2007年04月03日

メールのやり取り(3)4

338e5462.JPG それでは、前回、JPMさんの2度目のメールに対する、わたしの回答、意見です。その前に、JPMさんの2度目のメールにリンクします。

    メールのやり取り(2)


 それでは、わたしの回答、意見をどうぞ。


《指導という形で一朝一夕に自発性が生まれるとは、ぼくには思えないのです。》

 その通りです。ですから、自発性が生まれるようにするため、気長に構えます。
気長に構えると言っても、何も働きかけずにただ構えるわけではありません。

 まずは、土壌作りに当たる学級経営の盛り上がり。これは、豊かな人間関係の構築を最大のテーマとしますが、前提として、それがなければなりません。

 次に、直接的には、子どもが気づくための工夫、それこそ、子ども自身が問題をもったり矛盾を感じたり必要性を認識したりするように、さまざまな工夫、働きかけをします。それでも、我が地域では、ゴミ拾いをしようと学級のみんなが思うようになるまで、一ヶ月かかったという実践がありました。

 ですから、けっこうきびしいのですよ。実践のさなかは、一ヶ月後に、自発性が生まれる保障はないのですからね。ですから、教員のあせり、悩みなどあり、ほんとうにきびしいのです。

 ただ、今、ありがたいのは、総合的な学習の時間があることです。この時間が生まれたことによって、子どもの気づきを待ちやすくなったのですね。そのためにも、『ゆとり教育』は大切なのです。


《これが必修化されれば、成績のために一生懸命奉仕活動をやることもできます。》

 確かにそうですね。そして、そういう例はこれまでもありました。奉仕活動の例ではないが、また、これは、中学校での例だが、いわゆる『関心・意欲・態度』について、ただ単に挙手の回数で成績をつけたのです。中身は問わないのですから、ひどい例です。 
 ただし、現在、総合的な学習の時間については、明日の指導に役立てるための評価(内発的動機の状況などを見る。)はしますが、評定はしません。中学、高校の内申書は知りませんが、おそらく、同様でしょう。
 将来奉仕活動が必修化されるとして、それに成績をつけるなどということは、あってはならないと考えます。


《授業の導入としていくら奉仕活動を奨励しても、必要性を説いても、動機をもつことは個人個人であり、それこそ内発的なものであるから、必ずしも動機をもつとは限らない。》

 おっしゃることはよく分かります。分かりますが、ちょっと言葉が違いますね。
 奉仕活動を奨励したり必要性を説いたりは、基本的にはしないのです。だから、上記の教員のように、一ヶ月もかかり、あせったり不安になったりするのですね。
 『必ずしも動機をもつとは限らない』のですが、学級内に、豊かな人間関係の構築がなっていれば、また、問題解決意欲が旺盛ならば、温度差はあるにしても、学級全員が内発的動機をもつことは、比較的容易です。
 ただ、中学校、高校とあがるに連れて、『動機をもつのは個人個人』の要素が強まるのかもしれません。


《なんでも教育でできると思い込むのは、傲慢だと思いませんか。》

 おっしゃりたいことは分かる気もするのですけれども、『何でも教育でできるとは思わない。』が、限りなく『何でも教育でできるのだ。』というセンに近づける努力をすることは大切だと思うわけです。
 奉仕活動にしても、100%内発的動機を培うようにすることはありえないでしょうが、しかし、上記『〜ならば、温度差はあるにしても、学級全員が内発的動機をもつことは、比較的容易です。』も事実なのです。

 この場合、『温度差はあるにしても、』の部分はかなり重要です。JPMさんのおっしゃる『見せつけ、酔いしれ』も、とりあえずは、『よし』としなければいけません。もっと言えば、『うぬぼれ、自己自慢』があっても、『やっているのだからすばらしい。』として、褒め称える段階があっていいのです。
 しかし、一人ひとりの内面を見つめ、『行為をほめたり人間的な部分に共感したりしながら、』心をきたえるなかで、『先生。そんなことでほめなくていいよ。ぼくたち、わたしたちは、そんなことは当たり前のことだと思っているよ。』という段階が必ず来ます。『そんなことでほめられるのは、ばかにされているみたい。』そう思うのでしょうね。
 そうしたら、学級は、新たな段階を迎えます。

 また、たとえ学級としては充実し、盛り上がり、内発的動機付けがうまくいっているとしても、やはり、全員が完璧にというのは無理があるでしょう。それでも、無理だと思っていた子の心のなかに、『やさしさ、思いやり』などの心が芽生えれば、それはそれで、感動ものとしようではありませんか。

 さらに、一部、『やさしさ、思いやり』の心すら芽生えさせることができなかったとしましょう。しかし、それはそれ。教員がベストを尽くしたのなら、いろいろな心の子がいたとしても、とりあえずそれでよしとしようではありませんか。

 そして、静かに反省することも大切でしょう。人間がやることです。反省材料は必ずあるでしょう。そうしたら、また、よりよい明日を目指してがんばろうではありませんか。そうした意味で、『何でも教育できる。』という気概を持ち続けることは大切だと考えます。

 ただこういうことはあるでしょう。中学校、高校と進むにつれて、それはむずかしくなるでしょう。だから、以前、いじめ防止シリーズとして書かせてもらった、『鉄は熱いうちに打て』は大切なのです。

 必修化という場合に、わたしが思うイメージは、こんなところです。


 どうも、ごめんなさい。JPMさんの問題提起への回答になっているのかどうか、自信がなくなりました。平行線なのかなあ。『そんなの、必修化しなくったってできるじゃないか。』『年間通して日常的に行う活動は、その意義を認めていますよ。』って言われるかなあ。
 でも、わたしは、たとえ必修化と言っても、日常的に行う活動の延長線上でしか考えていないのです。


《脱線とおっしゃって書かれた部分について》

 評価は、本来、『明日の指導に役立たせるために子どもを見取ること』です。ですから、『やったか、やらなかったか。』などは大して意味がありません。
 かつて、1年生担任だったとき、『お花に水をやろうと思って水のみ場へ行ったけれど、もう、Aちゃんがやってくれたから、ぼくはやらなかったよ。』と言った子がいて、『それはすばらしい。水やりの心はあったのだけれど、そういう理由でやらなかった。もう、それは、水やりをやったのと同じだ。』そう言ってほめたことがありました。これは、富山市堀川小から学んだことです
 この点、前記事のコメントで、きゃるさんが書かれた、「『つつしんで』『献身的に』という点を秤にかけるのであって、やらされた仕事の質や量で評価することはないと思います。」は、参考になるでしょう。まあ、『やらされた』という表記は、『やった』ということと理解しますが、その上で、きゃるさんの意見に賛成します。そして、くどいようですが、これも、『明日の指導に役立たせるための評価』でなければなりません。評定、内申書などはとんでもない話と思います。


《こつこつゴミ拾いをやっている子は、諸々の環境問題を知って、まずは身近な環境をよくしようと思っていた。ある子は、諸々の環境問題を知って、勉強することで将来、環境問題を解決する技術を開発しようとした。思いは一緒でも、前者はゴミ拾い、後者は勉強という行動として現れる。前者は、人のためになる社会的活動(=奉仕)と評され、後者は、自分のための行動とされる。しかし、前者は環境問題を解決し得ないだろう。むしろ後者の方が環境問題を解決とまではいかないにしても、改善に結びつけられるかもしれない。》

 何度も言うようですが、学校教育では、心、内面を見つめる指導なので、『こつこつゴミ拾い』は、まさに総合的な学習の時間の一つのテーマになりうるでしょう。そして、それこそ、ゴミ拾いを実践するなかで、JPMさんがおっしゃるような環境問題があることに、気づいていきます。
 そう。まずはゴミ拾いだとしても、ずっとそれでいいとも思わないのです。そこから、また、さらに深化した問題意識が芽生えなければ、学習はマンネリになるでしょう。
 ある実践では、子どもが、『ぼくたちがいくらゴミ拾いしても、大人は相変わらず平気で捨てているよ。』という問題意識を持ちました。そして、『ポスターを作りたい。』などというように学習が展開していきます。

 また、JPMさんがおっしゃる『後者』にしても、必ずしも、『自分のための行動』とばかりは言い切れないでしょう。
 この点については、先のわたしの記事『教育再生会議の提言に思う。(5)奉仕活動の必修化をめぐって』で、Hidekiさんがコメントしてくださっています。
《いろんな起業をした方の話を聞いて、もちろん大金持ちになりたい、有名になりたい、世の中を動かしたいという内に向かう力もあるのは確かだけど、一方で今の世の中がこれじゃいけない、何とかしなきゃいけない、・・・、こんな思いから始まった起業も数多くあると思うのです。ボランタリーな思い、というのはとても重要なのですよ。》

 また、働くということについても、
《今の世の中の問題・欠けているものを感じ、それを自分が何とかしなきゃいけないと思う、社会をより良いものに変えていこうという思い。そこには金儲けということ以外の、社会貢献という思いがあると思う。》とおしゃっています。さらに、《だから、そんなボランタリーな思いを子どもの頃から醸成するというのは、とてもとても大切なことだと思う。》
 わたしもそうした見方(つまり、後者を、『自分のための行動』とのみとらえることはできないという見方)に全面的に賛成です。この点については、Hidekiさんは、それ以前にも、TBしてくださったことがあり、わたしは、学ばせていただきました。

 学校教育で必修化されると仮定して、『こうしたボランタリーな思いが醸成されていく。そして、それが大人になって、企業人として生きていくときの生き方にかかわるようになっていく。』そこに金儲けがあるにしても、わたしは、意義あることと思います。必ずしも、二者択一ではないでしょう。


 いよいよ、この記事も最後に近づきました。あと、2つふれたいことがあります。

 一つ目。
 わたしは、『教育再生会議の提言に思う。(5)奉仕活動の必修化をめぐって』の記事で、高校での奉仕活動必修化導入に当たっては、それを意味あるものにするために、まず、高校を入試体制から解放することが必要と述べました。また、本記事では、『鉄は熱いうちに打て』。奉仕活動に当たる際の内面を育むには、小学生段階からの指導が必要と述べました。
 でも、JPMさんと、こうして議論するなかで、少し考えが揺らいできました。
これまで述べてきたことを一貫して主張したいと思う一方で、もし、入試体制から子どもたちを解放し、その時期にしかできない学習、体験を積み重ねることが可能となれば、それはもちろん思考力を育むことを中心とするのですが、
 そうなれば、必修化などとわざわざ言わなくても、必然的に奉仕活動をとり入れる学習になるだろうという思いもふくらんできました。そこには、PSJ渋谷X研究所さんからいただいた記事がかかわります。つまり、『主体的な生き方を身につけ、思考力を養おうとする態度は、ロジカルであろうとするし、科学的態度を身につけようとするし、その態度は、道徳、倫理と無関係ではない。(わたしの意訳です。)』ということです。
 そうだ。入試体制からの解放は、そういう意味でも大切なのですね。

 二つ目。これは、『メールのやり取り』でいただいたyokoさんのコメント、および、『メールのやり取り(2)』でいただいたきゃるさんのコメントにあるのだが、『教員の指導力・評価力』が、一番問われるのです。
 必修化が、『やらせる活動』になってはなりません。逆に言えば、『子どもの内面重視の奉仕活動』になるように、指導力を鍛えることが、他の教科等の指導力以上に大切になってきます。こうした意味での自己改革が、それこそ、必修なのです。

 
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 JPMさんからいただいたメールへの回答を考えていたら、教育再生会議が、道徳の教科格上げ案を出してきました。
 前記事で、『わたしの主張も手直しが必要』と述べましたが、結局手直しはほとんどしませんでした。すみません。

 道徳も、『道徳的判断力、道徳的実践力を養う』と言っており、内発的動機付けを大切にすることに変わりはありません。ですから、指導法、実践力、評価の生かし方など、奉仕活動と重なり合う部分が大きいと思います。したがって、『成績もつけることを視野に入れて』とあるのは、驚きです。これでは、JPMさんご心配のセンに近づき、わたしも反対です。

 また、本記事を書いているさいちゅう、『メールのやり取り(2)』に、Hidekiさんからコメントをいただきました。それも併せお読みいただけたらと思います。

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rve83253 at 12:08│Comments(11)TrackBack(0)教育観 | 指導観

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この記事へのコメント

1. Posted by くるみ   2007年04月03日 14:32
toshi先生、お久しぶりです。
このシリーズ、興味深く拝読していました。

保護者の立場で、感じたことを僭越ながらコメントさせてください。
そして、本題とずれてしまうことをお許しください。

今の子ども達は非常に進んだことを学校で学んでいるなと思います。
学校の授業が単なる知識でない生きた学びであると息子が通った4年間を通して感じました。

しかしながら、担任の先生の力によって非常に
大きな差をもたらすことも実感しました。

ただ、この差も現実を知るという学びになるとも
思い至りました。

新しい取り組みはどんどんして行かざるを得ない
のも現実だと思います。

その新しさを子どもだけでなく保護者が受け止めて
子ども達を支え、子どもと共に学んでいく姿勢が
これから私達保護者に必要なのではないかと、
新学期を前に感じるところです。

生意気なことを申し上げました。
失礼した致しました。
2. Posted by yoko   2007年04月03日 16:28
くるみさんのおっしゃる通りだと思います。

受け手(生徒・保護者)は、
『この差も現実を知るという学びになる』
という精神でいるべきだと思います。

そして、発信する側(教師)は、
それに甘んじる事なく、その『差』をなくすように心がけなければならない。

そう思います。これは、学校にとどまらず、世の中全てにおいて、そうありたいものですね。だから、『奉仕活動の必修化』においても、教師の考え方や手腕が問われるのだと思います。
3. Posted by JPM   2007年04月03日 22:03
とりあげていただいたので、コメントします。

評価に関しては、書き方が下手でした。
きゃるさんのおっしゃるとおり、教育において指導と評価は必要で、一体であるべきです。
この考えに、僕も当然ながら異論はありません。
また、評価は表面的に現れる結果ではなく、過程に対して行うべきとの考えも一致です。
評価は、子どもが変わるための重要な手がかりになるものですからね。
脱線の実体験であげた内申書の例は、まさにやったかやらないかでの評価だったので、
断固として拒否した次第であります。
評価と評定をしっかり書き分けるべきでした、誤解を与えてしまい、すみませんでした。
4. Posted by JPM   2007年04月03日 22:04
自発性を生むには時間がかかる可能性があるというtoshi先生の意見、
全くその通りだと思います。
また当然、僕も奉仕を奨励したり必要性を説いたりが正しいなど全く思ってません。
奉仕活動というくらいだから、必ず活動をすることになるでしょう。
しかし、子どもたちに自発性が生まれなければ教師は焦る。
そして、ついには活動ありきになってしまうということを僕は一番怖れるのです。
活動は、意識、認識と一体となって意味があると思います。
5. Posted by JPM   2007年04月03日 22:06
堀川小の水遣りの子どもは、判断(つまり状況の認識)ができているから素晴らしい。
徳は本来、知的なものと一体不可分なのですよね。
だから、活動の有意性を認識せずに活動させることは、
徳と知を分断して教えようとすることであり、無理が生ずると考えます。
だから、子ども全員に活動するための内面まで含めた態勢を求めたいですし、
無理なときは、極端な話なくなく活動しないというのも、
教師の責任でもってありえるのが本来の姿かなと。
toshi先生のいう、指導力向上と自己改革とはこういう点まで含んでいますよね?
6. Posted by JPM   2007年04月03日 22:07
奉仕の精神を僕は否定しているわけではない、むしろ大切だと思うんです。
ただ、高校生だからといって、上記の意味で必ず奉仕「活動」ができる実態かどうか。
ある子は中学生からだってそういう態勢かもしれないし、
ある子は大学生や社会に出てからそういう態勢になるかもしれない。
教育は個性的統一を、子どもひとりひとりを大切にしなければならないのでは?

だから僕の主張は、PSJ渋谷X研究所さんと同一といってもいいくらいです。
PSJさんの考えは以前にも読みましたが、全く異論はないです。
7. Posted by JPM   2007年04月03日 22:07
道徳的なことは特に(厳密には知識体系と称されるものもですが)絶対的なものなどないと思います。
だから、常に我々はよいものを求めて考えなければならない。
教師も自分が考えられる最善の行動をして模範となるように努めなければならないが、
しかし、いつも完全な模範にはなりえないという不安と諦めに苛まれる。
それでも諦めずに…。
教師は割り切れない職業だと思います。

このことにスッキリとした解決などでないでしょうが、
深く考えられたことは、僕にとって収穫です。
toshi先生を初め、コメントをお寄せいただいた方に感謝します。
ありがとうございました。
8. Posted by toshi   2007年04月04日 12:17
くるみさん、yokoさん
 コメント、ありがとうございます。ジーンとくるくらい、ありがたい思いで、いっぱいになりました。
 人間のやることだもの。いろいろあって当然。しかし、各人、前向きで努力する姿勢があればよいのだと思います。
 ところが、前向きでなかったり、組織として後ろ向きだったりすれば、これはもう、『いろいろあって当然』とはいかなのではないでしょうか。
 『奉仕活動の必修化』。まさに力でなく、どちらを向いているかが問われることだと思います。
 また、Hidekiさんのコメントにもありましたが、『ともに学ぶ。ともに進む。』という姿勢で、指導にあたりたいものだと思います。
9. Posted by toshi   2007年04月04日 13:29
JPMさん
 コメント、ありがとうございました。とてもうれしい思いで読ませていただきました。
 わたしが学んだ堀川小の例は、昭和50年代のことだと、まずお断りしておかなければなりません。そして、堀川小の『水遣り』ではないのです。わたしのクラスであった『水遣り』の事例に、堀川小で学んだことを適用したということです。
《徳は本来、知的なものと一体不可分なのですよね。だから、活動の有意性を認識せずに活動させることは、徳と知を分断して教えようとすることであり、無理が生ずると考えます。だから、子ども全員に活動するための内面まで含めた態勢を求めたいですし、無理なときは、極端な話なくなく活動しないというのも、教師の責任でもってありえるのが本来の姿かなと。》
 ああ。うれしい言葉です。特に、『徳と知は本来不可分』という言葉は、勇気付けてくれます。わたしが一番模索していたところです。
 こういうことを書いている本はありますか。あったらぜひ読んでみたい。

10. Posted by toshi   2007年04月04日 13:52
《toshi先生のいう、指導力向上と自己改革とはこういう点まで含んでいますよね?》
『無理なときは、〜』は、『急がばまわれ』的な意味合いで了解です。学習の一過程において、そういうことも想定されるというのなら、それはむしろ大切にしなければなりません。ここでも、教える側の指導力が問われますね。
《教師は割り切れない職業だと思います。》
 うううん。うまくかみ合う話になるかは分からないのですが、わたしは、この点、かなり達観しています。
 というのは、初任者指導をしていて思うのですが、担任と子どもと心が通い合い、互いに前向きの姿勢がもてれば、初任者だって、ほんとうにいい指導をしていますよ。3月10日の『パワフル算数』など、まあ、教科の指導ではありますが、いい例だと思います。


11. Posted by toshi   2007年04月04日 13:59
何度も言うようで恐縮してしまいますが、このたび、ブログ記事に書かせていただくことをご了解くださいまして、ほんとうにありがとうございました。JPMさんとのメールのやり取りだけでも、すばらしい議論ができていると思ったのですが、こうして、ブログの記事にさせていただきまして、保護者の方のご意見もいただきながら、わたし自身もいい勉強をすることができました。また、思いが膨らんだり、より確かになったりした部分もあります。ブログをやっていてよかったなと思います。
 最後にもう一度繰り返します。
 JPMさん、絶対教員になってください。できれば、小学校の。
 鉄は熱いうちに打て。これに、『魅力あり』です。

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