は、すごく豊かな時代に、そして豊かな国に生まれました。この国の制度から逸脱しなければ、なに不自由なく豊かに生きていけると思います。今の子どもたちも、おそらくは同じ想いでしょう。身近なところで葛藤や矛盾、問題があっても、もっと広い範囲での問題には目が向きにくいという状況があると思います。

 toshi先生の意見で、
《やはり、やりたいことをやっているだけではだめなのだ。やりたいやりたくないを超越して、人類の幸せ、協調、共栄のために、なくてはならない仕事だからやる。それをやることに幸せを感じることができるのでやる。そういう心情を養う必要がある。》
がありました。
 こういったやりたいやりたくないを超越した仕事をするためには、さまざまなところで生まれる問題や矛盾や葛藤を発見し、追求していける子どもが必要でしょう。つまり、考えることのできる子どもが必要です。何に問題をもつかは、一人ひとり違います。奉仕活動をするならば、その問題を解決するという目的で、その延長線上に位置づいてほしい。安易に奉仕活動という社会的に善と価値付けられたものをすることによって自足するのではなく、悪をひたすら取り除くことで、よりよい世界を切り拓いていく力を身につけさせたい。

 そう僕は考えます。

 問題や矛盾を見つけて解決するなんてことは、社会科で、問題解決学習でやればいいのですが、高校にはすでに社会科がないのですよね。社会科を解体しておいて、奉仕活動のごとき徳目を忍ばせつつ行う強制労働にこそ矛盾を感じたりもします。

 奉仕活動を教育の現場に持ち込みたいならば、
1.必修化は避け、希望者が選択して、興味ある奉仕活動に参加し、しっかりとした役割を与えられて活動することができるようにする。
もしくは、
2.このような活動を必修とするならば、「奉仕活動」ではなく、「労働体験」というような名称がふさわしいのではないか。(サービスラーニングのような方向性もあるのかな?また、活動ありきにならぬよう、その意義をじっくり検討する時間、そして、活動を振り返る時間を充分にとる必要があるだろう。
 そのように考えました。


 気軽な気持ちでメールをしたのですが、結局自分でも掘り下げて考えることになってしまいました。〜。
 通りがかりの一学生の意見に対して、真摯に回答していただいて、感謝しています。今回のメールの内容についての意見がありましたら、ブログに載せるときに一緒に載せていただけるとうれしいです。
 まずい考えを長々と書いてしまいましたが、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


 これで、JPMさんのメールは終わりです。
 
 JPMさん。これだけ読み応えのあるメールをありがとうございました。そして、わたしのブログに掲載することを許可していただいて、感謝しています。

 これに対するわたしのメールは、次回にさせていただきます。もう、これだけでかなり長くなりましたので、ご了解ください。

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 JPMさんのメールへの回答を考えていたら、教育再生会議が、道徳の教科格上げ案を出してきました。成績もつけることを視野に入れて、これから検討するそうです。

 これは恐ろしい。ちょっと、わたしの主張も手直しが必要になりました。

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(3)へ続く。



rve83253 at 14:15│Comments(10)TrackBack(0)教育観 | 指導観

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この記事へのコメント

1. Posted by きゃる   2007年04月01日 21:30
JPMさんって学生さんなんですか。
奉仕活動の必修化について、なぜ問題なのか詳しく論じられていて
すごいなあと思いました。
また、「脱線」に書かれているボランティアと職場体験の経験談を読んで、
すばらしいお人柄だと思いました。

ただ、「奉仕活動」の評価については、視点が違うような気がします。
辞書で調べられたとおり「つつしんで」「献身的に」という点を秤にかけるのであって、
やらされた仕事の質や量で評価することはないと思います。
内申書にどう表現されているかは知りませんが、
奉仕の精神があるかどうかを評価するのであって、
「やった」「やらない」を書くというのは意味がないでしょう。

とはいえ、教科の「関心・意欲・態度」を評価する以上に
評価者の評価力は問われるでしょう。
道徳の教科格上げが「恐ろしい」のは
その辺もからんでいるのではないですか、toshi先生。
2. Posted by toshi   2007年04月02日 04:23
きゃるさん
 ほんとうにJPMさんはすごい方ですね。敬服しています。こういう情熱をもたれている方こそ、教員になってほしいですね。
《「つつしんで」「献身的に」という点を秤にかけるのであって、やらされた仕事の質や量で評価することはないと思います。》
 なるほど。そうですよね。その通りだと思います。子どもたちの内面の評価。これが大切です。子どもたちの内面を探る努力が大切になりますが、
1.言動に表れたものを、文章表記する。
2.内発的動機付けがある者について、その価値を文章表記する。
 その姿勢が大切なのではないでしょうか。
 「ある」「なし」とか、評定とかは、やってはいけないことですよね。《評価者の評価力が問われる》ゆえんです。
わたし、この視点での評価は、道徳でもあっていいと思っています。明日の指導に役立たせるための評価は大切です。しかし、同じ理由で、評定などは論外と思います。
3. Posted by Hideki   2007年04月02日 21:51
こんちは、横入りさせてください

私が以前勤めていた会社の社是の一番が「一つ社会に奉仕すること」でした。この会社は、特別な環境団体でもない、普通の営利企業…名前を出せばすぐに分かる、皆さんもご存知のメーカーです。

私はこの社是の意味することは、メセナのような企業貢献ではないと思っています。それは、自社の製品・サービスで、社会に役に立つこと、社会の問題を解決すること、そのために「会社」という仕組みがあるのだと思うのです。

勿論利益も追求しますよ。だけど、利益をあげるために会社が存在しているわけじゃ決してない。

たぶん、いっぱんの皆さんが言う、奉仕という言葉とはちょっと違うのかもしれません。ゴミを拾うという精神は重要ですが、それが奉仕の全てを表すとは到底思えないのですよ。

以前も申し上げましたが、慈善(Charity)と奉仕(Volantary)は違うと思うのです。


4. Posted by Hideki   2007年04月02日 22:08
話がそれちゃいましたが、だからこそ、私はそんな意味もこめて、子供達は「奉仕」を学ぶべきだと思う。それは、「なぜ働くのか?」に密接に結びついてくることになると思うから。今の社会に問題を感じ、それを変えようという思い。その根底に、「奉仕…社会に役に立つ」という気持ちがあると思うのですよ。

だから、私は学校教育に「奉仕は必修」なんだと思う。興味のある子だけ、学べば良いという姿勢じゃ、今までの日本と何ら変わらない。利己主義と自由主義を履き違えたままだと思う。

でも、必修だといいましたが、こういうとToshi さんには申し訳ありませんが、今の学校教育の学ばせ方だと逆効果だ。

評定して、点数化して、選別する…そんな教育システムでは、奉仕という心は芽生えてこないと思うのです。

5. Posted by Hideki   2007年04月02日 22:08
そして、ここが一番問題だと感じるのですが、教える側が「奉仕」を本当に理解しているかどうか?をまずは考える必要があると思う。先生がしっかりと理解していないまま、態度の評価点をつけるという仕組みを導入した先の行く末は恐ろしい。

あくまでも個人的な意見ですが、そこは先生が教えるのではなく、率先して範をみせる、そして一緒に考える、そんな「目線」が必要なんじゃないかと思う。

先生だって答えを知ってるわけじゃないのだから、そこは生徒と同じ目線に立ち、「一緒に答えを探す」。評価は先生がするのではなく、生徒ひとりひとりが自ら行う。当然、テストなんかもない。提出レポートもない。

だけど、これは希望者だけがやるのではなく、必須とする。じゃないと、今の日本では誰もやらない
6. Posted by Hideki   2007年04月02日 22:21
長くなっちゃいましたが、一言だけ補足

いつだかのTV番組でやっていた「命の授業」。豚のPちゃんをめぐっての小学校の授業は、見ようによっては後先を考えない指導と非難されるかもしれない。

だけど、私はあのときの先生は、「答え」を教えるのではなく、生徒と一緒に、文字通り「先生自身も必死に考えて悩んで」、最後は生徒自身が答えを出したという、その意味で理想的な教育の形だったのではないかと思う

奉仕ということを教えるにあたっては、ちょうどこれと同じような、そんな姿勢で先生にはあたって欲しいと思うのです。

先生は生徒を評価する存在、という意識をとっぱらって欲しい。そう思うのです。
7. Posted by きゃる   2007年04月03日 17:16
Hidekiさん、ご示唆、ありがとうございます。

指導と評価がなければ、教育ではないのですが、
教師も学ぶ過程にある、という考え方は
忘れてはいけないと思います。
8. Posted by toshi   2007年04月04日 10:44
Hidekiさん
 いつもありがとうございます。
 わたし自身、Hidekiさんによって目を開かせてもらったことは、企業の社会性ということでした。
 わたしも、かつては、企業の一番の目的は利潤追求と思い、疑いもしませんでした。
 でも、それでは、顧客との良好な関係は築けないということ、よく分かります。このあたりは、伊藤忠商事のかつての社長さん、丹羽さんが、よくおっしゃっていましたね。
 学校がやる奉仕活動は、ゴミ拾いとか、花壇の世話とか限られたものでしょうが、そこから生まれる問題意識こそが大切なのだと思います。
 記事に書いた、我が地域のある教員の実践でも、『大人はちっともルールを守らない。』と言っている一方で、『わたしたちの活動に協力してくれる大人の人もいるよ。』という声も現れます。これらが更なる活動の盛り上がりへと発展していくのです。
9. Posted by toshi   2007年04月04日 10:58
こうして得た市民性というか、社会性というか、それが、将来企業人となったとして、すばらしい企業実践力(こんな言葉があるかどうか知りませんが、)をもたらすのでしょう。
 奉仕活動を狭く考えることはないと思いました。社会のために、人々のためにという意識ですね。

 問題点は明確になりました。JPMさんも、奉仕活動自体は否定していないわけです。そして、Hidekiさんも、『評定して、点数化して、選別する…そんな教育システムでは、奉仕という心は芽生えてこないと思う。』とおっしゃる。『〜させる。』というものではないということでは一致していると思います。
 つまり、今の多くの学校の教育のあり方が問われているのです。これは、ひとえに、教育再生会議等が提言しようとしている学校教育の方針、また、教員の教育観が問われているのです。我々教員はそれを肝に銘じなければいけません。
10. Posted by toshi   2007年04月04日 11:11
Hidekiさんのおっしゃる授業は、わたしもテレビで見ました。すばらしい実践だと思いました。
 わたし、いつだったか、Hidekiさんのブログにコメントしましたよね。あれは単純に割り切った論理でしかなかったのですが、この授業は、愛玩の対象としての動物と肉食の対象としての動物と、それが同一体であることから、子どもたちがものすごい葛藤に直面するのですよね。まあ、実際は、もう少し、多様な局面があったのだと思いますが、
 これに答えはない。あるいは、すべてが答えだとも言えるのですが、もう、おっしゃる通りだと思います。
 この点でも、わたしは、Hidekiさんのお考えにまったく共感します。そして、別な言い方をすれば、やっぱり思考力、判断力ですよね。大切だと思います。

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