2007年05月13日

教員査定の問題(4)まとめにかえて5

bf9471d3.JPG まえに、教員査定の問題は前回で終わりと書いた。しかし、多数のコメントをお寄せいただき、その結果、積み残された問題があまりにも多いので、本記事でも引き続きとり上げることにした。

 ただ、ものすごい長文となってしまった。すみません。


 本論に入る前に、まず、これまでの論点を整理したい。

 これまでのふり返りなので、不要な方は、※印のところまでは読み飛ばしていただいてかまわない。

 わたしの記事、及び、いただいたコメントを整理したが、もちろん、すべて、わたしの判断で書いたので、コメントされた方にとっては、不本意な思いになられることがあるかもしれない。それについては、わたしの力不足であり、お詫びしたい。



○ 横並び主義の時代から続く、査定に対する素朴なマイナス的イメージは、今もかなりあるだろう。
・ 査定がなければ、人間はなまけてしまうのではないか。
・ 査定を行えば、上司におべっかつかう人が多くなるのではないか。
・ 査定がないなかでも、人々の素朴で自然な評価の声は、防ぎようがない。また、防ぐ必要もない。
・ 人間の良心に信頼をおきたい。多少の優劣があっても、それも個性と受け止める。だから、査定は必要ない。

○ 現状の、教員のもつ人事考課、査定への意識の低さを嘆く、市民の声がある。
・ 児童の評価を行っている教員は、子どもたちをよく見る人だと思うのだが、その教員の一部にある、評価に対する意識の低さは、驚くばかりだ。
・ 目標というものに対する認識の無さ、目標に対しての意識の無さに、愕然とした。
・ 教員は、査定・人事考課の目的、システム等について、知らなさ過ぎるのではないか。

○ およそ、仕事に対しては、査定があるのは当然だし必要とする声がある。
・ 現状の学校を見るとき、教員の良心に信頼をおきたくても、それでもなお、信頼できない状況がある。
・ 評価(人事考課・査定)の目的は、責任を持って仕事を果たすこと、仕事の質を高め合うこと。ないのがおかしい。

○ ここで、査定と人事考課について、その違いを明確にしておきたい。
 ただし、一番目の黒ぽちはHidekiさんの書かれたものであるが、査定、人事考課、評価などの用語については、一貫性を持たせるために、toshiの見解において、書き換えたことをご了承ください。
・ 『査定』は、その対象者の処遇(報酬、役職、地位、など)を決めることなので、『人事考課』とは基本的に意味が異なる。ただ、『人事考課』の結果に基づいて『査定』は行われるものなので、両者は切っても切れない関係にある。
・ 『評価』という言葉は、『査定』、及び、『人事考課』をひっくるめて使うことにする。

○ 教員に査定がない現状について、それは当然、あるいは、やむをえないという声がある。
・ 査定を行うとした場合の、学校という職場の特殊性から、他の仕事のように、数値化することがむずかしい。
・    成果はすぐには現れない。
・    教員の仕事場はおもに教室という閉鎖空間であり、ふだん、他の大人はほとんど観察できていない。
・    教育は元来自由な雰囲気のなかで営まれることが大切だ。査定を行って、教員を窮屈な場に追いやれば、そのしわよせは子どもに行く。
・ 職場の雰囲気を心配して、協力体制がくずれる。ぎすぎすした雰囲気になる。

○ 教員に査定がない現状について、なければいけないという声がある。
・ 査定を行いがたい、学校というところの特殊性は理解するとしても、だから、まったく評価できないということはない。できる部分もあるはずだ。
・ 管理職が、教員の授業をほとんど見ていないというのは、個々の教員の自由裁量に任せすぎているようで、心配だ。
・ 人事考課すら拒否した場合は、不適格教員も放置されることになる。
・ この状況を管理する側から見れば、個々の先生の自主性を重んじる余り、個々の授業への不干渉へとなり、結果として「放任…マネージメントの放棄」になるのではないか。
・ 評価を気にせず自分の信じる方法に邁進できる…これは一見正しいようで、その方法の方向性をチェック(評価)しないことを考えると、実はとても危険な選択肢に感じる。
・ その個人の過ちを未然に防ぎ、最小限にくいとめるのが、組織のマネージメントであろう。
・ 正当な評価のもと、優秀な先生に相応の報酬が与えられるのは当然ではないか。

○ ならば、双方の考え方を踏まえ、意義のある人事考課の姿を考えていきたい。

・ 何を評価の項目にするかが大事だろう。その点、今の教員の人事考課システムは、個々の教育観・指導法の違い、個人の性格・私生活、前年度以前のことなどは、評価対象外としているし、また、『熱意』『信頼』なども、主観で評価するのは厳に慎み、具体的に現れた姿で評価するとしているので、まあまあ、よく考えられているのではないか。

・ また、手順も、
 まずは、校長により、学校経営計画(教育目標)を受けての今年度の重点目標が提示される。
→それを受けて、一人ひとりの教員は、管理職の指導助言を受けながら、自己の目標を定める。
→自己の目標達成に向けて努力する。途中、管理職との話し合いのなかで、今の取組でよいかをふり返る機会も設ける。
→年度末に達成状況を振り返る。自己評価するとともに、管理職の評価も受ける。
→管理職の評価の開示を受ける。次年度へ向けての展望などを話し合う。
ということになっていて、これも、よいのではないか。

・ 教育の成果は、すぐには現れないと言う。しかし、学級のまとまり、子どもたちの学ぼうとする意欲の盛り上がりなど、すぐ見られるものもある。それを評価したらよい。

・    学力検査の結果など、教員の努力外の要素が強いものは、査定項目にしてはいけない。 

・ 教員の場合、よりよい職場環境をつくることが、よりよい子どもを育むことと同義であることを踏まえてほしい。だから、よりよい職場環境づくりにかかわる評価項目も必要。

・ 自分の評価を上げるために、子どもたちを利用することのないようにしてほしい。

○ 査定にしろ人事考課にしろ、評価者の真価が問われる。

・    人事考課システムをしっかり踏まえ、そこに情実や評価項目を越えての評価を行わないようにしたり、よい点を中心にしっかり観察したりすることが大切だ。

・ 評価というのは、成果、あるいはその成果に到るまでの過程も含め、「活動の共有」でもある。

・ 教員を活性化する手段としてとらえられるのではないか。

・ 「ここができた、ここができないから今度はここを重点的にがんばれ」という様な次への指針と方向づけになるフィードバックが評価の一番重要な点だろう。

・ 評価をきちんとしようとしたら、対象者の働きぶりを本当にきちんと見る必要が出てくる。それが対象者の生活(報酬)に関わってくるから尚更だ。

・ 配下のメンバーのモチベーションアップ(活性化)につながるようなものでないといけない。査定の実施がモチベーションダウンにつながる危惧はあるのかもしれないが、そうならないような評価者の姿勢が大切だ。

・ システムがよくできているにもかかわらず、それでも、評価する側の問題として、情実、評価項目を超えての評価、主観的な評価がなされるとしたら、それは問題だ。学校としても、成果を上げることは期待できないだろう。そのような場合には、管理職の降格人事も行うことが必要だ。


○ よりよい教員査定とするために、何が大切か。
・ 教育の自由を犯すものであってはならない。評価する範囲は決まっている。評価者はそれを厳格に守ることが大切。
・ 査定が始まっても常に見直し、市民、企業、他地域の知恵も借りながら、よりよいものにしていく努力を継続していきたい。
・ 評価者は校長だが、地域・保護者・児童の声も考慮したらよい。





※※※※
 さて、ここからが本日の本論となる。


 前回記事で、『人事考課制度の必要性までは理解した。しかし、査定の必要性までは、なかなかストンと落ちる理解までには至っていない。』としたことについて、まずふれてみたい。

 この点について、いただいたコメントは、『査定は、報酬、役職、地位にまで影響を与えるものである点、評価する側もされる側も、真剣にならざるを得ないし、責任も伴う。』ということだった。この点はよく理解できた。


 実はそのことを裏付ける状況がある。

 前記事で、わたしは、ふれた。

 『せっかく始まった人事考課制度なら、これを少しでも有意義なものにしようと考えた。教員が意欲的になるような方向でつかいたいと考えた。そこで、授業を見ることに務めた。
 教室訪問はそれまでもしていたが、それはたぶんに廊下とんびのようであり、一教室に一時間ということは、研究授業でもない限りなかった。
 それを各教室とも、年間3回、じっくり一時間見る機会を設けることにした。放課後、短い時間だったが、よいと思った点を中心に話すようにした。
 また、年間3回なので、次に見る機会までの改善要望を述べたり、改善の結果を評価し、ほめたり感謝したりするようにも努めた。』

 しかし、現状、我が地域で、このようにしている校長は、少ないようだ。相変わらず、授業を見ないで評価している。
 まあ、もちろん、『授業を見なくても分かるのだ。』という部分もあることはある。しかし、それでは、情実、思い込みになりかねないし、客観的な評価とはなりにくいだろう。
 研究授業は見ているだろうが、これはたぶんに身構えた授業だものね。(もちろん研究授業は大切だ。実践力アップにつながる。)
 
 これが、査定となれば、真剣味が増すのではないか。だって、給料にひびくのだものね。授業も見ないでいい加減な評価をしたら、これはもう、教員は黙っていないだろう。

 この状況は、人事考課にとどまらず、査定にまでもっていかなければいけない理由となりそうだ。
 


 次に、『管理職が、自校教員の授業をほとんど見ていないとか、その裏返しだろうが、各教員がやりたいように授業をやっている実態とかは、果たしてそれでいいのだろうか。放任と無責任の体制ではないのか。それを市民の目から見て、信頼できる体制に持っていくのが、教員の査定なのではないか。』とされたコメントにふれてみたい。

 このことに関しての結論は、人事考課ならともかく、査定は学校現場にはなじまないという結論になりそうだ。

 あっ。そのまえに、お詫びを。前々回、わたしは、誤解を招くような言い方をしてしまった。申し訳ありませんでした。

 『やりたいように』という言葉だった。
 これは、わたしたちの地域の教員仲間においては、それが、『唯我独尊』とか『勝手し放題』を意味するのではなく、『信念に燃えて』とか『権力に不当に支配されずに』ということを意味するのであり、それは自明の理だったのだが、しかし、そんな、市民向けには通じない概念の言葉を、ブログに書いたのは間違いだった。
 それは反省している。


 それでは、説明に入るが、

 わたしたち教員は、査定とか人事考課とか、そのようなことが視野に入るずっと前から、それこそ、戦後民主主義教育がスタートしてからというもの、研究会などを通し、指導法、教材研究など、切磋琢磨し続けてきた。これは、是非、お伝えしなければいけないだろう。
 自分たち教員仲間同士でのことではあるが、自分の学校の児童の実態把握に努め、それを受けて、児童を伸ばすための方策を考え、授業を中心に指導法を磨くことに努めてきた。わたしの今日あるのも、こうした不断の営みの結果であり、諸先輩、仲間のおかげなのである。

 そのとき、校長はどんな存在だったか。

 よき先輩であったというのが一つ。校長からもご指導いただくことはもちろんあった。
 そして、学校経営に全責任を負う立場である方のご指導なのだと受け止めていた点が一つ。

 しかし、上記研究会に参加するときは、教員の自発的意思として、自主的な活動として営まれるということが意識の中心であった。だから、校長の意向が教員の意志に沿わないとき、たとえ相手が校長と言えども、教員は反対をし、受け入れないこともあった。
 そんなたびたびあったわけではないが、わたしも若いとき、そういうことを経験している。

 そういう精神風土を受け継いで、今の学校があるのだ。

 もちろんこういうことは、地域差がものすごくある。校長の職務としての指導が通りやすい地域もあれば、逆の地域もある。これは今でも言えることだ。


 現在の校長は、こうした精神風土のなかで、教員として育てられてきた。だから、多くの校長は、教員の、自主的自発的教育実践を多とする傾向にあるだろう。

 校長としてのリーダーシップ発揮ならきわめて自然に受け止められるとしても、つまり、人事考課までなら前向きに取り組めるとしても、査定までして、教員の実践力、授業力を高めようとする発想には抵抗を覚える者が多いだろうと想像する。


 以上、査定もやむなしとする理由、逆に査定までは受け入れたくないとする理由、その双方を書かせていただいた。



 このことは、まことに失礼ながら、Hidekiさんの論調にもうかがえる。

 Hidekiさんも、まず、次のようにおっしゃる。

 『各々の教師の働きぶり…教えぶりを、管理者の方々はどうやって見ておられているのでしょうか?もちろん周辺評価(休み時間の子どもの笑顔など)でもうかがいしれますが、でも、その教えている実際の場を見ないことには、とても危うい判断になると思うのですよ。誤解されがちなんですが、これはけっして「監視」じゃない。

 授業中は担任の先生と子供達の世界です。もちろん先生には全幅の信頼をよせていますよ。ですが、だからといって、その姿を「第三者が誰もみていない」というのは、はたしてどうなのでしょうか?
 そこに、今の、実際には稀にしか起こらないですが、でも由々しき問題の萌芽が潜んでいる感じがしています。』

 これは、査定必要論と理解してよいのだろう。特に、最後の由々しき問題というのは、わたしにとっても切実だ。

 しかし、その一方で、

 『体制による、教育の管理強化…締め付けは、下手をすると統制につながる危険性をはらむ。これは一般の企業などにはありえない、大きなリスクです。それを危惧し、教育の自由の確保を主張する、という点については、企業人からは口をはさむ余地はありません。

 戦前の過ちへの大いなる反省にたち、ことさら体制に組しない姿勢をとる報道。それと同じく、体制に主権を渡さない、という教育者の気概には、素直に頭が下がります。
 これらも含め、まずは「評価者」がどうあるべきか、「評価する側」がどうあるべきか、をきちんとする必要がありますね。じゃないと、「評価のやり方」に問題が生じ、それが転じて「評価することそのものが悪い」という形に発展しそうな気がしています。
 そう、ちょうど、ゆとり教育議論に似てますね。

 きちんと中期的スケジュールの中から段階的な準備をして進めるべきもののように思います。
 教育は、子どもの一生を左右する、大きな行為なので、独り善がりにならない、評価が必須だと思うのです。』

ともおっしゃった。これは、もちろん、査定不要論ではないが、査定慎重論とは受け止められないか。


 そこで、考えた。教員の査定のあり方についてである。

 まず、管理職が、ふだんの教員の授業をまったく見ないのでは、『そこに由々しき問題の萌芽が潜んでいる。』とする市民の声に応えられないだろう。
 だからと言って、どんどん入り込むのも、権力の乱用と受け取られかねない。教育の自由も保障されなければならないのだ。


 わたしは年間3回、人事考課のために、各教室に入ると言った。人事考課のためだから、あらかじめ授業者に対し、目的を明確にして教室に入る。
 折衷案的な考えでまことに恐縮だが、『教育の受益者(保護者・地域)の声に謙虚に耳を傾け、それでもって、学校は、教育の自由について説明責任を果たす。』とすれば、年間3回くらいが妥当なセンかなと思ったしだいだ。


 そうすると、教員から、次のような声も聞こえてきそうだ。

 『わたしたちは研究会のなかで研究授業もしている。そこでは校長も授業を見ているではないか。それで人事考課もかねてくれれば、それでいいのではないか。』

 このことについては、以下のように考える。

 校内研究会の授業と、人事考課の授業とは、見る観点、性格が、はっきり異なるのだ。合うというのはまれだろう。目的も違う。

1.校内研究会の授業は、指導観、授業観、児童観などもさらけ出し、意見を戦わせる場だ。その場では、たとえ相手が校長であっても、もろに意見を戦わせることもある。校長も、自分の指導観などをさらけ出し、授業を批判することもある。まさに教育の自由を大切にする場だ。
 一方、人事考課の授業としては、これまで何度も言ってきたように、こういうことはタブーだろう。

2.校内研究会の授業は、事前に、教員全体で、児童の見方、教材のとり上げ方、授業展開の仕方などについて話し合う。授業の後は、教員全体で授業分析なども行う。よりよいものにするための共同作業だ。したがって、一つ一つの研究授業の成果は、全教員のものである。この場合、校長も、基本的には先輩教員としての存在に過ぎなくなる。つまり成果を共有する立場だ。
 個人の目標達成に向けて行う人事考課の授業とは、基本的に性格が異なる。

3.校内研究会といえども、講師の指導は受けるのが通例だろう。我が地域の場合、この講師はふつう、教育委員会の指導主事だったり、他校校長だったりする。その場合も、講師は、指導観、授業観、児童観などにもふれて指導をする。
 『徹底反復訓練学習は、決して子どもを内面から変容させる力にはなりえませんよ。』などということも言う。

 だから、たとえば、わたしは社会科を専門とするが、たとえ、校内研究会の授業が社会科だとしても、自校の研究会の講師には、ふつうはならない。
 一方は仲間としての校長、先輩に過ぎない校長だし、他方は、管理職としての校長だし、そんなわけで、二役を使い分けることはできないからだ。
 教育の自由を侵すことにもなりかねない。

4.以上、1から3まで述べたように、研究授業は、全教員の実践的な意味での共有財産となる。だから、その授業は全教員が参観する。別な言い方をすれば改まった場だ。それが全教員の実践力アップにつながっていく。
 しかし、人事考課のための授業は、あくまで個人だ。だから、ふだんの授業を見ることになる。


 また、それとは別に、以下のようなことも言える。

 今、そのような学校はないと思うが、かつては、教育の自由の名の下に、研究授業をまったく行わない学校もあった。だから、実践力アップにはつながらなかった。それこそ、Hidekiさんがおっしゃるような自己流、個人個人お任せの授業が横行していたことになる。
  
 もう一つ。わたしは、中学校のことは分からないので、遠慮しながら言うのだが、

 中学校はご承知の通り、教科担任制だ。その場合、数学出身の校長が、自校の英語教員をどこまで指導できるだろうか。また、数学の教員は、英語の授業を見ても分からないとなるだろうから、小学校の研究授業のようなものは、どうなっているのだろう。行われているのだろうか。

 もとより、道徳、総合的な学習の時間、特別活動などは、全教員が行っているから、それなら、小学校同様の研究授業は実施可能なはずだが、どうだろう。

 それこそ、自己流、ただ経験をつんだだけで行う授業が、由々しき問題を引き起こしているという状況はないか。(ごめんなさい。遠慮しながらではなくなってしまったね。)

 ただ中学は大変なのだ。子どもの問題行動、高校受験へ向けての取組、部活の指導などなど。
 いつだったか書いた、受験、部活から解放してやって、授業に専念できる状況にしてから査定を考えてやらないと、気の毒に思う。



 最後に、これまでいただいたコメントの数々は、わたしの目を開かせてくれた。学んだ点が多かったと言えよう。

○ 自分の評価を上げる為に子供達を利用するようなことがあってはならないと思います。
・これはむかしから言われていることだが、一つの授業を見ても、人によって解釈が異なるだろう。立場が違えば、利用と見えるだろうということだ。ただ言えること。子ども主体の授業を行っていれば、利用と見られることはない。そう思う。

○ そもそも子供達を「評定」する人、その前に子供達を良く見る人≒評価する人が、評価そのものに対する認識がこれではちょっと不安です。

 そう。いろいろなことを感じた。
・ 教員は、子どもの評価と、自分自身が評価される立場としての評価とは、まったく別個ととらえているのではないか。でも、よく考えればやはり同一だよね。
・ 市民が、評価を、『子どもたちをよく見る。』とされていることは大変うれしかったし、ありがたかった。
・ 学校管理者が自校教員に対して行う人事考課も、「教員をよく見る』精神でいきたいものだ。ただ、査定となると、・・・。

○ この考え方は、一歩間違うと、教師個々人が好き勝手に行ってもかまわないという事態を導くと思う。この場合、教師個々人の自主性とモラル、そして教師の信念に委ねる部分が大きくなるのだろうけど、その場合には、その教師の「選択権」を親と子どもに与えてもらいたい。私達が評価します。
・これについては、今日の記事でご理解いただけたかな。ただ、『現状、まったく心配がないわけではない。』ことも書いたつもりです。

○ 次のステージに学校が進化していく際の、いくばくかのヒントにでもなれればと思う次第です。
・そう。学校だけが社会の動きから超然としていることは許されない。学校も進化しなければならない。

○ きちんと、「ここができた、ここができないから今度はここを重点的にがんばれ」という様な次への指針と方向づけになるフィードバックが評価の一番重要な点だと思う。評価をきちんとしようとしたら、対象者の働きぶりを本当にきちんと見る必要が出てきます。それが対象者の生活(報酬)に関わってくるから尚更です。だから、評価点が詳細で多岐にわたるのは至極当然な話なんです。これが「所見だけでの評価」だけになってしまっては、一面的な把握に陥る危険性があると思う(人によってはその所見が的を射ている鋭さを持つ場合もありますが、これは評価者の資質に依っちゃいます)。
・人事考課、査定、どちらにしても、評価者の資質も大事、また、それとは別に、よいシステムを持つことによって、客観性を持つことも大事。

○ 評価というのは、成果、あるいはその成果に到るまでの過程も含め、「活動の共有」でもあると思うのです。
・これは目を開かせてもらった。活動の共有。そう。師弟同行という言葉を想起させてもらった。ありがたかった。評価者はこの言葉を肝に銘じたいものだ。

○ 評価と査定と結びつけることそのものは色んな意見もあるとは思いますが、その「評価」の重要性を各先生方が真に認識し、本当に大切なものだと思うのなら、査定という形で反映させていくことは、至極当然な話じゃないのかなぁ。
・言われてみればその通りとも思うが、「よりよく見る人」という考え方からいくと、・・・。ただ、記事にも書いたとおり、評価を真剣なものにするには、必要なのかなあ。

○ 最終的にマネージメントの目指すものの一つに配下のメンバーのモチベーションアップ(活性化)がありますので、査定の実施が現実にモチベーションダウンにつながる危惧はもっともなことだと思います。
・そう。この点が心配。あまり急激に査定に走ると、ありうる。国に要望したい。都道府県かな。ゆっくり、教員の共通理解を確認してから、査定をとり入れてほしい。

○ その個人の過ちを未然に防ぎ、最小限にくいとめる。それが組織のマネージメントと思うのですよ。
・荒れる学校。その記事を読むたびに、この点が弱いのかなあと実感させられることもありました。人事考課の必要性を実感します。人事考課の有効性を高めるためには、査定も、・・・。ああ。上と矛盾してしまった。

○ 「教育は人なり」だから、「教師の資質(授業力)向上が求められる」と解釈する人もいる。だからこそ、「普段の生活も社会人として(子どもが大人になったときの)お手本となれるような生活をしなければならない。」と解釈する人もいる。私は、「両方あり」と思っています。
・私生活は評価の対象外と書きましたが、不祥事など問題があれば、それは、処分という形になるわけですね。管理職も処分されることがある。ああ。評価の対象にしてもいいのかな。いや。やはりだめですね。

○ 「校長が評価する」ことに関して、私はかなり否定的な捉え方しかできていなかったのですが、それによって校長の力量も向上する、という考え方もあるのですね。
・いや。考え方ではないと思いますよ。間違いなくそうです。

○ 私が昨年調査に入った北海道の宗谷地区のある中学校では、教職員集団の人数が少ないからできるということもあるのですが、全教職員による相互評価を行っています。もちろん校長や教頭、養護教諭も含む評価です。それによって、他の先生の活動が見えてくる(見なくては評価できないので)という利点が見えてきました。もちろん、その土台には教職員集団の元々の信頼関係があるのですが、すばらしい取り組みだと思いました。
・いやあ。わたしもすばらしいと思いました。ただ、これは、人事考課にはならないですね。校長が人事考課の参考にするということでしょうね。

○「教育」「報道」そして「宗教」、この3つは『自由』が保障されなければいけない点です。これらは人の思想と信条に多大な影響を与えます。これが、統制され、もっというなら洗脳に使われると、とてつもない危険を招くというのは、戦前の帝国日本のみならず、歴史が証明しています。
・本日は、この観点からも記事にさせていただきました。新たな観点を与えていただいたように思いました。ありがとうございました。

○教育は、子どもの一生を左右する、大きな行為なので、独り善がりにならない、評価が必須だと思うのです。
・そう。教育改革は子どものため。その視点を見失ってはならないですね。もう、むかしのように、観念的、なれ合い的な主張は通らないと、わたしたちも肝に銘じたいと思います。


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 長文をお読みいただき、ありがとうございました。

 次回は、ある学校の校内研究会での指導主事の指導をとり上げます。自主研究ですから、指導観にはもろにふれています。『いじめ防止と算数の指導』というタイトルです。ぜひご覧ください。

 それでは、今日も、1クリック、お願いできますか。


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この記事へのコメント

1. Posted by Hideki   2007年05月13日 08:48
いろいろと書き散らかしたコメントをきれいにポイントをとらえ整理していただいて感激しています。

余談になりますが、対論の相手の意見に対して、反論の前に「正しく要約する」ことって、とても重要なんですよね。その上で自分の意見を載せていくと発展していくと思うのです。

よく自分の反論の対象部分だけをとりあげて、すぐに反論に入るような「まとめ」を見かけますが、それは相手の意見をきちんと受け止めているわけじゃない。ぜんぜんまとめ(整理≒要約)になってない。

その意味でも、国語の授業にある、「論説の要約(200字以内)」って、本当に大事だと、大人になってから感じます。要約しろと言われているのに自分の意見・感想を書いたら、×になるのだから。あるいは局部だけとりあげても点はもらえない。正しく論説の趣旨をとらえて、それを短くまとめる能力を必要とされるのですから。

2. Posted by Hideki   2007年05月13日 09:07
toshiさんのご説明で、私自身も多くのことを勉強させていただきました。何よりも、考課・評価というのとは別の軸で、教育…授業・教科・指導を教師のみなさんが相互で高めようと必死に努力されている点。そんな皆さんの実態を知らず、大変失礼な物言いをしてしまったかな、と今更ながら反省しています。どうもすみませんでした。

ちなみに、よくある職場の悩みに、「自分を認めてもらえない」というのがあります。自分のやっていること、努力、能力を、会社が上司が認めてくれていないというもの。これは、認めさせない自身の努力の無さや、そもそも自信過剰(自己の過大評価)という問題も多分にありますが、評価の問題も大きいと思うのですよ。

3. Posted by Hideki   2007年05月13日 09:07
評価に対する対価は、認める、という言葉が言いえてますがベーシックには「相手が理解認識してくれること」。でもそれだけではなく、給料・一時金というお金、役職・役割という業務、表彰という名誉、という「形」で報いるのが査定なのかなと思っています。

何にしても、評価の意義や役割と重要性を認識していただいた上で、それを実施していく場合の危険性を踏まえた適切な(安直でない)検討を、スケジュール感をもって進めていっていただければと思う次第です。

4. Posted by ai   2007年05月13日 10:13
初めまして。一連の査定の記事、大変興味深く読ませていただきました。
私は、企業の査定について全く無知でしたので大変勉強になりました。

少し本筋とは関係のないことを書くことをお許しください。
私はここ最近、ネット上での議論には限界があるのではないかと感じておりました。
自分の意見に責任を持ちつつ、相手に配慮しながら意見をぶつけ合うこと。リアルの場では当たり前のことが、こと匿名のネットの場となると、非常に難しいことのように思いました。
5. Posted by ai   2007年05月13日 10:14
しかし、toshi先生とhidekiさんのやり取りを拝見させていただき、ネットの場でもすばらしい意見交換ができるのだということを再確認いたしました。
互いの立場の違いを認識しながらも、ただ主張をぶつけるのではなく、相手を理解したい、相手に理解してほしいという思いを強く感じましたし、ご自身の知らない部分を相手から吸収し補完しあっているような印象さえ受けました。

教師への査定が実施されるならば、企業の査定の取り入れられる面は取り入れ、そぐわない面は取り除き、教師一人ひとりの意識向上、ひいては子供たちのために意味のある査定にしてほしいと思っておりましたが、お二人の意見をうかがいこの思いがより現実的なものとなったことは、私にとって非常に有意義でした。

本当の意味での風通しのよさとは何なのか、それについても考えさせられました。ありがとうございました。
6. Posted by toshi   2007年05月13日 17:27
Hidekiさん
 おっしゃること、よく分かります。
 むかし、国語の教科書に、小川未明さんの『野ばら』が載っていました。敵国同士の老兵士と若い兵士が友情をつちかっていく物語でしたが、
 わたしのクラスのある子が、『老兵士は若い兵士のことなど心配していない。だって、心配していたら、居眠りなどしないはずだ。』と言うのですね。それで、反対意見が相次ぎ、それはそれで、授業は活気づいたのですけれど、
 わたしたちは、こういうのを部分読みと言って、どうそれに気づかせていくかを、先生方同士でよく話し合ったものでした。
 部分読みされたら、今日のわたしの記事など、いかようにも扱われそうですね。
7. Posted by toshi   2007年05月13日 17:43
認めてもらえる喜びは、わたしたちにもありますし、わたしも、かつてそうでした。また、校長としては、いかにどうほめるか、感謝するか、認めるかということは常に考えていたことです。ただ、我々の場合、それが、お金につながることは、まずなかったのですね。
 わたしたち教員は、お金のことに鈍感です。ですから、長年の習性で、仕事に功績があったとしても、報奨という対価を求めないし、むしろ嫌がる傾向すらあります。
 でも、これは、やはり、おかしいですね。それによって生計を立てているのですから、素直に喜ぶことも必要かと。
 このくらいのことなら、別にどうということはないのですが、企業の人から見るとびっくりする話だと思うのですが、教員の中には、利潤追求をいやらしいと感じてしまう者もいて、こうなると、問題性が大きいですね。
 ああ。近いうち、このことも記事にしたくなりました。
8. Posted by toshi   2007年05月13日 17:52
わたしの方こそ、今回、いろいろなことを学ばせていただきました。企業の査定の具体的な内容を知ったのは、もちろん初めてです。すごく勉強になりました。
 ああ。同じ内容だあと思い、次に、それは、教委が知恵を企業からいただいたのだろうと思いましたし、もう今のわたしには、序章で書いたような素朴な査定への思いというのはありません。
 このシリーズを書いていたら、現在勤めている学校の校長先生から、ある書類を見せてもらいました。『我が地域においては、○年○月から査定を開始するので、今から、そのことを念頭において、人事考課に取り組むように。』という内容でした。いよいよ待ったなしです。
 Hidekiさんのご忠告をしかるべきところへ話しておこうと思いました。
 ほんとうに、いろいろありがとうございました。
9. Posted by toshi   2007年05月13日 18:03
aiさん
 ありがとうございます。ブログも捨てたものではないですね。今回のHidekiさんとの議論は、勉強になったし、ほんとうに充実した思いになりました。 もう一つ、先日の、『メールのやり取り』シリーズで書かせていただいた、JPMさんとのやり取りもうれしいものでしたよ。
 どちらも、意見を戦わせることに、楽しさとある種の緊張を感じました。一応の収束を見ると、さわやかな感じが残りました。
 勉強になったという思いがあったからだと思います。
 aiさんも学ぶ姿勢が旺盛でいらっしゃる。そう思いました。
 どうぞ、今後ともよろしくお願いします。
10. Posted by Hideki   2007年05月13日 19:13
ちょっと本論とは別のところですが

まだブログもない、ダイヤルアップが主流でWEBをずっと見ると電話代がすさまじく嵩んだ頃(1998年頃)、私は同報メール(メーリングリスト)による議論の場「知恵市場」というものに参加していたことがあります。

実は、ネットは、リアルでの繋がり以上に、その人の考え方・価値観を通じ合える可能性があると思うのですよ。例えば、毎日顔をあわせている家族や友人の深いところの考えや価値観をどこまで理解しているか、というと、意外と知らなかったりします。

面と向かうと言えない、…それは度胸というだけでなく、相手への配慮や、場の空気など、熱く語りあうことが中々かなわなかったりします。

そんな、深い自分の考えを相手に伝えるのに、ネットは実は適しているのですよ。

11. Posted by Hideki   2007年05月13日 19:25
一方で、ネットは、マイナス面として、人の感情や悪意も伝えてしまう。また、面と向かって言うときには聞き流される言葉も、強く相手に残り、「言葉尻」にとらわれやすいのも事実です。

だから、知恵市場では「場の進行係…ファシリテーター」が必要として、DJという名で議論の、論点整理やまとめ、議論の広がりが出るような投げかけ、などをやっていました。

それは、本当に刺激が多い場でしたよ。企業人だけでなく、普段は知り合えない、房総の旅館経営者、横浜の主婦、新宿のスナックのマスター、NYのコンサルタントなどが入り混じって、色んなテーマで議論してました。
12. Posted by Hideki   2007年05月13日 19:25
その後時代が変わり、WEB中心の世の中になってきたのですが、BBS掲示板などを見るに、やはりここでもDJの存在が議論には必要だと思っています。

ただ、それでもブログでの議論は、ツリー表示にもならないし、司会者=記事主ということになるので、文字通り「記事主次第」の部分が大きく、やはり議論には向かないなぁと思っています。

でも、toshiさんは、いろいろな意見をきちんと受け止めて、認めるところは認め、反論すべきはきちんと反論してくれる、一言でいえば「ふところの深さ」のある方ですので、議論として発展したと思います。その意味でも、今回は私にも大きな発見となりました
13. Posted by 奈々氏   2007年05月13日 22:07
いつもいつもご無沙汰しております。><

うちの学校は教員評価をしておりますが,それを査定に使うのはいかがなものかと校長は言っております。評価自体は,教師が指導法や実態をきちんと見つめる上で有効であるともいっております。つまり,評価そのものは教師の力量アップにつながり,ひいては子どもたちのためになるということだと思います。そのために校長,教頭,教務の3人が3回ずつ授業を見て,その日のうちに検討会を授業者と行うというシステムも作ってます。年に9回かといわれればそれまでですが,いわゆる授業研究以外で行うので,そのあたりが限界かなって私も思います。考査に使うということになれば,教員評価が違うものになっていきそうな気がします。そちらの目的がメインの気がしないでもありませんが。。。
14. Posted by きゃる   2007年05月14日 00:40
評価力のある人の、適切な査定によって、
自己の努力や能力がいろいろな形で報われること、
私は、うらやましいと思います。
実際は、「がんばるのは当たり前」「一生懸命は当たり前」なのです。
努力や能力が認められると、役職も表彰も報酬もありませんが、
それなりの大きな仕事を与えてもらい、
(実はもっと大変になるのですが)
そんなことで仕事にやりがいを見出している次第ですw
15. Posted by toshi   2007年05月14日 08:31
Hidekiさん
 そんなむかしからやられていたなんて、すごいですね。
 わたしも、あのころの記憶があるのですが、あのころは、値段も高かったし、画面を見てもすぐ疲れてしまい、長時間見続けるのはとても無理だったという記憶があります。それで、わたしの場合は、かなり長期間、インターネットから離れてしまったのです。
 だから、退職してからまたやりだしたようなものなのですけれど、そのときは、値段の点でも扱いやすさの点でも、ずいぶん改良されていることがわかり、感激したものでした。
16. Posted by toshi   2007年05月14日 08:42
確かに、ネットだとリアル社会とはまた違った意味でのメリット、デメリットがありますね。議論があちこちで行われていて全体の流れがつかめなかったり、言葉のニュアンスがあればつかめるものなのにそれがないため誤解してしまったり、・・・、混乱する場面もよく見ますね。
 ただよさとして、言った言わないということは防げそうですね。何しろ証拠がすべて残っていますからね。
 ううん。おほめにあずかりうれしいのですけれど、でも、つい自覚なしに理解してもらえない言葉を使ってしまったり後出しジャンケンみたいなことをしてしまったり、申し訳ないこともありました。こういうことは、『これから気をつけます。』と言っても、またやってしまうかもしれないなあと思い、・・・、まあ、いいや。そのときはまた、あやまりますね。すみません。
17. Posted by toshi   2007年05月14日 09:07
奈々氏さん
 いやあ。お久しぶりです。こちらこそ、ごぶさたしております。
 読ませていただいて、それはすごい。年9回ですか。制度としては、教務まで見る必要はないのだと思いますけれど、おそらく学校としての真剣味の表れなのでしょう。
 どこもそうであれば、査定などいらないということになるのだと思います。
 そう。今思うことですが、企業と違う点に追加ですけれど、査定については、市民が納得し信頼してくれるかどうかとのかね合いなのではないでしょうか。
18. Posted by toshi   2007年05月14日 09:14
きゃるさん
 きゃるさんのおっしゃっていることは、おそらく多くの日々前向きに仕事に取り組んでいる教員の考え方だと思います。
 Hidekiさんのおっしゃる、『認めてもらえる』ということ。教員の場合は、長い間、金銭的なものではなく、(みんなのまえで)言葉をかけてくれること、しかるべき地位を与えてくれること、そうしたことで満足してきたのですね。
 
 査定となって、金銭的に報いられるようになると、『一生懸命やるのは当たり前。』という考え方はより強まるのかもしれませんね。
19. Posted by 無敵   2007年05月14日 18:43
はじめまして、中学校の教員です。
ブログでの言葉の表現はとても難しいことを私も感じております。
中学校では、査定がとても難しいです。おっしゃるとおり、教科が違えば、授業観察をしても正しく評価出来るかどうか?地域、学校にもよると思いますが、私のいる学校では、査定などみんな気にしていません。私も正直、ほとんど忘れています。
20. Posted by toshi   2007年05月15日 04:45
無敵さん
 そうですね。通例、自分の書いた記事を吟味する時間もなく公開してしまい、後で後悔することも多いです。(あれ。しゃれみたいになってしまいましたね。)
 ううん。でも、待ったなしなのではないでしょうかね。それに、部活などは、ものすごく大変なのに、勤務時間外が多いでしょう。おそらく評価対象外だと思います。
 これは、口を出した方がいい。おそらく市民も分かってくれることだと思います。

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