2007年04月27日

知徳不可分 4

f0f8285b.JPG  わたしには、以前から引っかかっていたことがある。

 知徳不可分。つまり、『正しい知識、生きて働く知識(豊かな思考力に裏打ちされた知識)を身につけた人間は、徳も身につけているのだ。』という考え方についてだ。

 この引っかかりについては、すでに記事にしたことがあるので、まずは、それを再録させていただきたい。

 ただし、これまでのわたしの記事を読み続けてこられた方は、以下、※印のところまでは、読み飛ばしていただいてけっこうである。


 まずは、わたしが、『パワフル算数』という記事を掲載したのだった。わたしの担当する初任者が、すばらしい授業をやった。その紹介記事である。

 それに対し、PSJ渋谷研究所Xさんが、感動の記事を掲載し、わたしの上記記事にTBしてくださった。

 このPSJ渋谷研究所Xさんは、そこで、知徳不可分にふれていると思うが、
『初等算数であっても、そこで科学あるいはロジカルであろうとすることを学ぶ姿勢は成長を促すに違いない。』
『科学やロジックという「方法論」(を学ぶこと)が、ぼくらの道徳や倫理(あるいは道徳観、倫理観)に対して何の働きも持ち得ないということではない。』
とおっしゃった。

 さらに、
《こうやって考える力を磨くこと、異なるレベルの理解をぶつけ合って次のステップ(どの考え方が理に適っているか=合理的かを判断する)へ進む体験を重ねた子どもたちは、自分には理解できないあやふやな「ロジックもどきの言説」に盲目的に頼ろうとすることはしないに違いない。》
ともおっしゃってくださった。



 それに対し、わたしは、3月19日の『PSJ渋谷研究所Xさんに触発されて』の記事中の3番後半の部分で、以下のように述べた。
 
 《わたしは、『PSJ渋谷研究所Xさんの上記記事』を読み、《自分には理解できないあやふやな「ロジックもどきの言説」に盲目的に頼ろうとする。》の箇所から、むかしの、サリン事件を思い出した。有名大学に入る力は持っていても、判断力がまるで育っていないということをものすごく感じていたのだ。》



 しかし、それと同時に、PSJ渋谷研究所Xさんの記事から、あることがひらめいた。

 と言うのは、それまで、
『思考力を養えば、判断力は身につく。思考力と判断力は一体だ。生きるうえでの自己決定を迫られることは多いわけだが、豊かな思考力を育むことは、自己にとって、家族にとって、市民にとって、もっと言えば、日本にとって、人間にとって、自分はどう行動したらよいかを決める上で、適切と思える判断力が身につくのだ。』そう思っていた。

 そう思いながらも、しかし、(その一方で、)人が悪事をなすとき、『思考力を養っても、完全犯罪を目指す方向で、その思考力を使うこともあるのではないか。』と言われたら、反論するものを持ち合わせていなかった。

 そのため、それまで、上記、思考力、判断力一体論を主張する気になれなかった。

 (つまり、知徳不可分について、そこまで言い切る自信がなかったのだが、)それについて、このPSJ渋谷研究所Xさんの記事がヒントをくださったというわけだ。



 なるほど。子どもの、『科学的であろう。ロジカルな態度を身につけよう。』という姿勢を養うことは、けっして、道徳や倫理と無関係ではないのだ。

 完全犯罪を目指す方向で思考力を使うことはあるだろうけれど、それは、真の思考力なのではなく、自分自身の生活や生き方とは無縁な世界で、知識のみ身につけた者がなす業なのではないか。
 そう思えるようになった。

 

 
 ところで、知徳不可分については、もう一つ、ある。

 それは、JPMさんとのメールのやり取りを通しての、JPMさんのコメント5番だ。

 《徳は本来、知的なものと一体不可分なのですよね。だから、活動の有意性を認識せずに活動させることは、徳と知を分断して教えようとすることであり、無理が生ずると考えます。だから、子ども全員に活動するための内面まで含めた態勢を求めたいですし、〜。》
とあった。

 つまり簡単に言えば、
『自ら考える力を育む。そのことは、徳を身につけることと一体のはずだ。しかし、内発的動機付けをおもんばかることなく活動させれば、徳と知を分断させることになる。つまり、学んでも活動しても、徳は身につかない。』
ということだろう。


※※※※
 こうした、やり取りを経て、わたしは、けっこういろいろなことに気づくことができたのである。
 そして、今、知徳不可分について、論評できるような気がしてきた。



 それでは、だいぶ長い前置きとなったが、以下、今、思うことを記述することにする。


 まず、現実には、今も、内発的動機付けをおもんばかることなく、教える側が一方的に、発問したり、活動させたりする授業がありはしないか。(それは、もちろん、『子どものために』という仮面をかぶっていることが多いのだが、)

 そうした授業では、子どもは、『やらされる』意識が強いし、『欲求不満』にもなりかねないし、知と徳の分断どころではない。『不徳』を身につけることにもなりかねない。
 ご承知のように、学校生活の大部分が授業である以上、授業が充実したものであるかどうかは大きい。
 今の学校の『いじめ』多発について、その要因の一つには、このことも上げられるのではないかと思う。



 次、内発的動機付けがなったとしても、それだけでオーケーとは言えない。

 先にあげた、『パワフル算数』の学級は、けっこう学ぶ意欲が旺盛である。

「先生。今日は、〜の勉強をするのだよね。ぼく、調べてきたよ。ああ。すぐ発表したいな。」
「今日の図工、楽しみなのだ。〜を使って作るのだよ。」
などと朝から言っていることも多かった。

 だから、授業の初めに、日直が『気をつけ。今から、○○のべんきょうを始めます。礼。』などと言うことなく、上記子どもの意欲的な発言から、自然に授業に入っていくことも多かった。

 そして、PSJ渋谷研究所Xさんが、大きな賛辞を贈ってくださった授業の展開となるのだが、しかし、しかしだ。



 この授業の問題点を指摘する前に、初任者である担任のために、言い訳を最初にしてしまおう。

 この学級には、大変自己主張の強い子(『パワフル算数』のCちゃん)がいた。その他人をやりこめる言動から、Cちゃんに反発する子が何人かいて、物議をかもすことも多かった。その様子は、姉妹ブログ『小学校初任者のブログ』、『いじめ発生』(この記事ではAちゃんのこと。)として記事にさせていただいたこともある。

 そして、初任者である担任の努力が一番であるが、わたしもいろいろ助言させてもらったこともあり、『パワフル算数』のころは、けっこう学級の雰囲気は改善されてきた。

 Cちゃんは、このころ、自分とは異なる友達の主張に対し、『ああ。そうか。なるほどね。』と言って、自分の主張を変えるという柔軟性も見せ、担任やわたしを感動させることもあった。

 言い訳はこれで終わり。


 それで、『パワフル算数』の授業の問題点に移るが、どうだろう。かなり解消されたとは言え、まだまだ、相手をやり込めようとする残滓が見られるのではないか。

 たとえば、
《すると、突然、Cちゃんは、すっとんきょうな声を出し、
「だから、それを、ぼくは言ったのだよ。」
話し合いの冒頭、みんなから、『変だ。』と言われたものだから、少し、向きになっていた。》
あたりにそれが感じられると思う。

 真理の追求も、科学的態度の構築も、相手をやり込めようとする心の前では、曇りが生じてしまうのだ。そして、知徳不可分どころではなくなってしまう。


 相手をやり込めようとする心の動きから言えることは、

 感情的になったり、意地になったりしてしまう。
 そして、そのときの心の状態(気分と言ってもいいかな。)に支配されるから、論旨の一貫性がなくなったり、ああ言うこう言うで何が言いたいのかわからなくなったり、矛盾を生じてしまったりする。

 また、相手の意見の一部のみに反応し、相手の意見を理解しないまま、論じようとするので、話し合いがごちゃごちゃになってしまい、何が問題かという、一番大切な部分まで分からなくなってしまうこともある。
 そうして、授業を混乱させているのが自分だということにも気づかない。

 そこで働かせる思考力も、斜に構えたり、断片的、皮相的だったりして、あまりにも真理追求には程遠くなってしまう。
 まさに、知と徳の分断である。いや。知と不徳の結合と言ってもいいかもしれない。


 やはり、そこに、豊かな人間関係の構築がないと、知徳不可分とはいかないわけだ。
 ここはやはり、意見の異なるものに対しても、思いやりの気持ちがほしい。やりこめるのではなく、『ああ。おしいね。』『ここまではぼく(わたし)と同じ考えだよ。』などという言葉があればよい。

 ここで初めてわたしは、冒頭の引っかかりを解消することができたのである。知徳不可分。ストンと胸に落ちるくらい納得できた。


 最後に、それがうまくいっている授業を紹介しよう。と言っても、むかしの自分の授業であるのはちょっと気が引けるが、『小学校初任者のホームページ』に載せてあるので、その引用について、ご勘弁願いたい。

 6年生の社会科、『歴史上の人物をとり上げて』である。

 ここでは授業記録を掲載している。

 このなかの、学習段階(授業記録の表の一番左側に書いてある。)でいえば、『学習問題を修正しようとする子どもたち』のなかの、中野(もちろん仮名)さんの発言に注目してほしい。

 『今、話し合っている内容は、話し合う価値がないのではないか。』という問題提起である。

 それに対し、同じ学習段階のなかで、小川さんが言う。

 小川さんはこまってしまったのだ。それは、まさに自分が言おうと思っていた中身を、中野さんによって、価値がないと否定されてしまったからである。
 そして、否定されたことは理解できたし、また、多くの子が中野さんに同調したことから、意見が言いにくくなってしまった。

 それで、たしか、小川さんは、勢いよく上げていた手を上げようか下ろそうか迷ったのだと思う。それをおもしろいと思ったわたしが、ことさら小川さんを指名したのではなかったか。

 この発言に、小川さんの柔軟性を見る。価値の追求、真理の追求のまえでは、真理に対してのみ従順である姿勢を見る。


 それ以外にも、いろいろあるので、お時間のある方は、この授業記録をゆっくりお読みいただけたら幸いである。

 そうすると、学力の高い子も、そうでない子も、いきいきと発言していること。
 だから、ほとんど全員に近い子が発言していること。
 どの子の発言もからみ合い、補完し合っていて、それによって、学習に深まりを見せていること。
 などが感じ取れるのではないか。

 まさに、知徳不可分の人間形成を見る。

 

にほんブログ村 教育ブログへ

 こうした学びは、PSJ渋谷研究所Xさんがおっしゃるように、大人になったときの、大人としての生き方に、直結する学びです。
 知徳不可分。わたしたち教員は、自信をもってそう言える授業をしたいものだと思います。


 それでは、今日も、1クリック、よろしくお願いします。

 
人気blog ランキングへ
 
 こちらも、お願いできますか。


rve83253 at 10:42│Comments(6)TrackBack(0)教育観 | 道徳指導

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by きゃる   2007年04月28日 12:25
こんにちは。久しぶりにコメントいたします。
(異動があって、バタバタしておりますw)

「豊かな人間関係の構築」
があれば
どの子も生き生きと学習に取り組める

私の研究の土台にあたる部分で、共感しています。
新しい学校(学級)でも、
人間関係の構築からやっていきます、
と懇談会、家庭訪問で話してきたところでした。
2. Posted by ベアー   2007年04月28日 20:47
初めまして。
知徳不可分のお話、とても納得しながら読ませて頂きました。

つい向きになってしまうCちゃんのような子供は、うちの子のクラスにもいます。
意地になってしまった時はあまり追い詰めても逆効果というか、素直に自分の誤りを認められるような方向に持っていけるよう、周囲や先生が助け舟を出してあげることも必要かなという気がしています。

実りのある議論って大人でも難しいですよね。
むしろ大人だからでしょうか。
「ああ言えばジョウユウ」的な人っていますよね・・・。(古い言葉ですけど)
サリン事件のお話も妙に納得してしまいました。

3. Posted by toshi   2007年04月29日 17:32
きゃるさん
 異動されたのですか。ご多用中のコメント、ありがとうございます。
 豊かな人間関係の構築。それをめざすということ。ほんとうにそれでいいと思います。そうすれば、意欲的な姿勢も育ちますから、学力は後からついてくるというものです。
 学習指導要領もそれを目指しているはずなのですがね。しかし、狭い学力しか測れない学力検査に夢中になっているのは困ったものです。
4. Posted by toshi   2007年04月29日 17:39
ベアーさん
 ありがとうございます。末永く、どうぞ、よろしくお願いします。
 Cちゃんのようなタイプの子は、意欲的に学ぶというよさがあると思います。少なくともおとなしくはないですよね。
 ですから、意欲的な学びのよさを認めることを第一義におき、それをなくさないようにしながら、ぎすぎすした感じだけを取り除くという姿勢が、大人に望まれると思います。
 基本は、ぎすぎすした感じがない、おだやかなとき、それをうんとほめるという対応がいいと思うのです。
 『鉄は熱いうちに打て』ですね。
5. Posted by 亀@渋研X   2007年04月30日 01:57
TBありがとうございます。
長年にわたってtoshi先生がお考えになって来た「知徳不可分」ということ、その時間の重さにまず圧倒されています。
先般来、教える、知らせる、伝えるといったことについて考え続けています。何かを調べて「知識」が増えると、どんどん身動きがとれなくなる、という側面もあります。小手先で論理をいじくるようなことでは、なににつけよいも悪いも、あるいは過不足も言えませんね。
こうして長年にわたって割り切れない思い、言いきれないもどかしさを忘れずに課題として持ち続けて来たということに、しばし言葉を失ってしまいました。

「知識」ではなく「考える力」と、「道(倫)を外すまいとする力」「見極める力」は、密接につながっているものだということは、ぼくのなかでは漠然とした思いに過ぎませんでしたが、こうして改めて考える機会をいただいたことに、まずはお礼を。ありがとうございます。
6. Posted by toshi   2007年04月30日 23:02
亀@渋研Xさん
 いえ。恥ずかしいです。
 ずっと、『わからないなあ。どうとらえたらいいかなあ。』と思っていただけなのです。それに、ヒントを与えてくださったのが、亀@渋研Xの記事でした。
 これから、知徳不可分を信じて、初任者指導に当たれそうです。ほんとうにありがとうございます。

コメントする

名前
URL
 
  絵文字