2007年05月26日

安心して暮らせる学級(2)4

df731f94.JPG 『安心して暮らせる学級』という前記事について、Hidekiさんよりコメント(以下、同コメントと呼ばせていただく。)をいただいた。大変ありがたいコメントだった。

 と言うのは、

 わたしが、《(間違ったものを笑っちゃいけないとすることを)人間の自然な感情を押し殺させているようで、》としか書けなかったことを、

 同コメントでは、逆の視点からではあるが、《自分の気持ちや感情のままに行動することが、決して褒められた行動なわけじゃない。》としたうえで、さらに、《理性により、感情が変化し、いつのまにか、「理性的に思うことが自然になっている」。それが望ましい姿だと思う。》と、深めてくださった。


 ほんとう。わたしの言いたいことは、そういうことだったのだ。

 同コメントの上記箇所をもう少しくわしくふれさせていただくと、
《人の感情は、それが良いことか悪いことかは別としても、「感情を抱いた」ことは事実なんですよね。おかしいから笑った、それが自然な姿だ。それを変に抑え込むことは問題だ。
 確かにそうなんですが、自分の気持ちや感情のままに行動することが、決して褒められた行動なわけじゃない。》
となる。


 上記同コメントを、現実の指導の場では、わたしはこう解釈する。

 むかし、何かのテレビで、『よい子、わるい子、ふつうの子』というのがあったっけ。

 それを適用して、まず、『おかしいから笑う』子を、『わるい子』とするのではなく、『ふつうの子』と位置づけたい。

 同コメントでも、《決して褒められた行動なわけじゃない。》とある。

 そう。この言葉が、そのまま、『悪くはない。ふつうだ。』と言っていることにならないか。

 だから、その場合のわたしは、担任として次のような言い方になる。

「確かに、今の発言は、おかしいよな。おかしいから笑う。これは、無理のないことだ。ふつうのことだと思う。
 でも、笑われた○○ちゃんの心は傷ついてしまった。『もう発言なんかするものか。』と思ってしまったかもしれない。そう考えると、○○ちゃんに対しては、いけないことをしてしまったことになる。
 さあ、このことを、みんなはどのように考えるかな。」

 そう問えば、それこそ、ふつうのクラスなら、『やっぱり笑ったら、○○ちゃんに対して失礼だ。これから気をつける。』『○○ちゃん。ごめんなさい。』ということになるであろう。

 そうしたら、わたしは、言うであろう。
「そうか。それがいいとわたしも思う。また、○○ちゃんにあやまれたのは、とても良かった。
 でも、人間の自然な感情だから、また、笑ってしまうことがあるかもしれない。そのときは、『なぜ、笑ったのだよう。この前、笑っちゃいけないって話し合っただろう。』って責めるのではなく、それこそ、自然な感情として許してやろうな。
 だって、笑った子は、『あっ。いけない。この前、こういうとき、笑っちゃいけないって話し合ったのだっけ。』って、きっと反省すると思うからだ。」


 でも、実際は、そのように言うこともあるということであって、大部分、わたしはやり過ごすであろう。

 やり過ごす代わりに、真に、友達に対し、思いやり、やさしさ、協力的姿勢、そういうものを見せたとき、さらには、感動を呼ぶようなことがあったとき、努めてそれをほめたり感謝したりするだろう。

 そうしているうちに、侮蔑的、恥辱的、差別的笑いは影をひそめ、温かみのある、やさしい笑いへと、変化していくと思う。ふつうのクラスならそうなるはずである。

 そうしたら、その笑いの変化を指摘して、ほめるようにする。
「わたしはうれしかった。だって、この前までは、失礼な笑い方が何度かあったから、つまり、『そんなことも分かっていないのかよ。』って言いたいような笑い方だったから、笑われた子は、とってもくやしそうだったよ。
 でも、今のみんなの笑いはとても温かかった。だから、発言した○○ちゃんも、一緒になって笑っていた。
 笑えたわけはね、『この学級のみんなは、とても温かな心の持ち主だ。』と思ったからではないかな。そして、さらに、『そんな友達をもてて幸せだ。』とも思ったのではないかな。」


 このような対応をすることによって、子どもの『理性』の育みをねらうのだ。

 
 すると、どうだろう。

 完全に、自然な姿と理性的な姿が同化し、一体となるのではなかろうか。

 つまり、「ストレス」は、たまらないのではなかろうか。ほめられ、受容され、共感されることによって、喜び、うれしさ、満足感が深まっていくのではないかと思われる。

 
 同コメントは、最後に、こうおっしゃっている。
《「自然な気持ち」の「教育」ということが、ひょっとしたら現代の一番の課題かもと感じました。》

 そう。まったく同感だ。

 このあたりの、教員として、また、親としての対応は、現代の『いじめ』事件多発の時代、大変重要なことだと、わたしも思う。
 

 別な言い方をしよう。

○ 『先生や親から言われたから笑わない。』のでなく、自らの意志で、『笑ってはいけない。』と思って笑わない。そういう態度を養うことが大切だ。

○『笑わなくなった自分を自覚し、そのように成長した自分に肯定感を抱き、さらには、誇りに思う。』そういう心情も養うことが大切だ。

○ 指導する側は、子どもの思いを受け止める。あるがままの姿を大切にする。そうして、言動の奥にあるものをつかもうと努力する。

○ 同じことかもしれないが、受容的な態度、カウンセリングマインドを身につける。

○ かたちも大切だ。しかし、かたちにたよってはいけない。かたちにたより、無機質な対応になったら、かたちは有害となることもあるだろう。子どもの心を探り、ときには、かたちと違った対応をすることも必要だ。『例外もあり』ということだね。

○ かたちに美を見出すこともあるだろう。自らかたちに合わせようとすることもあるだろう。逆に、意味ないと思えば、拒否する場合もあるだろう。自然体とはそういうことだ。


にほんブログ村 教育ブログへ

ninki



 わたしは、『わるい子』。いえ。『わるい子』というのはありませんね。子どもは、発達途上にあるからです。『わるい行動』と言うべきでしょう。

 『わるい行動』についても、わたしは、受容的姿勢、共感的姿勢で、子どもに対応しました。その具体例を、姉妹編の、『小学校初任者のホームページ』に掲載しています。

 ぜひご覧ください。

 コラム集 1 Aさんはわるくない


 それでは、今日も、1クリックを、よろしくお願いします。
 双方とも、1日、1クリックずつが有効です。



rve83253 at 08:33│Comments(12)TrackBack(0)学級経営 | 児童指導

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by うるとらまる   2007年05月26日 10:08
こんにちは。

笑うことは、人間としての感情の1つですから
とても大事ですよね。
ただ、他人をコケにして笑うのは、
正しくない行為ですよね。

子どもたちが好きなお笑い番組でも、
タレントが失敗することや転げることで
笑いをとろうとするものが多いですよね。

昔のお笑いは、
もっと言葉で笑いをとっていたのに。

子どもたちの様子を見ていても、
他人の行為から笑いをとろうとする子が
少なくない気がします。


自分としては、
子どもがそのような笑いをとろうとした直後の
自分の言動を大切にしたいと思います。

そのとっさの判断を、
上手にできることが
安心して暮らせる学級を作る力になるんだろうと
思いました。

勉強になりました。


2. Posted by POOHママ   2007年05月26日 20:50
お久しぶりです。
こちらは運動会(6月)をひかえ、
大忙しです。

私も(担任の時)この詩を教室に掲示し、
年に数回、朗読させていました。
そして、
「間違えた者を笑っちゃいけない」
と解釈し、
子どもたちにも、
「笑う=馬鹿にするという意味」
と教え、
「馬鹿にする=悪いこと」
という感覚を植えつけていました。
もちろん、「間違えちゃったね」程度の
軽い笑いは、逆に
間違えた者の落ち込みを防ぐために
必要なものと考えていますので、
それを叱ったりはしませんが。
馬鹿にした段階で、即叱りました。
ですから、前回の記事は、ショックでした。

いくら自然な感情であっても、
やっていいことと悪いことの区別は
しっかり教えるべきと思うのです・・・
3. Posted by Hideki   2007年05月27日 09:27
こんちは、私なんかのコメントをさらに深めていただいて、感激です。ほんとありがとうございます。

ネットって、人間の本心が垣間見えるメディアだと思うのは、以前も書きました。そのネットで最近見え隠れするのが、若い子が本心では「自分の感情」を抑え切れない、そしてそれが自然なこととしてむしろ肯定すらしている、そんな姿を感じます。

そして、普段は「良い子」であったのに、想像もつかなかった行動を引き起こす、そんな「反動」も目に付きます。

もちろん、いろんな原因や背景が組み合わさっているので単純な結論づけはできませんけど、「社会として望ましい姿…理性を真に身につけること」の教育に課題があると思うのです。
4. Posted by Hideki   2007年05月27日 09:50
感情は欲求に根付くので生まれついてもっているものです。いっぽうで理性は、そのほとんどが生まれた後から身に着けるものです。もちろん、理性に基づく感情も生まれるので、感情は複層構造をしているんですよね。

だから、欲求に根付く感情と、理性に根付く感情が、コンフリクトするんですよね。

その場合に、理性に根付く感情が、形だけの薄っぺらなものであるほど、欲求からのストレスが強く、もろく崩れやすい。

とくに、その理性の基になるものが、「先生に叱られるから」「親に怒られるから」というものだと、大人になってから瓦解しやすいと私は思う。大人にも、およそ理性的とは思えない行動をする人が多くみかけます。それらは、理性の教育の過ちの結果なのではないでしょうか。

蛇足ながら、理性は社会から身につけるものなので、社会が過っていると理性も間違ってくると思う。
5. Posted by Hideki   2007年05月27日 09:59
ネットは人の本心が垣間見れるツールです。最近のネットから、自分の自然な気持ちを抑えきれない、そしてそれを追認・肯定する、そんな彼らの本心が見え隠れします。

素直な気持ち、感情の何がわるいのか?
それを否定するのは、あなたがたの価値観の押し付けではないのか?

そんな本心に対して、きちんと向き合える、きちんと応えられる、きちんと答えられる、そんな行動が親や教師に必要なんじゃないかなと思うのです。

ただ「嘲笑はいけない」と叱って止めさせるだけだと、「形だけの理性」をつくるだけなんじゃないかなぁ

心からそう思う、…そう理性が「本心からの感情」になるように、導くような「はぐくみ」が大切なんだと思うのです。

言うは易し、実際にはとても難しいことなんですけどね。
でも大事なことだと思う。

そのあたりの「具体的な処方箋」が、toshiさんの授業と行動に、いっぱい散りばめられていると思うのです。
6. Posted by ai   2007年05月27日 12:29
こんにちは。

私が小学生の時、国語の時間、ある子が「昼食」(ちゅうしょく)と読むところを(ひるめし)と読み、クラス中で爆笑が起こったことがありました。
でも、それは本当に温かな笑いで、間違えた子本人も少し恥ずかしそうではあったけれど、嬉しそうに一緒になって笑っていました。

私も笑いましたが、馬鹿にしたわけではなく、まるでとんちをきかせたような読み方に「なるほど!」と言いたくなった気持ちからだったと思います。

先生も笑顔で「間違いだけど、○○ちゃんの気持ちは分かるね。そう読めちゃいそうだもんね。」と言い、みんなもうんうんと頷いていました。

周りを笑顔にしてくれる愛すべき間違いというのは大人になってもありますよね。
安心して笑い合える笑顔の絶えない学級、すばらしいと思います。
7. Posted by ai   2007年05月27日 12:32
このときのクラスは、男女みんな仲がよく、とても雰囲気のよいクラスでした。
誰がどんな発言をしても、クラス全体が温かい空気で包まれていたように思います。

でも、無意識のうちに友達を傷つけるような反応をしてしまった子がいたときは、先生が、その子に気がつかせるような言葉をかけていたと思います。

また先生が言わなくても、「自分が分かるからってみんなが分かるとは限らないよ。○○ちゃんが知っていて自分が知らないことだってあるかもしれないんだよ。」と注意できる子もいました。

でもこれは5、6年生のときのクラスなので、低学年では先生の対応が随所に必要になってくるかと思います。また、私はこのようなクラスにいたことは運がよかったのかもしれない、とも思います。
とてもいい思い出です。
8. Posted by toshi   2007年05月27日 20:29
うるとらまるさん
 ほんとうにおっしゃる通り、テレビの悪影響はありますね。《タレントが失敗することや転げることで笑いをとろうとする。》のを見ると、わたしは笑いより、怒りの感情がこみ上げます。

 《そのとっさの判断を上手にできることが安心して暮らせる学級を作る力になる。》
 その通りだと思います。わたしたちの仕事は、とっさの判断を迫られることが多いですね。
 でも、タイミングを失しても、言わないよりは、言った方がいいと思います。
 わたしが、自分が担当する初任者にいつも言うことは、朝の会で、前日の子どもの行動を3つほめなさいということなのです。それも具体的にほめると、効果的。子どもは身を乗り出して、『先生は、今日、何をほめてくれるだろう。』といった感じで、身を乗り出して聞いています。
  
9. Posted by toshi   2007年05月27日 20:49
POOHママさん
 子どもの内面を見つめ、内面を育むという姿勢は一貫させたつもりですが、対応は、ケースバイケース。だから、きびしくしかったこともあります。
 そうですね。次回は、例外中の例外を記事にさせていただきましょう。
 ケースバイケースと口で言うのは簡単なのですが、へたをすると、えこひいきと言われかねない面ももつのですね。その辺のことも書かせてください。
10. Posted by toshi   2007年05月27日 22:08
Hidekiさん
 おっしゃりたいこと、分かります。学校に限らずだと思うのですが、どうも、無理して押さえつけられた反動が、大人になってから出てくるのでしょうか。
《その理性の基になるものが、「先生に叱られるから」「親に怒られるから」というものだと、大人になってから瓦解しやすいと私は思う。》
 その通りだと思います。この因果を断ち切るには、すごい自覚と努力が必要になってきますね。子どものときに受ける教育、その大切さを強く感じます。
 《感情と理性、また、欲求に根付く感情と理性に根付く感情。》
 勉強になりました。

 
11. Posted by toshi   2007年05月27日 22:09
 Hidekiさんのおっしゃることから、ちょっとずれてしまうかもしれませんが、これって、日本人独特のものなのでしょうか。
 外向的な子は欲求不満となり、内向的な子は無理して合わせる感じとなり、どちらにしても、大人になってから瓦解ということがありそうです。 
12. Posted by toshi   2007年05月27日 22:13
aiさん
《安心して笑い合える笑顔の絶えない学級、すばらしいと思います。》
 すてきなクラスだったのですね。やはり、自然体と理性が一致しているのですね。豊かな人間関係がそうさせるのでしょう。そして、小学生の場合は特に、担任の営みと密接なかかわりがあるのだと思います。
 今という時代、特にこれが大切と思います。

 低学年でも、こうした対応を心がけると、けっこう子どもは自分で考えます。適切な判断力、理性も、身につけると思います。より素朴で分かりやすいとは言えると思いますがね。

 いずれ、低学年の例も、書かせてください。

コメントする

名前
URL
 
  絵文字